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第五章 魚の目に水見えず、人の目に空見えず
第一話~二人の関係~
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「むっふふぅー」
「……」
頬杖を突き、満面の笑みを浮かべている柚希を前にしたまどかは、見るからに上機嫌な同僚を見て若干引き気味に構えた。きっと、翔太郎と何か進展があったのだろう。柚希をここまで幸せにさせられるのは、今のところ和食「志の田」の料理人しかいない、と思ったからだった。
しかし、こうもあけっぴろげにされると逆に聞く意欲も失せるものだ。ランチのエビとアボカドの冷製パスタを食べ終えたまどかは、アイスコーヒーのストローを咥えながらただ気味悪そうに見つめるだけで、あえて何があったのかなどとは聞かずにいた。
だが、それも無駄な足掻きで終わる。
元々、言いたいことをずっと黙り続けるのが苦手とする柚希は、聞いても居ないのに昨夜の甘いひと時を噛みしめるようにして語り始めた。
「うふふぅー、発条さんにちゅうして貰っちゃった」
「あーっそ。そりゃ良かったねー。……こちとら絶賛喧嘩中だってのに」
本当は自分の話を聞いてもらうつもりだったのが、まさかのろけ話を聞かされることになるとは。
まどかは爪の先を見つめながら後半部分は聞こえるか聞こえないか位の声でつまらなさそうに呟き、このタイミングで柚希をランチに誘った事を今更後悔していた。
「ありゃ? 遠距離恋愛中の彼氏と喧嘩?」
「そ。あーあ、男ってほんっと面倒臭い!」
「どーせまた可愛くない事言っちゃったんでしょ? 素直じゃないんだから、まどかは」
「柚希みたいに素直すぎるのもどうかと思いますけどね」
咥えていたストローを口から離すとシロップを継ぎ足し、くるくるとかき回す。チラリと柚希を見上げるとまだ話を聞いて欲しそうにしているのがわかり、仕方ないと小さく溜息を吐いた。
「――で?」
「へ?」
「は?」
お互いに予想していなかった返しだったのか、二人共目を丸くしている。話をまとめようとまどかが椅子の背にもたれかかっていた身体を起こすと、テーブルの上に両手を組んで咳払いをした。
「……えーっと。お風呂入って二人っきりになって、盛り上がっちゃってキスもしたとなれば当然……?」
「ち、ちゃんと駅まで送ってもらったよ?」
核心に触れようとすると途端にどもり始める。様子がおかしいと思ったまどかの片方の眉が上がった。
「えっ!? 何それ、……まさかとは思うけど、そこまで準備万端にしといて何もせずに帰ったの?」
「や、それはその、発条さんがどうしても家に帰ってゆっくり見たいテレビがあるって言うから」
「は!? あんたテレビに負けたの!?」
あんまりなその理由に、いくら色ボケしているとは言えさすがに不憫に思えた。
「負けたとか勝ったとかではなく……」
「キスしただけで満足って。中学生かっつーの」
足を組みなおして踏ん反り返ったまどかを追うように、柚希は前のめりに身体を倒した。
「いや、決して満足ってわけじゃないけど! ……その、もしかしたらだけど、発条さんってあんまり、さ。その……そういうのって経験ないのかもとか……」
言うべきか言わぬべきかとの迷いがあるのか、ゴニョゴニョと口ごもる。何が言いたいのかすぐに理解したまどかは、ははんと笑って腕を組んだ。
「それってつまり童――」
「わぁぁぁー! ズ、ズバッと言わないの!」
つい先ほどまで少しご機嫌斜めなまどかだったが、今度はおもしろいとばかりに口の端を上げる。顔を赤らめて取り乱す柚希とは対照的だった。
「あんたの好きなその料理人って確か二十……六? うちらよか二つ下だったよね? 流石に経験あるっしょー」
「そう、かな……?」
「そうだよー、中二病って言葉もある位だし。ってか、柚希はなんでそう思うわけ?」
訊ねると、柚希は口の先をツンと尖らせて拗ねて見せる。視線を落とし、自分が飲んでいるコーヒーカップのふちを指でなぞり始めた。
「室井さんとは幼馴染で。……ずっと好きだったみたいだし」
「そんなの! 男なんて心と下半身は別の生き物かって位あてになんないんだから。口では好き好きーって言っててもきっと他の誰かとヤってるって」
自分でそういいながらも、胸の奥でチクンと小さな痛みが走った。
そんな風にしか考える事の出来ない自分はもう穢れてしまったのだろうか。そう感じたと同時に、穢れの無い柚希が羨ましくもあった。
「うっ……そっ、それはそれでなんかヤだな」
「はあーっ。――で?」
「え?」
今しがた同じやりとりをしたことに既視感を覚える。キスはしたけどそれだけだと先ほどはっきりと言った。これ以上何が聞きたいのかと柚希は首を捻った。
「付き合うことになったのよね?」
「……」
急に黙り込んだ柚希の表情からして何を考えているのかが容易に読み取れる。同僚の詰めの甘さにあきれたまどかは、掌で額を覆いながら天を仰いだ。
■□
「……だからって何で俺に聞くわけ?」
「だって、男友達って陸しかいないんだもん。ねぇねぇ、どう思う? これってもう付き合ってる内にはいってるのかな?」
「そんなの知るかよ! 本人に聞けば!?」
「それが出来れば、苦労しないって」
薄暗いカウンターの中。陸は大きなかち割氷をアイスピックで割りながら、呑気にバーボンをちびりと舐める柚希を睨み付けた。
(コイツ、俺がお前に何をしたか覚えてないのか? それとも天然の大馬鹿野郎なのか?)
あんな事があってからというもの、店のトイレに入ればあの時の情事が蘇ってしまい、いらぬ妄想を掻き立てられる。自分の職場でそんな暴挙に出たこと自体決して許されるものではなかったが、自分の手で彼女を昇り詰めさせたのだと思うと、今度は自分も味わいたいと淫らな欲望が顔を出す。陸はあの時から、自分でも気づいていなかった柚希に対するそんな欲望を押さえつけるのに必死だった。
陸は、自分ではない他の誰かを好きだと言う柚希でも受け入れたいと言った。今までとっかえひっかえ色んな女たちと遊んできた事を思えば、随分成長したと思う。だが、そんな彼の思いを知ってか知らずか、自分は果たして好きな相手と両想いなのかどうかなどとふざけた事を聞きに来るのだからたまらない。
(もしかして、牽制のつもりか?)
「……柚のくせに生意気な」
呟いた言葉は、柚希には届かなかった。
■□
~数日後~
清潔感のある白い壁に囲まれた大きな部屋。きっちりと並べられた無数のベッド。ここへ運び込まれた時は全て埋まっていたのが今では皆退院したのか、気づけば篠田だけになっていた。
退院の準備をする年老いた背中を見つめながら、丸い椅子に腰かけた翔太郎は主の復帰に安堵の息を吐いた。
「長い事留守にしちまって。悪かったなぁ、ぜん」
「そんな事気にしなくていいですから、ちゃんとしっかり治してくださいよ」
「なぁに、もともとどってことなかったんだって。検査の結果も特に異常なかったんだしな。ホラ!」
振り返った篠田は、屈伸をしたり上半身を捻る動作をして見せた。
「そうやって油断してるから、こんなことになったんじゃないすか」
全く懲りていない様子の篠田を見て翔太郎はあきれ返った。
「はぁ。――……?」
「まぁ、しかしあれだな」
何か思うことがあるのか、篠田は急に気弱な声で話し始める。ゆっくりとベッドに腰かけ、足の間で組んだ指を忙しなく動かしている自身の手元をじっと見つめていた。
「うちの店もそろそろ世代交代の時期がやってきたっちゅうことかな」
「何言ってんすか。今言ったことと真逆じゃないすか」
来年には篠田は七十歳と言う一つの大きな節目を迎える。一般的な会社であればとおに定年退職し、悠々自適な生活を送っていても何らおかしくはないのだか、個人事業主である篠田は定年と言う縛りがないばかりか、この業界では篠田より年上の料理人がまだまだ現役で働いている。篠田の身体を心配しつつも、だからと言って翔太郎は素直に頷くことが出来なかった。
「なぁ、ぜんよ。……もし、わしに何かあった時は、店を――志の田をお前が継いでくれるか?」
「縁起の悪い事言わんでください」
「だから、“もし”って言っとるじゃろ」
「そんないつあるかどうかもわからない事に、無責任に答えることはできません」
「ったく、まだ若いってのに頭の固い男じゃのう! そんなんじゃ、佐和さんに嫌われるぞ?」
「――っ、……なんでそこであの人が出てくるんですか」
柚希の名前を聞き、明らかに挙動不審になった翔太郎を見た篠田は、何かを悟ったのか嬉しそうにうんうんと何度も頷いた。
「……」
頬杖を突き、満面の笑みを浮かべている柚希を前にしたまどかは、見るからに上機嫌な同僚を見て若干引き気味に構えた。きっと、翔太郎と何か進展があったのだろう。柚希をここまで幸せにさせられるのは、今のところ和食「志の田」の料理人しかいない、と思ったからだった。
しかし、こうもあけっぴろげにされると逆に聞く意欲も失せるものだ。ランチのエビとアボカドの冷製パスタを食べ終えたまどかは、アイスコーヒーのストローを咥えながらただ気味悪そうに見つめるだけで、あえて何があったのかなどとは聞かずにいた。
だが、それも無駄な足掻きで終わる。
元々、言いたいことをずっと黙り続けるのが苦手とする柚希は、聞いても居ないのに昨夜の甘いひと時を噛みしめるようにして語り始めた。
「うふふぅー、発条さんにちゅうして貰っちゃった」
「あーっそ。そりゃ良かったねー。……こちとら絶賛喧嘩中だってのに」
本当は自分の話を聞いてもらうつもりだったのが、まさかのろけ話を聞かされることになるとは。
まどかは爪の先を見つめながら後半部分は聞こえるか聞こえないか位の声でつまらなさそうに呟き、このタイミングで柚希をランチに誘った事を今更後悔していた。
「ありゃ? 遠距離恋愛中の彼氏と喧嘩?」
「そ。あーあ、男ってほんっと面倒臭い!」
「どーせまた可愛くない事言っちゃったんでしょ? 素直じゃないんだから、まどかは」
「柚希みたいに素直すぎるのもどうかと思いますけどね」
咥えていたストローを口から離すとシロップを継ぎ足し、くるくるとかき回す。チラリと柚希を見上げるとまだ話を聞いて欲しそうにしているのがわかり、仕方ないと小さく溜息を吐いた。
「――で?」
「へ?」
「は?」
お互いに予想していなかった返しだったのか、二人共目を丸くしている。話をまとめようとまどかが椅子の背にもたれかかっていた身体を起こすと、テーブルの上に両手を組んで咳払いをした。
「……えーっと。お風呂入って二人っきりになって、盛り上がっちゃってキスもしたとなれば当然……?」
「ち、ちゃんと駅まで送ってもらったよ?」
核心に触れようとすると途端にどもり始める。様子がおかしいと思ったまどかの片方の眉が上がった。
「えっ!? 何それ、……まさかとは思うけど、そこまで準備万端にしといて何もせずに帰ったの?」
「や、それはその、発条さんがどうしても家に帰ってゆっくり見たいテレビがあるって言うから」
「は!? あんたテレビに負けたの!?」
あんまりなその理由に、いくら色ボケしているとは言えさすがに不憫に思えた。
「負けたとか勝ったとかではなく……」
「キスしただけで満足って。中学生かっつーの」
足を組みなおして踏ん反り返ったまどかを追うように、柚希は前のめりに身体を倒した。
「いや、決して満足ってわけじゃないけど! ……その、もしかしたらだけど、発条さんってあんまり、さ。その……そういうのって経験ないのかもとか……」
言うべきか言わぬべきかとの迷いがあるのか、ゴニョゴニョと口ごもる。何が言いたいのかすぐに理解したまどかは、ははんと笑って腕を組んだ。
「それってつまり童――」
「わぁぁぁー! ズ、ズバッと言わないの!」
つい先ほどまで少しご機嫌斜めなまどかだったが、今度はおもしろいとばかりに口の端を上げる。顔を赤らめて取り乱す柚希とは対照的だった。
「あんたの好きなその料理人って確か二十……六? うちらよか二つ下だったよね? 流石に経験あるっしょー」
「そう、かな……?」
「そうだよー、中二病って言葉もある位だし。ってか、柚希はなんでそう思うわけ?」
訊ねると、柚希は口の先をツンと尖らせて拗ねて見せる。視線を落とし、自分が飲んでいるコーヒーカップのふちを指でなぞり始めた。
「室井さんとは幼馴染で。……ずっと好きだったみたいだし」
「そんなの! 男なんて心と下半身は別の生き物かって位あてになんないんだから。口では好き好きーって言っててもきっと他の誰かとヤってるって」
自分でそういいながらも、胸の奥でチクンと小さな痛みが走った。
そんな風にしか考える事の出来ない自分はもう穢れてしまったのだろうか。そう感じたと同時に、穢れの無い柚希が羨ましくもあった。
「うっ……そっ、それはそれでなんかヤだな」
「はあーっ。――で?」
「え?」
今しがた同じやりとりをしたことに既視感を覚える。キスはしたけどそれだけだと先ほどはっきりと言った。これ以上何が聞きたいのかと柚希は首を捻った。
「付き合うことになったのよね?」
「……」
急に黙り込んだ柚希の表情からして何を考えているのかが容易に読み取れる。同僚の詰めの甘さにあきれたまどかは、掌で額を覆いながら天を仰いだ。
■□
「……だからって何で俺に聞くわけ?」
「だって、男友達って陸しかいないんだもん。ねぇねぇ、どう思う? これってもう付き合ってる内にはいってるのかな?」
「そんなの知るかよ! 本人に聞けば!?」
「それが出来れば、苦労しないって」
薄暗いカウンターの中。陸は大きなかち割氷をアイスピックで割りながら、呑気にバーボンをちびりと舐める柚希を睨み付けた。
(コイツ、俺がお前に何をしたか覚えてないのか? それとも天然の大馬鹿野郎なのか?)
あんな事があってからというもの、店のトイレに入ればあの時の情事が蘇ってしまい、いらぬ妄想を掻き立てられる。自分の職場でそんな暴挙に出たこと自体決して許されるものではなかったが、自分の手で彼女を昇り詰めさせたのだと思うと、今度は自分も味わいたいと淫らな欲望が顔を出す。陸はあの時から、自分でも気づいていなかった柚希に対するそんな欲望を押さえつけるのに必死だった。
陸は、自分ではない他の誰かを好きだと言う柚希でも受け入れたいと言った。今までとっかえひっかえ色んな女たちと遊んできた事を思えば、随分成長したと思う。だが、そんな彼の思いを知ってか知らずか、自分は果たして好きな相手と両想いなのかどうかなどとふざけた事を聞きに来るのだからたまらない。
(もしかして、牽制のつもりか?)
「……柚のくせに生意気な」
呟いた言葉は、柚希には届かなかった。
■□
~数日後~
清潔感のある白い壁に囲まれた大きな部屋。きっちりと並べられた無数のベッド。ここへ運び込まれた時は全て埋まっていたのが今では皆退院したのか、気づけば篠田だけになっていた。
退院の準備をする年老いた背中を見つめながら、丸い椅子に腰かけた翔太郎は主の復帰に安堵の息を吐いた。
「長い事留守にしちまって。悪かったなぁ、ぜん」
「そんな事気にしなくていいですから、ちゃんとしっかり治してくださいよ」
「なぁに、もともとどってことなかったんだって。検査の結果も特に異常なかったんだしな。ホラ!」
振り返った篠田は、屈伸をしたり上半身を捻る動作をして見せた。
「そうやって油断してるから、こんなことになったんじゃないすか」
全く懲りていない様子の篠田を見て翔太郎はあきれ返った。
「はぁ。――……?」
「まぁ、しかしあれだな」
何か思うことがあるのか、篠田は急に気弱な声で話し始める。ゆっくりとベッドに腰かけ、足の間で組んだ指を忙しなく動かしている自身の手元をじっと見つめていた。
「うちの店もそろそろ世代交代の時期がやってきたっちゅうことかな」
「何言ってんすか。今言ったことと真逆じゃないすか」
来年には篠田は七十歳と言う一つの大きな節目を迎える。一般的な会社であればとおに定年退職し、悠々自適な生活を送っていても何らおかしくはないのだか、個人事業主である篠田は定年と言う縛りがないばかりか、この業界では篠田より年上の料理人がまだまだ現役で働いている。篠田の身体を心配しつつも、だからと言って翔太郎は素直に頷くことが出来なかった。
「なぁ、ぜんよ。……もし、わしに何かあった時は、店を――志の田をお前が継いでくれるか?」
「縁起の悪い事言わんでください」
「だから、“もし”って言っとるじゃろ」
「そんないつあるかどうかもわからない事に、無責任に答えることはできません」
「ったく、まだ若いってのに頭の固い男じゃのう! そんなんじゃ、佐和さんに嫌われるぞ?」
「――っ、……なんでそこであの人が出てくるんですか」
柚希の名前を聞き、明らかに挙動不審になった翔太郎を見た篠田は、何かを悟ったのか嬉しそうにうんうんと何度も頷いた。
応援ありがとうございます!
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