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.第4章 可愛い彼女の愛し方
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翠の案内で着いたのは、会社近くの店だった。ビルの外にある地下への階段を二階分降りていくと、ダークブラウンのいかにもな扉が菜摘たちを迎える。
緊張する菜摘の前で、翠がドアを押し開けた。
小さなベルがチリンと音を立てて開くと、中からはジャズの音色が聞こえてくる。
――うわぁ。映画のセットみたい。
ダウンライトの明かりは、菜摘が光治とよく行く居酒屋と比べても薄暗い。隣にいる人ならともかく、少し遠い席に座った客はシルエットにしかならないだろう。
木目調の店内は、きちんと磨かれているのだろう。暖色の光をぼんやり反射していて、カウンター上にぶら下がったグラスの類いがキラキラと小さな光を宿している。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは、マスター。カワイイ子連れて来たよ」
翠が笑って、カウンター席に腰掛ける。すっ、と、流れるような身のこなしは慣れたものだ。背の高い椅子はスタイルのいい身体にすんなりと馴染んで見えた。
かっこいいなと思いながら、菜摘はちょまちょまと椅子をよじ登る。一言二言バーテンダーと言葉を交わしていた翠は、隣に腰掛けた菜摘を見やった。
「どうする? 適当にオススメのカクテルお願いする?」
「えっと、あの、はい……お願いします」
「だそうでーす」
翠が言うと、白髪交じりのバーテンダーは笑って、優しい目で菜摘を見た。
「アルコールは飲める方ですか?」
「えーと……飲めなくはないです」
菜摘の答えに、「それ飲めるってことじゃーん」と翠が嬉しそうに肩を叩いた。
「今日、初めて一緒に飲むんだ。乾杯は私も同じのをお願いしていい?」
「かしこまりました」
バーテンダーが用意してくれたのは、レモネード系のカクテルだった。乾杯にふさわしく炭酸が効いているそれに、「おいしい」と菜摘が目を輝かせると、翠も嬉しそうに笑う。
「するする飲めちゃうね。ふっふっふ。菜摘ちゃんのハジメテをもらっちゃって、嵐志くんどんな顔するかなー」
翠の言葉に、バーテンダーが目を向ける。
「おや。神南さんのお知り合いですか」
「お知り合いどころかカノジョさんよ」
ということは、嵐志も来たことがある店らしい。
バーテンダーは、それまでただただ穏やかだった目を丸くして菜摘を見た。
「……そうですか、その方が」
「そうそう。あのカノジョさん」
この店でなにか話していたんだろうか。
なんとなく落ち着かず、菜摘はもぞもぞと椅子に座り直した。
バーテンダーは気を取り直したように穏やかな目に戻ると、軽くうなずいて微笑んだ。
「お話のとおり、かわいらしい方ですね」
「そうでしょー、そうでしょー」
「……あの……どんな話、してたんですか?」
菜摘が問うと、翠は顔を逸らした、かと思うと肩を震わせている。
バーテンダーはただ困ったように微笑むだけだ。
なんだかよく分からないが、あまり聞かない方がいいらしい。
菜摘は黙って、おいしいカクテルを口にした。
一杯目のカクテルを飲み終えると、翠ともども次の一杯を頼むことにした。
いつもは食べるのがメインの菜摘だが、せっかく翠とのバーなのだから、今日はオトナ気分を味わいたい。
翠が頼んだのはドライマティーニで、菜摘も同じものをお願いした。
バーテンダーに「本当に同じもので?」と念を押されたが、映画でよく聞くカクテルだし、デビューの記念にぜひ、と鼻息も荒くうなずいた。バーテンダーは困ったような微笑みを浮かべながら用意してくれた。
「お待たせしました。ドライマティーニです」
出て来たのは、それこそ映画で見るような、脚の細い三角グラスだった。中にはオリーブが一つ転がっている。
「うわー、うわー、映画みたい。おしゃれ」
「ふふ。かわいー反応。マスター、作りがいがあるね」
「そうですね」
いただきます、とグラスを手にして、菜摘はドキドキしながら口をつけた。
そこでようやく、バーテンダーが心配した訳が分かった。アルコール度数が高いのだ。
「けっこう来るでしょ。無理しなくてもいいよ」
同じ形のグラスを舐める翠の姿は、さすがに様になっている。
確かに度数は高いけれど、嫌いな味じゃない。アルコールには弱くもないつもりだ。あまり量が食べられないから、飲み会になると飲み物でモトを取ろうとしていたフシもある。
菜摘は大丈夫と首を振って、グラスに口をつけた。
それでも、やっぱり、安い居酒屋に比べて酒が濃いのかもしれない。
空腹だったせいか、二杯目にしてふわふわしてくるのを感じた。
「でも、せっかく彼女さんがいるのに、神南さんはいらっしゃらないんですか?」
「ああ、うん。ほんとは嵐志くんにも声かけたんだけど。やっぱ忙しいらしくてね」
バーテンダーに答えながら、もうちょっとで落ち着くと思うんだけどねと、翠は菜摘を気遣う。
「そうなんですよね……忙しいみたいで。すっかり放置状態です」
笑って口にしたら、突然、モヤモヤが胸の中に膨れ上がってきた。
ただ待つだけではなくて、嵐志にふさわしい女になれるように自分を磨こう――そう思ってから、毎日、朝はストレッチ、日中は張り切って働き、夜は半身浴とマッサージを習慣にしてきた。
おかげで肌の調子はいいし、身体もいい具合に引き締まってきた。仕事では上司には褒められ、同僚に感謝される。不足はない、充実した毎日――の、はずなのに。
「同じ会社にいるのに、会うこともできないなんて……」
押し殺していた本音が、ぽつりと一つ口から転び出た。
暗い感情が腹の底で渦を巻いている。
ドライマティーニで唇を潤して、熱くなってきた身体に思い出すのはあの夜のことだった。
「会えた日だって――神南さんてばあちこち触っただけで行っちゃうし――」
翠が目を丸くする。「あれ? ふたりでゆっくり過ごせたんじゃ……」と確認されて、菜摘は髪が揺れるのも構わず、ブンブン首を横に振った。
「会社から電話があって、途中で行っちゃったんです! これからってときに! ほんとに、これからってときだったのにー!! なんであんなタイミングで電話なんかかけて来るんですかーっ!」
激してきた菜摘は、拳でドンと机をたたいた。
丸い目は今にも泣きそうに潤み、ふるふると震える。見つめられた翠は、思わずチワワを連想した。
「極限まで盛り上がってた私の気分はどうしたらいいんですか! 寸止めでオアズケなんて! それから一ヶ月も経つのに! 一度高ぶった気持ちを、私は、どうしたらいいんですかーっ!!」
「ま、待って。菜摘ちゃん、落ち着いて!」
つかみかからんばかりの勢いの菜摘に、翠は慌てて両手を挙げる。
菜摘は何を勘違いしたのか、胸にぼふんと抱きついてきた。
「うわーん、翠さぁん!」
「は、はいはい……」
「翠さん、いい匂いー」
「菜摘ちゃんもいい匂いよ」
翠は菜摘をなだめながら、ぽんぽんと背中をたたく。
菜摘はその胸にしがみついたまま、悩ましげなため息をついた。
「……翠さんは、どうするんですか。そういうとき」
「そういうとき……?」
急に神妙になった口調に、翠は戸惑いながら問う。菜摘はそう、とうなずいた。
「こう……身体が熱くて、たまらないとき……」
「身体が?」
こくり、とうなずいた菜摘は、翠から離れてマティーニを一口。
「今みたいに……熱くて熱くてどうしようもなくなったとき……」
翠は思わず、顔を引きつらせた。
「な――菜摘ちゃん、落ち着いて。それはたぶん、アルコールのせいで……」
「神南さんてばいつになったら私を満たしてくれるんですかっ……」
「菜摘ちゃん、私の話を聞いて……!」
慌てる翠の手を、菜摘が「翠さんっ」とその手を握った。
アルコールで紅潮した頬の菜摘が、目を潤ませて翠を見つめる。
「どうしたら……私も、翠さんみたいな色気を手に入れられますか……?」
「色気……?」
「だって……!」
困惑する翠に、菜摘はぶんぶん首を振る。
「私がもっと、お色気たっぷりだったら、きっと神南さんだってもっとえっちな気分になって、会社だってどこだってその気になると思うんです!」
「いや、それはまずいでしょさすがに!」
「なんでですかー! 外で会えないんだったらそれしかないじゃないですかー!!」
もう酔っ払いに何を言っても仕方がない。
うわーん、と突っ伏す菜摘を見下ろして、バーテンダーが翠を見やった。
「神南さん、呼ばれた方がいいんじゃないですか」
「いや、そうなんだけど……」
一度断られたことがよぎったが、この際仕方ない。
翠は「電話してみるか」とスマホを手に立ち上がった。
「ごめん、ちょっとその子お願い」
「はい。様子、見ておきますね」
バーテンダーはそう答えたものの、翠と入れ違いに客が入って来た。
そうなると、接待をしないわけにもいかない。「少しお待ちください」と菜摘に声をかけ、カウンターを離れてテーブル席に向かった。
カウンターにひとり残され、菜摘ははぁ、と切ないため息をつく。
「……会いたいよぅ……」
顔を腕の中にうずめて、菜摘は呟いた。
目を閉じると、神南の穏やかな微笑みがまぶたに浮かぶ。
アーモンド型の目と、その横にある泣きぼくろ。やや薄めの、けれど熱っぽいキスをしてくれる唇。
仕事では軽く撫で上げているウェーブヘアが、ベッドの上でわずかに乱れている様子。
節のある指は、菜摘の肌に軽く触れるだけでゾクゾクする。
――あの手に触れられたい。あの唇を受け止めたい。あの声で囁かれたい――
「どうしたの? カレシに振られでもした?」
菜摘の幻想を破ったのは、男の声だった。
はっと顔を上げると、そこには知らない男が立っている。
年齢は、菜摘とそう変わらないくらいか。光治よりも少し長い焦げ茶の髪。細められた目もとが、少しだけ神南に似ている――気がする。
「……あの?」
どなたですか、と言おうとして、男は笑った。翠が座っていた席と反対に腰をかけたかと思えば、テーブルの上の菜摘の手を握ってくる。
「それとも、気分悪い? 休憩できる場所、案内しよっか」
覗き込んでくる顔は、優しくも紳士的だが、そもそもの距離感がなんとなくおかしい。アルコールに侵されながらも不審に思った菜摘は、後ろから聞こえた「あ、こら」という声に振り向いた。
腰に手を当てた翠が、仁王立ちで立っている。
「ちょっと。私のツレに手ぇ出さないでくれる」
「なんだ、翠さんのお友達だったの」
どうも翠の知り合いらしい。男は笑って、菜摘から顔を離した。
けれど、その手は繋いだままだ。
「ちょうどいいや。二人? 俺の友達も呼ぶからさ、久しぶりに一緒に遊ぼうよ」
「断る。私とこの子はデートしてるの。邪魔しないでくれる?」
「邪魔じゃなくてさー。一緒に楽しめばいいじゃん」
翠が菜摘の肩を引き寄せるが、男は手を離さない。
困惑する菜摘ににこりと笑った。
「ね。――カレシが構ってくれなくて、寂しいんでしょ」
――構ってくれない。
その言葉に、菜摘はおもわず、泣きそうになった。
歪んだ菜摘の顔を見て、翠が舌打ちして男を睨む。
「ったく。ダメだっての。とにかくこの子は――」
ドアについている鈴が、ひどく乱暴に揺れる音がした。
堅い革靴の音が近づいて来て、菜摘の腰が、大きな手に引き寄せられる。
「その手を離せ」
背中で低い声がして、菜摘はまばたきした。
今まで聞いたことのない、威嚇するような声音。
隣にいた翠が、「遅ーい」と唇を尖らせる。
「ったく、どうなっちゃうかと思ったよー」
「うるさい。こんなところに連れてきたお前が悪い」
「だって、誘ったけど来なかったんじゃない」
「彼女が一緒だとは聞いてない」
翠とやりとりする声を聞いた菜摘は、顔を見上げて、その人を見て、ようやく、腰を絡め取る手の主を理解した。
「嵐志さーん!」
「うわっ!」
ぎゅう、とその身体に抱きつくと、嵐志がうろたえてたたらを踏む。
けれどすぐに菜摘を受け止め、はぁ、と小さくため息をついた。
「……どんだけ飲ませたんだ」
「そんなには飲んでないんだけどねぇ」
ストレス溜まってたんでしょ、と翠が肩をすくめる。
「――とにかく、君はもう用済みだ。彼女から離れてくれ」
男は嵐志ににらまれ、手を引っ込めた。
「なーんだ、残念。カレシの登場か。……ナツミちゃん、また構ってもらえなくなったらいつでも俺のこと呼んでね」
「誰が呼ぶか!」
まるで猛獣のように唸った嵐志は、男が去ったのを確認して、菜摘の頭を撫でた。
菜摘は猫になったように、おとなしく撫でられている。
温かい手の温もり。会いたかった人の温もり――
その心地よさに、目を閉じて胸に擦り寄った。
「……大丈夫か? 飲み過ぎた?」
菜摘を気遣う優しい声なのに、何故か熱を持った身体はうずいた。
思わず身震いして、抱きつく手にぎゅうと力を込める。
大好きなひとの匂いが菜摘を包む――
「ほんとに……嵐志さんだ……」
すんすん、とスーツの匂いを嗅ぐ。間違いない、焦がれ続けた嵐志の匂いだ。
「……菜摘?」
「はぁーい」
呼ばれたので、挙手しながら答えると、ぐっ、と嵐志がうめいた。
返事をしただけなのに、何か気に障っただろうか。
きょとんと見上げるが、嵐志は顔を逸らして翠に声をかける。
「……連れて行くぞ」
「どうぞ。明日は休みだし、ごゆっくりー」
手を振った翠が、ぱちんとウインクを一つ。
ごゆっくり。ごゆっくり……
明日は休み……休み……
翠の意味ありげな言葉が、菜摘の頭の中でリフレインする。
「行くぞ」
菜摘を抱えるように歩き出して、嵐志はため息をついた。
外に出て、駅へ向かって歩き出す。半ば嵐志に抱えられるようにしながら歩く菜摘の耳に、低い呟きが聞こえたような気がした。
「まったく……おとなしく待っててくれない子には、お仕置きが必要かな」
緊張する菜摘の前で、翠がドアを押し開けた。
小さなベルがチリンと音を立てて開くと、中からはジャズの音色が聞こえてくる。
――うわぁ。映画のセットみたい。
ダウンライトの明かりは、菜摘が光治とよく行く居酒屋と比べても薄暗い。隣にいる人ならともかく、少し遠い席に座った客はシルエットにしかならないだろう。
木目調の店内は、きちんと磨かれているのだろう。暖色の光をぼんやり反射していて、カウンター上にぶら下がったグラスの類いがキラキラと小さな光を宿している。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは、マスター。カワイイ子連れて来たよ」
翠が笑って、カウンター席に腰掛ける。すっ、と、流れるような身のこなしは慣れたものだ。背の高い椅子はスタイルのいい身体にすんなりと馴染んで見えた。
かっこいいなと思いながら、菜摘はちょまちょまと椅子をよじ登る。一言二言バーテンダーと言葉を交わしていた翠は、隣に腰掛けた菜摘を見やった。
「どうする? 適当にオススメのカクテルお願いする?」
「えっと、あの、はい……お願いします」
「だそうでーす」
翠が言うと、白髪交じりのバーテンダーは笑って、優しい目で菜摘を見た。
「アルコールは飲める方ですか?」
「えーと……飲めなくはないです」
菜摘の答えに、「それ飲めるってことじゃーん」と翠が嬉しそうに肩を叩いた。
「今日、初めて一緒に飲むんだ。乾杯は私も同じのをお願いしていい?」
「かしこまりました」
バーテンダーが用意してくれたのは、レモネード系のカクテルだった。乾杯にふさわしく炭酸が効いているそれに、「おいしい」と菜摘が目を輝かせると、翠も嬉しそうに笑う。
「するする飲めちゃうね。ふっふっふ。菜摘ちゃんのハジメテをもらっちゃって、嵐志くんどんな顔するかなー」
翠の言葉に、バーテンダーが目を向ける。
「おや。神南さんのお知り合いですか」
「お知り合いどころかカノジョさんよ」
ということは、嵐志も来たことがある店らしい。
バーテンダーは、それまでただただ穏やかだった目を丸くして菜摘を見た。
「……そうですか、その方が」
「そうそう。あのカノジョさん」
この店でなにか話していたんだろうか。
なんとなく落ち着かず、菜摘はもぞもぞと椅子に座り直した。
バーテンダーは気を取り直したように穏やかな目に戻ると、軽くうなずいて微笑んだ。
「お話のとおり、かわいらしい方ですね」
「そうでしょー、そうでしょー」
「……あの……どんな話、してたんですか?」
菜摘が問うと、翠は顔を逸らした、かと思うと肩を震わせている。
バーテンダーはただ困ったように微笑むだけだ。
なんだかよく分からないが、あまり聞かない方がいいらしい。
菜摘は黙って、おいしいカクテルを口にした。
一杯目のカクテルを飲み終えると、翠ともども次の一杯を頼むことにした。
いつもは食べるのがメインの菜摘だが、せっかく翠とのバーなのだから、今日はオトナ気分を味わいたい。
翠が頼んだのはドライマティーニで、菜摘も同じものをお願いした。
バーテンダーに「本当に同じもので?」と念を押されたが、映画でよく聞くカクテルだし、デビューの記念にぜひ、と鼻息も荒くうなずいた。バーテンダーは困ったような微笑みを浮かべながら用意してくれた。
「お待たせしました。ドライマティーニです」
出て来たのは、それこそ映画で見るような、脚の細い三角グラスだった。中にはオリーブが一つ転がっている。
「うわー、うわー、映画みたい。おしゃれ」
「ふふ。かわいー反応。マスター、作りがいがあるね」
「そうですね」
いただきます、とグラスを手にして、菜摘はドキドキしながら口をつけた。
そこでようやく、バーテンダーが心配した訳が分かった。アルコール度数が高いのだ。
「けっこう来るでしょ。無理しなくてもいいよ」
同じ形のグラスを舐める翠の姿は、さすがに様になっている。
確かに度数は高いけれど、嫌いな味じゃない。アルコールには弱くもないつもりだ。あまり量が食べられないから、飲み会になると飲み物でモトを取ろうとしていたフシもある。
菜摘は大丈夫と首を振って、グラスに口をつけた。
それでも、やっぱり、安い居酒屋に比べて酒が濃いのかもしれない。
空腹だったせいか、二杯目にしてふわふわしてくるのを感じた。
「でも、せっかく彼女さんがいるのに、神南さんはいらっしゃらないんですか?」
「ああ、うん。ほんとは嵐志くんにも声かけたんだけど。やっぱ忙しいらしくてね」
バーテンダーに答えながら、もうちょっとで落ち着くと思うんだけどねと、翠は菜摘を気遣う。
「そうなんですよね……忙しいみたいで。すっかり放置状態です」
笑って口にしたら、突然、モヤモヤが胸の中に膨れ上がってきた。
ただ待つだけではなくて、嵐志にふさわしい女になれるように自分を磨こう――そう思ってから、毎日、朝はストレッチ、日中は張り切って働き、夜は半身浴とマッサージを習慣にしてきた。
おかげで肌の調子はいいし、身体もいい具合に引き締まってきた。仕事では上司には褒められ、同僚に感謝される。不足はない、充実した毎日――の、はずなのに。
「同じ会社にいるのに、会うこともできないなんて……」
押し殺していた本音が、ぽつりと一つ口から転び出た。
暗い感情が腹の底で渦を巻いている。
ドライマティーニで唇を潤して、熱くなってきた身体に思い出すのはあの夜のことだった。
「会えた日だって――神南さんてばあちこち触っただけで行っちゃうし――」
翠が目を丸くする。「あれ? ふたりでゆっくり過ごせたんじゃ……」と確認されて、菜摘は髪が揺れるのも構わず、ブンブン首を横に振った。
「会社から電話があって、途中で行っちゃったんです! これからってときに! ほんとに、これからってときだったのにー!! なんであんなタイミングで電話なんかかけて来るんですかーっ!」
激してきた菜摘は、拳でドンと机をたたいた。
丸い目は今にも泣きそうに潤み、ふるふると震える。見つめられた翠は、思わずチワワを連想した。
「極限まで盛り上がってた私の気分はどうしたらいいんですか! 寸止めでオアズケなんて! それから一ヶ月も経つのに! 一度高ぶった気持ちを、私は、どうしたらいいんですかーっ!!」
「ま、待って。菜摘ちゃん、落ち着いて!」
つかみかからんばかりの勢いの菜摘に、翠は慌てて両手を挙げる。
菜摘は何を勘違いしたのか、胸にぼふんと抱きついてきた。
「うわーん、翠さぁん!」
「は、はいはい……」
「翠さん、いい匂いー」
「菜摘ちゃんもいい匂いよ」
翠は菜摘をなだめながら、ぽんぽんと背中をたたく。
菜摘はその胸にしがみついたまま、悩ましげなため息をついた。
「……翠さんは、どうするんですか。そういうとき」
「そういうとき……?」
急に神妙になった口調に、翠は戸惑いながら問う。菜摘はそう、とうなずいた。
「こう……身体が熱くて、たまらないとき……」
「身体が?」
こくり、とうなずいた菜摘は、翠から離れてマティーニを一口。
「今みたいに……熱くて熱くてどうしようもなくなったとき……」
翠は思わず、顔を引きつらせた。
「な――菜摘ちゃん、落ち着いて。それはたぶん、アルコールのせいで……」
「神南さんてばいつになったら私を満たしてくれるんですかっ……」
「菜摘ちゃん、私の話を聞いて……!」
慌てる翠の手を、菜摘が「翠さんっ」とその手を握った。
アルコールで紅潮した頬の菜摘が、目を潤ませて翠を見つめる。
「どうしたら……私も、翠さんみたいな色気を手に入れられますか……?」
「色気……?」
「だって……!」
困惑する翠に、菜摘はぶんぶん首を振る。
「私がもっと、お色気たっぷりだったら、きっと神南さんだってもっとえっちな気分になって、会社だってどこだってその気になると思うんです!」
「いや、それはまずいでしょさすがに!」
「なんでですかー! 外で会えないんだったらそれしかないじゃないですかー!!」
もう酔っ払いに何を言っても仕方がない。
うわーん、と突っ伏す菜摘を見下ろして、バーテンダーが翠を見やった。
「神南さん、呼ばれた方がいいんじゃないですか」
「いや、そうなんだけど……」
一度断られたことがよぎったが、この際仕方ない。
翠は「電話してみるか」とスマホを手に立ち上がった。
「ごめん、ちょっとその子お願い」
「はい。様子、見ておきますね」
バーテンダーはそう答えたものの、翠と入れ違いに客が入って来た。
そうなると、接待をしないわけにもいかない。「少しお待ちください」と菜摘に声をかけ、カウンターを離れてテーブル席に向かった。
カウンターにひとり残され、菜摘ははぁ、と切ないため息をつく。
「……会いたいよぅ……」
顔を腕の中にうずめて、菜摘は呟いた。
目を閉じると、神南の穏やかな微笑みがまぶたに浮かぶ。
アーモンド型の目と、その横にある泣きぼくろ。やや薄めの、けれど熱っぽいキスをしてくれる唇。
仕事では軽く撫で上げているウェーブヘアが、ベッドの上でわずかに乱れている様子。
節のある指は、菜摘の肌に軽く触れるだけでゾクゾクする。
――あの手に触れられたい。あの唇を受け止めたい。あの声で囁かれたい――
「どうしたの? カレシに振られでもした?」
菜摘の幻想を破ったのは、男の声だった。
はっと顔を上げると、そこには知らない男が立っている。
年齢は、菜摘とそう変わらないくらいか。光治よりも少し長い焦げ茶の髪。細められた目もとが、少しだけ神南に似ている――気がする。
「……あの?」
どなたですか、と言おうとして、男は笑った。翠が座っていた席と反対に腰をかけたかと思えば、テーブルの上の菜摘の手を握ってくる。
「それとも、気分悪い? 休憩できる場所、案内しよっか」
覗き込んでくる顔は、優しくも紳士的だが、そもそもの距離感がなんとなくおかしい。アルコールに侵されながらも不審に思った菜摘は、後ろから聞こえた「あ、こら」という声に振り向いた。
腰に手を当てた翠が、仁王立ちで立っている。
「ちょっと。私のツレに手ぇ出さないでくれる」
「なんだ、翠さんのお友達だったの」
どうも翠の知り合いらしい。男は笑って、菜摘から顔を離した。
けれど、その手は繋いだままだ。
「ちょうどいいや。二人? 俺の友達も呼ぶからさ、久しぶりに一緒に遊ぼうよ」
「断る。私とこの子はデートしてるの。邪魔しないでくれる?」
「邪魔じゃなくてさー。一緒に楽しめばいいじゃん」
翠が菜摘の肩を引き寄せるが、男は手を離さない。
困惑する菜摘ににこりと笑った。
「ね。――カレシが構ってくれなくて、寂しいんでしょ」
――構ってくれない。
その言葉に、菜摘はおもわず、泣きそうになった。
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「ったく。ダメだっての。とにかくこの子は――」
ドアについている鈴が、ひどく乱暴に揺れる音がした。
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背中で低い声がして、菜摘はまばたきした。
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「ったく、どうなっちゃうかと思ったよー」
「うるさい。こんなところに連れてきたお前が悪い」
「だって、誘ったけど来なかったんじゃない」
「彼女が一緒だとは聞いてない」
翠とやりとりする声を聞いた菜摘は、顔を見上げて、その人を見て、ようやく、腰を絡め取る手の主を理解した。
「嵐志さーん!」
「うわっ!」
ぎゅう、とその身体に抱きつくと、嵐志がうろたえてたたらを踏む。
けれどすぐに菜摘を受け止め、はぁ、と小さくため息をついた。
「……どんだけ飲ませたんだ」
「そんなには飲んでないんだけどねぇ」
ストレス溜まってたんでしょ、と翠が肩をすくめる。
「――とにかく、君はもう用済みだ。彼女から離れてくれ」
男は嵐志ににらまれ、手を引っ込めた。
「なーんだ、残念。カレシの登場か。……ナツミちゃん、また構ってもらえなくなったらいつでも俺のこと呼んでね」
「誰が呼ぶか!」
まるで猛獣のように唸った嵐志は、男が去ったのを確認して、菜摘の頭を撫でた。
菜摘は猫になったように、おとなしく撫でられている。
温かい手の温もり。会いたかった人の温もり――
その心地よさに、目を閉じて胸に擦り寄った。
「……大丈夫か? 飲み過ぎた?」
菜摘を気遣う優しい声なのに、何故か熱を持った身体はうずいた。
思わず身震いして、抱きつく手にぎゅうと力を込める。
大好きなひとの匂いが菜摘を包む――
「ほんとに……嵐志さんだ……」
すんすん、とスーツの匂いを嗅ぐ。間違いない、焦がれ続けた嵐志の匂いだ。
「……菜摘?」
「はぁーい」
呼ばれたので、挙手しながら答えると、ぐっ、と嵐志がうめいた。
返事をしただけなのに、何か気に障っただろうか。
きょとんと見上げるが、嵐志は顔を逸らして翠に声をかける。
「……連れて行くぞ」
「どうぞ。明日は休みだし、ごゆっくりー」
手を振った翠が、ぱちんとウインクを一つ。
ごゆっくり。ごゆっくり……
明日は休み……休み……
翠の意味ありげな言葉が、菜摘の頭の中でリフレインする。
「行くぞ」
菜摘を抱えるように歩き出して、嵐志はため息をついた。
外に出て、駅へ向かって歩き出す。半ば嵐志に抱えられるようにしながら歩く菜摘の耳に、低い呟きが聞こえたような気がした。
「まったく……おとなしく待っててくれない子には、お仕置きが必要かな」
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