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第3章 死人花

Nektar

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「どうです? 子猫キティの様子は?」

「意識レベルは安定、核から本体ボディへの異常も見られないので、コネクトは成功したと言えます」

 ここは、中央司令部の地下に存在する研究室。長い髪を後ろに纏めた男は、隣に立つ研究員らしき女に声をかける。

「そうですか……ご苦労様です」

 限られた人間しか出入り出来ないその場所は、部屋と呼ぶにはあまりにも広大であった。入ってまず目に留まるのは、巨大なガラスの水槽。特殊な培養液で満たされ無数の管に繋がれた少女が一人、ぷかりぷかりと浮かんでいた。

「しかしながら、まだ油断は出来ません。彼女が目を覚ますまでは」

 女は、手元にある電子パッドに目をやった。

「ここにあるデータ通りならば、本来4日で目を覚ますはずなのですが……」

 かれこれ10日以上、少女は冷たい箱の中で眠ったままである。

「それはきっと、前回よりも培養液の濃度が薄くなってきているのでしょう」

「ならば、もっと培養液の濃縮度を上げてみては?」

「そうしたいのは山々なんですが、これ以上は無理なんですよ……やりたくてもね」

 そう言って、男は語りだす。それはそれは愛しそうな眼差しを、ガラスの向こうで眠る少女に向けながら。

「貴女は、ネクタルという言葉をご存知ですか?」

「ネクタル……?」

 聞いたことないと、女の首が左右に振られた。それを気にするでもなく、男は更に話しを続ける。

「『蜜のように甘く、飲めば不老不死となる』神話に登場する神々が飲んだとされる生命の酒です」

「生命の……酒」

「命には限りがあります。どんなに抗おうとしても、その肉体はいずれ老いて朽ちていく」

 それは、生きとし生けるもの全てに、神が与えし宿命。

「しかしながら、ごく稀に、私たち常人には到底理解しがたいような力を与えられた者たちが、存在するのも確かなのです」

 全てを見通し操る力であったり、天才などという言葉が霞むほどの頭脳を持っていたり、はたまた、小国程度なら数時間もあれば地図から消してしまうことが可能な、最強の力を手にしたり。その力には、どんな重要な意味が隠されているのか。それともただの気まぐれか。素晴らしい贈り物が何を指し示すのかは、神のみぞ知る。

「その中でも、どんなに傷つき瀕死の重症に陥ろうが、けして死なない驚異の治癒力を与えられた一族。彼らの名は伏せますが、その者の血液を採取し、形成し直し完成した秘薬が、神の酒ネクタル。不老不死の薬なのです」

「そ、んな……不老不死だなんて――」

 まるでお伽噺。そんな非科学的なことは信じられないと、女は狼狽えた。

「しかし、貴女は実際に今、目撃している。こうして目の前にいるお伽噺を……まぁ、本来の意味合いとは違いますけど」

「で、では……もしかして……」

「ご想像にお任せします」

 人類最大の願いとされている不老不死。それを叶えてくれる秘薬が、もし本当に――。

神の酒ネクタル……」

 実物を見てみたい。研究したい。そして、出来ることなら飲んでみたい。あらゆる欲という欲が、心の内側から湧き出てくる。巨大な水槽。手を伸ばせば届いてしまう箱の中に――。

「分かりますよ、貴女の気持ち。人間、欲には勝てませんからね」

「え、えぇ……」

 男に対して曖昧な返事を返す。女の身体を、心を震わせる渇望の眼差しを、ただ一心に前だけに向けている。

「前任者の方もそうでした。彼も欲に負けて、この世を去っていきました」

 その声色は、どこか楽しげだった。

「私がね、殺したんです」

 彼らを――。口元は三日月のようにつり上がり、笑っているはずなのに恐ろしく不気味だった。急な現実に引き戻された女は、隣に立つ男に目を向け一つ、声にならない悲鳴をあげた。

「だからね、貴女も気をつけて下さい。ほら、昔からよく言うでしょ? 『欲は身を滅ぼす』ってね」

 それから……と、こう付け加える。

「可愛い私の娘が、万が一にも目覚めなければ、ここにいる人員……貴女を含め全員が、地獄ほかへと配置転換していただきますので、それもご承知下さい」

 冗談ではなく本気だと目が語っている。女は何も言わず一礼すると、逃げ去るように男の元から離れて行った。

「……国家警察の中心で、殺すだ何だと物騒な発言は感心せんな」

「おや? おめずらしい。貴方が此方にいらっしゃるとは……」

 相柳そうりゅうと名を呼ばれ、男は振り返る。

「たまには優秀な部下たちに、労いの言葉でもかけてやろうと思ってな」

「それはそれは……感激で、涙が出ますね」

 斑目まだらめは、自身が卑劣で冷酷な人間だということは、常々自負している。

「どうだ? 自慢の娘の様子は?」

「おかげさまで、経過は良好ですよ。ただ、覚醒が年々長くなっていますね」

 そんな自身の遥か上をいく卑劣さ、冷酷さを持ち合わせている男は、この上司を置いて他にはいないだろう。

「やはり酒の神ネクタルの効果が薄れてきているのでしょうね」

「最後に入れたのは?」

「確か、5年前ですね」

 素晴らしい贈り物の提供者が亡くなる前に、出来るだけ作り置きをしていたが、ついに最後の一滴を使いきってしまった。

「なら、新しいモノが必要だな」

「そうですね……お父上のように、彼にも協力していただかないと」

 あの馬鹿な父親の息子ならば、安易に騙されてくれるだろう。そうでなければ、己や娘が困り果てると、斑目が笑った。そんな彼を尻目に、上司が鼻をならして口を開く。

「その割には、本気で殺そうとしていたがな」

 誰とは言わない。

「何のことです?」

 また、斑目自身も誰とは聞かない。明らかに空気が変わった。

「いや、別に責めてるわけじゃないさ。ただ、珍しいものが見れたと思ってな。お前でも他人を羨むことがあるんだな」

 ピリピリと肌を刺すような心地よい痛み。斑目の機嫌が急降下していく。

「羨む? この私が? 何をおっしゃっているのやら」

「そうか、無意識だったのか……それは悪いことを口にしたな。嫉妬に狂ったお前が、彼を殺そうとしているのが可笑しくて……つい、な」

 殺しても死なないことは知っているだろうに。それでも尚、その存在を消し去りたいくらいに強烈に嫉妬している。

「……貴方が上司でなければ、今この場で、その憎たらしい顔を八つ裂きにして差し上げたのに」

「それはそれは……心遣い痛み入るな」

 絶対零度の空気を纏う斑目に対し、クツクツと肩を鳴らして笑う上司。研究員たちは、命が幾つあっても足りない状況に、無関心を装いながら固唾を飲んで見守っている。

「おっ、そうだ……これを」

 何かを思い出しように、懐に手を入れ取り出す。上司の手に握られていたのは、1枚の写真。差し出されたその写真を、斑目は無言で奪い取った。

「よく撮れてるだろ?」

「何です、これ?」

 そこに写っていたのは、先日、斑目が殺し損ねた相手。状況を確認していないので、詳しいことは判断しかねるが、かなりの重症を負ったと聞いていた。

「この通り、もう元気いっぱいだ」

「それが? なぜ私に報告なさるのですか?」

 上司の真意が分からない。いや、分かっているが分かりたくない。

「お前が気にしているかと思ってな」

「どうして?」

「どうしてって、大事な神の酒ネクタルの材料なんだろ?」

 娘を救うための秘薬。上司の嫌みに思わず舌を鳴らした。

「いつか貴方を、パワハラで訴えてやりますから」

「その日が来るのを楽しみに待ってるさ」

 言いたいことだけ言い残して、軽快な足取りで去っていく。その後ろ姿が憎たらしい。

(その時に、私と貴方、どちらが生き残っているやら)

 あるいは――、憎き上司の置き土産の写真に、もう一度目をやり勢いよく握り潰す。クシャクシャになった紙の隙間から見えた歪な顔、どんな形をしていても消せない彼の瞳の輝きに、斑目は、また舌を鳴らした。
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