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二章 ― 香 ―

二章-11

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 几帳の後ろから中宮が現れた。寧子やすこ内親王――藤壺の中宮。その呼び名を体現するかのような、紫の薄様の五衣、そして藤のかさねの小袿を一番上に纏っている。

 女房や女官が唐衣を身に付けて正装となるのに対して、妃などの貴人が人前に出る装いは、小袿だ。この空間で唯一、小袿を身に付けているのが、中宮である。

 そうでなくても、流れるような豊かな黒髪に、高貴な方に許される紫色に負けない麗しさ、満ち足りている微笑み、その全てに圧倒される。

「皆、よく参ってくれましたね」

 穏やかに春風が吹くかのように、中宮は声をかけた。

 帝の二つ上と聞いたので、二十六になる。ただ、彼女の穏やかさや落ち着きは、年齢というより、彼女自身の持ちうるものに見えた。

「あなたが橘侍従からの紹介の子ね」
「はい。相模さがみと申します。こちらは紫苑でございます」

 菫子は、今回の薫物合には偽名で参加することになっていた。藤小町や尚薬と名乗って、万が一毒小町と悟られることがないように。相模としたのは、会ったことのない年上の従兄が以前、相模守を勤めていたからだ。

「では、始めさせていただきます」

 薫物合が始まった。灰が満ちた香炉に熱した炭を入れ、それぞれに持ち寄った練香を、炭に触れないよう、灰の中に入れ込む。温められた練香から、香りが広がっていく。そうして、香りを聞く。

「あら、素敵な黒方くろぼうの香りね」
「奥ゆかしい香りが、中宮様そのものと思い、調合をさせました」
「素晴らしい香りですわ」

 その次は、香箱を新調したと言っていた女房。披露したのは、梅花香だった。

「可愛らしい梅の香りだわ」
「やはりこの季節には、梅花香がふさわしく思いますわ」

 菫子の番が来た。香炉に練香を準備して、蓋を開けた香箱に入れる。それを紫苑から女房に渡してもらう。極力触れる可能性があることは避けるべきだ。女房が、それまでの物と同じように中宮の前にそれを置いた。

「これも梅花香だけれど、合わせる人によって変わるというのは本当でございますね」
「ええ、華やかな香りの中に、静かな強さを、わたくしは感じるわ。いい香りね」

 中宮がそう言って菫子の香を褒めてくれた。無事にお気に召していただけたなら、今日の仕事の大半は終わったと思っていいだろう。

 次の香へと移ろうとした時、女房の様子に異変があった。どうしたのかと、視線を向けると、女房の手が赤くなり、いくつもの湿疹が出現している。反対の指先で手のひらを擦っていて、痒そうだ。

「申し訳ございません。手がおかしいのです。赤く、痒みが収まりません」
「私も、先ほどから痒くて仕方ありませんわ」

「何ということでしょう」
「私は何ともありませんわ、一体どうなさったの」

 場は、にわかに騒がしくなった。菫子には症状は出ていない。手覆いを付けていて、何にも触っていないからだろう。だが、他の女房たちは、症状が出ている人と出ていない人がいる。中宮は出ていない。どういうことだろう。

「何ですの、これ」
「もしや、毒を盛られたのではありませんか」
「まさかそんな!」

 毒、という言葉に、菫子は思わず肩を震わせる。中宮からさりげなく視線を送られたことに気が付いた。わたしではない、と首を小さく横に振った。中宮は顎を引くようにして、頷いた。

「落ち着いてちょうだい」

 中宮の声で、混乱していた女房たちが、すっと静かになった。その顔には不安がありありと見える。

「手に異常がある者は、前に出てちょうだい」

 それに応えて前に進み出たのは、ここにいる人たちの三分の一ほどだった。手のひらが一際真っ赤なのは、参加者から香箱を受け取って中宮に差し出していた、女房だった。眉が下がりきって、泣きそうなのを必死に堪えている様子がいじらしい。

「あの、手を見せていただけますか」

 菫子は、気が付いたらそう口にしていた。紫苑が裾を引っ張って、ちょっと、と小声で止められたが、彼女たちの状況を見て、放ってはおけない。

 女房たちが困惑した様子で顔を見合わせていた。今回たまたま招かれただけの菫子に、突然手を見せろと言う者に、警戒するのは当然だろう。

「その者は、医術に通じているわ。見せなさい」

 中宮の助言のおかげで、女房たちは菫子へ手のひらを見せてくれた。手覆いをしているとはいえ、触れるわけにはいかない。少し距離を取って観察する。

「紫苑、この方の手をこっちに向けていただいて」
「分かった」

 見えにくいところは、紫苑に手伝ってもらった。

 ぶつぶつと湿疹が出来ていて、赤く腫れあがっている。彼女たちの様子から、相当の痒みがあるのは明らか。症状が出ているのは、手のひらのみで、手の甲や腕にはそれは見られない。

「痛くはございませんか」
「痛くはないわ」

「腫れたところを掻いてしまって、少し痛いですわ」
「私も……」

 症状がある者とない者との違いが、はっきりしない。充満した香によってのものなら、ここの全員が発症するだろうし、手のひらだけというのもおかしい。今、藤壺にあるものを見渡す。

 そして、菫子はある会話を思い出して、点と点が繋がった。
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