最高の和食

まる。

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第五章 魚の目に水見えず、人の目に空見えず

第二話~飴と鞭~

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 わきに挟んでいた体温計を取り出し、赤い顔で虚ろな目をして柚希が呟いた。

「うぁあー……。全然下がる気がしない」

 久し振りに熱を出し、やむを得ず今日は仕事を休んでしまった。
 ただでさえ不規則な仕事だと言うのに、少しでも暇が出来れば志の田やデスペラードに行ったり、はたまた、まどかと飲みに行ったりで柚希は全く身体を休めようとしない。今回こうやって熱を出したのもいわばなるべくしてなった様なもので、休みの連絡を入れた時には上司である白泉に厳重注意を受けた。

「……お腹減った」

 思えば今朝から何も食べていない。部屋の中が薄暗くなってきたことでもうすっかり日が落ちたのだと思うと、熱があることも伴ってかどうにも気分が落ち込んだ。
 とりあえず、薬を飲むために何かお腹に入れた方がいいだろう。重い身体を起こして冷蔵庫の中を開けてみると、年頃の女性の部屋にある冷蔵庫とは思えないほど、見事なまでに何も入っていない電気代のかかるただの箱に成り代わっていた。


 ■□

 眠りを妨げるように電子音が鳴り響く。布団の中からにゅっと手が伸び、闇雲にその音を発している物体を探した。きっと会社からだろう。何かやらかしてしまったのかと考えながら液晶画面を見やると、そこにはいつもの見慣れた名前ではなく最近登録したばかりの翔太郎の名前が映し出されていた。

「――! ……っもしもし!」

 熱でぐったりしていたのが嘘の様に、一瞬で目が冴える。まさか、翔太郎から電話がかかってくるとは露程にも思ってもいなかった柚希は、ベッドの中から慌てて飛び起きた。
 篠田が倒れた時に、翔太郎の電話番号とアドレスをゲットしたものの、仕事以外で連絡を取り合ったことはない。入手方法がそんな形だっただけに、私用で連絡を取るのに気が引けていたのだった。

「志の田の発条です」
「はい! 佐和です」
「……今って喋って大丈夫ですか?」

 よそよそしいその様子に緊張感が走る。翔太郎に対してもまた、何かやらかしてしまったのかとゴクリと息を飲んだ。

「先日はうちの篠田がご迷惑をおかけしました。お陰様で本日無事退院することが出来ました」
「あ、そうなんですか! 良かったです」

 とりあえず、お小言とかではないらしい。ホッとしつつも電話だからなのか話の内容のせいなのかはわからないが、他人行儀な翔太郎の語り口に合せるように柚希も業務的な受け答えをしていた。
 柚希にかけてくる前に既に何件か掛けたのだろう。まるで台本を読むようにして二言三言話すと、最後にふぅと一息ついた。

「うし、終わった」
「お疲れ様でした」

 急にプライベートモードに切り変わる。最終的に素な部分を見せる位なら初めからしなきゃいいのになと少し思いつつも、自分は翔太郎にとって他の人とは違う扱いをしてもらえているということが、実に気持ちが良かった。

「お店はいつから開けるんですか?」
「まだ、はっきりとは決めてないけど、数日は様子見かな」
「あっ、そうな――……っけほ、……すみませ……。――そうなんですね、早く志の田でご飯食べたいなぁ。日にち決まったら教えてくださいね。私、すぐに伺いますから」

 言いながらも頭の中に怒り狂った白泉の顔が浮かぶ。と、同時に志の田のおいしい食事も浮かんできて、腹の虫がぐぅと鳴った。

「なに、風邪?」
「あ、え? わかりますか?」
「なんか声おかしいし、咳込んでるし」
「――」

 今日の翔太郎はなんて優しいのだろう。嬉しさのあまり言葉を失う。
 特別扱いしてくれたり、風邪をひいているのを気付いてくれたりと、少し付き合いのある間柄であれば普通にある出来事だと言うのに、相手が翔太郎と言うだけでこれほどまでに嬉しくなるものかと胸を打たれた。

「食欲は?」
「あります! だから、こんな話するとまたお腹が減っちゃって。どうしよう、もう食べるもの何も残ってないのに」
「は?」
「え?」

 何か変なことを言ったのだろうかと聞き返す。

「メシ、食ってねぇの?」
「あ、いや少し前に食べるには食べたんですけど」
「何を?」
「えーっと……冷凍庫にあったご飯をチンして」
「と?」

 それまでは、饒舌だったのが急に言い淀む。それもそもはず、手際が良いだけでなく、味もおいしいご飯をちゃちゃっと作ってしまえる人に、胸を張って言えるような代物では無いからだった。

「その……トッピングにマヨネーズと」
「……」
「しょうゆをちょろっと」
「なんだそれ!?」
「ひぃっ!」

 急に大声で怒鳴られ、首を竦める。嘘でもいいからおかゆを作って食べたとかなんとか言えばよかったのだが、嘘を吐くのが苦手な柚希は怒られるのを承知で本当の事を言ってしまったのだった。

「あんたな……お米の神様に謝れ!」
「え? そんなのいるんですか?」
「――っ、どアホ!」
「どっ!?」
「あー、ったく! 今冷蔵庫の中に何が残ってる!?」
「えーっと、マヨネーズとしょ……」
「調味料を聞いてるんじゃないっ!!」
「だって!」
「話の前後の脈絡でわかれよ! この大ボケ編集者!」

 それがわかれば苦労していない。会社で散々言われていることを料理人である翔太郎に言われ、流石、長年接客業をやっているだけあって人を見る目があるなと感心しつつも、酷く傷ついてしまった柚希であった。


 ■□

「お疲れーっす」
「あのっ、本当に来るとは思ってな――」
「お邪魔します」
「ああ……」

 電話の最後に住所を聞かれ、何も考えずに素直に住所を教えた結果今に至る。翔太郎は『待ってろ』とまるで捨て台詞の様にそう言うと、三十分後位に部屋のチャイムが鳴った。スッピンなのは勿論髪もボサボサ。くたびれた部屋着のままでドアの隙間からこっそり顔を出すと、扉に翔太郎の手が掛かった。
 ぐいっと無理やり扉をこじ開け、翔太郎がズカズカと部屋の中に入り込む。扉の鍵を閉めている間に、先に部屋の中に足を踏み入れた翔太郎からは絶叫に近い叫び声が聞こえた。
 恐怖に怯えながらリビングの扉を開けると、鬼の様な形相になった翔太郎がゆっくりと振り返った。

「……どうやら、メシの前に掃除が必要な様だな」
「は、はははははいっ!」

 大慌てでキッチンに向かい、ゴミ袋片手に戻ってくる。部屋の中にある散乱したゴミを拾い始めると、ゴミ袋ごと翔太郎に奪われてしまった。

「あんたは寝てろ」
「でも――」
「何度も言わせんな」
「――! は、はいっ」

 “俺に言い返すなんて百年早い”とでも言いたげに睨み付けられると、それ以上何も言うことが出来なかった。





 ふわふわとした意識の中。柚希の名を呼ぶ低い声が聞こえる。その声は柔らかく、そして時折熱っぽさをも含んでいる。目を瞑って聞いていると、まるで恋人に優しく抱かれている様な感覚にも似ていた。
 その人に触れたいのに何故か身体が上手く動いてくれない。それでも“触れたい”という思いは高まり、柚希は力を振り絞って両手を伸ばした。

(あー、なんか良くわかんないけど引っ付いてんのが気持ちいい)

 相手の首に両腕を回し、ぐいぐい引き寄せていると、急に息苦しくなってバチっと目を開けた。

「ん゛ーー!? ん゛んーっ!!」
「やっと目が覚めたか」

 目の前にはただならぬ憎悪に満ちた表情の翔太郎がいて、柚希が眠りから覚めたことがわかると彼女の口と鼻を塞いでいた手をパッと離した。

「ぷはぁーっ、はぁーっ、……んぐ。く、苦しかった……」
「寝ぼけんなよ。食われるかと思った」
「す、すみません」

 咄嗟に謝ってしまったものの、こっちは眠りから覚めたと同時に再度意識を手放しかけていたと言うのに、何故自分が謝らないといけないのかと疑問に思う。翔太郎は別段そのことを気に掛けている様子もなく、どうも柚希が掴んだところが痛むのか、首の後ろを何度も撫でていた。

「……?」

 くんと香るいい匂い。香りの元を探すと、テーブルの上に丼が置かれているのが目に入った。

「――? ああ、ほら。とりあえずあったかい内に食え。んで、薬飲んで寝ろ」

 ベッドの横にテーブルを移動させる。そう言って出されたものは、フワフワの卵とじと青ネギがたっぷり入った、あんかけうどんだった。

「生姜入ってるからあったまるぞ。ホラ」

 箸を手渡され、しばし湯気の立ち上るあんかけうどんをじっと見つめる。風邪を引いたのを心配してるのかと思いきや、怒鳴りつけたり、鼻と口を同時に塞いでみたりと、何とも飴と鞭を巧みに使い分ける翔太郎だったが、最後の最後にこんな飴が貰えるのならばどんな辛い事でも耐えられる気がした。
 調子に乗った柚希は、どんどん欲が出始める。怒鳴られるのを覚悟で翔太郎にあるお願いをした。

「発条さん」
「あ?」
「これ、凄く熱そうですね」
「あんかけだからな、気を付けて食べ――」
「なので、ふーふーしてください」
「……はぁ!? 何で俺が?」

 思った通りの答えが返って来て、笑いそうになる口元を手で押さえる。崩れる様に倒れた身体を片手で支えると、わざとらしくケホンケホンと咳き込んだ。

「ああ、さっき軽く酸欠になったから、これ以上息を吐き出すなんてこときっと今の私には出来ないな……」
「……」

 チラリと翔太郎の様子を窺う。

「あー、お腹すいたなぁ」
「ああっ! うぜぇ! ――貸せ!」

 怒りからなのか照れからなのか、真っ赤に顔を紅潮させた翔太郎は柚希から箸を奪い取ると、眉根をぐっと寄せながらうどんにふーふーと息を吹きかけた。


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