ズボラ上司の甘い罠

松丹子

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「ねぇちゃんってさ、何に遠慮してんの?」
「え?」
 不意な夏樹の言葉に、春菜は弟の横顔を見た。
 年下の弟の横顔は、庇護していた幼いそれではない。大人の男の顔であることに気づく。
(夏樹も大人になったんだなぁ)
 であるなら、自分だって大人になっていなければおかしいはずなのだが、なんとなくそうは思えない。
「俺、真理と結婚するよ」
「えっ!?」
 覚悟はしていたはずだったが、春菜はぎくりと身体をすくめた。
「今、新居どこにするかとか、式場探しとか、進めてる。結構色々決めることあるよね。式は多分、来年になると思うけど、職場とかのこと考えると、先に同棲するかも」
「……お父さんとお母さんには?」
「言ったよ。真理は何度かうちに来てるし、二人ともいつその話になるかと待ってたみたい」
 それはそうだろう。春菜とて、そう思っていたのだから。
 しかしながら、ぐずぐずと煮え切らない姉を差し置いて着々と進んでいく弟の姿に、焦りと寂しさを感じてしまう。
「ええと。おめでとう」
「うん、ありがとう」
 とりあえず言うべきことを言った春菜に応じて、夏樹は春菜の顔をじっと見つめた。
「ねぇちゃんさ、ワープロ覚えてる?母さんの」
「え?ああ……うん」
 春菜はむしろ、夏樹が覚えていると思わなかったので驚きつつ頷く。
「あの時さ、俺、横取りして壊したじゃん」
 懐かしむように遠い目をしながら、夏樹は苦笑した。
「あやまんなきゃと思って。ごめん」
 どう反応してよいやらわからず、春菜は無理に笑顔を浮かべた。
「何、いまさら」
「いや、真理に言われてさ」
 夏樹は頭をかきながら言った。
「真理、古いボールペンがペンケースに入ってんの。もうインクもなくて使えないんだけど、結構使い込んであるやつでさ。何でそんなん持ち歩いてるのって聞いたら、母さんのなんだって。あいつのとこも共働きで、母さん教師だったからさ。ずっと母さんが仕事のときに使ってたボールペンが、お守り代わりなんだって」
 夏樹はぽつりぽつりと話す。
「で、そういやうちの母さんも、ワープロずっと使ってたなーって思い出して、その話したんだよ。そしたら怒られた。お姉さんに謝りなさいって」
 夏樹の苦笑はそういうことかと春菜は納得した。
「覚えてる?あのあと、ねぇちゃんすげぇ落ち込んでさ、母さんが気にして、会社の同僚がもう使わなくなったワープロ貰ってきてくれたじゃん。でも、ねぇちゃん、いらないって言ったろ。母さんのじゃないと意味ないんだって。俺はワープロに触りたかっただけだから、ねぇちゃんが何言いたいのか全然わかんなくてさ。ずっと気になってたんだよね」
 夏樹は紅茶を一口すすり、納得したように数口飲み進めた。どうもちょうどいい温度になったらしい。
「大人になってようやく分かった。ああ、ねぇちゃんは母さんとの時間をそうやって得ようとしてたんだなって。俺みたいに泣いたりわがまま言ったりせずに、そういう形で母さんと繋がろうとしてたんだなって。で、も一つ気づいたの」
 コップを机の上に置き、夏樹はまっすぐに春菜を見た。春菜は一瞬、その目にひるんだ。
「ねぇちゃんが欲しいもの欲しいって言わなくなったのって、俺のせい?」
「え?」
「俺、ワープロで遊びたかったのは確かだけど、多分ねぇちゃんが欲しがってたから欲しかったんだと思う」
 春菜は弟の顔をまじまじと見た。そんなことを思っているとは思わなかったのだ。
「いろんなもの、ねぇちゃんから横取りしたような気がしてさ」
 夏樹は言いながら肩をすくめた。春菜は首を傾げる。
「……そうだったっけ」
「うん。そうだよ」
 風呂が入ったと知らせる音がした。春菜の目がそちらへ向く。
「ねぇちゃん、先に聞くようになったもんね。俺に、いるかどうか。おやつだって、おもちゃだって」
 そうだったかもしれない。先に聞いて、夏樹がいらないものだけを、自分が欲しいかどうか判断していた。
「もともと、そんなに欲しいものじゃなかったんじゃないかな」
「ワープロ以外?」
 夏樹に問われて春菜は黙った。そもそもワープロ以外は、よく覚えていないのだ。
「じゃ、さっきの人は?」
 夏樹の言葉に、春菜の動きが止まる。
 が、笑った。
「何、急に。訳わかんない」
「欲しいの?欲しくないの?」
 夏樹の直球な問い掛けに、息が詰まるのを感じながら、春菜は目を反らした。
「そんな、モノみたいに……課長に失礼だよ」
「そうだよ、あの人はモノじゃない」
 夏樹は頷きながら紅茶を飲み干し、立ち上がった。
「モノじゃないから、代替も効かないでしょ。母さんのワープロも、ねぇちゃんが欲しかったのはモノじゃないんだ。母さんとの時間とか、そういうのだったんじゃないの。だから今でも覚えてる。いつも何でも譲ってくれるねぇちゃんに、すげぇ顔で睨まれて、口利いてもらえなくて大泣きした俺にとっても、忘れられない思い出だけど」
 春菜は笑った。
「そうだっけ」
「そうだよ」
 夏樹はコップを流しに置き、風呂場のドアに手を掛けた。
「ねぇちゃん、自分の気持ちにも人の気持ちにも鈍感過ぎ。風呂、借りるね」
「え、ちょっと」
 文句を言おうとした春菜にひらりと手を振って、夏樹は風呂場に入って行った。
(自分の気持ちにも人の気持ちにも鈍感、か)
 否定はできない。春菜はすっかり冷めた紅茶を口に含みながら思った。
 ーー欲しいの?欲しくないの?
 夏樹の言葉が耳に残っている。
(そりゃ、欲しいか欲しくないかと言われれば……)
 目を閉じると、小野田の姿が思い浮かんだ。ふんわりした色素の薄い髪。慈愛にあふれた、わずかに気の弱そうな笑顔。
 ーー そこに、僕はいない、ってことかな。
 蘇った寂しそうな声。
 ぎゅっと目を閉じたとき、夏樹の声がした。
「ねぇちゃーん、タオル取ってー」
(ああああ、もう)
 気分がだいなしだ。ほんと、だいなし。
「夏樹。あんたもうちょっとデリカシーってものを覚えなさいよ」
 ぶつくさ言いながらタオルを持ち、風呂場へ持っていく。
 ひょっこり肩までを覗かせた弟は、濡れた髪のまま笑った。
「ま、今日が最後だからさ。大目に見てよ」
 えっと言葉に詰まった春菜に、夏樹は笑う。
「そりゃそうでしょ、いくら姉弟だからって。婚約しといて、ねぇちゃんちに泊まるなんて、彼女も気持ち悪くない?今日で最後にするって、真理にも言ってある」
 なぜ訪問を家主に言わず彼女に言うんだと突っ込みたかったが、春菜が唖然としている間に夏樹が頭を引っ込めたので、仕方なくドアに向かって嘆息した。
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