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「救助活動。三歳女児。脚が遊具に挟まって取れなくなった模様」
ピーピーと信号音が鳴り、指令が入った。
ぎくっと俺は自分の頬が引き攣るのがわかった。管内放送が告げた住所は、俺のよく知る場所だったからだ。
指令を受けて出動まで一分が鉄則。いつもなら難なく装備を終え、日浦か橋本が段取りの悪い笠置をどやしつけているところだが、今回は俺が一番出遅れた。
「おい、堂島。しっかりしてくれよ」
普段は『あっちゃん』などとへらへら締まりのない顔をしているが、出動となれば一変し、表情険しく声にも張りが出る。後部座席で日浦はこの上なくいらいらと舌打ちした。
俺が定位置についた途端、橋本がアクセルを踏み込む。隊長が足元にあるスイッチを鳴らす。けたたましくサイレンが響いた。
指示された住所は、大黒谷三丁目五の十二。グランハイツ一○三号室。クリーム色をした外壁の軽量鉄骨造り三階建てには見覚えがあった。
何があった。大丈夫か。
俺の頭の中を三歳女児と告げた指令がぐるぐると回った。膝が戦慄く。喉に唾が粘りついてからからに渇く。少しでも震えが他の連中に気付かれないよう、拳でぐっと膝頭を抑え込むが、それでも誤魔化しがきかない。
子供の事故ではよくあることだ。瓶で遊んでいたら指が抜けない。高いところに昇ったら降りられなくなった。遊具だってそうだ。脚が抜けない手が挟まった。だけど、入ったものは必ず出る。石鹸水を使うと、驚くほどあっさりと出る場合がある。
わかっちゃいるが、それでも自分の娘ともなると、やはり鼓動は早鐘を打ち、冷静さを欠いてしまいそうになる。
現着すると、先に出動していたポンプ隊が駆け寄ってきた。一○三号室。大村の表札。やっぱり。
「ユニツール、準備しています」
ぎょっと目を見開いたのは、俺だけではない。皆が顔を見合わせる。ユニツールとは、交通事故の際に車両を切り開くカッターやスプレッターを示す。そんな大ごとかよ。
玄関にはすでにポンプ隊の連中の靴が幾つも脱ぎ散らかしてあった。
「ああ、篤司さん」
後から来たオレンジの制服の中に見知った顔を見つけた美和子の母親は、涙でぐしゃぐしゃの顔を隠しもせず、洟まで垂らして俺の名を呼んだ。
「お義母さん。春花は」
「ちょっと目を離した隙だったんです。ごめんなさい。ごめんなさい」
美和子の子供であり、俺の子供でもある。義母は心底申し訳なさそうに体を半分に折り、何度も何度も謝罪を繰り返した。
春花の足はくの字に曲がり、キッチンとリビングの境目に設えられたベビーガードの柵の隙間に挟まれていた。
このまま一生柵から足が出ないのかと、不安で真っ赤になってぎゃあぎゃあ泣き喚いていた春花は、突然部屋に入ってきたプロレスラー並の体躯をした特救隊員に、怖くなって余計に声を大きくした。しかし、その中に父親の姿を見つけるなり、ぴたりと声を止め、しゃくり上げる。
「パパ!」
柵の前で跪いた俺は、春花のおかっぱに切り揃えられた髪を撫でて、安心させるために極力穏やかな声を出すことに努めた。
「すぐ助けてやるからな」
春花は洟をすすると、大きく頷いた。
「どうしたんだ?ママは?」
今の時間帯なら美和子がいてもおかしくないが、彼女の姿は見えない。
「ママはお仕事」
「仕事?」
意外な言葉に俺の眉がひょいっと上がった。美和子が仕事をしていたなんて初耳だ。
「これから、『カズ兄』と一緒に遊園地行くとこだったのに」
「……そうか」
その得体の知れない『カズ兄』に引っ掛かりを感じつつ、取り敢えず聞き流しておく。今は他の隊員の手前、深く追求出来ない。
「パパはいつ、おばあちゃんちに来るの?」
痛いところを突かれ、俺は言葉に詰まった。パパとママは、離婚したんだよ。もう二度と一緒に暮らすことはないんだよ。などとは間違っても口に出来るか。
「……そのうちな」
目を逸らし、それだけ返すのが精一杯だ。
そんな俺ら父子の会話の脇では、日浦がまじまじと脚を挟んでいる二本の棒を凝視していた。
と、おもむろに両脇からそれぞれ柵を掴むと、力を入れて左右に引っ張る。あっさりと柵が広がり、足が抜けた。
日浦の化け物じみた握力には舌を巻く。それを顔色一つ変えることなく、難なくやってのけるから尚更だ。
「隊長。抜けました」
立ち上がると、日浦は淡々と報告した。
あまりにも呆気ない出来事に、当の春花はポカンと目の前の男前のオニイサンを見上げる。あまりにも早い活動終了。
「よし、撤収」
恵比須顔で隊長が命じる。
入れ替わりに救急隊が駆け寄ってきた。
大きな怪我はないが、きちんと確認してもらった方がいい。名残惜しそうな春花の眼差しを背中に受けながら、その場を離れた。
ピーピーと信号音が鳴り、指令が入った。
ぎくっと俺は自分の頬が引き攣るのがわかった。管内放送が告げた住所は、俺のよく知る場所だったからだ。
指令を受けて出動まで一分が鉄則。いつもなら難なく装備を終え、日浦か橋本が段取りの悪い笠置をどやしつけているところだが、今回は俺が一番出遅れた。
「おい、堂島。しっかりしてくれよ」
普段は『あっちゃん』などとへらへら締まりのない顔をしているが、出動となれば一変し、表情険しく声にも張りが出る。後部座席で日浦はこの上なくいらいらと舌打ちした。
俺が定位置についた途端、橋本がアクセルを踏み込む。隊長が足元にあるスイッチを鳴らす。けたたましくサイレンが響いた。
指示された住所は、大黒谷三丁目五の十二。グランハイツ一○三号室。クリーム色をした外壁の軽量鉄骨造り三階建てには見覚えがあった。
何があった。大丈夫か。
俺の頭の中を三歳女児と告げた指令がぐるぐると回った。膝が戦慄く。喉に唾が粘りついてからからに渇く。少しでも震えが他の連中に気付かれないよう、拳でぐっと膝頭を抑え込むが、それでも誤魔化しがきかない。
子供の事故ではよくあることだ。瓶で遊んでいたら指が抜けない。高いところに昇ったら降りられなくなった。遊具だってそうだ。脚が抜けない手が挟まった。だけど、入ったものは必ず出る。石鹸水を使うと、驚くほどあっさりと出る場合がある。
わかっちゃいるが、それでも自分の娘ともなると、やはり鼓動は早鐘を打ち、冷静さを欠いてしまいそうになる。
現着すると、先に出動していたポンプ隊が駆け寄ってきた。一○三号室。大村の表札。やっぱり。
「ユニツール、準備しています」
ぎょっと目を見開いたのは、俺だけではない。皆が顔を見合わせる。ユニツールとは、交通事故の際に車両を切り開くカッターやスプレッターを示す。そんな大ごとかよ。
玄関にはすでにポンプ隊の連中の靴が幾つも脱ぎ散らかしてあった。
「ああ、篤司さん」
後から来たオレンジの制服の中に見知った顔を見つけた美和子の母親は、涙でぐしゃぐしゃの顔を隠しもせず、洟まで垂らして俺の名を呼んだ。
「お義母さん。春花は」
「ちょっと目を離した隙だったんです。ごめんなさい。ごめんなさい」
美和子の子供であり、俺の子供でもある。義母は心底申し訳なさそうに体を半分に折り、何度も何度も謝罪を繰り返した。
春花の足はくの字に曲がり、キッチンとリビングの境目に設えられたベビーガードの柵の隙間に挟まれていた。
このまま一生柵から足が出ないのかと、不安で真っ赤になってぎゃあぎゃあ泣き喚いていた春花は、突然部屋に入ってきたプロレスラー並の体躯をした特救隊員に、怖くなって余計に声を大きくした。しかし、その中に父親の姿を見つけるなり、ぴたりと声を止め、しゃくり上げる。
「パパ!」
柵の前で跪いた俺は、春花のおかっぱに切り揃えられた髪を撫でて、安心させるために極力穏やかな声を出すことに努めた。
「すぐ助けてやるからな」
春花は洟をすすると、大きく頷いた。
「どうしたんだ?ママは?」
今の時間帯なら美和子がいてもおかしくないが、彼女の姿は見えない。
「ママはお仕事」
「仕事?」
意外な言葉に俺の眉がひょいっと上がった。美和子が仕事をしていたなんて初耳だ。
「これから、『カズ兄』と一緒に遊園地行くとこだったのに」
「……そうか」
その得体の知れない『カズ兄』に引っ掛かりを感じつつ、取り敢えず聞き流しておく。今は他の隊員の手前、深く追求出来ない。
「パパはいつ、おばあちゃんちに来るの?」
痛いところを突かれ、俺は言葉に詰まった。パパとママは、離婚したんだよ。もう二度と一緒に暮らすことはないんだよ。などとは間違っても口に出来るか。
「……そのうちな」
目を逸らし、それだけ返すのが精一杯だ。
そんな俺ら父子の会話の脇では、日浦がまじまじと脚を挟んでいる二本の棒を凝視していた。
と、おもむろに両脇からそれぞれ柵を掴むと、力を入れて左右に引っ張る。あっさりと柵が広がり、足が抜けた。
日浦の化け物じみた握力には舌を巻く。それを顔色一つ変えることなく、難なくやってのけるから尚更だ。
「隊長。抜けました」
立ち上がると、日浦は淡々と報告した。
あまりにも呆気ない出来事に、当の春花はポカンと目の前の男前のオニイサンを見上げる。あまりにも早い活動終了。
「よし、撤収」
恵比須顔で隊長が命じる。
入れ替わりに救急隊が駆け寄ってきた。
大きな怪我はないが、きちんと確認してもらった方がいい。名残惜しそうな春花の眼差しを背中に受けながら、その場を離れた。
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