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最終章
〜最終話〜
しおりを挟む「ない、ない……。――なぁーい!!」
盛大に小田桐にフラれた後、私は傷心に浸る間もなくあるものが無くなっていたことに気が付いた。
「もうっ! 央が変なもの渡すからっ」
持ってきた荷物を全部ひっくり返し、隅から隅まで調べ尽くす。最後にアレを見たのはいつだっただろう。何度思い返そうが飛行機の中で暇つぶしに読んだ小田桐から借りていた本に、しおり代わりに挟んだ記憶しか浮かんでこない。そんなばかなと何度も記憶を辿ってみるも、そうする度に頭に浮かぶのはやはりあの本だった。
そしてその本は既に返却済。……全身から一気に血の気が引くのを感じた。
もう小田桐と顔を合わせる事が出来ない。と言うか、向こうは私を拒絶しているから会いたくても会う事は無いのだろうが、この街にいる限りばったり出くわしてしまう可能性だって否定できない。央には悪いが、やって来た初日に帰る羽目になったとしても、ここまでバッサリ切り捨てられたと知ればきっと納得してもらえるだろう。
「……帰ろう」
そう思うが早いか、すぐに荷物を纏めるとホテルをチェックアウトし、急いで空港へと向かった。
大勢の人が行き交う空港のロビー。スーツ姿のビジネスマンに別れを惜しむ恋人達。今から旅行にでも出かけるのか、家族連れの姿もチラホラ見える。数時間前にここを歩いた時は、よもや同じ日にまたここへやって来ることになるとは、全く考えもしなかった。
私たちはお金だけの繋がりだと断言されたが、あれが彼の本心ではない事くらいわかっている。だが、あんな風にわざと傷つける様な台詞を言わなければならない程、私を受け入れるつもりはないのだという彼の強い意志が、私を退かせた。
ジャッ君達と話をしてから、ずっと引っかかっていた事がある。あの要領のいい小田桐が、英語があまり得意ではないとは言え、知られたくない話をわざわざ叶子さんの前でするだろうか。小田桐は自分が居なくなる事に関する全てを私には言わないで欲しいとジャッ君に口止めをしたみたいだったが、ジャッ君の口振りからして叶子さんに言うなとは言っていない様だった。
本当に知られたくないのなら、小田桐ならもっと上手くやれる筈。そんな疑問がずっと頭の中で引っかかっていた。
「はぁ……」
何を考えているのか本当の事を知る為に飛行機に飛び乗ったものの、目的を果たせなかった今、一体何をしにアメリカまで来たのかよくわからず、激しい虚無感に襲われた。
「――?」
足取り重く、搭乗ゲートへ向かう中。不意に、背後から物凄い勢いで誰かが迫りくる気配を感じた。道をあけるつもりで通路の端の方へ寄ると、通り過ぎるものと思っていたその人物はピタリと足を止め、私の手をおもむろに掴んだ。
てっきり人間違いか何かだと思っていたが、私の手を握りしめて離さないその人物は、私に向かって「早く帰れ」と言った小田桐だった。
「え!? な、何で??」
「やっ、や……っと見つ……けた」
よっぽど走り回ったのか息を切らし、額に薄っすらと汗まで浮かべている。何処となく切羽詰った様子も感じられた。
「何で小田桐が……。――は、離してよ! 私もう帰――」
「行くな!」
「……っ」
あれほど冷たく突き放しておいて、手のひらを返すように真逆の事を言う小田桐に耳を疑う。
「なんっ……、帰れって言ったのは小田桐じゃない!」
息を整える為に深呼吸を繰り返す彼にそう怒鳴りつけると、私の目の前に見覚えのある封筒がスッと差し出された。
「ああっ!」
「これは俺宛?」
「違っ、かっ、返して!」
小田桐はその長い腕と長身を生かし、封筒を遠ざける。私は腕を掴まれたまま、ムキになって封筒を追い回した。
「もう! いい加減にしてよ!」
「あっ」
やっと封筒を奪い返し、ホッと胸を撫で下ろす。同時に小田桐の手からも解放され、急いでその封筒をバッグの中にしまった。
「なぁ芳野。一つ確かめたい事があるんだが」
「何よ!?」
「ここに書いてある事は、お前の本当の気持ちって事でいいのか?」
「は? ――……っ、酷い、騙したのね」
そう言って、小田桐が内ポケットから出したものは、今奪い返した封筒の中に入っていたはずの、央に半強制的に書かされた婚姻届だった。
証人の欄には央の名前とは別に、どうやって書かせたのか桑山さんの署名までしてある。出発前、これを央から手渡された時は、その場を取り繕う為に仕方なく「妻になる人」の欄にサインをしたが、勿論本当にこれを小田桐に渡せるほど周りが見えていないわけではない。第一、アメリカ人の小田桐とでは国際結婚になるのだし、本当に結婚するつもりがあるのならこの書類だけでは受理されない事位わかっている。
私はただ、これを持っていればちゃんと自分の気持ちを伝えられるんじゃないかと、ある意味お守りのつもりで持っていただけだった。そんな事情も知らない小田桐からすれば、こんなところまで追いかけて来て結婚を迫る様な身の程知らずな女、とでも思っているに違いない。
お守りとして持ってきたはずが逆効果となってしまい、この混乱した頭では物事を穏やかに解決する事など出来なくなっていた。
「ば、馬鹿じゃない!? そんなの冗談に決まってんじゃん」
「冗談?」
誤解を解くことに必死になり、声を荒げた事でその場に居合わせた人々から好奇の視線を浴びてしまう。それに気付いても尚、私は自分の気持ちに嘘を重ねていった。
「当たり前じゃない。そんなっ、あ、あああああんたと結婚なんて出来るわけないでしょ!?」
「……」
早くこの場から逃げ出したい。その一心で張った虚勢は、なんの効果も得られなかった。
「もういいでしょ? 早くそれ返して!」
婚姻届を取り戻そうと伸ばした手は、逆に捕まえられてしまう。反射的に小田桐の方へ顔を向けると、本心を探るかの様な薄いブラウンの瞳に射抜かれ、私はその目から逃れる事が出来なくなった。
「な、に」
「出来る、出来ないを聞いてるんじゃない。俺と結婚したいのか、したくないのか。俺と一緒にいたいのか、いたくないのか――どっちだ?」
「そん――」
「俺はお前と居たい。ずっと、一緒に」
「っ、」
今日、一番欲しかった言葉をやっと手に入れる事が出来た。なのに、素直に喜べない自分が居る。ほんの数時間前と真逆の事を言われれば、誰だってそうなるだろう。
何て言えばいいのか困惑していると、どうやら言った本人も同じ気持ちなのか、慎重に言葉を選んでいる様子だった。
「自分勝手だって責められても仕方ないが……。アメリカに戻るのだって本心ではお前も一緒に来て欲しいと思ってた」
「『思ってた』……って。言わなきゃ何も伝わんないじゃない」
「怖かったんだよ。俺が傍に居ると、どうしたってお前を傷つけてしまう。……ああっ! クソッ、自分が一緒に居たいからって相手の人生を滅茶苦茶にしてしまってもいいのかって考えると、どうしても言い出せなかったんだよ!」
「小田桐……」
私たち二人はいつもこうしてすれ違う。ほんの僅かな時間差で互いの気持ちにズレが生じ、軌道修正が出来ないまま別々の道を歩き出す。その決断を下した時は、これが最善の選択なのだと思っているけれど、必死で抑え込もうとする感情はいつかどこかで爆発する、という事も十分過ぎる程理解していた。
「だから、俺が離れさえすれば芳野は今まで通り平穏無事な生活が送れる。きっと俺たちは一緒に居てはいけないんだと思いを断ち切るつもりでアメリカに来たけど、……こんなの見せられたら流石にもう冷静な振りなどできやしない」
「それは……本当に違うから。そんなつもりで書いたんじゃ」
先ほどまでは奪い返そうと必死になっていたのが嘘の様に、目の前に差し出された婚姻届けを直視する事が出来ずに目を逸らした。小田桐はそんな私の手を掬い上げると軽く握り、指の背に唇を触れさせた。
「俺は一度始めた事を途中で放っぽりだす事が出来ない性分だ。この街で新たに始める事業は自分が指揮を執ると決めた以上、もう日本に戻る事は無いだろう」
「……うん」
「だからこれはお前が決めてくれ」
天を仰ぎ、小田桐が大きく深呼吸する。再び目があった時、小田桐の目に迷いというものは一切感じられなかった。
「俺と一緒に居てくれないか? もし、答えがノーなら、この手を離してそのまま搭乗ゲートに向かえばいい。……もう追いかける様な事はしないから」
胸の高さまで持ち上げられた手は、ほんの少し引っ込めるだけですぐに解かれるだろう。この手を引けば本当にこれで終わり。彼の落ち着いた表情を見る限り、その言葉に嘘偽りはないという事がよくわかった。
「――」
「……っ、」
そして私は決断する。ゆっくりと手を引っ込め様とすると、僅かに追いかけて来るような圧が指に伝わった。だが、それもすぐに感じなくなった。
「わ、かった……」
小田桐は全てを理解したかのような諦めの表情を見せる。
「見送りだけでもさせて欲しい」
と、珍しく気弱になっているそんな彼の胸元めがけ、私は勢いよく飛び込んだ。
「ほんっと、面倒なんだから。あんたって男は」
「芳野?」
小田桐の胸元で顔を上げると、手持無沙汰に両手を広げながらキョトンと目を丸くしている。
「私の人生が滅茶苦茶になる? 大きなお世話だっての。私がどんだけ修羅場潜り抜けて来たか教えてあげようか?」
わざとおどけてそんな風に言って見せると、丸くなっていた目がまるで眩しいものでも見るようにして細められた。
「……――そうだったな。うっかりしてた」
「だから――。これからは私があんたを守ってあげるよ」
うんと背伸びをし、小田桐の首に腕を回した私の背中を、躊躇いがちに小田桐の長い腕がそっと抱き寄せた。
慌ただしく部屋の中へ入ると、扉が閉まるよりも先に小田桐に背中を抱き締められた。背中一面に彼の体温を感じ心臓がドクンっと大きな音を立て、否応なしに早く刻み始めた脈動に息をする事さえ忘れてしまう。一瞬にして、私の身体は固く強張っていた。
「あっ、の」
「抱きたい」
「……っ」
右肩に顔を埋め呟いた言葉は切なさに満ちている。両手の自由を奪うように腹部にかかる小田桐の両腕は、徐々にその強さを増していった。
小田桐にしては珍しく余裕の無い掠れた声。背中越しに伝わってくる鼓動の早さが、今の彼の心情を表していた。
「……っ」
筋張った手が長い髪に触れる。うなじを掠めた指先は冷たく、露わになった首筋に冷たい唇が触れた。
「ん……っ」
襟元のボタンはあっという間に幾つか外され、冷たい掌がするりと鎖骨を滑り落ちる。普段ならばその温度差に飛び跳ねて驚くところだが、そんな事も気にならないほど私の身体は熱く火照り、小田桐を求めていた。
だが、それとは裏腹に鎖骨を這う彼の手に自身の掌を重ね、ストップをかける。腹部にかかる小田桐の手首をも掴むと、自分の身体が小刻みに震えていたのがわかった。
「……芳野」
ただ、名前を呼ばれただけだと言うのに、小田桐が何を言わんとしているのかがわかってしまう。極度の緊張で今にも心臓が張り裂けそうだ。
「……」
私は声を出すことが出来ずにただ小さく頷くと、はぁーっと小田桐から安堵の溜息が漏れた。
白いシーツの波の中。冷えた身体を温め合うように二人の四肢が絡み合う。小田桐の腕の中はまるで生温い波に揺られているみたいに心地良く、寵愛の雨を降り注ぐかのような優しい口づけは、二十年間閉ざされていた私の心をも難なく溶かした。
私の身体にまるで刻印でも押すかの様に、余すことなくキスを落としていく。だが、温もりが左の腹部に到達した時、それはピタリと止んだ。
「まだ……痛むか?」
「? ……ああ、うん。ちょっとね」
刺された痕にそっと指先で触れ、そこを癒すかのように優しく口づける。繋いでいた手に、グッと圧が増したのがわかった。
顔を囲う様にして肘をつき、互いの存在を確めるかの如く何度も甘いキスを交わす。唇が離れる度に熱っぽい目で見つめられると、ぎゅっと胸が締め付けられた。
真上に見る小田桐は、薄い唇が少し開き浅い呼吸を繰り返している。上気したその頬に手を添えれば、小田桐は少し驚いた様子を見せたものの、すぐに、欲しいものをやっと手に入れた子供の様にその目尻を下げた。
「俺、こういう耐性ってあんまないから。やばいな、暴走するかも」
「何の耐性?」
「幸せだ――って思う事だよ」
小田桐は少し照れながらそう言うと、二人とも引き寄せられる様に再びその唇を重ねた。
~END~
「ただいま。――って、寝てるのか」
仕事を終え帰宅してみると、ソファーの上でうたた寝をする芳野を見つける。いい匂いが部屋に充満している事から察するに、今夜のディナーは既に準備が終わっているのだろう。それならば、と、あいつが目を覚ますまで一杯飲んで待つことに決めた俺は、その足でキッチンへと向かった。
冷蔵庫からビールを取り出し、芳野が眠るソファーの前に腰を下ろす。片手でネクタイを緩めながら缶の蓋を開けると、頭上でゴソゴソと動く音がした。
「……ん、――あ、お帰り」
「悪い、起こしたか?」
「ううん、こっちこそごめん。すぐご飯用意するね」
「いや、後でいい。今これ開けたところだから」
ソファーから立ち上がり、キッチンへ向かおうとする彼女の手を摑まえる。
「そ?」
「ああ。それより、ほら。こっち来いよ」
捕まえた手をグイッと引っ張ると、芳野は素直に俺の隣に座った。
「――?」
まだ眠いのか、芳野が俺の肩に寄りかかってくる。甘えるようなその仕草が、とても愛おしい。今すぐにでもその唇に触れたい衝動に駆られたが、一度触れてしまえば抑えが利かなくなる己の性分を思うと、まだ食事も終えていない今は手を握りしめるだけにしようと我慢する事にした。
「あっ、そうだ」
「ん?」
「今日央からメールがあってね、お正月にはこっちに来れるって」
「そうか。今年は賑やかな正月になりそうだな」
芳野は想像したのか、「ふふっ」と小さな笑い声を上げている。俺は俺で、央がこっちに来たらどこへ連れてってやろうか、などと考えていると、隣で芳野が欠伸を我慢しているのに気が付いた。
「眠い?」
「……うーん」
「まだ寝てていいぞ」
「ん、ありがと……。それ、飲み終わったら起こして……ね」
そう言うが早いか、あっという間に眠りに落ちた芳野は、すぐに規則正しい寝息を立て始める。二人にとって初めてのクリスマスだと言うのに、随分凝った部屋の飾りつけからして準備に力を入れ過ぎたのだろう。俺の恋人はどうやら酷くお疲れのご様子だ。
「せっかく手続きに必要な書類、用意したってのに」
浮足立ってるのは自分だけなのかと、胸ポケットに入っている既に俺のサインが入った書類を見て溜息を吐いた。
「……」
持っていたビールを置き、内ポケットを探る。探し当てたベルヴェット素材の小さな箱の中から、細いリングを取り出した。
「そういやぁ、今までプレゼントらしいものなんか一度も上げた事ないな」
恋人に初めて渡すプレゼントがまさか結婚指輪になるなんて、と、自分の不甲斐なさに呆れる。握りしめていた手をそっと持ち上げ、芳野に気付かれない様にゆっくりと薬指にそのリングをはめた。
「……?」
ほんのりとピンク色に染まる芳野の頬。それを見て自然と口元が緩む。俺はたまらず芳野の額に口づけを落とすと、すやすやと寝息を立てる愛しい人に、「メリークリスマス」と囁いた。
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