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第三章 隠し部屋
六
しおりを挟む芳川貴明。芳川薬品代表取締役の名前。そんな相手宛の、藍田製薬の元代表取締役の妻の手紙。芳美は封筒に記された文字から、目が離せなかった。
消印は五年前。長方形の白封筒には、一辺に綺麗な切り口がある。中には、三枚折にされた一枚の紙が入っていた。取り出し、ゆっくりと紙を開いていく。
貴明 様
先月はありがとうございました。貴方様のおかげで、夫とは永らく味わえていない、最高の時間を過ごすことができました。数日しか経っていないというのに、また会いたい気持ちで胸が一杯です。
もしよろしければ、またお会いできますでしょうか。
ご連絡、心待ちにしています。 雛子
不倫。芳美の頭に、不埒な行為を示すその言葉が浮かんだ。
否定しようとも考えたが、数秒後には「あり得なくもない」。それが芳美の感想だった。
藍田雛子。勝治の妻のことだが、彼ら夫婦には年齢差があった。現在六十三と四十。もちろん、後者が雛子である。
雛子は、女としての魅力が存分にあった。
勝治と結婚したのは十年前。当時、雛子はグラビア系雑誌のモデルをしていた。二十代の時の売れっ子だったという彼女は、程よく女性らしい体つきと色気を兼ね揃えていた。今の中年連中は…特に男は、誰もが彼女のことを知っているに違いない。
そんな雛子は、二十九の時に所属事務所からある仕事を任された。それが、藍田製薬製の市販薬の宣伝であり、そこで彼女は勝治と会った。
——夫婦二人、力を合わせて仲良くやっていきたい。
その数ヶ月後。二人の婚約発表が、週刊誌の一面を飾った。週刊誌のタイトル横には、そういった好感の持てる文章が、でかでかと丸ゴシック体で飾られた。
二人とも、仲睦まじい笑顔。内容も、それらに合わせたもの。それだけ、いわば極端に公表されるには理由があった。
二十歳以上の歳の差婚、その上大企業の社長とモデルが結婚なんて、世の誰もが諸手を挙げて祝福する話では無かった。夫婦…特に妻の雛子は藍田製薬の財産目当て、と中傷された。インターネットで、テレビで、時には番組や雑誌の収録の場さえも。
結婚して三年経つ頃には、彼女は仕事を辞めていた。夫の勝治をサポートするため。名目上の理由はあったが、実際は風評に耐えきれなくなったのが本音だろう。
それから雛子はこの家で、暇を持て余すことになった。清河や芳美、当時は他にも数人の使用人がいる中で、彼女が家事労働をする必要は無い。勝治も当時は仕事で遅くなることが多かったし、真琴は二人の再婚当時、ここにはいなかった。
広い屋敷に、自分と立場が違う使用人達。外部との関係が切り離された孤独の空間にいることは、ひとえに彼女自身の選択によるものだ。同情することでも無かったが、一体彼女にとって何の意味があったのか。芳美はぼんやりと、思う時があった。
しかし…芳美は手に持つ手紙と封筒に改めて目を落とす。こんなものを見てしまうと、その結婚の意味というのも、色々と邪推してしまう。
雛子は五年程前から、ふらっと出かけるようになっているのだ。
「夫人会よ、フジンカイ。子会社の社長の奥さん方とね。定期的に関係は作っとかないといけないのよ」
彼女が清河に告げたという、外出の理由。その会合がどこで行われ、どの会社の社長の妻達なのか。細かいことは分からない。しかしあれは虚言で、貴明と夜な夜な会っていたのではないか。
貴明は先代から二十五の時に会社を継ぎ、今は五十一だったか。若い、経験が浅い等の意見が多くあった中、それらの意見を退け、会社を安定させ、藍田製薬と肩を並べる程度まで繁栄させた実績がある。おまけに五十路を超えたとは思えない精悍な顔つきに、無駄な肉の無い体型。対して勝治は、六十を過ぎた頃から、若年生のアルツハイマーなのか、おかしくなり始めており、体も痩せ細ってきていた。
また、貴明は男として魅力があった。故に雛子が彼と逢瀬を重ねていても、おかしくは無かった。おかしくは無かったのだが——。
芳美はさらに思慮を巡らす。雛子側の理由は分かったが、仮にそうであれば、貴明はなんの思惑があって、彼女と会うのだろうか。彼にとって雛子は、職場の同僚、上司と部下などといった単純な関係ではない。もしもこの事実が勝治に漏れようものなら、業務提携自体白紙に戻る…いや、使用人の芳美には分からない、それ以上のリスクがあるのかもしれない。それだけの危険を承知の上で、雛子と会う理由は。
——藍田製薬の弱体化。頭に、その言葉が浮かんだ。
三年前に真琴と志織が結婚した頃から、平日・休日問わず、藍田家以外の人間と、この家で顔を合わせる機会が増えた。その大半が、業務提携先の芳川薬品の重役、幹部候補。彼らは露骨に、横柄な態度で芳美達に接してくる。まるで、藍田家のものは芳川家のものでもあるかのように。
侵略者。芳美は彼らのことを、陰でそう呼んでいた。三年前の業務提携は、表向きには両社ともに友好的なものだった。しかしもともとは競い合う間柄である。本音では、藍田製薬を弱体化させ、最終的には買収なりで吸収。それが貴明の目的だったとしたら。その外堀を埋めるために、妻の雛子にとりいったのだとしたら。
「まさか、ね」
友人に言えば、馬鹿ねと一笑されそうな、陳腐な考えである。しかし、普段より妄想していただけあって、芳美は一人興奮していた。
故に、その雛子の手紙を、封筒ごとそのまま己のポケットに忍ばせてしまったことは、その時の彼女の思いからすれば至極当然の行為であった。
この行為は、この家の使用人として…人としても当然失格だった。しかし彼女の中ではこの時、仕事上での倫理観よりも、自らの好奇心が先立ってしまったのである。
そのように、うつつを抜かしていた芳美だったが、少し前より志織の部屋の扉の隙間から、彼女の様子を伺っている人影がいた。
人影は芳美に悟られぬよう、静かに志織の部屋を後にする。足音が鳴らぬように、それでいて機敏に、歩を進める。そうして目的の部屋に到着すると、ゆっくりと扉を開け、静かに中へと入っていった。
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