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7巻
7-3
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「……うっ」
ディートリヒがグリおじさんに言うべき言葉を探しているうちに、剣聖が呻き声を上げた。
それでやっとディートリヒは剣聖が瀕死の状態であったことを思い出し、慌てて魔法の鞄から魔法薬を取り出した。
取り出したのは、ロアに貰った部位欠損治療型の超位の治癒魔法薬。
斬り取られた部位が存在していれば、もう一ランク下の高位の治癒魔法薬でも繋げることができたのだが、腕は海の彼方だ。そうなった以上は、超位の治癒魔法薬を使わざるを得ない。
先ほどグリおじさんが怪しげなことを言っていたのが引っかかるが、仕方がなかった。
超位の治癒魔法薬は貴重だ。
それこそ王侯貴族であっても簡単には手に入らない。金を積めば手に入るというものではなく、貴重な宝物と同じ扱いをされている。
それを、ディートリヒは迷うことなく剣聖の口に流し込む。
「すぐ治るからな」
剣聖に超位の治癒魔法薬を飲ませながら、ディートリヒは励ましの言葉を掛けた。
暴走癖がありケガの多いディートリヒでも、腕を斬り落とされたことはない。だが、その痛みの壮絶さは容易に想像できる。
剣聖は痛みで気絶しそうになるのを、気力だけで耐えている。気絶させてやった方が楽になるのだろうが、それだと魔法薬を飲ませるのが困難になる。
せめて超位の治癒魔法薬を全て飲み干すまでは意識を保ってもらう必要があり、肩を抱えて飲みやすい姿勢を保たせながら、励ましの言葉を掛け続けた。
息も絶え絶えの状態で剣聖は何とか魔法薬を飲み切り、息を大きく吐いた。
「うごっ!」
息を吐き終わらないうちに剣聖の身体が痙攣し始め、大きく跳ねた。
全身が一気に汗にまみれ、跳ねる身体の動きに合わせて飛び散った。ディートリヒは跳ねた身体が転がって傷つかないように、剣聖の身体を強く押さえつけた。
剣聖は顔の筋肉が引き攣るほどに歯を食いしばり、激痛に耐えていた。
〈布でも噛ませてやった方が良いのではないか? 歯が欠けるぞ?〉
他人事のようにグリおじさんが声を掛けてくる。
ディートリヒはその言葉に素直に従い、魔法の鞄の中に入っていた誰かの着替えを無理やり剣聖の口に捻じ込んで噛ませた。
しばらくして、傷口に変化が現れ、肉が盛り上がってきた。
血が止まり新しい肉が湧き上がるように傷口から出てくる。その動きに合わせ、剣聖の身体が痛みで痙攣する。
「……グロいな……」
魔獣の解体などで血肉と内臓を見慣れているディートリヒすら、そんな感想を漏らしてしまうほどの光景だった。
盛り上がった肉はやがて形を作り始める。見る見るそれは腕の形となっていく。
不気味な光景の代償は大きいらしく、剣聖は痛みに耐え切れず気を失った。
だが、意識がなくとも痛みは感じているらしく、身体は痙攣し、跳ね続ける。中途半端に開かれた目は白目を剥いており、涙が溢れる。食いしばる口からは泡が溢れ出す。
「見てられないんだが……」
〈見なければいいであろう? 小僧の魔法薬だ、どんなに酷い過程であろうが最終的にはちゃんと治るぞ〉
「そこは……信じてるんだが……下手な拷問より苦しそうだぞ? なんというか……毒でも飲ませたような気分になってくる」
〈今この場に誰か来たら、間違いなく我らが剣聖を殺そうとしていると勘違いされるであろうな。……ふふふ〉
やけに楽しげに、グリおじさんは呟いた。
グリおじさんは、ディートリヒの剣を嘴で咥えたまま振り回して遊んでいる。暇なのだろう。
その姿を見て、ディートリヒは先ほどのことを思い出した。
「そういや、さっきのは何だ? 何を企んでるんだよ?」
〈さっきとは? 我は何も企んでなどおらぬぞ?〉
「さっき、手が滑ったとか言ってジジイの腕を海に捨てただろ! 手なんかない癖に‼」
剣聖の身体を押さえつけたまま、ディートリヒはグリおじさんに向かって叫んだ。叫ぶ内容が若干ズレているが、確かにグリおじさんに滑らせる手はなかった。
〈嘴が滑ったの間違いだったな〉
「そういうことを言ってるんじゃねーよ‼」
〈貴様が言ったのではないか……〉
呆れた目で、グリおじさんはディートリヒを見つめた。
「そうじゃなくてだな! ロア以外からは何をされても自分は関係ないって顔してる癖に、今回に限ってわざわざ勝負を受けて、しかも斬った腕を海に捨てたのが変だって言ってるんだよ。何を企んで……」
〈少し黙れ。勘違いしたやつが来たぞ〉
なおも叫ぶディートリヒを、グリおじさんは黙らせた。そして、剣を軽く振った。
その剣の動きに合わせて、数度金属同士がぶつかる甲高い音が響く。突然の金属音にディートリヒは反応したが、剣聖を押さえているため身動きができなかった。
ディートリヒの足元に、小さなナイフが突き刺さる。
それが先ほどの金属音の正体だ。
グリおじさんの剣が、何者かが投げたナイフを弾いたのだった。ディートリヒが周囲を見渡すと、同じように弾き飛ばされたナイフが五本、転がっていた。
「貴様ら‼ お義爺様に何をした!!?」
怒号が響く。
その声の主はエミーリア。
コルネリアの姉にして、この国の近衛騎士副長だ。そして、剣聖の義理の孫娘でもあり、剣聖の名を継ぐ予定の者でもあった。
エミーリアは討伐依頼成功のお披露目の場からディートリヒが消えたのに気付き、探しに来ただけだった。
ディートリヒは女王と顔を合わせるのを嫌い、今まで何度となく逃亡を繰り返していた。そのため、今回はエミーリアと近衛騎士団に監視されていたのだ。
だが、シーサーペントの襲来とアダド帝国の動きなどで近衛騎士たちも忙しくなり、監視が緩んでいた。その隙にディートリヒが姿を消したので、エミーリアは慌てた。実際はグリおじさんに呼び出されたわけだが、エミーリアはこの隙に逃亡を図ったと判断して探し回っていた。
その時、尋常ではない殺気を感じた。
その殺気は親しんだものだった。幼い頃から師として仰ぎ、義理ながら家族となった人物。剣聖の殺気だ。
異常事態だと判断し、急いでエミーリアはこの場まで来た。
そして、襲われているとしか思えない剣聖を発見したのだった。
「許さんっ‼」
エミーリアは問答無用で剣を抜く。
ナイフを投げつけてきたのも、彼女で間違いない。エミーリアの視線は、真っ直ぐにディートリヒを見つめている。本気で殺そうとしている目だ。
「誤解だ‼」
ディートリヒはそう叫びながら、ハメられたと考えた。
突風のような勢いで、エミーリアが飛びかかってくる。エミーリアはディートリヒの叫びをまったく意に介さない。
ここにいるのはディートリヒと従魔のグリフォン。
どちらが剣聖を襲った主犯に見えるかと言われれば、間違いなくディートリヒだろう。本来の従魔とは従属の首輪で従えられ、命令なしには動けない存在なのだから。
先ほどグリおじさんは「今この場に誰か来たら、間違いなく我らが剣聖を殺そうとしていると勘違いされる」と言っていた。その時点で、グリおじさんはエミーリアの接近に気付いていたのだろう。
そしてあえて勘違いを促して、エミーリアが斬りかかってくるのを待ち構えていたのだ。完全に、ディートリヒは巻き添いだ。
〈寝坊助はまったく信用されていないようだな。やはり日頃の行いが悪いと損をするものだな〉
呑気にグリおじさんは呟く。
ディートリヒは剣聖を押さえるのをやめて剣を抜きかけたが、グリおじさんの動きを見て手を止める。
ディートリヒ目掛けて振り下ろされたエミーリアの剣を、グリおじさんは嘴に咥えた剣で受け止めていた。
「魔獣が剣を⁉」
あっさりと受け止められ、エミーリアは驚きの声を上げる。
彼女は近衛騎士にして剣聖の弟子。剣の腕には自信があった。人間相手であれば、ほぼ負け知らずだ。魔獣であるグリおじさんに剣で剣を止められた驚きは計り知れない。
「あー……。こいつは規格外だからな」
ディートリヒはとりあえずグリおじさんに守ってくれる気があると判明して、胸を撫で下ろした。
〈もう剣での戦いは飽きた。やはり、面倒だ〉
小さく雷撃が瞬く。小さな火花だったがエミーリアは崩れ落ちるように倒れ込み、意識を失った。グリおじさんが魔法で気絶させたのだ。鬼気迫る姿で飛び出してきた割には、あっさりとした結末だった。
「……何でエミーリアが……」
〈おおかた貴様を探しに来たのではないか? それとも剣聖が垂れ流しておった殺気に気付いたか? なんにせよ、都合が良い〉
グリおじさんがニヤリと嘴を歪める。
〈勝負を挑んできたのは剣聖で、この女も斬りかかってきたのを反撃しただけ。我に悪いところは何もない! ふふふ……これで予定通り、褒美の準備が整ったな!〉
浮かれたようにグリおじさんが言い放った。
「褒美? 予定通り?」
今の状況にそぐわない言葉に、ディートリヒは思わず首を傾げる。
〈そうだ! 今回の海蛇討伐で我は傍観者であったからな! 頑張った者たちに褒美を与えるべきだと思ったのだ!〉
グリおじさんはディートリヒに向かって胸を張ってみせた。
ディートリヒは話が見えず、さらに深く首を傾げた。確か、ついさっき、グリおじさんは何も企んでいないと言っていたはずだが、自身の発言すら忘れているのだろう。自分の計画を誇らしげに話し始める。
〈だが小僧の褒美が難しくてな。今の小僧は金持ちであろう? 欲しい物は何でも買えるし、実際に買っておるからな、物では喜ばぬだろう?〉
今となっては、ロアはかなりの金持ちだ。コラルドに望まれるまま作り、さらに自分の趣味を兼ねて作った魔法薬の数々はとんでもない量の金銭をもたらしていた。
しかし、生来の貧乏性で、ロアは生活にそれほど金をかけない。下手をすれば、生活どころか魔法薬の生産に使う素材すら、採取と狩りで賄ってしまう。そのため、完全に金を持て余している状態になっている。
〈物がダメとなると、小僧が喜びそうなもので我が与えられるのは愛情と知識くらいしかなくてな。悩んだのだぞ〉
ロアの喜ぶものに自身の愛情を含めているあたりが、実にグリおじさんらしいというか……。
〈そこでだ! 我は小僧が知りたがっている情報に思い至ったのだ! 小僧は前々から、四肢を失ったばかりの人間に部位欠損治療型の治癒魔法薬を使った場合の、再生された四肢の機能低下率を知りたがっておった。こればっかりは実際に目の前で四肢を失う人間が出ないと、試すことが不可能だからな!〉
「……」
やっと話が見えてきて、ディートリヒはグリおじさんを半目で見つめる。
治癒魔法薬で欠損した部分……肉や皮膚、骨や神経などを新たに作り出す場合、完全に元に戻るわけではない。小さい範囲であれば見分けがつかないほどに治るが、その範囲が大きければ大きいほど、元の状態から劣化してしまう。
これは鍛えて成長させた部分が、鍛えられる前の状態に戻るためらしい。要するに、成長がなかったことにされてしまうのだ。
しかし、完全に生まれたままの状態まで戻るわけではない。
欠損部分を補う際に周辺の状態を読み取って、それに合わせて新しく部位を作り出しているらしい。つまり、ある程度は鍛えられた状態での復活となる。
この差異は一定ではなく、魔法薬の品質や効果に左右される。
ロアはその差異を知りたがっていた。
だが、実際に手足を失うほどの大ケガをする人間が身近におらず、仕方がなしに検証は保留されていたのだった。
〈最初はうっかり寝坊助の腕を斬り落としてやろうと思ったのだがな、それだと我が小僧に怒られそうだったのでやめた〉
当然のようにグリおじさんが自分の腕を斬ろうとしていたことに、ディートリヒは顔色を青くする。
〈そこにちょうどいい感じに剣聖が我と戦いたがっていたのでな、そやつと戦って腕を斬ることにしたのだ! これなら剣聖の望みも叶えられ、我も小僧の褒美が準備できて一挙両得であろう? 誰も損はせぬし、小僧にも怒られぬのだぞ!〉
とても良いことをしたとばかりに、グリおじさんは目を輝かせて熱弁した。
グリおじさんが言葉を重ねる度に、ディートリヒの頭は冷めていく。言いたいことは分からなくはないが、心情的にはまったく納得できない。剣聖はそう簡単に心を折られたりはしないだろうが、それでも魔獣に剣で負けたとあっては多少なりとも落ち込むだろう。
それに腕を斬られた直後と、治癒魔法薬を飲んだ後の凄惨な光景が頭を過る。あんな苦しみを与えられて一挙両得などと喜べるはずがない。
〈それにだ! 運良く口うるさい女の分の褒美まで準備できたのだぞ!〉
「はあ?」
口うるさい女とはコルネリアのことだ。
望郷の中でシーサーペント討伐の一番の功労者はコルネリアで間違いないだろう。彼女は船の上で頑張って、襲い来るシーサーペントを狩っていた。ディートリヒの目から見ても、褒美を与えられるに相応しい。
しかし、今この状況でコルネリアへの褒美の準備ができたと言われてもよく分からない。
どうせまた変な理屈で思いついたのだろうなと、ディートリヒはため息をつく。
〈寝坊助、剣聖はもう落ち着いたようだぞ? もう押さえずともいいであろう?〉
「え? ああ……」
気付けば、剣聖は眠っていた。
先ほどまでの苦悶の表情や身体の跳ね上がりが嘘のように、落ち着いている。
超位の治癒魔法薬によって新しく生えた腕も、キレイなものだ。日に焼けていた肌も、若干色が薄いものの再現されており、それほど元の腕と変化があるようには見えなかった。
〈見た目は良さそうだな。あとは剣でも振らせて動きの差異を小僧に伝えておけ〉
「ああ」
当然というようにグリおじさんはディートリヒに命令する。反論してもどうせやらされるのは確定だろうし、自身も剣聖の腕の状態は気になるので、ディートリヒは素直に受け入れた。
〈それよりも! 寝坊助、貴様は今も惚れ薬を持っておるだろう? それに剣聖の髪を入れてそこの男前の女に飲ませるがいい〉
「は?」
また、話が分からなくなったとディートリヒは首を傾げる。
先ほどからまともな返事が何も返せていないディートリヒだ。それもこれも、グリおじさんの自己中心的な、人を人とも思わぬ傲慢な考えがまったく読めないせいだろう。
惚れ薬は、グリおじさんからロアが隠し持っていると聞き、ディートリヒが交渉して半ば無理やり譲り受けた物だった。
通常売られている、効くか効かないか分からないような代物ではない。ロアが作った、ちゃんと効果があって禁忌となっている惚れ薬の魔法薬だ。
使用方法は、自分の身体の一部を薬に混ぜ込んで、惚れさせたい相手に飲ませるだけ。
髪の毛が一番効果が弱く、血や肉などを入れるほど効果が強くなる。一番効果が強いのは魔力を惚れ薬に染み込ませることだが、それは錬金術師や魔術師でないと上手く行えず失敗してしまう。
強制的に惚れさせるという触れ込みだが、効能の詳細は、混ぜ込んだ身体の一部の持ち主が発している魔力を心地好く感じさせ、離れがたい気持ちにさせるというものだった。
ロアはこの惚れ薬の魔法薬を渡す際、ディートリヒといくつかの約束をした。
そのうちの一つは、髪の毛以外の物を入れないようにするというものだった。
髪の毛を混ぜたくらいならば効果は弱く、嫌われている状態から何の好悪の感情も持っていない状態に戻る程度だった。それならば実害はないだろうという判断だ。
〈どうせ貴様は、使える機会がいつ訪れるか分からないと考えて、持ち歩いておるのだろう? さっさと出して男前の女に飲ませろ。それが口うるさい女への褒美になる〉
「話がまったく読めないんだが? とうとう頭がいかれたか?」
思わず、ディートリヒが言い返す。
〈なに? 貴様、我に逆らうのか? 貴様が今持っている惚れ薬は、数本あったうちの一本だけであろう? それ以外の惚れ薬を何に使ったのか、小僧にばらすぞ! ハゲ商人が女王に献上するつもりで保管しておいた酒に混ぜたであろう? しかも自分の血を入れたであろう? 薬の力を使って、あの女を言いなりにして復讐しようとするとは、実に器の小さな寝坊助らしいな!〉
「何でそれを……」
〈気付かぬはずがあるまい。あの屋敷にいる間、我は全てを監視していたのだぞ。貴様とそこの剣聖が商売女を連れ込んで何をしていたのかも知っている。それも小僧と口うるさい女にばらそうか?〉
「うわぁ……」
ディートリヒの顔色が変わる。その場でしゃがみ込んで、頭を抱えた。一番知られてはいけないやつに、弱みを握られていることに気付いたのだ。
〈分かったなら、さっさと惚れ薬を飲ませろ〉
勝ち誇ったように、グリおじさんは宣言した。
「せめて、理由くらい……」
秘密を握られたディートリヒは、奥歯を噛みしめて悔しそうに言った。
〈男前の女は、剣聖にそれなりに好意を持っておる。我の見極めでは師弟の情だけではなく、ほのかな男女の情すらな。そこに惚れ薬を使えば、常に行動を共にしたくなるくらいの好意になるであろう?〉
「それが何だよ?」
〈剣聖と行動を共にしようとすれば、口うるさい女と一緒にいる時間も減るのではないか? 口うるさい女は男前の女のことを、嫌いじゃないがべったりと一緒にいるのは嫌だと叫んでおったではないか! その望みを叶えてやろうというのだ〉
シーサーペント討伐の時、コルネリアはエミーリアがべったりと一緒に居過ぎることに鬱憤を溜めて叫んでいた。当然、一緒に戦っていたディートリヒも、上空で様子を窺っていたグリおじさんもそれを聞いていた。
グリおじさんの言う通りに事が運べば、確かにコルネリアの状況は好転するだろう。
また、剣聖も義理とはいえ孫娘に好かれて悪い気はするはずがない。
「……確かに、悪い案ではないと思う」
あの時のコルネリアは怖かったからな……と、考えてから、ディートリヒも同意した。
放置しておくとコルネリアの怒りがディートリヒにまで飛び火しそうな勢いだった。それがなくなるなら、同意しかない。
〈理解したならさっさと飲ませろ! これで一挙両得……いや、剣聖の望み、小僧の望み、うるさい女の望み、ついでに我が剣を十分に扱えることを貴様に見せつけられたのだから、一挙四得だな! さすがは我だ‼〉
グリおじさんは自信満々に高笑いを始める。
その声を聞きながら、本当に同意をして良かったのかディートリヒは一抹の不安を感じた。さらに面倒な状況になっていっているような、漠然とした不安だ。
〈おお、そうだ。忘れておった〉
そう言ってグリおじさんは、気持ち良さそうに眠っている剣聖に近づく。そして、新しく作られたばかりの剣聖の右肩に前足を押し当てた。
ジュッと、小さく音がして周囲に肉の焼ける匂いが広がった。
「おい! 何をして……」
〈せっかくだから実験だ。我でもルーとフィーの印と同じことができるのか、試しておきたいと思ってな。なに、無駄だったら消してやる。今は超位の治癒魔法薬の影響があるゆえに、すぐにとはいかぬがな〉
文句を言うディートリヒの言葉に被せるように、グリおじさんは言い放った。グリおじさんが前足をどけると、剣聖の肩にはグリおじさんの前足の形に火傷が残っていた。
〈……ふむ。やはり、ルーとフィーのように魔力を送ることはできぬか。あれは種族的特性による魔法なのだな。この実験を含めて、一挙五得! なかなかいい成果だった!〉
「まったく、何なんだよこの迷惑グリフォン……」
疲れ切ったディートリヒは、呆れた視線をグリおじさんに向けることしかできない。
とりあえず、これ以上酷い状況にならないように、全てロアに報告して釘を刺しておいてもらおうと心に決めた。
だが、ロアの方でも騒動が持ち上がっており、それどころでなくなることをまだディートリヒは知らない……。
第二十七話 海竜の訪問
グリおじさんが剣聖と戦い終わっても、ロアたちはまだ海岸で人々に囲まれていた。
興奮いまだ醒めやらぬといった雰囲気ではあるが、それでも人々は落ち着きを取り戻し始めている。熱烈な賞賛も収まってきており、ロアたちもやっと一息つける状況になってきていた。
引っ切りなしに人に話しかけられ少し疲れは見えるものの、それでもロアは笑みを浮かべている。
愛想笑いではなく、本心からの笑顔だ。
いつもであればこういう場でも「自分なんかが……」と考えて素直に受け入れられなかったロアだが、今回はどこか誇らしげだ。活躍できたという実感が、裏付けとなっているのだろう。
ロアは自分自身の力で多くのシーサーペントを倒した。双子の魔狼に手伝ってはもらったものの、それは誘き寄せてもらっただけで、実際に戦ったのはロア自身だ。
いつも傍らで見守りながら戦いを指導してくれるグリおじさんや望郷の面々も、今回は近くにはいなかった。クリストフはいてくれたが、彼は双子の無茶振りに応えていたため口出しをしてくる余裕はなかった。誰の助けもない中で、ロア自身が戦い方を考え、自分の力で対応した。
その実感から、素直に人々の賞賛を受け入れることができていた。
やっと冒険者として褒められる仕事ができた……そう考えて、ロアは誇らしい気持ちになる。
まだ身体の大きさの都合でナイフでしか戦えていないが、望郷のメンバーとグリおじさんに鍛えられた剣技の成果が出せた。苦労して覚えたことが実った喜びを、ロアは噛みしめていた。
いわば、ロアは初めての成功体験に酔いしれていたのである。
今までグリおじさんが必死に与えようとして無理だった成功体験を、こうもあっさりロアが得ていたのには理由がある。
それは、ナイフでの戦いだったからだ。
ロアは生産や採取の技術、あるいは知識を褒められても、自分程度が易々とできることなんだから大したことではないと考えてしまう悪癖があった。
これは以前一緒にいた暁の光のメンバーに原因がある。彼らもまた、ロア程度が他の作業の合間にできることなら大したことがないと考えていたため、その技術をまったく評価せずにいた。どんなに魔法薬や役立つ道具を作り出そうが、ロアを無能呼ばわりし続けたのだった。
その態度のせいで、ロアも自分がすごいことをやっているなどとは考えもしなかった。
また、ロアは錬金術や生産系の技術を、全て万能職の見習いとしての仕事や、魔獣たちの世話の片手間で学んでいた。ロア自身、知識を得ることを楽しむ人間であったため、他の仕事の合間の息抜きのように行っていた。実益はあるが、遊びや趣味の延長線上と捉えていた。
そうして楽しみながら学んでしまっているため、他の者から見れば凄まじい努力をしていても、ロア本人に努力をしているという感覚はまったくなかった。
そのせいで、実力が認められる状況になって褒められても実感がなかったのだった。
その点、剣の……ナイフの修業は肉体的な厳しさがあり、苦労しているという実感があった。技術を覚えられる楽しみもあったが、同じくらい辛かった。
望郷のメンバーはロアへの指導でも手を抜かず、厳しく、そしていい点があれば褒めてくれた。本気で教えてくれることに応えようと、ロアも必死になって覚え、身体を鍛えていった。
だからこそ、その技術で成し遂げたことを素直に喜ぶことができ、賞賛も受け入れられているのだった。
ついでに言うならば、魔法は発動に関わる魔力がグリおじさんからの借り物であるため、どんなにすごい魔法を使おうがロアはグリおじさんのおかげだとしか考えない。
グリおじさんはグリおじさんで、実績を作るためにロアに魔法を使わせたがる癖に、使えば「気持ち悪い」だの「変だ」だの「非常識だ」だの文句ばかり言う。
この文句は、ロアが魔力操作の才能全振りの、常識的に考えてあり得ない魔法ばかり使うからなのだが、ロアは自分が平気で使える魔法のため、変だということがいまひとつ理解できていなかった。
おかげで、文句ばかり言われるからと、益々ロアは魔法を使いたがらなくなってしまっていた。
要するに、魔法に対する自己評価の低さは、グリおじさんのせいなのである。
ディートリヒがグリおじさんに言うべき言葉を探しているうちに、剣聖が呻き声を上げた。
それでやっとディートリヒは剣聖が瀕死の状態であったことを思い出し、慌てて魔法の鞄から魔法薬を取り出した。
取り出したのは、ロアに貰った部位欠損治療型の超位の治癒魔法薬。
斬り取られた部位が存在していれば、もう一ランク下の高位の治癒魔法薬でも繋げることができたのだが、腕は海の彼方だ。そうなった以上は、超位の治癒魔法薬を使わざるを得ない。
先ほどグリおじさんが怪しげなことを言っていたのが引っかかるが、仕方がなかった。
超位の治癒魔法薬は貴重だ。
それこそ王侯貴族であっても簡単には手に入らない。金を積めば手に入るというものではなく、貴重な宝物と同じ扱いをされている。
それを、ディートリヒは迷うことなく剣聖の口に流し込む。
「すぐ治るからな」
剣聖に超位の治癒魔法薬を飲ませながら、ディートリヒは励ましの言葉を掛けた。
暴走癖がありケガの多いディートリヒでも、腕を斬り落とされたことはない。だが、その痛みの壮絶さは容易に想像できる。
剣聖は痛みで気絶しそうになるのを、気力だけで耐えている。気絶させてやった方が楽になるのだろうが、それだと魔法薬を飲ませるのが困難になる。
せめて超位の治癒魔法薬を全て飲み干すまでは意識を保ってもらう必要があり、肩を抱えて飲みやすい姿勢を保たせながら、励ましの言葉を掛け続けた。
息も絶え絶えの状態で剣聖は何とか魔法薬を飲み切り、息を大きく吐いた。
「うごっ!」
息を吐き終わらないうちに剣聖の身体が痙攣し始め、大きく跳ねた。
全身が一気に汗にまみれ、跳ねる身体の動きに合わせて飛び散った。ディートリヒは跳ねた身体が転がって傷つかないように、剣聖の身体を強く押さえつけた。
剣聖は顔の筋肉が引き攣るほどに歯を食いしばり、激痛に耐えていた。
〈布でも噛ませてやった方が良いのではないか? 歯が欠けるぞ?〉
他人事のようにグリおじさんが声を掛けてくる。
ディートリヒはその言葉に素直に従い、魔法の鞄の中に入っていた誰かの着替えを無理やり剣聖の口に捻じ込んで噛ませた。
しばらくして、傷口に変化が現れ、肉が盛り上がってきた。
血が止まり新しい肉が湧き上がるように傷口から出てくる。その動きに合わせ、剣聖の身体が痛みで痙攣する。
「……グロいな……」
魔獣の解体などで血肉と内臓を見慣れているディートリヒすら、そんな感想を漏らしてしまうほどの光景だった。
盛り上がった肉はやがて形を作り始める。見る見るそれは腕の形となっていく。
不気味な光景の代償は大きいらしく、剣聖は痛みに耐え切れず気を失った。
だが、意識がなくとも痛みは感じているらしく、身体は痙攣し、跳ね続ける。中途半端に開かれた目は白目を剥いており、涙が溢れる。食いしばる口からは泡が溢れ出す。
「見てられないんだが……」
〈見なければいいであろう? 小僧の魔法薬だ、どんなに酷い過程であろうが最終的にはちゃんと治るぞ〉
「そこは……信じてるんだが……下手な拷問より苦しそうだぞ? なんというか……毒でも飲ませたような気分になってくる」
〈今この場に誰か来たら、間違いなく我らが剣聖を殺そうとしていると勘違いされるであろうな。……ふふふ〉
やけに楽しげに、グリおじさんは呟いた。
グリおじさんは、ディートリヒの剣を嘴で咥えたまま振り回して遊んでいる。暇なのだろう。
その姿を見て、ディートリヒは先ほどのことを思い出した。
「そういや、さっきのは何だ? 何を企んでるんだよ?」
〈さっきとは? 我は何も企んでなどおらぬぞ?〉
「さっき、手が滑ったとか言ってジジイの腕を海に捨てただろ! 手なんかない癖に‼」
剣聖の身体を押さえつけたまま、ディートリヒはグリおじさんに向かって叫んだ。叫ぶ内容が若干ズレているが、確かにグリおじさんに滑らせる手はなかった。
〈嘴が滑ったの間違いだったな〉
「そういうことを言ってるんじゃねーよ‼」
〈貴様が言ったのではないか……〉
呆れた目で、グリおじさんはディートリヒを見つめた。
「そうじゃなくてだな! ロア以外からは何をされても自分は関係ないって顔してる癖に、今回に限ってわざわざ勝負を受けて、しかも斬った腕を海に捨てたのが変だって言ってるんだよ。何を企んで……」
〈少し黙れ。勘違いしたやつが来たぞ〉
なおも叫ぶディートリヒを、グリおじさんは黙らせた。そして、剣を軽く振った。
その剣の動きに合わせて、数度金属同士がぶつかる甲高い音が響く。突然の金属音にディートリヒは反応したが、剣聖を押さえているため身動きができなかった。
ディートリヒの足元に、小さなナイフが突き刺さる。
それが先ほどの金属音の正体だ。
グリおじさんの剣が、何者かが投げたナイフを弾いたのだった。ディートリヒが周囲を見渡すと、同じように弾き飛ばされたナイフが五本、転がっていた。
「貴様ら‼ お義爺様に何をした!!?」
怒号が響く。
その声の主はエミーリア。
コルネリアの姉にして、この国の近衛騎士副長だ。そして、剣聖の義理の孫娘でもあり、剣聖の名を継ぐ予定の者でもあった。
エミーリアは討伐依頼成功のお披露目の場からディートリヒが消えたのに気付き、探しに来ただけだった。
ディートリヒは女王と顔を合わせるのを嫌い、今まで何度となく逃亡を繰り返していた。そのため、今回はエミーリアと近衛騎士団に監視されていたのだ。
だが、シーサーペントの襲来とアダド帝国の動きなどで近衛騎士たちも忙しくなり、監視が緩んでいた。その隙にディートリヒが姿を消したので、エミーリアは慌てた。実際はグリおじさんに呼び出されたわけだが、エミーリアはこの隙に逃亡を図ったと判断して探し回っていた。
その時、尋常ではない殺気を感じた。
その殺気は親しんだものだった。幼い頃から師として仰ぎ、義理ながら家族となった人物。剣聖の殺気だ。
異常事態だと判断し、急いでエミーリアはこの場まで来た。
そして、襲われているとしか思えない剣聖を発見したのだった。
「許さんっ‼」
エミーリアは問答無用で剣を抜く。
ナイフを投げつけてきたのも、彼女で間違いない。エミーリアの視線は、真っ直ぐにディートリヒを見つめている。本気で殺そうとしている目だ。
「誤解だ‼」
ディートリヒはそう叫びながら、ハメられたと考えた。
突風のような勢いで、エミーリアが飛びかかってくる。エミーリアはディートリヒの叫びをまったく意に介さない。
ここにいるのはディートリヒと従魔のグリフォン。
どちらが剣聖を襲った主犯に見えるかと言われれば、間違いなくディートリヒだろう。本来の従魔とは従属の首輪で従えられ、命令なしには動けない存在なのだから。
先ほどグリおじさんは「今この場に誰か来たら、間違いなく我らが剣聖を殺そうとしていると勘違いされる」と言っていた。その時点で、グリおじさんはエミーリアの接近に気付いていたのだろう。
そしてあえて勘違いを促して、エミーリアが斬りかかってくるのを待ち構えていたのだ。完全に、ディートリヒは巻き添いだ。
〈寝坊助はまったく信用されていないようだな。やはり日頃の行いが悪いと損をするものだな〉
呑気にグリおじさんは呟く。
ディートリヒは剣聖を押さえるのをやめて剣を抜きかけたが、グリおじさんの動きを見て手を止める。
ディートリヒ目掛けて振り下ろされたエミーリアの剣を、グリおじさんは嘴に咥えた剣で受け止めていた。
「魔獣が剣を⁉」
あっさりと受け止められ、エミーリアは驚きの声を上げる。
彼女は近衛騎士にして剣聖の弟子。剣の腕には自信があった。人間相手であれば、ほぼ負け知らずだ。魔獣であるグリおじさんに剣で剣を止められた驚きは計り知れない。
「あー……。こいつは規格外だからな」
ディートリヒはとりあえずグリおじさんに守ってくれる気があると判明して、胸を撫で下ろした。
〈もう剣での戦いは飽きた。やはり、面倒だ〉
小さく雷撃が瞬く。小さな火花だったがエミーリアは崩れ落ちるように倒れ込み、意識を失った。グリおじさんが魔法で気絶させたのだ。鬼気迫る姿で飛び出してきた割には、あっさりとした結末だった。
「……何でエミーリアが……」
〈おおかた貴様を探しに来たのではないか? それとも剣聖が垂れ流しておった殺気に気付いたか? なんにせよ、都合が良い〉
グリおじさんがニヤリと嘴を歪める。
〈勝負を挑んできたのは剣聖で、この女も斬りかかってきたのを反撃しただけ。我に悪いところは何もない! ふふふ……これで予定通り、褒美の準備が整ったな!〉
浮かれたようにグリおじさんが言い放った。
「褒美? 予定通り?」
今の状況にそぐわない言葉に、ディートリヒは思わず首を傾げる。
〈そうだ! 今回の海蛇討伐で我は傍観者であったからな! 頑張った者たちに褒美を与えるべきだと思ったのだ!〉
グリおじさんはディートリヒに向かって胸を張ってみせた。
ディートリヒは話が見えず、さらに深く首を傾げた。確か、ついさっき、グリおじさんは何も企んでいないと言っていたはずだが、自身の発言すら忘れているのだろう。自分の計画を誇らしげに話し始める。
〈だが小僧の褒美が難しくてな。今の小僧は金持ちであろう? 欲しい物は何でも買えるし、実際に買っておるからな、物では喜ばぬだろう?〉
今となっては、ロアはかなりの金持ちだ。コラルドに望まれるまま作り、さらに自分の趣味を兼ねて作った魔法薬の数々はとんでもない量の金銭をもたらしていた。
しかし、生来の貧乏性で、ロアは生活にそれほど金をかけない。下手をすれば、生活どころか魔法薬の生産に使う素材すら、採取と狩りで賄ってしまう。そのため、完全に金を持て余している状態になっている。
〈物がダメとなると、小僧が喜びそうなもので我が与えられるのは愛情と知識くらいしかなくてな。悩んだのだぞ〉
ロアの喜ぶものに自身の愛情を含めているあたりが、実にグリおじさんらしいというか……。
〈そこでだ! 我は小僧が知りたがっている情報に思い至ったのだ! 小僧は前々から、四肢を失ったばかりの人間に部位欠損治療型の治癒魔法薬を使った場合の、再生された四肢の機能低下率を知りたがっておった。こればっかりは実際に目の前で四肢を失う人間が出ないと、試すことが不可能だからな!〉
「……」
やっと話が見えてきて、ディートリヒはグリおじさんを半目で見つめる。
治癒魔法薬で欠損した部分……肉や皮膚、骨や神経などを新たに作り出す場合、完全に元に戻るわけではない。小さい範囲であれば見分けがつかないほどに治るが、その範囲が大きければ大きいほど、元の状態から劣化してしまう。
これは鍛えて成長させた部分が、鍛えられる前の状態に戻るためらしい。要するに、成長がなかったことにされてしまうのだ。
しかし、完全に生まれたままの状態まで戻るわけではない。
欠損部分を補う際に周辺の状態を読み取って、それに合わせて新しく部位を作り出しているらしい。つまり、ある程度は鍛えられた状態での復活となる。
この差異は一定ではなく、魔法薬の品質や効果に左右される。
ロアはその差異を知りたがっていた。
だが、実際に手足を失うほどの大ケガをする人間が身近におらず、仕方がなしに検証は保留されていたのだった。
〈最初はうっかり寝坊助の腕を斬り落としてやろうと思ったのだがな、それだと我が小僧に怒られそうだったのでやめた〉
当然のようにグリおじさんが自分の腕を斬ろうとしていたことに、ディートリヒは顔色を青くする。
〈そこにちょうどいい感じに剣聖が我と戦いたがっていたのでな、そやつと戦って腕を斬ることにしたのだ! これなら剣聖の望みも叶えられ、我も小僧の褒美が準備できて一挙両得であろう? 誰も損はせぬし、小僧にも怒られぬのだぞ!〉
とても良いことをしたとばかりに、グリおじさんは目を輝かせて熱弁した。
グリおじさんが言葉を重ねる度に、ディートリヒの頭は冷めていく。言いたいことは分からなくはないが、心情的にはまったく納得できない。剣聖はそう簡単に心を折られたりはしないだろうが、それでも魔獣に剣で負けたとあっては多少なりとも落ち込むだろう。
それに腕を斬られた直後と、治癒魔法薬を飲んだ後の凄惨な光景が頭を過る。あんな苦しみを与えられて一挙両得などと喜べるはずがない。
〈それにだ! 運良く口うるさい女の分の褒美まで準備できたのだぞ!〉
「はあ?」
口うるさい女とはコルネリアのことだ。
望郷の中でシーサーペント討伐の一番の功労者はコルネリアで間違いないだろう。彼女は船の上で頑張って、襲い来るシーサーペントを狩っていた。ディートリヒの目から見ても、褒美を与えられるに相応しい。
しかし、今この状況でコルネリアへの褒美の準備ができたと言われてもよく分からない。
どうせまた変な理屈で思いついたのだろうなと、ディートリヒはため息をつく。
〈寝坊助、剣聖はもう落ち着いたようだぞ? もう押さえずともいいであろう?〉
「え? ああ……」
気付けば、剣聖は眠っていた。
先ほどまでの苦悶の表情や身体の跳ね上がりが嘘のように、落ち着いている。
超位の治癒魔法薬によって新しく生えた腕も、キレイなものだ。日に焼けていた肌も、若干色が薄いものの再現されており、それほど元の腕と変化があるようには見えなかった。
〈見た目は良さそうだな。あとは剣でも振らせて動きの差異を小僧に伝えておけ〉
「ああ」
当然というようにグリおじさんはディートリヒに命令する。反論してもどうせやらされるのは確定だろうし、自身も剣聖の腕の状態は気になるので、ディートリヒは素直に受け入れた。
〈それよりも! 寝坊助、貴様は今も惚れ薬を持っておるだろう? それに剣聖の髪を入れてそこの男前の女に飲ませるがいい〉
「は?」
また、話が分からなくなったとディートリヒは首を傾げる。
先ほどからまともな返事が何も返せていないディートリヒだ。それもこれも、グリおじさんの自己中心的な、人を人とも思わぬ傲慢な考えがまったく読めないせいだろう。
惚れ薬は、グリおじさんからロアが隠し持っていると聞き、ディートリヒが交渉して半ば無理やり譲り受けた物だった。
通常売られている、効くか効かないか分からないような代物ではない。ロアが作った、ちゃんと効果があって禁忌となっている惚れ薬の魔法薬だ。
使用方法は、自分の身体の一部を薬に混ぜ込んで、惚れさせたい相手に飲ませるだけ。
髪の毛が一番効果が弱く、血や肉などを入れるほど効果が強くなる。一番効果が強いのは魔力を惚れ薬に染み込ませることだが、それは錬金術師や魔術師でないと上手く行えず失敗してしまう。
強制的に惚れさせるという触れ込みだが、効能の詳細は、混ぜ込んだ身体の一部の持ち主が発している魔力を心地好く感じさせ、離れがたい気持ちにさせるというものだった。
ロアはこの惚れ薬の魔法薬を渡す際、ディートリヒといくつかの約束をした。
そのうちの一つは、髪の毛以外の物を入れないようにするというものだった。
髪の毛を混ぜたくらいならば効果は弱く、嫌われている状態から何の好悪の感情も持っていない状態に戻る程度だった。それならば実害はないだろうという判断だ。
〈どうせ貴様は、使える機会がいつ訪れるか分からないと考えて、持ち歩いておるのだろう? さっさと出して男前の女に飲ませろ。それが口うるさい女への褒美になる〉
「話がまったく読めないんだが? とうとう頭がいかれたか?」
思わず、ディートリヒが言い返す。
〈なに? 貴様、我に逆らうのか? 貴様が今持っている惚れ薬は、数本あったうちの一本だけであろう? それ以外の惚れ薬を何に使ったのか、小僧にばらすぞ! ハゲ商人が女王に献上するつもりで保管しておいた酒に混ぜたであろう? しかも自分の血を入れたであろう? 薬の力を使って、あの女を言いなりにして復讐しようとするとは、実に器の小さな寝坊助らしいな!〉
「何でそれを……」
〈気付かぬはずがあるまい。あの屋敷にいる間、我は全てを監視していたのだぞ。貴様とそこの剣聖が商売女を連れ込んで何をしていたのかも知っている。それも小僧と口うるさい女にばらそうか?〉
「うわぁ……」
ディートリヒの顔色が変わる。その場でしゃがみ込んで、頭を抱えた。一番知られてはいけないやつに、弱みを握られていることに気付いたのだ。
〈分かったなら、さっさと惚れ薬を飲ませろ〉
勝ち誇ったように、グリおじさんは宣言した。
「せめて、理由くらい……」
秘密を握られたディートリヒは、奥歯を噛みしめて悔しそうに言った。
〈男前の女は、剣聖にそれなりに好意を持っておる。我の見極めでは師弟の情だけではなく、ほのかな男女の情すらな。そこに惚れ薬を使えば、常に行動を共にしたくなるくらいの好意になるであろう?〉
「それが何だよ?」
〈剣聖と行動を共にしようとすれば、口うるさい女と一緒にいる時間も減るのではないか? 口うるさい女は男前の女のことを、嫌いじゃないがべったりと一緒にいるのは嫌だと叫んでおったではないか! その望みを叶えてやろうというのだ〉
シーサーペント討伐の時、コルネリアはエミーリアがべったりと一緒に居過ぎることに鬱憤を溜めて叫んでいた。当然、一緒に戦っていたディートリヒも、上空で様子を窺っていたグリおじさんもそれを聞いていた。
グリおじさんの言う通りに事が運べば、確かにコルネリアの状況は好転するだろう。
また、剣聖も義理とはいえ孫娘に好かれて悪い気はするはずがない。
「……確かに、悪い案ではないと思う」
あの時のコルネリアは怖かったからな……と、考えてから、ディートリヒも同意した。
放置しておくとコルネリアの怒りがディートリヒにまで飛び火しそうな勢いだった。それがなくなるなら、同意しかない。
〈理解したならさっさと飲ませろ! これで一挙両得……いや、剣聖の望み、小僧の望み、うるさい女の望み、ついでに我が剣を十分に扱えることを貴様に見せつけられたのだから、一挙四得だな! さすがは我だ‼〉
グリおじさんは自信満々に高笑いを始める。
その声を聞きながら、本当に同意をして良かったのかディートリヒは一抹の不安を感じた。さらに面倒な状況になっていっているような、漠然とした不安だ。
〈おお、そうだ。忘れておった〉
そう言ってグリおじさんは、気持ち良さそうに眠っている剣聖に近づく。そして、新しく作られたばかりの剣聖の右肩に前足を押し当てた。
ジュッと、小さく音がして周囲に肉の焼ける匂いが広がった。
「おい! 何をして……」
〈せっかくだから実験だ。我でもルーとフィーの印と同じことができるのか、試しておきたいと思ってな。なに、無駄だったら消してやる。今は超位の治癒魔法薬の影響があるゆえに、すぐにとはいかぬがな〉
文句を言うディートリヒの言葉に被せるように、グリおじさんは言い放った。グリおじさんが前足をどけると、剣聖の肩にはグリおじさんの前足の形に火傷が残っていた。
〈……ふむ。やはり、ルーとフィーのように魔力を送ることはできぬか。あれは種族的特性による魔法なのだな。この実験を含めて、一挙五得! なかなかいい成果だった!〉
「まったく、何なんだよこの迷惑グリフォン……」
疲れ切ったディートリヒは、呆れた視線をグリおじさんに向けることしかできない。
とりあえず、これ以上酷い状況にならないように、全てロアに報告して釘を刺しておいてもらおうと心に決めた。
だが、ロアの方でも騒動が持ち上がっており、それどころでなくなることをまだディートリヒは知らない……。
第二十七話 海竜の訪問
グリおじさんが剣聖と戦い終わっても、ロアたちはまだ海岸で人々に囲まれていた。
興奮いまだ醒めやらぬといった雰囲気ではあるが、それでも人々は落ち着きを取り戻し始めている。熱烈な賞賛も収まってきており、ロアたちもやっと一息つける状況になってきていた。
引っ切りなしに人に話しかけられ少し疲れは見えるものの、それでもロアは笑みを浮かべている。
愛想笑いではなく、本心からの笑顔だ。
いつもであればこういう場でも「自分なんかが……」と考えて素直に受け入れられなかったロアだが、今回はどこか誇らしげだ。活躍できたという実感が、裏付けとなっているのだろう。
ロアは自分自身の力で多くのシーサーペントを倒した。双子の魔狼に手伝ってはもらったものの、それは誘き寄せてもらっただけで、実際に戦ったのはロア自身だ。
いつも傍らで見守りながら戦いを指導してくれるグリおじさんや望郷の面々も、今回は近くにはいなかった。クリストフはいてくれたが、彼は双子の無茶振りに応えていたため口出しをしてくる余裕はなかった。誰の助けもない中で、ロア自身が戦い方を考え、自分の力で対応した。
その実感から、素直に人々の賞賛を受け入れることができていた。
やっと冒険者として褒められる仕事ができた……そう考えて、ロアは誇らしい気持ちになる。
まだ身体の大きさの都合でナイフでしか戦えていないが、望郷のメンバーとグリおじさんに鍛えられた剣技の成果が出せた。苦労して覚えたことが実った喜びを、ロアは噛みしめていた。
いわば、ロアは初めての成功体験に酔いしれていたのである。
今までグリおじさんが必死に与えようとして無理だった成功体験を、こうもあっさりロアが得ていたのには理由がある。
それは、ナイフでの戦いだったからだ。
ロアは生産や採取の技術、あるいは知識を褒められても、自分程度が易々とできることなんだから大したことではないと考えてしまう悪癖があった。
これは以前一緒にいた暁の光のメンバーに原因がある。彼らもまた、ロア程度が他の作業の合間にできることなら大したことがないと考えていたため、その技術をまったく評価せずにいた。どんなに魔法薬や役立つ道具を作り出そうが、ロアを無能呼ばわりし続けたのだった。
その態度のせいで、ロアも自分がすごいことをやっているなどとは考えもしなかった。
また、ロアは錬金術や生産系の技術を、全て万能職の見習いとしての仕事や、魔獣たちの世話の片手間で学んでいた。ロア自身、知識を得ることを楽しむ人間であったため、他の仕事の合間の息抜きのように行っていた。実益はあるが、遊びや趣味の延長線上と捉えていた。
そうして楽しみながら学んでしまっているため、他の者から見れば凄まじい努力をしていても、ロア本人に努力をしているという感覚はまったくなかった。
そのせいで、実力が認められる状況になって褒められても実感がなかったのだった。
その点、剣の……ナイフの修業は肉体的な厳しさがあり、苦労しているという実感があった。技術を覚えられる楽しみもあったが、同じくらい辛かった。
望郷のメンバーはロアへの指導でも手を抜かず、厳しく、そしていい点があれば褒めてくれた。本気で教えてくれることに応えようと、ロアも必死になって覚え、身体を鍛えていった。
だからこそ、その技術で成し遂げたことを素直に喜ぶことができ、賞賛も受け入れられているのだった。
ついでに言うならば、魔法は発動に関わる魔力がグリおじさんからの借り物であるため、どんなにすごい魔法を使おうがロアはグリおじさんのおかげだとしか考えない。
グリおじさんはグリおじさんで、実績を作るためにロアに魔法を使わせたがる癖に、使えば「気持ち悪い」だの「変だ」だの「非常識だ」だの文句ばかり言う。
この文句は、ロアが魔力操作の才能全振りの、常識的に考えてあり得ない魔法ばかり使うからなのだが、ロアは自分が平気で使える魔法のため、変だということがいまひとつ理解できていなかった。
おかげで、文句ばかり言われるからと、益々ロアは魔法を使いたがらなくなってしまっていた。
要するに、魔法に対する自己評価の低さは、グリおじさんのせいなのである。
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