ズボラ上司の甘い罠

松丹子

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 朝、しっかり布団にくるまっている春菜をたたき起こした夏樹は、ほとんど何も入っていない冷蔵庫に文句を言いながら、とりあえず朝食を準備してくれた。ぼんやりその姿を見ながら、なかなかよくできた弟だと感心していた春菜は、顔を洗って身支度を整え、ようやく頭がすっきりしてくる。
「夏樹、今日の予定は?」
「午後から部活。何で?」
 朝食を口にしながら問うと、夏樹が答えた。若手教師は運動部の顧問をさせられることが多いが、夏樹もその例に漏れず、陸上部の顧問をしている。春菜はううんと首を振ったが、わずかに目を伏せ、ためらいがちに口を開く。
「……おねぇちゃんとデートとかどうかなぁって」
 ぶは、と夏樹が噴き出した。
 腹を抱えて笑い出した夏樹を、春菜はじとりと見る。
「そんなに笑わなくても」
「いや、ごめんごめん」
 唇を尖らせた姉の言葉に、夏樹は目尻に浮かんだ涙を拭いながら言った。
 仲良し姉弟、とよく言われていた。自分でも仲がいい方だろうと思う。が、弟が結婚すれば、別の家の人になる。彼には守らなくてはならない場所ができ、必要になれば春菜と距離を置くこともあるだろう。春菜も、それに甘んじなくてはいけない。それが弟の幸せのためだというのであれば。
 そうなれば、二人でゆっくり過ごすことも、もうないかもしれない。そう思うと、なんとなく名残惜しく思えるのは、変化を嫌う春菜の性質かもしれない。
「ねぇちゃん、ほんと変わんないね。アラサーだと思えない。真理の方が全然しっかりしてる」
「……それは否定できない」
 弟の婚約者、真理とは、春菜も何度か会っている。爽やかな笑顔で、人の懐に入り込むのが上手な子だ。先生という職業柄か、聞き上手でもあり、父などあっという間にほだされてしまったらしい。
「十二時までしかいられないよ。それでもよければ」
 夏樹は笑った。造作は春菜とあまり変わらないが、性別が違うからか、愛嬌の問題か、割と可愛がられる顔立ちをしている。
 いや、春菜もある意味、可愛がられているのだろうが。こまっちゃんと呼びかける日高や三原を思い出してそう思う。
「うん。どこ行こっか」
 春菜は急に気持ちが浮き立って、わくわくし始めた。もう十時近いので、十二時までなら特別なことはできない。だが、それでいいようにも思った。
「散歩しようよ。あ、近くに美味しいパン屋さんがあるんだ。あとねぇ、隣の駅に可愛い遊具の公園があるよ。パン買って、そこでランチ」
「朝飯食いながら昼飯の話すんの。花より団子か」
「いいじゃない」
「ま、ねぇちゃんらしいけどさ」
 夏樹はまた笑う。浮き立った気持ちは春菜だけではないらしいと、その笑顔に思って嬉しくなる。
「ふふ。どのパンにしようかな。ほんとに美味しいんだから」
「はいはい。楽しみにしとくよ。もちろんねぇちゃんのおごりでしょ?」
「えー!あんたも社会人でしょー!」
「しがない公立学校の教師よ。給料なんてたかが知れてるっしょ」
 夏樹は笑いながら肩を竦めて見せた。春菜は唇を尖らせながら、もーと言って笑った。
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