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二章 ― 香 ―
二章-10
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弥生三日、曲水の宴そして薫物合の当日。
菫子は再び紫苑に手伝ってもらい、桜重ねの着物を身に纏った。紫苑も、貴族の子女が身に付ける細長を着て、薫物合について来ることになった。
本人は動きにくいと言っているけれど、淡紅と萌黄の、桃の色目が可愛らしくて似合っている。
「紫檀はどこにいるのかしら」
「としもとと一緒に曲水の宴の方行くって言ってたよ。一応、陰陽師の祓えが終わってから合流するって言ってた」
「陰陽師は、苦手?」
「苦手っていうか、見境なく祓おうとするやつがいるから、面倒なの。あいつらはすぐあたしたちが鬼って気付くから」
紫苑は、頬をぷくーっとさせてそう言った。怖がっているわけではなく、不満を持っているようだった。この様子なら、紫檀を心配する必要はないだろう。
「紫苑、今日はよろしくね」
「任せてよ」
頼もしい返事を聞いて、菫子は紫苑と共に念誦堂を出た。
薫物合が行われるのは、中宮の住まいである藤壺。帝のいる清涼殿から近いことから、弘徽殿と並んで格の高い殿舎である。今上帝の正妻たる中宮が住まうのだから、言わずもがなではあるが。
招かれたとはいえ、そのようなところに出向くことに、菫子は緊張していた。手を握りしめれば、くしゃりと衣擦れの音がした。指先から肘までを覆う、手覆いを紫檀が作ってくれたのだ。
手先が器用であっという間に作られていくそれを見て、感心した。これのおかげで誤って誰かに直接手が触れてしまうことを防げる。
顔に触れるようなことはまずないので、残る懸念は髪。そこは紫苑に守ってもらうことにした。
「大丈夫。どーんと構えていればいいの。あんた可愛いし」
「不安なのは、着物のことじゃないわ」
「そうなの? としもとに可愛いって言われなかったから、自信なくしてるんじゃないの」
「違うわ、そうではなくて、薫物合が上手くいくかとか、誰にも触れずにきちんと終われるかとか、そういうことが心配で」
ふーん、と気のない返事をして、紫苑は前からやって来る人の足音を察知して立ち止まった。菫子も立ち止まり、軽く頭を下げつつ、通り過ぎるのを待つ。
違うと言いながら、言い訳のように言葉を並べ立てていたと、後から思った。
「行くよー」
「分かってるわ」
菫子は、すっと背筋を伸ばして、気持ちを切り替えた。誰にも毒の危険を及ぼさず、無事に薫物合を終えること。他に気を取られていては成功しない。
藤壺に到着すると、女房にこちらへと席に案内された。下座に案内されて腰を下ろしてから、随分と出席者同士の距離が開いていることに気が付いた。
「どうしてこんなに離れているのです?」
参加者の一人が、疑問を口にした。先ほど菫子を案内してくれた女房がそれに答えた。
「本日は、中宮様が身に付けられる薫物を御自らお選びになりますので、互いの香りが混ざることのないようにとの、御采配でございます」
「そうでしたの。さすがは中宮様、香り一つにも素晴らしいお心配りですわ」
菫子は、それが帝伝いで聞いた、中宮の『工夫』であることを理解した。香のため、と言いつつ、菫子が他の者と距離を取れるようにした配慮だ。
「すごい……」
見事な采配に、思わず感嘆の声が零れた。毒小町と知ってなお会いたがる中宮を、少し不信に思っていた部分もあったのだが、そう思った自分を恥じた。
「とっておきの練香を用意しましたのよ」
「あら、私もですわ。中宮様に選んでいただければ、とても栄誉なことですもの」
「今日のために、香箱を新調しましたの」
「まあ美しい漆塗りですこと。私にも見せてくださいませ」
女房たちが、色めき立っている。中宮に仕える女房にとっても、この薫物合は一大行事のようだ。
「中宮様がお見えになります」
女房の声を合図に、女房たちはぴたりと話すのをやめて頭を垂れた。菫子も彼女たちに倣って礼をした。紫苑にも同様に促した。
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