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第3章 歳月には雲雀の血が滲み

4.歩く男の絵

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 首都圏では二週間以上雨がまったく降っていない。紅葉にはまだ早いが、庭園は秋の花で彩られている。鷲尾崎家のパーティは爽やかな快晴のもとにはじまった。

 午後の催しなので服装はセミフォーマルから平服で、エスコートの定番である黒スーツは避けてほしい、というリクエストをうけて、一有いちうはダークグリーンのカラースーツを選んだ。
 十年以上前、学業をほとんど放棄して働いていた夜の繁華街での経験をきっかけに、一有のワードローブはかなり充実したものになっている。当時の一有に親身になってくれたバーの店長は、それまでまったく興味がなかったファッションについてあれこれ教えてくれた。とくに夜の街にひきずられないように口うるさく注意されたものだった。一有の容姿はすぐホストに間違えられるから、といって。

 しかしマンションの前で一有の車に乗り込んだきょうは三つ揃いのダークスーツだった。車を路肩に寄せた瞬間から一有は叶に無意識の視線をむけてしまう。きちんと整えられた頭のてっぺんから革靴の先まで、公式行事に出席する弁護士にしかみえない。脩平が同じ服装をしてもこうはいかないだろう。
 スーツの生地も仕立てもみるからに高級で、助手席に座った肩には三十路の貫禄があった。腹も腰も締まっているし、ジムに通っているにちがいない。今日の叶からはコロンの香りがしない。
「おはよう」
 何となく腹が立ったので、叶の声にはうなずくだけにした。どうして俺はこいつのあれこれを気にしているんだ。

 鷲栖記念庭園は東京の中心部に近い湾岸にあり、公共交通機関でも車でもアクセスは絶好である。港湾沿い特有の平坦な敷地に、幾何学模様に植栽を配置したフランス式庭園が広がっている。
 緑の置物、あるいは塀のようにもみえる刈り込まれた樹々の中心には瀟洒な洋館が建っているが、これは文化財として保護されている建物で、パーティ会場は駐車場にほど近い新しいホールだった。現代的なデザインは幾何学的な庭園と調和するように設計されたもので、芝生の広場に面している。広場は洋館へ通じる庭園の迷路に接していた。青地に白いストライプのテントが緑の芝生に影を落としている。

 叶を会場手前で下ろし、駐車場へ車を停めた。歩いて正面入口へ向かう。開場にはまだ時間があるが、入口には叶が待っていて、受付の男女に声をかけた。叶は胸に青いリボンをつけている。主催者一族の目印である。一有は白いリボンをとめてもらった。招待客はすべて白いリボンをつけるのだ。

 藤野谷天藍と零が到着する前に会場をひとまわりし、事前に入手した警備計画と齟齬がないかを確認した。藤野谷零の新作が展示されているのはホールから突き出たように伸びるアネックスギャラリーだった。細長いギャラリーの片側はガラス張りで、フランス式庭園に面している。もう片側は暗く、間接照明に照らされて四枚の絵画がかけられていた。ギャラリーに面した庭園は人が立ち入れないようロープがかけられ、アネックス入口と内部に監視カメラが一台ずつ設置されている。そこまで確認したとき、叶が「あと三分で着く」といった。

 庭園を通り抜けて正面入口へもどると黒のSUVから藤野谷零が下りたところだ。運転席で天藍が片手をあげ、すぐに駐車場へとハンドルを切った。零は淡いグレーのスタンドカラージャケットとシャツ、そろいのパンツという装いで、ノーネクタイが逆にアーティストらしさを醸し出している。一有は芸術家にまったく縁がないから、ただのイメージにすぎないのだが。

「こんにちは。いい天気でよかった。イチウ君、今日も素敵なスタイルだね」
 のっけから褒められていささか参ったが、一有は曖昧な笑顔をはりつけた。
「零さん、最初に絵を見せてくれるって約束ですよ」
「三波が悔しがるよ。あいつ、今日来られなくなっちゃってさ」

 佐枝朋晴――旧姓三波朋晴がアーティスト佐枝零の「第一のファン」を自称しているといった情報は、前日までのメッセージのやりとりで教えてもらっていた。零が「兄」と呼んだ佐枝峡との関係も、実際はもっとややこしい――戸籍上は叔父にあたり、血のつながりはない、云々――など、親しい友人として知るべきことは頭に入っている。ならんでギャラリーに向かう一有と零のうしろから叶と天藍がついてくる。

 ギャラリーの一方を覆うガラスから入る光は巧妙に調整されていた。暗い壁にならぶ絵が浮いたようにみえるのはただの照明効果らしい。四枚の絵は手前から順番に、移り変わる光と色のなかで歩く男がモチーフになっている。
 観る人の視線が男と共に歩くように展示してもらった、と零が説明したが、美術にさっぱりの一有はただうなずくだけだった。ギャラリーのつきあたりには大型モニターが三台ならび、それぞれ違うアニメーション映像が流れていた。これなら一有も多少見たことがある。テレビCMで使われていたからだ。

 ギャラリーを出るとちょうど開場時間だった。今日の主役のひとり、鷲尾崎家新当主の平良たいらへ挨拶に行く零のななめうしろに、自然な様子で叶がつく。零はリラックスした様子で天藍と話していた。一有は三人から距離をとり、芝生のテントのあいだを歩きながら周囲に目を走らせた。鷲尾崎家が手配した警備計画には気になる穴はなかったし、一有がみたところ、叶もエスコートとして特に問題ないようだ。真面目さは折り紙付きの男だし、研修内容をがっつり叩きこんだにちがいない。

 パーティは開会の辞、新当主の挨拶、歓談、佐枝零の紹介と続く。昨日になって式次第最後に書かれた「題詠」とは何だと叶に聞いたら、彼はこめかみをぴりぴりさせながら決まった題で詠んだ短歌を披露するコーナーだと教えてくれた。

 途中から来る招待客も多いらしいが、当主の挨拶がはじまるころにはメイン会場のホールは満員だった。芝生の広場での飲食と歓談になっても視界は十分開けていたし、零と天藍にはテントに席が用意されていた。エスコートとしては楽なものだ。

 一有はジュースを入れたシャンパングラスを片手に彼らとつかず離れず、零が移動するときはさりげなくついていく。ときおり叶と交代したものの、鷲尾崎家の用事で頻繁に席を外すのはあらかじめ聞いていた通りだ。零の知人にも紹介され、会話に多少加わった。こういう時はバーの接客に慣れていてよかったと思う。叶との関係を問われると、聖騎士学園の頃からの友人で、最近交流が復活したとこたえた。どれをとっても嘘ではない。

 拍子抜けするくらい順調だった。運営会社の采配もうまく、人の流れも適度にコントロールできている。佐枝零の紹介はギャラリーのガラス窓に面した庭園を一時開放して行われたが、これといった問題も起きなかった。零がいちばん注目にさらされるのはこの前後だったから、一有は気を張っていたが、不審な行動をとる人物はみあたらない。

 藤野谷天藍の取り越し苦労だった、ということか。人の波がまたギャラリーと芝生の広場へ戻るのを観察しながら、一有は安堵の吐息をついた。現業班でない一有にとってはひさしぶりの現場だったから、前日はしつこいほど手順を確認したのだが、何事もないのが当たり前ではある。

 天藍に寄り添って歩いている零に近寄ると、ほっとしたような、はにかんだような微笑みが向けられた。もともと内気な性格なのだろうと一有は思った。こんな風にひとまえに出るのは苦手なタイプなのだ。
「イチウ君、ほっとしたよ。噛まずに話せてよかった」
「大丈夫だといっただろう。サエは緊張しすぎだ」と天藍がいう。零は呆れたようにパートナーを見あげた。
「それ天がいうことか?」

 おたがいの手がしっかり繋がれているのが微笑ましかった。藤野谷天藍は抜群の経営センスでオーダーメイド香水の新市場を確立した企業家として認められている。こういった評価にはつねに裏の側面がつきまとうが、一有が調べた限りでは、アーティスト佐枝零のパートナーとしての藤野谷天藍には、悪評はひとつもなかった。むしろ藤野谷家をめぐる〈運命のつがい〉のストーリーもあって、理想的なアルファとオメガのカップルだといわれている。
 いい話だった。自分には縁がなさそうだが。

「イチウ君、ところでこのあとなんだが」零は内緒話でもするかのように近寄って、ひそひそ声になった。「シッターさんの都合が変わったから早く帰らなきゃいけない。大丈夫?」
「もちろん、問題はありません。必要ならご自宅まであとについて――」
「いや、それは必要ない」天藍が先回りした。「念のため、駐車場までは頼みたいが」
「題詠のあとは花火をあげるらしいね。鷲尾崎家の花火といえばこのへんじゃ有名らしい。庭園の方からみると絶景だと平良氏には聞いたけど、俺たちはそれまでいられないから、かわりに見て帰ってよ」
「はあ」

 花火か。この催しに鷲尾崎家はどのくらい予算をかけているのだろう。一有のあたまに浮かんだのは月並みの感想だった。これで終わると思うとほっとしたが、すこし残念でもあった。当分こんな仕事はないだろう。

 叶は鷲尾崎平良の近くにいた。一有はいとまを告げる天藍と零をつかず離れずの距離で見守り、黒のSUVが発進するのを見送って、会場に戻った。ビュッフェテーブルはあらかた片付いているが、飲み物はまだある。アルコールに気を惹かれつつ、まだ勤務中だからとジュースをもらう。

「イチウ」
 ふりむくと叶が手招きしていた。
「従兄に紹介したい」
 従兄、と相手を呼ぶ口調は妙になじみ深かった。そのときになって一有はやっと、聖騎士学園の寮で叶にたびたび聞かされてきた「従兄」と鷲尾崎平良が同一人物だと悟った。

「はじめまして、境さん。どちらかというと名前の方が聞き覚えがあるのだが」
 鷲尾崎平良は驚くほど叶に顔立ちが似ていた。年齢は上だし、かなり恰幅がいいが、ひと目で血縁だとわかる。兄弟といわれても信じただろう。
「こちらこそ、昔からお噂はお聞きしています」
「一時期のキョウはきみの話ばかりしていたから、初対面とは思えないな。しばらく縁がなかったらしいが、同じ職場になったって?」
「ええ」

 答えながら一有は不安になった。叶はいったい、自分のことをどのくらい鷲尾崎家の当主に話しているのか。助けを求めて横に目をやったが、三十秒前までは隣にいたはずなのに姿が見えない。頭をふると視界のすみに誰かと話しこんでいる背中がみえた。
「キョウは真面目すぎるところがある」と平良がいった。「そのせいか不器用な男だとよく思うよ。きみは昔、キョウの家にいただろう?」
「あ、はい。ええ」
「彼があそこに住む前は私が暮らしていたんだ。ずっと居続けるなら次はおまえの番だぞ、といってる。まあ、半分冗談だがね」

 一有はあの日、壁を殴ったことを思い出して居心地が悪くなった。叶はあの穴をどうしただろうか。
 ありがたいことにすぐ話題はアウクトス・コーポレーションの事業内容に移り、一有はCP部門での仕事について当たり障りのない範囲で話をした。そのうち会場の係がやってきて、題詠の時間だといって平良を連れ出してくれた。

 いつのまにか叶の姿はどこにもみえなくなっている。題詠というものに興味もあったが、空腹でもあった。わずかに残ったデザートを平らげると仕事を終えた実感がやってきて、一有は庭園の奥をみておこうと思いついた。複雑怪奇な形に整えられた樹々の奥にそびえる洋館に好奇心をそそられていたものの、到着時の見回りのときは近づいてすらいない。

 行ってみると、庭園は意外に広かった。一有と同じように散策する人の足が刈りこまれた樹々の壁の隙間でちらついている。そういえばこのあとの花火は庭園の方からみると絶景だと零がいっていた。しかし、花火をみるならもっと開けたところへ出なければならないはずだ。
 このあたりは樹でつくられた壁が視界をおおい、道もところどころ行き止まりで、迷路じみている。大理石の天使像で行き止まりになった道を一有は戻り、別の分岐を曲がった。やっと洋館へ続くまっすぐな通路へ出て、ずっと先に見おぼえのあるダークスーツの背中をみつけた。

 叶だ。隣に誰かがいて、叶の腕に手をかけている。

 やれやれ。一有は立ち止まり、すこし迷い、回れ右をした。一有にとってこのパーティは職務上訪れた場所にすぎないが、鷲尾崎叶にとっては自分の一族の行事でもある。真面目過ぎる、という平良の言葉が頭をよぎった。本日のエスコート業務は終わったし、一応上司とはいえ、後を追う必要はない。

 芝生の広場に戻るとホールの扉が開いていた。外からマイクに向かって話す人を眺めていると、突然背中を叩かれた。
「イチウ君」
 ぎょっとしてふりむくと、見間違いようのない顔があった。
「……リコさん?」
「び――――っくりした。何年ぶり? やだなあ、ものすごくお洒落になって」



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