Take On Me

マン太

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25.涙

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「じゃあ、行ってくる…」

 亜貴あきは元気なくそう言い残すと、真琴まことの運転で新天地の視察へと向かった。そこで母方の祖母とも会い、一泊してくるらしい。
 玄関先で二人を見送り、振り返ると背後に立っていたたけると視線がぶつかった。
 強い眼差し。
 その視線にいたたまれず、先に口を開く。

「な、今日はなにか予定、あるのか? なければさ、一緒に映画でも──」

 観るかと言いかけた俺の頬に、なぜかほろりと涙が零れた。
 昨日から涙腺がおかしくなっているらしい。岳を見るたび、涙が溢れそうになる。
 今朝だって朝食を食べに顔を見せた岳を見た途端、涙がこぼれそうになって、慌てて既に切り終えて置いてあった玉ねぎの所為にしたくらいだ。

「って、なんだ? はは、変だよな。やっぱ、止めよ。こんなんじゃ、映画どころじゃねぇって。俺、自分の部屋片付けてくる…」

 来週にはここを引き払うことになるだろう。式も来週には行うと言っていた。

 いよいよだ。

 そう思うと、余計に涙が込み上げてきてしまうのだ。

 ったく。ガキじゃねぇんだから。

 ぐいと目の端を拭ったところで、その手首を掴まれた。見れば岳がこちらを強い眼差しで見下ろしている。

「岳…?」

 もう一方の手が腰を引き寄せた。岳との距離が一層近くなる。

「たけ──」

 もう一度、名前を呼びかけた所で唇を塞がれた。
 俺は胸を押し返そうと試みたが、徒労に終わる。それに、本気で押し返したかった訳でもない。
 岳は掴んだ手首を離し、両腕で俺を抱きしめてきた。

 岳──。

 俺も岳の背にしがみつく。
 もう何も考えられなくなっていた。

+++

 正直、抱くつもりはなかった。
 もう、これきりなのだ。今、そんなことをしては別れがたくなるだけ。
 そう思ってはいたのだが、大和やまとの落した涙に負けた。
 いや、大和だけの所為だけではなく、結局の所、岳自身もそうしたかったのだ。涙は引き金になったに過ぎない。
 初めて心から好きだと思える相手の全てを、記憶にとどめておきたかった。
 恥ずかしいと何度も口にする大和。それをなだめて触れて行った。
 岳のする行為にひとつひとつ、素直に反応が返ってくる。それは見ていて嬉しくなる光景だった。
 それまで何人かのパートナーはいたが、特定の相手は作っていない。
 相手の素性も調べ、後腐れなく付き合える相手のみ。プロもいれば慣れた素人もいた。
 そこに愛情はなかった。ただの生理現象の解消の相手に過ぎない。相手もそれは承知していて、今が楽しければそれでいいというものばかりだった。
 身体はそれでも良かったが、心はちっとも満たされない。
 それでも大学生の頃、一人だけ、まともに付き合った奴がいた。
 線も細くいかにも手折れそうな青年。色も白く容姿は女子と見紛うばかり。そんな奴が同時期に山岳部に入ってきたのだ。
 聞けば同じ学年だという。初めて相対した時の印象は面倒臭そうな奴、だった。
 いずれは辞めるだろうと、そう高を括っていたのだが意外に根性があり、結局、大学を卒業するまできっちり部活動に参加していた。
 そいつが入部して数ヶ月後。
 好きだと告白してきたのだ。その頃にはすっかり岳は自身の性的志向を自覚していて。
 迷う事なく付き合いだした。自分も好きだと思えたからだ。
 四年間ずっと一緒で。しかし、それも卒業間近になり別れの気配が漂い。
 岳は山岳カメラマンを目指し上京することに。奴はイギリスに留学すると言った。まだまだ学びたい世界があるからと。
 岳が強く引き留めれば別の道もあったのかもしれないが、そこまでするつもりはなかった。
 そこで奴とは別れた。
 それ以来、まともな付き合いはしていない。
 すっかり心もすさみかけた頃、大和と出会った。
 初めて見た時、コツメカワウソだなと思った。幼い頃、母がお守りにくれたぬいぐるみ。
 目が小さくくりくりとしていて、愛嬌がある顔だ。小柄でちょろちょろ動く姿が正にそれで。笑えて仕方なかった。
 ちょっと変わった奴だが、前向きで打たれ強い。亜貴の攻撃にもまったくひるまなかった。
 大和と一緒に過ごし笑っているうちに、いつの間にか惹かれている自分に気が付いた。
 見た目はごく普通。取り立てて目立つわけでもなく、探せばどこにでもいそうな顔だ。
 けれど、彼を得たことで岳の人生に彩りが再び加わったのだ。
 学生の頃とは違う、もっと温かで心から愉しめる時間。大和といるとそれを得られた。
 初めて得た充足感。
 まるで暗闇の中で見つけた光の様で。

 大和といたい。この先もずっと──。

 しかし、現実はそうは行かなかった。
 父親に跡はお前が継げ、そういわれた時、大和とこれ以上は関われないと思った。
 自分が跡を継げば、周囲にいるものにも影響を及ぼす。
 同じ道のものならまだしも、大和は一般人だ。これ以上関われば今まで以上に危険な目に遭うこともあるだろう。頬や頭に切り傷程度で済まないことも出てくる。
 それは避けたかった。
 自分が一般人に戻るなら、大和と生きる道もあっただろう。
 しかし、継ぐと決めた今はそうはいかない。亜貴同様、大和もこちらに引きずり込む訳にはいかなかった。

 なのに。

『好きだ』

 そう言われ、もう何も考えられなくなった。

 今、この時だけでいい。

 初めて心から好きになった人を腕に抱きしめたかった。

+++

「…岳。お前、意地が悪い…」

 ベッドの中、岳の腕の中で大和が上目使いに睨んでくる。
 大和には悪いが、可愛くて食べてしまいたいほどだった。岳は頬にかかった髪を避けてやりながら。

「どうしてだ? 優しくしただろう?」

「…しすぎだっての。じらして楽しんでんじゃねぇよっ! こっちはどうにかなりそうで、必死だったってのに…っ!」

 顔を真っ赤にして悪態をついてきた。
 どうやら、全てが初めてだったらしい。後で聞けば男女の間でのそれも、経験がなく。
 キスがせいぜいだったと語った。
 その他は日々生きる事に忙しく、そんな時間がなかったのだとか。
 確かに誰かと付き合うのには金も時間もかかる。その両方がなかったのだと言った。

「良かったならいいだろ?」

 耳元に唇を寄せてそう返せば、ぼっと首筋まで赤くなる。そんな姿を見れば、欲求を止められるはずもなく。
 まして、これで大和に触れることはもうないのだ。
 岳は肩を揺らして笑うと、大和を抱き寄せた。
 あれから、ろくに食事らしい食事も取らず、ただ抱き合っていた。
 流石に夕刻も近くなって、体力に限界が来て。簡単な食事を取ると、二人でシャワーを浴びて、再びベッドに潜り込んだ。
 そうして、今。
 時刻はまだ深夜に近い。岳は大和が目覚めたのをいいことに、そのまま首筋にキスを落としだす。

「ちょ、なに? まだ、やんのか?」

 ひるむ大和に岳は笑みを浮かべて見せると。

「…しっかり記憶に刻みたいんだ」

 そういえば、もう大和は抵抗しなかった。
 ゆるゆると腕を伸ばし、岳の背を抱くと耳元で。

「今は、それ。忘れようぜ…」

 その言葉に悲しみを抑えて笑むと。

「…ああ」

 二度と会えない。

 その未来を今、この時だけは封印した。
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