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ジュニエスの戦い
85 雪の帳
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頭はいい方だと思うんだけど、意外とぼんやりしてて、ときどき妙に鈍いところもある兄さん。そんな人が権力を持つのは、他の多くの人にとって幸福なことのはずだ。少なくとも今よりはずっと。
戦争に負けたら、二人で逃げようか――冗談めかして言ったけど、あたしがそんなことを望んでどうする。
兄さんなら、国家なんていう虚像を守るために人を犠牲にする王でなく、人を守るための手段として国家を動かす王になってくれる。時の黎明館みたいな堕落した楽園を閉じて、ごく少数の者の特権を守るためにいろんな人が犠牲になるような、嫌な世界を終わらせることができるはずだ。
たとえそれが、王座にいる間の何十年かの平穏に過ぎなくても、その時代に生きる人たちにとっては大切なことなんだ。
利用され、排除され、顧みられない人の痛みを、兄さんは知っている。すべてを解決することはできなくても、自分の手の届くところくらいは、何とか救おうとする。
そういう人が遠くで生きていてくれると思えたからこそ、あたしは血と暴力の世界にいても、昔の自分を保ち続けられたんだ。
だから、何があっても、あの人だけは――
降り積もった雪の上に、リースベットが力なく倒れている。背中の傷口から流れ出た血が雪を溶かし、赤色の小さな河が真っ白な雪と混じり合う。
その側には、目を血走らせた一人の男が立っている。
「やってやったぞ、アムレアン隊長の仇!」
男はエリオット・フリークルンドと同じ隊服を着た近衛兵で、名をエーマンという。
エーマンは両腕を上げて長槍を掲げ、口の端を血の混じったよだれで濡らして笑っている。その顔は狂気にひきつり、戦いによる興奮とは別種の異常性に満ちていた。
ノルドグレーン軍の多くはすでに退却を完了し、戦闘を続けていた兵士はみな倒れた。
雪が音を吸収し、静寂がリースベットを包み込んでいる。
オラシオ・ロードストレームとフリークルンドも予想外の出来事に驚き、戦いの手を止めていた。
「リース!」
ノアがメシュヴィツたちの制止を振り払い、リースベットに駆け寄る。うつ伏せに倒れたリースベットを抱き起こすと、うつろな視線がノアを捉えた。
「リース、すまない……」
「また……謝る……あの時もそう……」
ノアはすぐに思い出した。リースベットが守護斎姫としてノルドグレーンに送られたあと、再会した暗い夜のことを。あの時も彼女の姿はぼろぼろで、血と砂の匂いにまみれていた。
かすれた声で喋るたび、口からは空気とともに血の泡が溢れ出てくる。
「ダメだよ……あんまり簡単に謝ったら」
「私は、リースを守るどころか……」
リースベットの頬にノアの涙が落ちる。彼女の口元が、かすかに微笑んだように見えた。
「ほんとに……ダメな兄さん……」
「そうだ……私はまた、リースをこんな目に……」
「兄としてはダメでも……立派な王には、なれるかもよ……」
「リース……リースベット!」
リースベットはゆっくり瞳を閉じた。ノアは体を揺すって幾度も呼びかけるが、返答はない。リースベットの身体に降り積もった雪が、赤と白のアネモネの花びらのようにただ降り落ちる。
戦争に負けたら、二人で逃げようか――冗談めかして言ったけど、あたしがそんなことを望んでどうする。
兄さんなら、国家なんていう虚像を守るために人を犠牲にする王でなく、人を守るための手段として国家を動かす王になってくれる。時の黎明館みたいな堕落した楽園を閉じて、ごく少数の者の特権を守るためにいろんな人が犠牲になるような、嫌な世界を終わらせることができるはずだ。
たとえそれが、王座にいる間の何十年かの平穏に過ぎなくても、その時代に生きる人たちにとっては大切なことなんだ。
利用され、排除され、顧みられない人の痛みを、兄さんは知っている。すべてを解決することはできなくても、自分の手の届くところくらいは、何とか救おうとする。
そういう人が遠くで生きていてくれると思えたからこそ、あたしは血と暴力の世界にいても、昔の自分を保ち続けられたんだ。
だから、何があっても、あの人だけは――
降り積もった雪の上に、リースベットが力なく倒れている。背中の傷口から流れ出た血が雪を溶かし、赤色の小さな河が真っ白な雪と混じり合う。
その側には、目を血走らせた一人の男が立っている。
「やってやったぞ、アムレアン隊長の仇!」
男はエリオット・フリークルンドと同じ隊服を着た近衛兵で、名をエーマンという。
エーマンは両腕を上げて長槍を掲げ、口の端を血の混じったよだれで濡らして笑っている。その顔は狂気にひきつり、戦いによる興奮とは別種の異常性に満ちていた。
ノルドグレーン軍の多くはすでに退却を完了し、戦闘を続けていた兵士はみな倒れた。
雪が音を吸収し、静寂がリースベットを包み込んでいる。
オラシオ・ロードストレームとフリークルンドも予想外の出来事に驚き、戦いの手を止めていた。
「リース!」
ノアがメシュヴィツたちの制止を振り払い、リースベットに駆け寄る。うつ伏せに倒れたリースベットを抱き起こすと、うつろな視線がノアを捉えた。
「リース、すまない……」
「また……謝る……あの時もそう……」
ノアはすぐに思い出した。リースベットが守護斎姫としてノルドグレーンに送られたあと、再会した暗い夜のことを。あの時も彼女の姿はぼろぼろで、血と砂の匂いにまみれていた。
かすれた声で喋るたび、口からは空気とともに血の泡が溢れ出てくる。
「ダメだよ……あんまり簡単に謝ったら」
「私は、リースを守るどころか……」
リースベットの頬にノアの涙が落ちる。彼女の口元が、かすかに微笑んだように見えた。
「ほんとに……ダメな兄さん……」
「そうだ……私はまた、リースをこんな目に……」
「兄としてはダメでも……立派な王には、なれるかもよ……」
「リース……リースベット!」
リースベットはゆっくり瞳を閉じた。ノアは体を揺すって幾度も呼びかけるが、返答はない。リースベットの身体に降り積もった雪が、赤と白のアネモネの花びらのようにただ降り落ちる。
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