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美和子が席を立ち、再び俺は腕時計に目を落とした。約束の時間を三分過ぎた。
ふと、何となく気配を感じて玄関の回転扉に視線をやる。
「日浦?」
俺との待ち合わせがあるというのに、日浦は回転扉を出てすぐの外で誰かと談笑していた。心から楽しそうに。分厚い硝子に隔たれて声までは聞こえてこないはずだが、ハハハハハと愉快そうな響きが俺の鼓膜に空耳として伝わってくる。誰彼構わず愛想を振り撒いているときと同じ、むかっ腹のくるへらへらした面だ。
ありゃ、女、確定だ。あんな締まりのない顔は。あいつ~、しおらしく俺のことを姉ちゃんに紹介するって言っておいて、軽々しくナンパかよ。女を見たらまず口説く。フェミニストもここまでくるとビョーキだ、ビョーキ。ぎりぎりと噛み過ぎて奥歯が軋んだ。
相手はどんなやつだ。女の面ぁ拝んでやる。と、目線をずらした俺は、驚いて椅子から転げ落ちそうになった。
美和子だ。たった今出て行ったはずの美和子が、恥ずかしそうに頬を染めて相槌を打っている。とろんと腫れぼったい目をした、セックス直後のように蕩け切っている表情だ。
「何で日浦と美和子が?」
不意に、いつかの笠置の言葉が鼓膜に響いた。
『見ちゃったんですよ。人妻っぽい女性とホテルに入っていくの』。
美和子は今でこそ独身だが、笠置が話題にしたときは一応まだ俺の妻。人妻だ。
俺の中でぽつぽつと湧き出した泡は、だんだん煮え立ち始めていた。
俺はがしがしと髪の毛を掻き回した。
違う、違う、違う。呪文のようにぶつぶつと繰り返す。
俺の座るソファの隣に腰を落ち着かせかけた恰幅のいい紳士が、何事かと言わんばかりに目を丸くさせ凝視してきた。うるせえ。あっちへ行ってろ。俺はなおも頭をがしがし掻きまくる。胡散臭そうに紳士は三つ席をずらした。
人妻っぽい女性。美和子。仲良さげな二人。
小さかった泡は、沸点が高くなっていく。
美和子と別れたタイミングで近づいてきた日浦。
日浦和樹……カズキ……カズ兄……。
頭の中で爆発が起こった。
一つの恐ろしい考えは、否定しようとすればするほど、俺を確信へと導いて行く。
日浦が美和子の相手だった。
まさか、と振りかけた首が途中で止まる。
そもそも女に不自由のしない日浦が、何故、こんな図体のでかい、どこからどう見ても男の俺を選んだんだ?やつなら放っておいても、女の方から近づいてくる。わざわざ俺なんかに媚を売る理由がわからない。
それが、復讐だとしたらどうだ?
俺は美和子を傷つけた。日浦は美和子の敵を取るために、俺に近づいたとしたら?
いや、日浦はそんな酷い男じゃない。酒に酔う俺をやさしく介抱してくれた。キスを求めるいたわり。抱くときの切羽詰まった荒々しさ。追いかけて見つめてくる視線の熱さ。どれをとっても、本気だとしか思えない。
もう一度、日浦へ視線を向ける。
くすくすと小さく喉を鳴らして美和子がはにかむ。
日浦は手を伸ばし、美和子の髪にそっと触れた。落ち葉を摘まむと、白い歯を覗かせる。
ごく自然な動作。まるで最初から出来上がっているような、ふわりと柔らかい雰囲気。それがバリヤーとなって、二人を包み込む。
俺の入る余地さえ与えない。
滾っていた腹の中のどろどろした渦は、たちまち萎んでいく。後には、虚しい風が吹き抜けるだけ。
がさがさと広げた新聞の端を擦りながら、さっきの恰幅いい紳士が、百面相する俺をいかにも不審者を見る目つきで三つ隣から伺ってきた。
おい、おっさん。見てんじゃねえ。そこいらのチンピラくらいなら一発で黙らせる眼光を呉れてやる。今の俺は容赦しねえぞ。おっさんはビクッと肩を揺らして新聞に顔を埋めた。
ふと、何となく気配を感じて玄関の回転扉に視線をやる。
「日浦?」
俺との待ち合わせがあるというのに、日浦は回転扉を出てすぐの外で誰かと談笑していた。心から楽しそうに。分厚い硝子に隔たれて声までは聞こえてこないはずだが、ハハハハハと愉快そうな響きが俺の鼓膜に空耳として伝わってくる。誰彼構わず愛想を振り撒いているときと同じ、むかっ腹のくるへらへらした面だ。
ありゃ、女、確定だ。あんな締まりのない顔は。あいつ~、しおらしく俺のことを姉ちゃんに紹介するって言っておいて、軽々しくナンパかよ。女を見たらまず口説く。フェミニストもここまでくるとビョーキだ、ビョーキ。ぎりぎりと噛み過ぎて奥歯が軋んだ。
相手はどんなやつだ。女の面ぁ拝んでやる。と、目線をずらした俺は、驚いて椅子から転げ落ちそうになった。
美和子だ。たった今出て行ったはずの美和子が、恥ずかしそうに頬を染めて相槌を打っている。とろんと腫れぼったい目をした、セックス直後のように蕩け切っている表情だ。
「何で日浦と美和子が?」
不意に、いつかの笠置の言葉が鼓膜に響いた。
『見ちゃったんですよ。人妻っぽい女性とホテルに入っていくの』。
美和子は今でこそ独身だが、笠置が話題にしたときは一応まだ俺の妻。人妻だ。
俺の中でぽつぽつと湧き出した泡は、だんだん煮え立ち始めていた。
俺はがしがしと髪の毛を掻き回した。
違う、違う、違う。呪文のようにぶつぶつと繰り返す。
俺の座るソファの隣に腰を落ち着かせかけた恰幅のいい紳士が、何事かと言わんばかりに目を丸くさせ凝視してきた。うるせえ。あっちへ行ってろ。俺はなおも頭をがしがし掻きまくる。胡散臭そうに紳士は三つ席をずらした。
人妻っぽい女性。美和子。仲良さげな二人。
小さかった泡は、沸点が高くなっていく。
美和子と別れたタイミングで近づいてきた日浦。
日浦和樹……カズキ……カズ兄……。
頭の中で爆発が起こった。
一つの恐ろしい考えは、否定しようとすればするほど、俺を確信へと導いて行く。
日浦が美和子の相手だった。
まさか、と振りかけた首が途中で止まる。
そもそも女に不自由のしない日浦が、何故、こんな図体のでかい、どこからどう見ても男の俺を選んだんだ?やつなら放っておいても、女の方から近づいてくる。わざわざ俺なんかに媚を売る理由がわからない。
それが、復讐だとしたらどうだ?
俺は美和子を傷つけた。日浦は美和子の敵を取るために、俺に近づいたとしたら?
いや、日浦はそんな酷い男じゃない。酒に酔う俺をやさしく介抱してくれた。キスを求めるいたわり。抱くときの切羽詰まった荒々しさ。追いかけて見つめてくる視線の熱さ。どれをとっても、本気だとしか思えない。
もう一度、日浦へ視線を向ける。
くすくすと小さく喉を鳴らして美和子がはにかむ。
日浦は手を伸ばし、美和子の髪にそっと触れた。落ち葉を摘まむと、白い歯を覗かせる。
ごく自然な動作。まるで最初から出来上がっているような、ふわりと柔らかい雰囲気。それがバリヤーとなって、二人を包み込む。
俺の入る余地さえ与えない。
滾っていた腹の中のどろどろした渦は、たちまち萎んでいく。後には、虚しい風が吹き抜けるだけ。
がさがさと広げた新聞の端を擦りながら、さっきの恰幅いい紳士が、百面相する俺をいかにも不審者を見る目つきで三つ隣から伺ってきた。
おい、おっさん。見てんじゃねえ。そこいらのチンピラくらいなら一発で黙らせる眼光を呉れてやる。今の俺は容赦しねえぞ。おっさんはビクッと肩を揺らして新聞に顔を埋めた。
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