最高の和食

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第五章 魚の目に水見えず、人の目に空見えず

第五話~怒りの矛先~

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 鋭い目つきで陸と柚希を睨み付けながら、ゆっくりとした足取りで歩き出す。翔太郎の照準は陸へと定められ、彼の前まで来るとピタリとその足を止めた。
 間近で見る怒りに満ちたその表情に、悪酔いして喉のすぐそこまで出かかっていたものが一気に引っ込む。完全に誤解しているのだと柚希は察するも、今ここで疚しい事は何もないのだと言い訳を始めでもすれば、それこそまた昨夜の様に「勘違いするな」と一蹴されそうだ。
「好き」のたった一言すら言われたことの無い今の現状を考えると、翔太郎と付き合っているのだと胸を張って言える程の関係ではなかった。

(そ、そうだよ。別に発条さんと付き合ってるわけじゃないんだからそこまで気にすることも無いでしょ。陸とだって別になんもないし? ……いや、全く何もないとは正直言い難いけど。で、でも! 今日だってちゃんと断ったんだから。……ただ、まぁ、断り切れなかっただけで。わ、私は普通にしてればいいんだって、変に言い訳染みた事言えば余計不審に思われる)

 惚れた弱みとよく言うけれど、ここはビシッと年上らしく堂々としなければ。ヨシと胸の前で小さく拳を握りしめると二人の間に割って入り、隣に立つ翔太郎を見上げた。
  
「――」
「……っ、――あ、あのっ、違うんです! 私がちょっと飲みすぎちゃったのがいけないんです! 一人で帰るのは危ないからって、陸はその、ほんと送ってくれただけで」

 そんな決意も翔太郎の一睨みで跡形もなく消え去る。気付けば自然と言い訳がましい台詞が次から次へと口を衝いて出ていた。  
 今にも陸に掴みかかりそうな雰囲気を纏い、お互い無言での睨み合いが続く。一触即発とも言えるこの二人に、柚希はただならぬ緊張感で押しつぶされそうになっていた。
  
「『病み上がりなんだったらやめとけ』ってちゃんと陸は止めたんですけど、私が無理言って色々出して貰っちゃって」
  
 陸は何も悪くない、と訴え続ける柚希に翔太郎の視線が移る。まるで蛇に睨まれた蛙の如く絶対零度のその視線に目を逸らすことが出来なくなった柚希は、彼の右手が上がったことに気づくのが遅れた。
  
「だからっ――、……っ!?」
  
 パシンッと乾いた音が深い闇の中で響き渡る。一瞬の出来事で何が起こったのかすぐにはわからなかったが、左頬にピリピリと痛みが走った事で翔太郎は陸ではなく自分の頬を叩いたのだと気付いた。
 よろけた柚希を陸が支える。呆然とした顔で頬に手を添えると、確かにそこに痛みが走ったのだとわかった。
  
「ちょっ!? おい、お前! 何す――」
  
 陸に寄り掛かる柚希の腕をぐいと引っ張り、翔太郎は二人を引き離す。叩かれた頬を手で覆ったまま、瞬きをも忘れて放心状態となっている柚希を隣に立たせると、翔太郎は陸に向かって頭を下げた。
  
「“これ”が迷惑かけたみたいで、すみませんでした」
  
 その言い方からして、柚希はもう自分のものであると言っているのと同じだった。前に会った時の印象ではどこか冷めてはいたもののムキになる辺り若さを感じていたが、今の翔太郎は二つ年上の陸から見ても十分落ち着いた対応をしていると言える。柚希の話を聞く限りでは二人の仲が特段進展している様子は感じられなかったが、実際目の当たりにしてみれば随分違った印象を受けた。
  
「……って、てかさ、いきなり女殴るってどうよ!?」
「後はこっちで何とかしますんで。では、失礼します」
「は? ちょっと待っ――、俺の話を聞けよ!」
「ほら、しっかりしろ。さっさと歩け」
「は、はい」
  
 陸の問いかけをシャットアウトし、柚希の腕を掴んだままで翔太郎は踵を返した。
  
  
  
  
  
 自分の部屋が汚部屋と化しているのを自覚している柚希は、いつもなら陸以外の誰かを家の中へ招き入れるのを躊躇するのだが、昨日既にその状態を見られた上に掃除も翔太郎にやってもらったお陰でそれに関しては特に不安視はしていない。ただ、人前でも容赦なく引っ叩く様な人間が、人目の無いところでだとどうなるのだろうかと考えると、今までに味わったことのない未知なる恐怖で足が竦んだ。
 正直、女性に手を上げるタイプだとは思っていなかったのもあり、軽く頭が混乱している。今からでも遅くはない。戻って陸に助けを請うべきではないか。でも、そんな事してしまえばそれこそもう終わりだと、柚希はまとまりのつかない頭でぐるぐると考えていた。
  
「さっきから何ボーっとしてんだ。鍵、ねェーの?」
「――っ、あ、い、いえ。……ど、どうぞ」
  
 はたかれた頬がじんわり赤く染まる。バッグの中を探り急いで扉を開けると、翔太郎を先に部屋の中に入るように促した。 
 背後に翔太郎がいるのを感じながら鍵を閉める。柚希はそのまま振り返ることが出来ず、扉に両手をピタッと張り付けた状態で固まっていた。
  
(ど、どうしよう……。自分ちなのに中に入れない)
  
 何も物音がしない事で、翔太郎もまだ玄関先で佇んでいるというのがわかる。恐ろしくて振り返ることが出来ないものの、きっと怒りの表情で仁王立ちになっているのだろうと背中越しに感じていた。
  
「……。――?」
「すまん、痛かったか?」
  
 叩かれた頬に翔太郎の手が触れ、ビクッと肩を震わせる。さっきは突然の事で気づかなかったが、その手がとても冷たくなっていたことに驚いた。
 一体いつからあそこにいたのだろう。気にはなるも、それを聞いてしまえば余計に気分が落ち込んでしまうかもしれない。そう思った柚希は口を閉ざし、まるで油の差し忘れたロボットの様にゆっくりと顔を横に振った。
  
「……何でここにいるんだ、って思ってる?」
  
 翔太郎の手が離れても、柚希は背を向けたまま黙って頷いた。
  
「俺だって来るつもりなかったよ。でも、あんた、メールも電話も無反応だし、もしかしてまた体調が悪くなったのかもとか考えちゃって」 
「えっ? 嘘??」
  
 慌ててバッグの中から携帯電話を探り当てる。ずらっと並ぶ翔太郎の名前を見た柚希は、しまったと思うと同時に今の自分の置かれている立場も忘れ、嬉しいという気持ちが同時に込み上げてきた。
  
「すみませ――」
「別に、何もなかったってんならそれはそれでいいけど。……俺が一人で早合点したとはいえ、当の本人は酔っぱらって男と帰宅とか。正直ちょっとむかついた」
「……ごめんなさい」
  
 ゴンと鈍い音が響き、冷たい扉に額が触れる。「夜更かしばかりしてないで、さっさと寝ろ」と念を押されたと言うのに、その忠告を無視して病み上がりに飲みに行っただけでなく、陸と一緒にいたところを見られたのだ。翔太郎の事を好きだ好きだと言ってる割に、他の男と遊んでるんだなと思われても仕方がないのかもしれない。
 陸に向けられていると思っていた怒りの矛先は、意外にも柚希に向けられた。殴られたと言うその事実だけを見て恐怖に慄いてしまった自分が恥ずかしい。翔太郎はちゃんとその場の状況を見ただけで判断するのではなく、落ち着いて考え、そして行動に移す事が出来る人間なのだ。

「申し訳ありませんでした」

 消え入りそうな程か細い声で、もう一度謝罪の言葉を口にした。

「悪いって思ってんならちゃんと俺の目を見て言うんだな」
「余計な心配かけさせてしまって申し訳ないとはほんとに思ってます。……でも、だからこそ今は発条さんの顔が見れません」
「はぁ? 何で?」
  
 ドスの効いた声になればなるほど余計に振り返ることが出来なくなる。「こっちを向け」と言う翔太郎に対し、柚希はひたすら「嫌です」と言い続けた。
 心配させた事に対しては謝るが、どうしても腑に落ちない事がある。そもそも、何故こんなにも自分は心配されなければならないのか。
 追い詰められた鼠の最後の悪あがきとばかりに、一旦は収まりつつあったその思いを一気にぶちまけた。

「あんたな、いい加減に――」
「……っていうか! そもそも私は発条さんの何なんですか? 私の事好きかどうかわからないって言ってたし、それって、その、つまり……付き合ってるとかって言うわけじゃないんですよね? 付き合ってないなら、別に私がどこで何をしてようがどうでもいいんじゃないんですか?」
  
 本当はこんなことを言いたいわけじゃない。愛情からなる好きではないにしろ、自分の事を気にかけてくれていると言うのは十分伝わっている。しかし、はっきりと言葉にしてもらえない内は自分の立ち位置があやふやなものとなり、柚希もどう立ち回ればよいのかがわからない。このままだと、今回だけに限らずまた同じことが起きるかもしれない。その度に、消化不良のこの想いを内に秘めたまま又軽くあしらわれ、無かった事にさせられるのだろう。
 気を持たせるだけ持たせておいてこのままダラダラと関係を続けられるよりも、ダメならダメだとはっきり言って欲しい。柚希は半ば、翔太郎に決断を委ねる様な言い回しをした。
  
「――もういい。帰る」
「……え?」
  
 心底あきれた様なため息が背中越しに聞こえる。その様子から察するに、翔太郎からすればなぜわからないのかがわからない、といった所だろう。そして、これ以上ここにいても時間の無駄だとでも思ったのか、全く振り返ろうとすらしない柚希の背を囲う様にして、翔太郎はドアノブに手を伸ばした。
 このまま彼の真意もわからず、又もやもやとした日々を繰り返すのはもう嫌だ。引き留めようと反射的に顔を上げた柚希は、翔太郎の口元が嫌らしく吊り上がったのを見た瞬間、まんまと彼にしてやられたのだと気付いた。



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