最高の和食

まる。

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第五章 魚の目に水見えず、人の目に空見えず

第四話~不測の事態~

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 翌朝、目が覚めたと同時にぐうと腹が鳴った。そう言えば、と、冷蔵庫に保管されている翔太郎お手製のおかゆを取り出すと、それをレンジの中に放り込んだ。もし、調子がいいようであればこれも乗せて食べればいいと言われていた肉味噌と葱もたっぷりと乗せる。余った時は茹でたうどんに絡めたり、冷凍してもいいと言われたが、そんな心配はご無用とばかりに結局全部平らげてしまった。
 翔太郎の看病の甲斐あってか、今朝は熱も下がり身体も軽い。もう少し休んでいたい気もするが、柚希の代わりに仕事をやって貰っているまどかに何を言われるかわからない。一日休んだツケがどれほどのものなのかと不安になるものの、仕方ないとため息交じりに重い腰を起こした。

 たった一日とは言え、仕事に穴を開けてしまえばやはり皺寄せが来る。いつもより数時間早めに出勤したものの捌いても捌いてもキリがなく、やっと落ち着いた頃には今まさに終電が発車する時間となっていた。

「……こんな時間じゃ流石に無理だよね」

 昨日も会ったと言うのに、今日もまた会いたくなる。だが、土台それは無理な話。相手の事を考え、今すぐにでも会いに行きたいという気持ちに蓋をした。

「仕方ない、一杯飲んで帰るか」

 普通の感覚ならば、病み上がりの身体を休めたいが為に一分一秒でも早く帰ろうとするものだが、柚希は少し違う。日頃の不摂生が祟ったせいで体調を崩したという事もすっかり忘れ、どうせ同じタクシー代を出すならば少し遊んで帰ろうと、陸のいるバー・デスペラードへと向かった。

「……あっ、そうだ。せめてお礼のメールだけでも送っとこ」

 バッグから携帯電話を取り出す。

「『では、おやすみなさい。』――送信っ……と。これでヨシ」

 全然懲りていない柚希は、疲労した身体を癒すために、今日は思う存分酒を堪能するぞと鼻息を荒くした。



 店の扉に手を掛けた時、新着メールを知らせる着信音が聞こえた。まさか、翔太郎からもう返信が来たのかと半信半疑になりながらも携帯を片手に店の扉を開けた。

「いらっしゃいま――……なんだ柚か」
「なっ、なんだとは何よ。お客様に向かって」

 むすっとした面持ちでいつものカウンター席へと着くなり、陸に生ビールを注文する。すぐにメールのチェックをすると、予想通り翔太郎からのメールだったことに驚いた。

 ――「体調管理も仕事の内だ。夜更かしばかりしていないで、さっさと寝ろ」

「ふふっ」

 翔太郎らしい文章に思わず笑みが零れる。一見すると、厳しい言葉の様にも思えるが、今の柚希には恋愛フィルターがかかっているせいか素っ気ないこの一文には翔太郎の愛情が詰まっているのだと、自分に都合よく解釈することが出来た。
 合鍵を拒絶されたのはきっと嫉妬から来るものだ。いくら終わったこととはいえ、前の彼氏の話をして喜ぶ男などいない。長い付き合いであればそう言った刺激も時には必要だとは思うが、まだ完全なものになっていない状態でそんな上級者レベルの会話をするには少々気が早すぎた様だった。

「あいよ、お待ち」
「……ちょっと陸。ここは寿司屋じゃないんだから、もうちょっと色気のある接客した方がいいと思うよ」

 携帯電話を見つめ、にやにやとだらしなく顔を緩ませていた柚希の前に、それこそ色気も何もない生ビールがどんと置かれる。

「はい喜んでー」
「うーわっ、棒読み甚だしいな」
「何で柚ごときに色気のある接客をしなきゃなんねぇんだよ」

 わざと棘のある言い方で返した陸だったが、当の柚希はそのことに全く気付いておらず、再び画面に見入っていた。
 元々二人はこういったやりとりが多いには多かったが、陸としてはあの日を境に柚希に対する態度に変化が見られている。柚希が誰の事を好きであろうと受け入れると言ったものの、一度手に入れられそうな距離まで近づいた事で欲が出始めていた。

「せめて、俺の前だけでも忘れて欲しいと思うのは、……俺の我儘なのかね」
「ん? 何か言った?」
「んーにゃ」
「そ? あ、陸、生ハム頂戴。あとチーズも」
「あいよー」

 そんな陸の想いも知らずに、柚希は呑気に店にやって来る。
  
「――はぁーっ……」

 持って行き場のないこの感情を一体どこに向ければいいのかと、陸は重いため息を吐いた。



 ――数時間後。

「ほんっと信じらんねッ! お前には世の中の常識とかって通用しねェの!?」

 足元の覚束ない柚希の肩を組み、暗い夜空に向かって陸が発狂する。傍らには酔いつぶれてどうにも一人で帰れなさそうな柚希が、またもや陸の世話になっていた。

「う゛ー、あんま耳元で騒がないでよ」

 前回送ってもらった時とは違い、二人の関係も随分変わっている。やや一方的ではあるが貪る様なキスをし、普段は隠されている部分も晒した。翔太郎とですらそんな行為はまだだと言うのに、友人だと思っていた陸とはあれよあれよと言う間にそんな事になってしまった。
 陸がどんな目で柚希を見ていたのかを知ったはずなのに、無遠慮に別の男との恋愛相談をしたかと思えば無防備に酔いつぶれる。陸が平静を装えば柚希は隙だらけになり、友人関係を必死に保とうとしている自分があまりにも滑稽に思えた。

「――」

 ふぅと深呼吸したかと思うと、陸の表情が真面目なものに変わる。

「……なぁ、柚」
「うぅ――……、何?」

 思いつめる様に自分の足元をじっと見つめ、一呼吸置いてから呟いた。

「……もう俺にしとけよ」
「んぁ? 何が?」
「そんな、……何考えているのかわかんねェような奴よか、はっきりお前が好きだって言ってる俺の方がいいだろ、って話」
「あ、ああ、その話」

 陸が何を言いたいのかやっとわかったものの、今の状況を考えると話しをすることは愚か、まともに考える事も出来ない。どうやってこの場を切り抜けようかと眉を顰めた柚希は、

「とりあえず、今ちょっとアレだから出来れば又の機会に再度問い合わせて貰えないだろうか」

 と切羽詰った様子で陸に訴えかけた。

「何言ってんの。今だから聞くんだろ?」
「うぇ?」
「お前がぼんやりしてるうちに口約束でも既成事実でもなんでもいいから作っちまえば、こっちのもんじゃん?」
「……それ、本人に向かって言ってる時点で、もう無理なんじゃないかと思――、……うぷっ」
「ああ、もうほら。小さい脳みそであんま考え過ぎんな」

 急に襲ってきた吐き気に思わず立ち止ると、肩を抱いていた陸の左手が優しく背中をさする。病み上がりな上にすきっ腹でアルコールを流し込んでしまったのが、今になってじわりじわりと効いてきたようだった。

「あー陸、もういいよ。後は一人で帰れるから。タクシーさえ乗ってしまえばこっちのもんだし」
「そんな一か八かみたいな状態でほっとけるわけないだろ。それに、運ちゃんだってそんな状態の客をポイッと乗せられたらたまんないっての」
「そんな事――」
「それにほら」
「?」

 陸は柚希に見せるようにして自身の胸元を指差した。そこには、陸の胸元に軽く手を添えている柚希の掌があった。

「俺にはこれが『私を放っていかないでくれ』と言ってる様にしか見えんよ」
「……あ、いや、これは」

 その手は控えめではあるが縋りつく様に陸のコートをぎゅっと握りしめている。指摘されて慌てて手を離そうとしたが、陸の大きな掌が重なりそれを阻んだ。

「俺で出来ることならなんだって引き受ける。……変に気を使われる方が逆に辛い」
「そういうつもりじゃ」
「なら、送らせて。もう前みたいな事するつもりは無いからさ。……友達として柚が心配なんだよ」

 そう言ってくれる陸を跳ね付けることなど出来るわけがない。渋々ではあるが、柚希は陸のその申し出を受け入れた。


 ■□

 崩れ落ちるようにして柚希がタクシーから降り、それに続いて支払いを終えた陸が慌てて駆け寄る。ずっとタクシーの中で我慢していた分一気にきてしまったのか、柚希は降りるなり道端にしゃがみ込んだ。

「おい、柚、大丈夫かよ?」
「も、……ダメ……ぽ」

 立ち上がらせようと陸に両脇を抱えられるも足に力が入らず、立ち上がることすら出来ない。しまいには道路に寝そべるなどと、どんどん悪い方へと向かっていた。
 柚希のアパートはもうすぐそこだ。あと少しの辛抱だと柚希を勇気づけるも、青白くなったその顔色がもうどうにも無理なのだと物語っていた。

「おま、こんなところで吐くなよ!? もう家着いたからあとちょっと頑張――? ……んだよ、あいつ」

 脇の下に入れられていた陸の手がするりと抜けおちる。立ち上がり、一点を見つめている陸の視線の先を柚希は追った。

「うぅ、……な、に? どうし――。……っ!!」

 アパートの入り口にあるアーチの下で、一つの大きな影を見つける。二人が乗ってきたタクシーがその影の横を通り過ぎる時、ヘッドライトの明かりに浮かび上がったのは、鋭い目つきで二人を睨み付ける翔太郎の姿だった。
  
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