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第一章 黒紋の男

10 過去見の術

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 次の瞬間、視界から全てが消えた。目の前のウルドも勿論消え、歪んだ色の奔流に飲み込まれる。ウルドにも同様の変化があったらしく、回った腕に強い力が入り、俺の背を掻く爪の先が僅かに食い込む。落ち着かせるために添えた手で頬を撫でて、絡ませたままの舌を強く吸い上げる。
 今いる場所を、置かれた状況を、まやかしの視界ではなく感触で思い出させる。
 瞬時に落ち着きを取り戻したウルドの腕から力が抜け、先程爪をたてた背を遠慮がちに撫でられた。獣の様な雰囲気を纏った男が気にする事かと驚いている間も、詫びる様にゆるゆると動作は繰り返される。
 どうにも可笑しくて耐え切れず小さく笑った俺に気付いたウルドの手がぴたりと止まり、むっとした様子で下唇に噛みつかれた。

 直後、低くざらつくロクの声がした。

「そのまま聞け。見る限り欠損は無いな。おかしな跡も無い。優先順位の高いものから早速いくぞ。ウルド、お前が傀儡紋を刻まれた経緯が知りたい。事の始まりを思い出せ」

 ぴたりと付けられた唇から零れる熱い吐息を分け合いながら、激しく明滅する視界に目を凝らす。一度ぐにゃりと歪んだ視界が見る間に膨らみ勢いよく弾け、突如ピントがあったように目の前が鮮明になった。


 斜陽を背に、ひとり立つ自分がいた。いや、正確に言えば自分とは俺自身のことではない。
 記憶の中の、過去のウルドだ。
 目の前には力なく横たわる男。詰めかけた観客に囲まれた闘技場に、耳が痛い程の歓声が木霊している。
 どうやら戦いが終わり、意識を失い倒れた相手を前に勝敗が決した場面のようだ。臨場感どころか、まるで今目の前で事が進んでいるかのように現実味を帯びた風景。なのに視界の端に行く程、奇妙にぼやけ色褪せている。
 人の記憶特有の現象である。

 頭の中にしか存在しないはずの記憶というものを、普通であれば他人が見ることは叶わない。それを可能にしたのがこの【過去見】。
 獏と呼ばれるロクの種特有の異能である。ロク自身が見ればより正確な事が分かるのだが、今回は俺が記憶を覗く代理の者【潜夢者】としてウルドの記憶を共有した。
 何故なら獏は、種の特性上、見るだけではからだ。
 記憶とは、時と共に頭の中に蓄積された情報である。その情報が、ある時は正確に、又ある時は歪められ、絶えず作り変えられながら上書きされ、記憶と呼ばれるものが形成される。それらはやがて、日々見る夢へと姿を変える。
 夢喰いという二つ名の通り、獏は人の夢を喰らう。
 獏が喰らう夢は、元を辿れば記憶であり情報である。つまり、全て同じ。呼名が何であれ蓄積されたものは全てが喰らう対象だ。
 結果、入り込んだ先にあるそのを、意図せずとも獏は必ず喰らってしまう。
 今後の状況がどう転ぶかわからない今、ウルドの記憶は重要な情報だ。僅かにでも損なう行為は避けなければならない。そのためロクの助けを借りた俺がこうしてウルドの中に入り、記憶を共有するに至ったというわけだ。

 耳に届いていた騒めきが突如大歓声へと変わり、視界が動く。
 記憶の中のウルドがゆっくり向けた視線の先には男が立っていた。国の象徴と言える深紅のマントを風に翻した男が片手を上げると、割れんばかりの歓声がぴたりと止んだ。
 見覚えのある栗色の髪。すらりとした体躯。瑠璃の瞳で真っすぐにこちらを見つめ、男は言った。

「並居る猛者の頂点に立った男、剣闘奴隷ウルド。優勝の褒章に、お前は一体何を望む」

 俺を情婦と宣った子犬の父親、グレビア帝国現皇帝、リアドレスがそこにいた。


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