寡黙な消防士でも恋はする

晴 菜葉

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「あ、そうそう。堂島。悪いけど、日浦と一緒に防災指導行ってくれ」
 午前八時、一部から二部の隊員に引き継ぐ朝の大交替が済んだ直後、藤田隊長から思い出したような口調で命令された。
 ああ~?と濁点つきの疑問は、あくまで胸の内。俺が全く反論しないことに、隊長は「よしよし。頼むな」と気を良くして恵比須顔だ。この笑顔には勝てません。
 火を消したり救急車を走らせたり、要救助者を救助することだけが消防の役目ではない。それらを事前に防ぐことも大事な任務の一つだ。
 年に何度かある近隣の保育所や小学校などへの防災指導が、我が特救隊にもこのたび回ってきた。
 うちの部署は俺を覗いて口の達者なやつばかりだが、こういったことに関して、何故か決まって俺と日浦がペアを組まされる。
 日浦はすでに準備万端で、戸に凭れてチャリチャリと鍵を弄んでいた。
 車庫の救急車は全台出払っており、一番隅に指揮広報車が停まっていた。災害時、指揮本部として使用する他、災害広報や防災広報、または災害現場へ人員を輸送したり軽傷者を搬送したりと、多目的に使用されている。
 いつものように運転席側のドアを開けようとしたら、遮られた。
「ああ。いいよ、いいよ。たまには俺が運転するから」
 先輩は敬うもの。その先輩の申し出にはありがたく従うのみ。反対意見なんて滅相もない。早々に助手席側に回った。
 すると、何故か日浦もついてきた。
「さあ、どうぞ。お姫様」
 恭しくお辞儀して、助手席側のドアを開けた。
 こいつの冗談は、本当についていけない。女なら「も~、日浦さんったらぁ」などと目をハートにして甘ったるくしなだれかかるところだが、それを男のしかも部下の俺に求めてどうする。わけ、わかんねえ。
「さあ、お姫様」
 誰がお姫様だ。しかし、いい加減に乗り込まないと、ますます日浦が悪ノリするだけだ。朝っぱらから、くだらねえことしてんじゃねえよ。あくまで態度は平然と、胸の内は罵詈雑言で。俺はやや硬めのシートに尻から滑り込んだ。
 大黒谷は先祖代々受け継がれた土地を守るということに固執する家々ばかりで、立ち退いて道幅を広くしたり、ビルの建設といった計画が出ては、揉めて、結局頓挫し、未だに開発の手の入らない地区が多い。おかげで路地は狭く、屋根と屋根がくっついた長屋がひしめき合い、一方通行ばかりの消防泣かせ。大型の消防車が入れないので、一度火が出てしまえばたちまち延焼の危険性がつき纏う。
 今日はそんな下町の子供が多く通う小学校への防災指導だ。
「あっちゃんさあ」
 信号が赤になったところで、日浦が口を開く。
「奥さんと、何かあったのか?」
 前触れもない問いかけに、思わず腹の肉がへこんだ。
「ほら。この間話題が出たとき、指輪を隠してたから。今は外してるし」
 目聡いやつ。知らん振りしてたんなら、貫き通せよ。俺はすかすかになった薬指を掌で覆い隠す。
「もう三年だっけ。結婚して」
 前を向いたまま、質問を被せてきた。
「春花ちゃん、幾つになった?」
「……来月で三歳です」
「そうか。早いもんだなあ」
 日浦が眩しそうに目を細めた。
 嫌な話題だ。俺は窓の外を向き、それ以上の続きを拒否した。
 昨夜の出来事が蘇る。
 テーブルの上に置かれた用紙には、妻の美和子の名前と捺印が押されていた。『離婚届』の文字を確かめながら、俺はそれを黙って手に取った。
 キッチンシンクの水が出しっぱなしになっている。それでも無言で身動き一つしない美和子は、俺に背を向け、ひたすら紙のひらひらする音に聞き耳を立てていた。
 が、ついに辛抱の意図が切れたらしい。
「こんなときまで、無関心なのね」
 蛇口を捻って振り向いた美和子は、いらいらしたときの癖である片目を細め、薬指の指輪を外すなり、テーブルの上に叩きつけた。
 結婚して三年。付けっ放しの指輪は黒く変色し、内側に彫られた「WITH LOVE AtоМ」の文字がすっかりくすんでしまっていた。俺達の今の関係を顕著に示している。
 三年と十カ月前、断り切れずにしょうがなく出席した合コンで出逢った美和子は、とにかく結婚に憧れていた。不倫の上司と巧くいかず、現実逃避気味だった。
 俺も特救の試験が今回で最後の挑戦だと疲弊していた頃で、互いに酒が入り、理性が吹き飛んでしまったのだ。
 その夜のうちに肉体関係を持ち、避妊しなかったので、妊娠、結婚とバタバタッと慌しく過ぎた。二人の関係を築く余裕などなく、俺は特救隊に任命されて余計に忙しくなり、溝が出来て当然ともいえる。
 逃げていたのかも知れない。
 彼女を利用した。
 ふと思いついた自身の言葉に、何故か心臓がぎくりと鳴った。
 何に?何に逃げた?何で利用した?
 再び信号が青になり、一斉に車が動き出す。排気ガス、クラクション、自転車のブレーキ、竿竹屋のアナウンス。雑多に混じった音の中で自分の意見を整理することを阻まれ、結局うやむやのまま小学校に到着した。
 
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