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第5章 雉は忘れられないために啼く

8.足緒の色

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8.足緒の色

 翌朝目覚めた瞬間は、ひさしぶりに平穏な朝がきたという気がした。何の予定もない休日を堪能するために一有は二度寝をきめこみ、その後は積んでいたミステリー小説を読んで、午前中のなかばまで寝室でだらだらと過ごした。
 窓の外は夏のような青空だが、湿度は低く快適な天気だ。フライパンに朝食の卵を割り入れたとき、ふと、しばらくおざなりになっていた家事に今日こそまともに取り組めるぞ、と思いつく。食事を急いで終わらせると、ネットのニュースに気をそらされる前に、さっさと掃除をはじめた。

 布団を干し、たまったダイレクトメールのたぐいを捨て、キッチンや水回りを入念に洗う。掃除機をかけ、スーツにブラシをあて、革靴を磨きおわったころにはすっかり空腹になっていた。
 社用とプライベート、二台のスマホを充電器にセットしたまま、一有は車に洗濯物を積んで行きつけのクリーニング店に向かった。併設のコインランドリーの大型洗濯機に毛布や枕を放りこみ、待ち時間に近くのスタンドで車を洗う。ラーメンを食べてから、乾燥機でふかふかになった寝具を積んで自宅に帰ると、もう日が暮れようとしていた。

 家事と休息だけで終わりそうな一日だが、きれいに片付いた部屋に入ると、何かをなしとげたようで気分がよかった。あとは寝るまでのあいだに、今朝読みはじめたミステリ小説の結末にたどりつければ上出来の休日と呼べるのでは? 鼻歌まじりで冷蔵庫から缶ビールを取り出したとき、メールの着信音が響いた。社用のスマホの方だった。

 メールで来るからには緊急連絡ではない。それでも一応通知画面を確認して、一有は眉をひそめた。水瀬真弓? 顔をしかめながらメールを開く。
 驚いたことに、それは詫び状だった。

 自分の秘書である西條卓が勝手に一有に連絡をとり、無礼な言動をしたことを知った、申し訳ない、というのである。西條には厳重注意をし、今後このような行為をすることはない、さぞかし不快であろうと思われるため、帰宅後にまた訪問して謝罪したい、必ず今回限りとするためご寛恕を乞いたい等々――その文面は、叶の家や別荘地ですれちがった時の態度とは天地がひっくり返ったような丁重さだった。

「……おいおいおい――キョウのやつ!」
 ひとりの部屋に突っ立ったまま、一有は呆れるあまり大きな声を出していた。

 昨夜の電話のせいだ。叶が話したにちがいない。それ以外にありえるか?
 きっと叶は、西條が今後一有に関わらないよう、雇い主の水瀬に釘を刺したのだ。

 それにしても、一有は西條を責めたわけでもないのに、こうして詫び状を送ってきたのはどういうことだろう? 叶が要求したか、そう思いこんだか? それともある種の予防措置だろうか?
 告別式は日曜だから、水瀬はまだ九州にいる。彼女にとっては、鷲尾崎叶の大切な友人、一有の機嫌を早急にとることが重要だったということか。これ以上災厄が及ばないように。

(連中、パワーを持ってるからね。闇堕ちしたら世界に害なす存在になってしまう。つまり見初められたいっちゃんの肩には世界平和がかかってるわけ)

 いやいやいや。勘弁してくれ。姓こそちがうが、叶は水瀬を「親戚」といった。一族の中での立ち位置や体面も関わっているに違いない。

 一有は缶ビールを冷蔵庫に戻すと、まず水瀬に返事を書いた。ご連絡に驚いたが、謝罪は受け入れる。わざわざ訪問してもらうには及ばない。貴殿の秘書とはこれ以上関わりを持ちたくないので、ご配慮をありがたく思う。

 いきなり謝罪をよこす意味はなんだとか、叶がいったい何をいったのかとか、西條はどうしているのかなど、思うことはあったが何も書かなかった。叶に直接聞く方がいいだろう。
 送信ボタンを押すとほっとした。

 たしかにほっとしたのだ。こうなれば西條は一有だけでなく、叶に関わることもないだろう。過去に叶と関係したにせよ、しなかったにせよ。
 それなのに妙にわだかまるものがあった。
 一有はもう一台のスマホを睨んだ。プライベートの方だ。叶の番号は履歴のいちばん上にある。鳴らしてみたが、すぐ留守電に切り替わった。

「キョウ、その、水瀬さんからさっき……秘書の西條の件で謝罪メールが来たが……おまえが何か話したんだろう? メール自体はべつに……問題ないんだが、ただその、俺を……爆弾か何かだと思ってるみたいな文面だったが……おまえいったいどんな話を……」

 途切れ途切れに話すうち、次第にいうべきことがわからなくなって、一有の声は尻すぼみになった。

「とりあえずメールの件は伝えたぞ。水瀬さんに返信もした。その……」
 その先をためらっているうちに録音が切れた。時間切れだ。

 一有は落ちつかない気分で部屋を見まわした。ほんの十五分前まで上出来の休日だったのに。今は自分が何を感じているのか、よくわからなかった。
 今わかるのは、ここにひとりでいたくないということだけだ。

 一有はスマホをポケットに突っ込んで外へ出た。歩いて行ける距離に大型ショッピングモールがあるのを思い出した。何年も前、このマンションに引っ越したころは必要なものを買うために何度も行ったものだが、最近は足を向けなくなっていた。
 土曜日の夕食どきである。たどりついたモールとレストラン街は家族連れでにぎわっていた。空席待ちの列で喧嘩している子供たちと、彼らにキレている親を横目に一有はふらふらと通路をたどり、シネコンの看板に気づいて足を止めた。

 映画館にはもう十年以上入ったことがない。学生時代、叶と同居を解消したあと、バーのマスターにタダ券をもらって映画を見た記憶はあるが、それっきりだ。
 誘われるように中に入ると、ロビーはショッピングモールの通路よりずっと空いていた。これから上映されるアクション映画にはまだまだ空席がある。

 一有はチケットのほかにポップコーンとコーラを買った。薄暗いシアターに入ると、一人で映画を見に来る客がけっこういるとわかってすこし驚く。
 上映中は電子機器の電源を切るか、鳴らないようにしてください。スクリーンに流れた警告の途中でスマホの電源を落とすと、一有はシートに沈みこんだ。




 マシンガンをぶっぱなす大男とへらへら笑って口達者な眼鏡、仲は悪いが息はあうコンビがスクリーンでテンポよく暴れまわる。
 俳優も監督もろくに知らないし、たいして期待もしていなかったのに、一有はまもなくストーリーに引きこまれた。荒唐無稽なアクションシーンを楽しめたのは、大きなスクリーンが一役買ったのかもしれない。

 シネコンの外に出るとショッピングモールの店舗はほとんど終業時間で、営業中のレストラン街も閑散としていた。メインの客層である家族連れは帰ってしまい、通路を歩いているのは若者のグループやカップルばかりだ。

 思い出してスマホの電源を入れると、叶から着信があった。留守電を聞いたのだろう。
 ――いったい俺は何をいったっけ?
 胃のあたりがキュッと締まった。
 叶の声を聞きたいのに、話したくない。あいつに電話したら、さらに余計なことを聞いてしまうかもしれない。たとえばそう――実際のところ、西條とどんな関係だったのか、とか。

 聞いてどうするんだ。まったく。自分の場合を考えてみろ。

 一有はスマホをポケットにつっこみ、せかせかと歩いて家に帰った。
 スマホを無視してさっと風呂を浴び、ベッドに寝そべって目を閉じる。疲れているのに眠くない、そう思っていたはずが、いつのまにか眠ってしまったらしい。
 気がつくと外が明るかった。妙な姿勢で寝たせいか、体が重い。カーテンの隙間からみえる空は薄曇り。今日は日曜だ。何をする?

 昨日とはうってかわって、何ひとつやる気が起きないまま、一有は横になったままミステリー小説の続きを読みはじめた。中盤から終盤にかけて犯人を追いつめるあたりは盛り上がったが、結末で一有の苦手な愁嘆場が長々と続いたのは気に入らなかった。
 昨日の映画みたいに、銃をぶっ放して終わればいいのに。どうせフィクションだ。

 一有は本を放り出し、天井をみつめた。叶のマンションを思い浮かべる。今は自分が暮らしていたころとは何もかも変わっている。一有が殴った壁もない。自分の家ではないから家事をする必要もなく、別荘気分で週末を過ごすにはもってこいの場所だ。

 実際この半年、一有は叶の家をそんなふうに使ってきた。サラウンドスピーカーに囲まれたホームシアターシステムの前で、でかいソファに寝そべって過ごす週末。叶は前世紀のモノクロ映画のリマスター版を集めていて、サイドボードにはデジタルメディアのケースが並んでいる。大学時代の彼にはそんな趣味はなかったが、十年もあればハマるものがひとつやふたつ、できたとしても何の不思議もない。もちろん、巨大な液晶ディスプレイではネット配信の映画やドラマが好きなだけ見られる。

 叶はなんといったか。好きなときに来いとか、のんびりしてかまわないとか?
 鍵を渡されたのはかなり前だが、留守と知っているのにあがりこんだことはなかった。そういうふるまいは一有の流儀ではないのだ。でも……。

 一有は唇をとがらせ、ふうっと息をついた。結局のところ、俺は紐でつながれた鳥みたいに、叶のまわりをぐるぐる飛んでいるだけなのか? あいつに最初に出会った日から?



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