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二章 恋の病に薬なし
-19- 誘いは突然に
しおりを挟む火ノ本の帝都では梅雨が明け、本格的な夏が始まった。
風に揺られて涼しげな音を鳴らす風鈴や、蚊取り線香と言った夏の風物詩が各家庭で顔を出す。
一部の富裕層では水菓子を食べるようになり、使用人が玄関先に打ち水する姿も見られるようになった。
火蝶本家である火焚家でも、門前や玄関先に打ち水する女中の姿が見られ、屋敷内のあちこちでも家人が涼んで過ごせるように気を配られている。
そんな使用人達の横を静々と通り過ぎながら、八重は玄関で待つ太蝋の元へ急いだ。
出掛ける支度を始めてから三十分ほど待たせてしまっている。
(急がなきゃ)
昨日、八重は太蝋から帝都観光の誘いを受けた。
一ヶ月もの間、家を空けていた太蝋からの誘いに面食らったものの、四六時中、疎んじられる視線を受けなければならない火焚家の屋敷に居るよりは、ずっと良いように思えた。
それが例え、よく知らない男――夫だとしても、だ。
とは言え、その夫を待たせてしまっている事実は八重を追い詰めた。
帝都観光に誘ってくれた太蝋本人を怒らせているかもしれない。
心なしか、使用人達から向けられる視線も、いつもより痛い気がする。
急いで草履を履いて玄関を出ると……。
「来たか」
庇の下で待っていた太蝋が八重の姿を見たと同時に言った。
紺色の鰹縞柄の浴衣の下にとっくり襟が見えており、手にはいつも通りの白い手袋をはめている。
下履きの裾や、足袋に草履を履いてる姿を見るに、一度見たきりの寝巻き姿の時のように肌を見せない装いをしている。
軍服を着ている太蝋の方が見慣れていて、今日のような軽装は別人のようだ。特徴的な蝋燭頭をしていても。
対して八重はと言うと、すっかり着古された藍色の麻の葉柄の薄物に、朱色の無地の帯を合わせて着ている。
手荷物は持っておらず、髪も毛先で軽く纏めただけの簡素な見た目だ。
上等な麻で仕立てられたと分かる浴衣を着た太蝋の隣に立つには、勇気がいる。
「お、お待たせして、申し訳ありません……っ」
「謝られるほど待った覚えはないな」
「え、ええっと……その……」
表情が一切分からない蝋燭頭の太蝋が相手では、今の一言が気を遣って言われた言葉なのか、皮肉なのか判断がつかない。
恐らく後者だろうと八重は考えたが、また謝れば同じ文言を返されそうな予感を覚え、もう一度謝罪を口にするのは憚られた。
「……。とりあえず、行こうか」
「は、はい」
太蝋から出発を促され、八重は三歩下がった距離を保ちながら太蝋の後ろをついていく。
今日と言う一日に一抹の不安を覚えながら。
△ ▽ △
火ノ本の首都――帝都には火蝶の伝承が伝わる活火山が在る。
その麓には火蝶本家が神主を務める【火蝶神社】があり、日々、火ノ本全土の火山に噴火の恐れが無いかを見張っているのだ。
万が一、噴火があれば火蝶の力を以ってして治められるように。
驚くべきことに伝承の火山は帝都の中心に位置しており、東西南北に町が伸びている形をしている。
東は外海へ出る港があり海産物が豊富な吾妻町。
西は県境に山があり、農地が広がる夕陽町。
南は最も異国情緒に溢れ、人口も密集している朱町。
北は火ノ本を統治している皇帝が座す北天町。
火焚家の屋敷があるのは南の朱町だ。
今回、八重と太蝋が観光へ赴く先は朱町で最も人通りが多い雀通り。
様々な店があり、多種多様な人間が往来している。
その中、太蝋の後ろをついて行きながら、八重はすれ違う人々の視線が自分に向いていないことに驚いた。
誰も八重を気にする素振りがない。
火縄の家が居を構えている村の中を歩いているのとは全然違う。
前を歩いていく太蝋のことも誰も気にしていない。
それもその筈。
人混みの中には、太蝋以外に初めて見る異形頭が堂々と歩いているのだから。
八重は思わず、足を止めて人混みを眺めた。
誰も彼もが自分自身の人生を歩いていっている。
その光景が八重には新鮮だった。
「八重?」
背後から太蝋に声を掛けられて、八重はハッと我に帰って振り返った。
「どうした? 何か、気になるものでも見つけたのか?」
「えっ、い、いえっ……! 人を見てただけで……!」
「人を?」
心底から不思議そうに訊ねてくる太蝋に、なんて説明して良いものか分からず八重は胸の前で両手を振りながら目を泳がせた。
すると、その手の片方を太蝋が握ってきた。
「えっ」
「ともかく、ここじゃ往来の邪魔だから避けよう。こっちへおいで」
そう言って太蝋は八重の手を引き、すぐ側に立ち並んでいる店先の前へ移動した。
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