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転生と記憶
4 夕闇の住人たち
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リードホルムの夏は日照時間が長く、真夜中になるまで薄暮が続く。さらに北へ向かえば、一日じゅう太陽の沈まない白夜も体験できる。
そうした黄昏時のラルセンの森で、トウヒやアカマツといった針葉樹たちが揺れていた。そこはティーサンリード山賊団の拠点にほど近い場所だ。木々のざわめきは、まるで巨大なヒグマやヘラジカが山林を分け進んでいるかのように、ゆっくりと移動している。
「おいロブネル、ほんとにこんな道で大丈夫なんだろうな?」
巨大な荷物を背負い、枝葉をかき分けながら歩みを進める大男が、木の上に向けて声をかけた。緑色の稲穂を連ねたようなトウヒの枝の上には、大男の三分の一ほどに見える小男が立ち、遠くを眺めている。
「こっちだ……問題ねえ。あと二時間も歩けば着く」
聞き取りにくい嗄れ声で、樹上の小男ロブネルが答えた。
「彼の山歩きの方向感覚は信用していい」
「兄貴がそう言うなら、いいけどよ」
兄貴と呼ばれたのは賞金稼ぎのラルフ・フェルディン、彼に付き従う大男はクリスティアン・カールソンだ。
その後ろを歩くもう一人の部下、蓬髪を後頭部で結んだ男は名をミルヴェーデンといい、腰には刀身の反った細身の曲刀を携えている。閉じているのか開いているのかわからない目の奥からは、鋭い眼光が周囲に注がれている。
地上を歩く三人を樹上から先導するロブネルは、事前に得た情報をもとに、あらかじめ斥候に出てティーサンリード山賊団の拠点をその目で確認していた。
接近を察知されて多数に取り囲まれる状況を避けるため、彼らは歩きやすい山道ではなく森の中を縫うように進んでいる。
フェルディンは仮にそんな状態に置かれても、自分だけは切り抜けられる自信はあった。だが、部下を不利な戦場に立たせる愚かな指導者となることは、彼のプライドがそれを許さない。
ロブネルが猿のように手近な枝に飛び移り、地面に足をつけないまま道なき道を進んでゆく。
「なあ兄貴、このまま進んでも、夜のうちには着かねえんじゃねえか?」
「そうだな。途中で一度休息をとったほうがいいだろう。疲れてたどり着いたところで、満足には戦えないからな」
「いや、こういう襲撃って、夜にやるもんじゃねえのかな」
「そんな卑怯な真似、僕にはできない」
「そうなのか」
彼ら四人の目的は、ティーサンリード山賊団を率いる女首領の討伐だ。これはリーパー研究の情報提供を成功の代価として、フェルディンがリードホルム王国の宰相エイデシュテットと契約した仕事である。
報酬がその情報のみであることを、フェルディンは三人の部下には秘密にしていた。彼らはいつものように金や宝石が手に入ると思っているが、フェルディンは部下を欺いて協力させようと企んでいるわけではない。個人的な蓄えの中から、報酬として充分な額を渡すつもりでいる。そうまでしてリードホルムだけが持っている情報を欲する理由が、彼にはあるのだ。
エルフフォーシュ伯爵家の侍従長イェルダの元を離れたフェルディンは、一年かけて各地を放浪し、とくに記憶に関して、巷間に流布する情報を集めた。その中でも彼の興味を引いたのは、リーパーと呼ばれる特殊能力者ついての俗説だった。
リードホルム王国でごくまれに出現するその異能者は、能力の覚醒前に必ず、さまざまな原因による生命の危機、昏睡状態に陥っている例が多いという。そして意識を取り戻したのち、しばしば記憶の喪失や意味不明な発言をするものがいる――そんな話をしていたのは、カッセル王国西部の小さな村ジーデアヴァランの酒場に入り浸っていた老人だった。彼はランデスコーグと名乗り、酒精に淀んだ目で、自分はかつてリードホルム王国の研究施設でリーパー研究を行っていたのだ、とうそぶいていた。
村人の誰もその言葉を信じていなかったが、ときどき妙に話が理路整然としていたり、自他ともに認めるアルコール依存症のわりには酒場の代金は滞りなく払っていたり、ありきたりな世捨て人とは一線を画した老人ではあった。
赤子と女の記憶は日増しに明瞭になり、喪失感は募り続けている。ランデスコーグ老人の情報をもとの世界への糸口と見たフェルディンは、より詳しい話を聞くためジーデアヴァランにしばらく滞在していた。
だがそのか細い蜘蛛の糸は、あっけなく途切れてしまう。
毎日のように酒場に顔を出していたランデスコーグが二日続けて姿を見せず、不審に思ったフェルディンと酒場の主人は家を訪ねてみた。
老人は酒瓶に囲まれたベッドの上で、寝息を立てずに横たわっていた。酒場の主人によれば彼はあまり食事を摂らず、ひたすら酒ばかり飲んでいたらしい。過度の飲酒が高齢の身体を蝕み尽くしたのだ。
その鯨飲は、ゆるやかな自殺と言ってよい行為だった。事実、家の片隅で埃をかぶっていた小さな机の上には遺書らしき書き置きと、わざわざファンナ教会墓地の墓石代が包まれていた。
カッセル王国では、葬儀は親族はじめごく親しいものだけで簡素に執り行われる。だがランデスコーグには村内に身寄りもなく、それどころか家族がいるのかどうかさえ誰も知らなかった。遺書でも親族については全く触れられておらず、僅かな遺産をファンナ教会に寄付する旨が記されているのみだった。
遺書を読み終えたフェルディンは、机の端に無造作に重ねられていた二十枚ほどの麻紙にも目を通した。それは「リーパー研究序説」と題された論文の草稿で、まさにフェルデンの求めていた情報だ。だがその紙束は、序文といくつかの先例が挙げられているのみの、完成には程遠い論文だった。
フェルディンは気落ちしつつもその草稿を買い取り、代金を寄付金に上乗せした。
論文には、どこか別の世界へと失踪したリーパーの例などは挙げられていない。だが最新の研究についてより深く知れば、もとの世界に帰る手段も分かるのではないか――フェルディンはランデスコーグ老人の遺稿を今後の指針と定め、あてどない放浪の旅に見切りをつける。
遠いリードホルム王国の研究所から情報を引き出すために、何が必要かを考えた。短絡的ではあるが蓋然性があるのは金で買うという方法で、そのために彼は賞金稼ぎとなったのだ。
「もうすぐだ、近いぜ……」
枝の上にしゃがんだロブネルが、北の空を見ながら言う。フェルディンたちには、その声は僅かにうわずっているようにも聞こえた。
長く続いた薄闇が終わり、ようやく北西の空に日が落ちようとしている。だがそれから五時間もすれば、すぐに日は昇る。
「敵はもう指呼の間にあるが、夜に明かりを持って移動するのは、いくらなんでも目立ちすぎる。山賊は監視を怠っていないそうだからな。今日はこの辺りで休むことにしよう」
「……そんなら、あそこにちょうどいい場所がある」
ロブネルが指差す位置に四人が移動すると、そこには身を隠して風雨もしのげそうな岩棚があった。
「ここで休むことにしよう。今日は曇り空だ、日が落ちれば焚き火の煙も目立つまい」
「……晩飯を仕留めてくるぜ」
岩陰に荷物を置く三人にそう告げたロブネルは、小型のサルのように森の中へと消えていった。
「……肉が食えるのはいいんだけどよ、ロブネルのあの狩り狂いっぷりは、正直ちょっとヤバくねえか兄貴。無闇やたらと血を見たがるぜ、あいつ」
「だからこそ僕の元に置いているのだ。人には危害を加えないことと、食べるぶんだけしか狩らないことを誓わせてある」
「あれでちゃんと約束守ってんのかなあ」
ロブネルはかつて、料理用の串のような大型の針で手あたり次第に生き物を殺し、カッセルの一地方で悪名を馳せた軽業師だった。フェルディンは賞金首となっていた彼を撃退し、二番目の部下としたのだ。
一番目の部下カールソンが枯れ枝や薪になりそうな木を集め、フェルディンが細く切った白樺の樹皮や枯れ葉で焚き火の火種を起こした。リードホルムの夜は夏でも肌寒く、野外で暖を取らずに寝付けば体調を崩しやすい。
「さすがのおれもちょっと疲れたぜ。いまから戦えって言われてもキツイな」
「ああ、明日頑張ってもらおう……いや、出番がなければ、それに越したことはないんだが」
「兄貴、ほんとうに一騎打ちなんて申し込むのか?」
「そのほうが犠牲は少ないだろう」
「いや、山賊が素直に受けてくれるもんかなって」
「山賊とはいえ彼らも人の子。正面から騎士道精神に則って挑めば、感銘も受けよう」
「そうなのか」
蓬髪のミルヴェーデンは一言も喋らず、片刃の曲刀を凝視している。研ぎ具合を点検しているようだ。
もしも空が晴れていれば磨かれた刀身が月明かりを反射し、研ぎ澄まされた刃を見て不気味に笑う顔を照らしていただろう。空は厚い雲に覆われ、焚き火の明かりが届く場所以外は一面の青黒い暗闇に包まれている。
賞金稼ぎたちが野兎の肉に塩をふって焚き火で焼き始めた頃、彼らの目的であるリースベット、それと三人の山賊たちは、ラルセンの山道を見下ろす丘の上に陣取っていた。
見晴らしが良く、彼女らはそこを「物見の岩山」と呼んでいる。寒さを凌ぐために毛皮を羽織ったリースベットが、あくびをしながらつぶやいた。
「なかなか来ねえな……まさか気付かれたわけはねえし……」
「夏で日が長くなってるからなあ、時間を遅らせてるのかも知れん」
「それだけ用心深く、人目を避けてるってことかもな」
彼女らは、不定期に山道を往復する不審な早馬を待ち伏せしていた。何度か目撃したユーホルトによると、ノルドグレーンに向かう際は必ず夜に山道を通っていたという。
ヘルストランドへ向かう姿は先日確認されており、一日置いて翌日の夜に帰路につくというのが、これまでの傾向から予測される行動だった。
「今日は曇で月が隠れて真っ暗だ。いくら馬は夜目が利くったって、肝心の人が道も分からねえんじゃ、ふつう移動は諦める。たんに延期しただけじゃねえか?」
「真夜中に松明かざして私はここです、ってアホな密偵もいねえしな」
バックマンはフードを目深に被り、やはり眠そうな顔をしている。彼らと倍以上も歳の離れたユーホルトがもっとも矍鑠としており、衣服も薄着だった。
「となると、来るのは明け方か……」
「あたしら三人、ちょうどよく全員が飛び道具持ってんだ。いっそ交代で仮眠をとっとこう」
「三人でアホ面揃えて監視してても、さすがに無駄ってもんだな」
「そんなら俺が見てよう。お前さんらは少し休むといい」
「いや、念のため監視は二人残す。夜明けまではおそらく五時間近くあるし、ひとり一時間半ずつ眠ろうや」
そのように方針を定めたリースベットが、まず率先して毛皮に身体を包んだ。
「曇っててもなんとか見えるな。月があの木に隠れた頃にでも起こしてくれ」
リースベットは南西の空を指さしながら、岩陰に集めた枯れ葉の上で横になった。
月は雲に隠れているが、おぼろげに丸い輪郭は見える。数分ほどで女頭領は寝息を立て始めた。
「しかしあんたも若いな」
「そいつは、頭も眉も真っ白なじじいに使っていい言葉じゃねえぞ」
バックマンとユーホルトは山道を見下ろす岩山の端に腰を下ろし、いつ来るとも知れない早馬を待つ。
年若い副長はふと、老弓師に関わりのある故人のことを思い出した。
「ヴィカンデルは残念だったな。あいつに弓を教えたのはあんただったろう?」
「ああ……あいつは飲み込みが早くてな、あっという間に独り立ちしたってのに。じじいより先に逝っちまいやがった」
「しばらくのんびりした日が続いてたから忘れかけてたが、俺たちゃリードホルムに喧嘩売ってんだからな。どうしたってこういう事は起きる……」
一月半ほど前、トマス・ブリクスト率いるリードホルム軍との戦闘で命を落とした狩人は、ユーホルトの弟子とも言える存在だった。
「そういや、あのとき戦った部隊、ありゃ、あんたの古巣だったか?」
「もう二十年近く前の話だ。知った顔もいなかったし、今はもう隊の呼び名さえ変わってたはずだ」
「確か特別奇襲隊とか言ったか。昔は違ったのか?」
「俺がいた頃は森林警備隊って言われてたがな、いつ変わったのかは知らん。なんでも当時は、ノルドグレーンが間諜を送り込んでくるって思い込んでる連中が多かったらしくてな。この森を監視する必要がある、って名目で組織された部隊だったそうだ」
「その危惧自体は間違いじゃねえが、森の中をうろつくアホはいねえだろうよ。やるとしたら商人に変装して町中に滞在するとか、協力者ヅラした政治家や外交使節が内情を定期的に報告するとか、まあそんなとこだろう」
かつてノルドグレーンの役人を目指していたバックマンは、こうした事情には明るい。かの国はとくにリードホルム王国の情報に関しては、収集に余念がない。
「じっさい、十年ちょっとの部隊生活で、間諜らしき奴なんざ見たこともなかったからな。何度か野盗を捕まえた程度だ」
「奴らはバカじゃない。やるなら周到にやる。そいつは二十年前でも変わらんさ」
「……まあ、古い話だ」
「しかし隊にいたのは十年程度だったのか。それで副隊長ってのは、なかなかの出世じゃないか?」
「まあな。腕にゃ自信があったから軍に入ったんだ。若かったから相応に欲もあったしな。で、そこに付け込まれた」
「……皇太子の暗殺だったっけか」
「今のリードホルム王ヴィルヘルムの弟、エーギルだ。鹿狩りに出たエーギル王子を、事故に見せかけて殺せとな。ほとぼりが冷めたら、親衛隊に取り立ててやるって話だった」
王侯貴族の鹿狩りは多くの場合、腕の確かな従者を引き連れて行われる。主人が鹿を射ちやすいように追い立てたり、状況によっては従者が仕留めて権力者の成果とすることもあった。
「そこで、あんたの弓か」
「俺の放った矢でリードホルムの王が決まる、と思うと手が震えたが、俺はやってのけちまった。……まったく、人生最大の失敗だ」
「その事件はノルドグレーンにも聞こえてたぜ。気が狂ったいち兵士が弟を殺した、とヴィルヘルムは陰謀を全部あんたにおっ被せたわけだ」
「古い話だ……」
ユーホルトは小さくため息をつき、しばし感慨深げに、涼やかな虫の声を聞いているようだった。
「……あれだな、欲得ずくで人を利用してやろう、なんて奴の言うことは、その言葉が甘けりゃ甘いほど信じちゃいけねえ。けっきょく俺は国にいられなくなって、遠くカッセルまで逃げて傭兵部隊に入ったんだからな」
「その頃のカッセルなら、リードホルムとまだ戦争やってた頃だな」
「一応な。その後すぐに休戦になった。復讐する機会があるなら、と入った部隊だったんだが……」
「惜しいね。箔つけるために戦場に出てきたヴィルヘルムにあんたの矢が当たってりゃ、今頃もう少し住みやすい国になってただろうに」
「なに、まだ諦めてねえさ。だからこそお前さんらとつるんでんだ」
「心強いこったぜ。三国一の弓取りが、こんな山賊に加勢してるとはな」
ユーホルトの昔話が終わる頃には、夜空は少しずつ雲がかき消えつつあった。ラルセンの森には月明かりが差しはじめ、木々の輪郭が明瞭になってゆく。
リースベットが起こすよう言い残した刻限は過ぎたが、二人は静かな寝息を立てる首領の眠りを妨げずにおいた。
目当ての早馬は、まだ姿を表さない。
そうした黄昏時のラルセンの森で、トウヒやアカマツといった針葉樹たちが揺れていた。そこはティーサンリード山賊団の拠点にほど近い場所だ。木々のざわめきは、まるで巨大なヒグマやヘラジカが山林を分け進んでいるかのように、ゆっくりと移動している。
「おいロブネル、ほんとにこんな道で大丈夫なんだろうな?」
巨大な荷物を背負い、枝葉をかき分けながら歩みを進める大男が、木の上に向けて声をかけた。緑色の稲穂を連ねたようなトウヒの枝の上には、大男の三分の一ほどに見える小男が立ち、遠くを眺めている。
「こっちだ……問題ねえ。あと二時間も歩けば着く」
聞き取りにくい嗄れ声で、樹上の小男ロブネルが答えた。
「彼の山歩きの方向感覚は信用していい」
「兄貴がそう言うなら、いいけどよ」
兄貴と呼ばれたのは賞金稼ぎのラルフ・フェルディン、彼に付き従う大男はクリスティアン・カールソンだ。
その後ろを歩くもう一人の部下、蓬髪を後頭部で結んだ男は名をミルヴェーデンといい、腰には刀身の反った細身の曲刀を携えている。閉じているのか開いているのかわからない目の奥からは、鋭い眼光が周囲に注がれている。
地上を歩く三人を樹上から先導するロブネルは、事前に得た情報をもとに、あらかじめ斥候に出てティーサンリード山賊団の拠点をその目で確認していた。
接近を察知されて多数に取り囲まれる状況を避けるため、彼らは歩きやすい山道ではなく森の中を縫うように進んでいる。
フェルディンは仮にそんな状態に置かれても、自分だけは切り抜けられる自信はあった。だが、部下を不利な戦場に立たせる愚かな指導者となることは、彼のプライドがそれを許さない。
ロブネルが猿のように手近な枝に飛び移り、地面に足をつけないまま道なき道を進んでゆく。
「なあ兄貴、このまま進んでも、夜のうちには着かねえんじゃねえか?」
「そうだな。途中で一度休息をとったほうがいいだろう。疲れてたどり着いたところで、満足には戦えないからな」
「いや、こういう襲撃って、夜にやるもんじゃねえのかな」
「そんな卑怯な真似、僕にはできない」
「そうなのか」
彼ら四人の目的は、ティーサンリード山賊団を率いる女首領の討伐だ。これはリーパー研究の情報提供を成功の代価として、フェルディンがリードホルム王国の宰相エイデシュテットと契約した仕事である。
報酬がその情報のみであることを、フェルディンは三人の部下には秘密にしていた。彼らはいつものように金や宝石が手に入ると思っているが、フェルディンは部下を欺いて協力させようと企んでいるわけではない。個人的な蓄えの中から、報酬として充分な額を渡すつもりでいる。そうまでしてリードホルムだけが持っている情報を欲する理由が、彼にはあるのだ。
エルフフォーシュ伯爵家の侍従長イェルダの元を離れたフェルディンは、一年かけて各地を放浪し、とくに記憶に関して、巷間に流布する情報を集めた。その中でも彼の興味を引いたのは、リーパーと呼ばれる特殊能力者ついての俗説だった。
リードホルム王国でごくまれに出現するその異能者は、能力の覚醒前に必ず、さまざまな原因による生命の危機、昏睡状態に陥っている例が多いという。そして意識を取り戻したのち、しばしば記憶の喪失や意味不明な発言をするものがいる――そんな話をしていたのは、カッセル王国西部の小さな村ジーデアヴァランの酒場に入り浸っていた老人だった。彼はランデスコーグと名乗り、酒精に淀んだ目で、自分はかつてリードホルム王国の研究施設でリーパー研究を行っていたのだ、とうそぶいていた。
村人の誰もその言葉を信じていなかったが、ときどき妙に話が理路整然としていたり、自他ともに認めるアルコール依存症のわりには酒場の代金は滞りなく払っていたり、ありきたりな世捨て人とは一線を画した老人ではあった。
赤子と女の記憶は日増しに明瞭になり、喪失感は募り続けている。ランデスコーグ老人の情報をもとの世界への糸口と見たフェルディンは、より詳しい話を聞くためジーデアヴァランにしばらく滞在していた。
だがそのか細い蜘蛛の糸は、あっけなく途切れてしまう。
毎日のように酒場に顔を出していたランデスコーグが二日続けて姿を見せず、不審に思ったフェルディンと酒場の主人は家を訪ねてみた。
老人は酒瓶に囲まれたベッドの上で、寝息を立てずに横たわっていた。酒場の主人によれば彼はあまり食事を摂らず、ひたすら酒ばかり飲んでいたらしい。過度の飲酒が高齢の身体を蝕み尽くしたのだ。
その鯨飲は、ゆるやかな自殺と言ってよい行為だった。事実、家の片隅で埃をかぶっていた小さな机の上には遺書らしき書き置きと、わざわざファンナ教会墓地の墓石代が包まれていた。
カッセル王国では、葬儀は親族はじめごく親しいものだけで簡素に執り行われる。だがランデスコーグには村内に身寄りもなく、それどころか家族がいるのかどうかさえ誰も知らなかった。遺書でも親族については全く触れられておらず、僅かな遺産をファンナ教会に寄付する旨が記されているのみだった。
遺書を読み終えたフェルディンは、机の端に無造作に重ねられていた二十枚ほどの麻紙にも目を通した。それは「リーパー研究序説」と題された論文の草稿で、まさにフェルデンの求めていた情報だ。だがその紙束は、序文といくつかの先例が挙げられているのみの、完成には程遠い論文だった。
フェルディンは気落ちしつつもその草稿を買い取り、代金を寄付金に上乗せした。
論文には、どこか別の世界へと失踪したリーパーの例などは挙げられていない。だが最新の研究についてより深く知れば、もとの世界に帰る手段も分かるのではないか――フェルディンはランデスコーグ老人の遺稿を今後の指針と定め、あてどない放浪の旅に見切りをつける。
遠いリードホルム王国の研究所から情報を引き出すために、何が必要かを考えた。短絡的ではあるが蓋然性があるのは金で買うという方法で、そのために彼は賞金稼ぎとなったのだ。
「もうすぐだ、近いぜ……」
枝の上にしゃがんだロブネルが、北の空を見ながら言う。フェルディンたちには、その声は僅かにうわずっているようにも聞こえた。
長く続いた薄闇が終わり、ようやく北西の空に日が落ちようとしている。だがそれから五時間もすれば、すぐに日は昇る。
「敵はもう指呼の間にあるが、夜に明かりを持って移動するのは、いくらなんでも目立ちすぎる。山賊は監視を怠っていないそうだからな。今日はこの辺りで休むことにしよう」
「……そんなら、あそこにちょうどいい場所がある」
ロブネルが指差す位置に四人が移動すると、そこには身を隠して風雨もしのげそうな岩棚があった。
「ここで休むことにしよう。今日は曇り空だ、日が落ちれば焚き火の煙も目立つまい」
「……晩飯を仕留めてくるぜ」
岩陰に荷物を置く三人にそう告げたロブネルは、小型のサルのように森の中へと消えていった。
「……肉が食えるのはいいんだけどよ、ロブネルのあの狩り狂いっぷりは、正直ちょっとヤバくねえか兄貴。無闇やたらと血を見たがるぜ、あいつ」
「だからこそ僕の元に置いているのだ。人には危害を加えないことと、食べるぶんだけしか狩らないことを誓わせてある」
「あれでちゃんと約束守ってんのかなあ」
ロブネルはかつて、料理用の串のような大型の針で手あたり次第に生き物を殺し、カッセルの一地方で悪名を馳せた軽業師だった。フェルディンは賞金首となっていた彼を撃退し、二番目の部下としたのだ。
一番目の部下カールソンが枯れ枝や薪になりそうな木を集め、フェルディンが細く切った白樺の樹皮や枯れ葉で焚き火の火種を起こした。リードホルムの夜は夏でも肌寒く、野外で暖を取らずに寝付けば体調を崩しやすい。
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「ああ、明日頑張ってもらおう……いや、出番がなければ、それに越したことはないんだが」
「兄貴、ほんとうに一騎打ちなんて申し込むのか?」
「そのほうが犠牲は少ないだろう」
「いや、山賊が素直に受けてくれるもんかなって」
「山賊とはいえ彼らも人の子。正面から騎士道精神に則って挑めば、感銘も受けよう」
「そうなのか」
蓬髪のミルヴェーデンは一言も喋らず、片刃の曲刀を凝視している。研ぎ具合を点検しているようだ。
もしも空が晴れていれば磨かれた刀身が月明かりを反射し、研ぎ澄まされた刃を見て不気味に笑う顔を照らしていただろう。空は厚い雲に覆われ、焚き火の明かりが届く場所以外は一面の青黒い暗闇に包まれている。
賞金稼ぎたちが野兎の肉に塩をふって焚き火で焼き始めた頃、彼らの目的であるリースベット、それと三人の山賊たちは、ラルセンの山道を見下ろす丘の上に陣取っていた。
見晴らしが良く、彼女らはそこを「物見の岩山」と呼んでいる。寒さを凌ぐために毛皮を羽織ったリースベットが、あくびをしながらつぶやいた。
「なかなか来ねえな……まさか気付かれたわけはねえし……」
「夏で日が長くなってるからなあ、時間を遅らせてるのかも知れん」
「それだけ用心深く、人目を避けてるってことかもな」
彼女らは、不定期に山道を往復する不審な早馬を待ち伏せしていた。何度か目撃したユーホルトによると、ノルドグレーンに向かう際は必ず夜に山道を通っていたという。
ヘルストランドへ向かう姿は先日確認されており、一日置いて翌日の夜に帰路につくというのが、これまでの傾向から予測される行動だった。
「今日は曇で月が隠れて真っ暗だ。いくら馬は夜目が利くったって、肝心の人が道も分からねえんじゃ、ふつう移動は諦める。たんに延期しただけじゃねえか?」
「真夜中に松明かざして私はここです、ってアホな密偵もいねえしな」
バックマンはフードを目深に被り、やはり眠そうな顔をしている。彼らと倍以上も歳の離れたユーホルトがもっとも矍鑠としており、衣服も薄着だった。
「となると、来るのは明け方か……」
「あたしら三人、ちょうどよく全員が飛び道具持ってんだ。いっそ交代で仮眠をとっとこう」
「三人でアホ面揃えて監視してても、さすがに無駄ってもんだな」
「そんなら俺が見てよう。お前さんらは少し休むといい」
「いや、念のため監視は二人残す。夜明けまではおそらく五時間近くあるし、ひとり一時間半ずつ眠ろうや」
そのように方針を定めたリースベットが、まず率先して毛皮に身体を包んだ。
「曇っててもなんとか見えるな。月があの木に隠れた頃にでも起こしてくれ」
リースベットは南西の空を指さしながら、岩陰に集めた枯れ葉の上で横になった。
月は雲に隠れているが、おぼろげに丸い輪郭は見える。数分ほどで女頭領は寝息を立て始めた。
「しかしあんたも若いな」
「そいつは、頭も眉も真っ白なじじいに使っていい言葉じゃねえぞ」
バックマンとユーホルトは山道を見下ろす岩山の端に腰を下ろし、いつ来るとも知れない早馬を待つ。
年若い副長はふと、老弓師に関わりのある故人のことを思い出した。
「ヴィカンデルは残念だったな。あいつに弓を教えたのはあんただったろう?」
「ああ……あいつは飲み込みが早くてな、あっという間に独り立ちしたってのに。じじいより先に逝っちまいやがった」
「しばらくのんびりした日が続いてたから忘れかけてたが、俺たちゃリードホルムに喧嘩売ってんだからな。どうしたってこういう事は起きる……」
一月半ほど前、トマス・ブリクスト率いるリードホルム軍との戦闘で命を落とした狩人は、ユーホルトの弟子とも言える存在だった。
「そういや、あのとき戦った部隊、ありゃ、あんたの古巣だったか?」
「もう二十年近く前の話だ。知った顔もいなかったし、今はもう隊の呼び名さえ変わってたはずだ」
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「俺がいた頃は森林警備隊って言われてたがな、いつ変わったのかは知らん。なんでも当時は、ノルドグレーンが間諜を送り込んでくるって思い込んでる連中が多かったらしくてな。この森を監視する必要がある、って名目で組織された部隊だったそうだ」
「その危惧自体は間違いじゃねえが、森の中をうろつくアホはいねえだろうよ。やるとしたら商人に変装して町中に滞在するとか、協力者ヅラした政治家や外交使節が内情を定期的に報告するとか、まあそんなとこだろう」
かつてノルドグレーンの役人を目指していたバックマンは、こうした事情には明るい。かの国はとくにリードホルム王国の情報に関しては、収集に余念がない。
「じっさい、十年ちょっとの部隊生活で、間諜らしき奴なんざ見たこともなかったからな。何度か野盗を捕まえた程度だ」
「奴らはバカじゃない。やるなら周到にやる。そいつは二十年前でも変わらんさ」
「……まあ、古い話だ」
「しかし隊にいたのは十年程度だったのか。それで副隊長ってのは、なかなかの出世じゃないか?」
「まあな。腕にゃ自信があったから軍に入ったんだ。若かったから相応に欲もあったしな。で、そこに付け込まれた」
「……皇太子の暗殺だったっけか」
「今のリードホルム王ヴィルヘルムの弟、エーギルだ。鹿狩りに出たエーギル王子を、事故に見せかけて殺せとな。ほとぼりが冷めたら、親衛隊に取り立ててやるって話だった」
王侯貴族の鹿狩りは多くの場合、腕の確かな従者を引き連れて行われる。主人が鹿を射ちやすいように追い立てたり、状況によっては従者が仕留めて権力者の成果とすることもあった。
「そこで、あんたの弓か」
「俺の放った矢でリードホルムの王が決まる、と思うと手が震えたが、俺はやってのけちまった。……まったく、人生最大の失敗だ」
「その事件はノルドグレーンにも聞こえてたぜ。気が狂ったいち兵士が弟を殺した、とヴィルヘルムは陰謀を全部あんたにおっ被せたわけだ」
「古い話だ……」
ユーホルトは小さくため息をつき、しばし感慨深げに、涼やかな虫の声を聞いているようだった。
「……あれだな、欲得ずくで人を利用してやろう、なんて奴の言うことは、その言葉が甘けりゃ甘いほど信じちゃいけねえ。けっきょく俺は国にいられなくなって、遠くカッセルまで逃げて傭兵部隊に入ったんだからな」
「その頃のカッセルなら、リードホルムとまだ戦争やってた頃だな」
「一応な。その後すぐに休戦になった。復讐する機会があるなら、と入った部隊だったんだが……」
「惜しいね。箔つけるために戦場に出てきたヴィルヘルムにあんたの矢が当たってりゃ、今頃もう少し住みやすい国になってただろうに」
「なに、まだ諦めてねえさ。だからこそお前さんらとつるんでんだ」
「心強いこったぜ。三国一の弓取りが、こんな山賊に加勢してるとはな」
ユーホルトの昔話が終わる頃には、夜空は少しずつ雲がかき消えつつあった。ラルセンの森には月明かりが差しはじめ、木々の輪郭が明瞭になってゆく。
リースベットが起こすよう言い残した刻限は過ぎたが、二人は静かな寝息を立てる首領の眠りを妨げずにおいた。
目当ての早馬は、まだ姿を表さない。
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家の外、柵の向こう側では聞いたこともないような獣の叫ぶ声も響く世界。
戻る手だてもないまま、奏はこの家の中で使えそうなものを探していく。
植物に愛された奏の異世界新生活が、始まろうとしていた。
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