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第二章 食べ合わせ
第一話~泣きっ面に蜂~
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陸との仲を勘違いした翔太郎は柚希を汚い言葉で罵った。まるで嫉妬しているともとれるその態度が、諦めかけていた恋心に一筋の光が差し込んだ様にも思えた。
だが、誤解を解くことも許されずに、ついには「二度とここへ来るな」との捨て台詞と共に柚希は志の田から追い出されてしまう。
固く閉ざされた扉はまるで、今の翔太郎の心を模している様だった。
仕事を終える時刻はとっくに過ぎているのを確認すると、柚希は手を止めることなく自席から大声を張り上げた。
「編集長! 今日こそ帰っていいですか!?」
「……寝言は寝てから言え」
目の下にどす黒いクマを作った白泉は、はんっと鼻で笑った。
「ですよね!」
あんな事があったと言うのに、あれから一度も志の田に行けていない。柚希としてはすぐにでも翔太郎と話をしたかったのだが運悪く仕事が忙しくなり、毎日毎日終電で帰るといった日々が続いていた。
「うぅ……。これじゃ、もう諦めたんだなって思われちゃうよ」
次の休みの日まで待てない。一日でも早く翔太郎に会って陸との誤解を解きたかった。
「佐和さん。アルバイトの僕でさえも残ってるのに、帰れるわけないですよね?」
そう声を掛けて来たのは一之瀬だった。
「いい加減諦めた方がいいですよ」
と窘める一之瀬に向かって恨めしそうな顔で見上げると、一之瀬は「参ったな」と苦笑いを浮かべた。
「あと、何が残ってるんです?」
「あと、これと、これとこれとー」
「け、結構ありますね……」
聞くんじゃなかった。とでも言いたげな顔をしていた。
「じゃあ、とりあえずドライブ直下にデータを落としてください。リサイズは僕がしますから」
「え! いいの?」
一之瀬は笑顔で頷いた。
この間励ましてくれたことと言い、今日の事と言い。十九歳とは思えぬほど気のきく優しい男だなと柚希は感動した。
一之瀬が手伝ってくれたおかげで、予定よりも随分早く仕事を終える事が出来た。またもや志の田のラストオーダーギリギリの時間となってしまったが、どうしても翔太郎に会って話がしたい。柚希は躊躇うことなく志の田へと向かった。
「とは言ったものの……」
志の田の扉の前に立ち、今日も店内は大勢の客で賑わっているのが外からでも良く分かる。冷静になって考えてみれば、他人が居る前で一体何を話せるというのだろう。そもそも、正式に出入り禁止令が出たと言うのに、翔太郎が果たして取り合ってくれるのだろうか。
「……んーっ、ここで考えてても仕方ない!」
柚希は思い切って志の田の扉を開けた。
「こんばんはー……」
扉を開けるといの一番で翔太郎がいつも立っている場所を確認する。だが、いつもそこに居る筈の翔太郎の姿はなく、ついでに言うと篠田の姿も見えない。見たところ、席はかろうじて一席だけ空いている状態であり十分入っている方であった。
お客さんが入っているのに、二人とも調理場に入ってしまっているなんて珍しいな。そう思った時、裏から篠田が慌てて飛び出してきた。
「いらっしゃ――? あ、佐和さん」
「こんばんは。なんだか今日は忙しそうですね」
空いている席に腰を下ろすと、篠田がおしぼりを出してくれた。いつもこの役は翔太郎なのに、よっぽど立て込んでいるのだろうか。
篠田と他愛のないやり取りをする間も、柚希の視線は調理場へと注がれていた。
「いやぁ、参ったよ! この間わしが風邪をひいてしまったんだけどね」
「あ、らしいですね。発条(はつじょう)さんから聞きました。その後大丈夫ですか?」
「ああ、わしはね。だが、どうやらぜんに感染(うつ)してしまったみたいでな」
「え?」
「高熱があるのに無理して出ようとするから、少し前に家に帰らせたんだよ」
「じゃあ、今日は発条さんはお休み?」
「そうなんだ。悪いねせっかく来てくれたってのに、こんな老いぼれしかいなくて」
「そ、そんなっ」
がっかりした感がよっぽど顔に出ていたのだろうか。柚希は慌てて胸の前で両手を小さく振った。
なんとタイミングの悪い。せっかく一之瀬を借り出してまで仕事を早く終わらせたと言うのに、当の本人がいないのであれば誤解を解くことも出来ない。
今まで、翔太郎が店に出ていないことなど一度もなかったのもあってか、柚希の落胆ぶりは相当なものであった。
「はぁー、さっきまで暇だったから大丈夫だと思ったのに、急に入りだしちゃって。あ、佐和さん、オーダーもう少し待ってもらえる? 今ぜんの所に持っていく用のめしを準備してる所なんだよ。悪いんだけど、もうすぐ出来るからわしの手が空くまで少し待っててもらえるだろうか」
こんなに忙しいと言うのにわざわざ翔太郎への差し入れを準備しているのだと聞くと、よっぽど具合が悪いのかと心配になる。篠田が体調を崩していると翔太郎から聞いた時とは比べ物にならない程、翔太郎の事が気になって仕方がなかった。
「おーい、ビールお代わり頂だーい」
「あいよ! ……で、佐和さんいいかな?」
「――あの! もし良かったら」
調理場へ戻ろうとする篠田を、柚希は慌てて引き止めた。
柚希の右手には篠田が走り書きで書いた翔太郎の家の住所と簡単な地図。そして左手にはまだ温かい差し入れを大事そうに抱えていた。忙しい篠田に代わり、自分に差し入れを届けさせてほしいという厚かましい申し出に、篠田は「そりゃ有難い」とあっさり柚希にその役目を託した。
二人っきりで話すチャンスがやって来たと思ったのもつかの間、体調の悪い相手に話すにはあまり宜しくない内容である事に気付く。また翔太郎の怒りに触れ、この間の二の舞になってしまうんじゃないかという一抹の不安から、先ほどまで軽やかだった柚希の足は、徐々にその速度を落としていった。
「また怒らせちゃったら嫌だしなぁ。とりあえず、今日の所は約束だけとりつけて、差し入れだけ渡して帰ろうっと」
そう決めた途端、柚希の足取りが急に軽くなった。
「こ、……こ?」
篠田から渡されたメモと今目の前にある建物をもう一度見比べる。フランス語らしき集合住宅名からは想像もつかぬほど純和風な文化住宅に、少し身構えてしまっていた柚希の緊張がほぐれた。
各部屋の扉横にある二層式の洗濯機。小さい子供もここに住んでいるのだろう。まだ補助輪のついている自転車が何台か乱雑に置かれているのが見えた。それらを横目でみながら、錆だらけの鉄の階段を音を響かせて登って行く。先ほどまでは篠田の誤字だとばかり思っていた「と」と言う文字が、部屋の号数を表すものだという事を「発条」と書かれた表札の前に立つまで気付かなかった。
建物名と外観の余りの落差に少しは気持ちが軽くなったものの、やはりこの間の事もあってか徐々に緊張感が高まって来る。この扉一枚隔てた向こう側に翔太郎が居るのだと思うと、差し入れを持つ手が微かに震えた。
扉のすぐ横にある柵のついた小さな窓から、部屋の光が零れている。
大きく深呼吸をして、右手に持ったメモを上着のポケットの中へ突っ込むと、そのままインターホンへと指を伸ばした。
「……。――ん? って、あれ? ピンポンどこだ??」
柚希もかなり古いアパートに住んでいるが、インターホン位はある。勿論、モニターなどは皆無だが。
翔太郎の家は柚希の更に上を行き、インターホンすらない様だった。
「んー、どうしよ。……あっ、そうか」
インターホンを探している手で軽く握りこぶしを作り、コンコンとドアをノックする。たったこれだけのことなのに、なぜすぐに気付かなかったのだろうかと柚希は首を捻った。
何でもある今の時代が普通だと思うからこそ、こんな簡単な事にも気付けないのだ。と、まるで翔太郎に教えられたとでも思ったのか、柚希は彼の家の扉でさえも愛おしそうに見つめていた。
「………。――?」
しかし、ノックをしたものの一切反応がない。再びノックをしながら今度は声を掛ける事にした。
「――あの、夜遅くにすみません! 発条さんいますか?」
「はーい、どなたですか?」
「……っ!?」
部屋の中から聞こえて来たのは翔太郎の心地よい低音ではなく、紛れもなく女性の声。想定外の出来事に一瞬で身体が硬直した柚希は、ゆっくりと開かれた扉の向こうに居るその人を見て二度驚かされることとなった。
だが、誤解を解くことも許されずに、ついには「二度とここへ来るな」との捨て台詞と共に柚希は志の田から追い出されてしまう。
固く閉ざされた扉はまるで、今の翔太郎の心を模している様だった。
仕事を終える時刻はとっくに過ぎているのを確認すると、柚希は手を止めることなく自席から大声を張り上げた。
「編集長! 今日こそ帰っていいですか!?」
「……寝言は寝てから言え」
目の下にどす黒いクマを作った白泉は、はんっと鼻で笑った。
「ですよね!」
あんな事があったと言うのに、あれから一度も志の田に行けていない。柚希としてはすぐにでも翔太郎と話をしたかったのだが運悪く仕事が忙しくなり、毎日毎日終電で帰るといった日々が続いていた。
「うぅ……。これじゃ、もう諦めたんだなって思われちゃうよ」
次の休みの日まで待てない。一日でも早く翔太郎に会って陸との誤解を解きたかった。
「佐和さん。アルバイトの僕でさえも残ってるのに、帰れるわけないですよね?」
そう声を掛けて来たのは一之瀬だった。
「いい加減諦めた方がいいですよ」
と窘める一之瀬に向かって恨めしそうな顔で見上げると、一之瀬は「参ったな」と苦笑いを浮かべた。
「あと、何が残ってるんです?」
「あと、これと、これとこれとー」
「け、結構ありますね……」
聞くんじゃなかった。とでも言いたげな顔をしていた。
「じゃあ、とりあえずドライブ直下にデータを落としてください。リサイズは僕がしますから」
「え! いいの?」
一之瀬は笑顔で頷いた。
この間励ましてくれたことと言い、今日の事と言い。十九歳とは思えぬほど気のきく優しい男だなと柚希は感動した。
一之瀬が手伝ってくれたおかげで、予定よりも随分早く仕事を終える事が出来た。またもや志の田のラストオーダーギリギリの時間となってしまったが、どうしても翔太郎に会って話がしたい。柚希は躊躇うことなく志の田へと向かった。
「とは言ったものの……」
志の田の扉の前に立ち、今日も店内は大勢の客で賑わっているのが外からでも良く分かる。冷静になって考えてみれば、他人が居る前で一体何を話せるというのだろう。そもそも、正式に出入り禁止令が出たと言うのに、翔太郎が果たして取り合ってくれるのだろうか。
「……んーっ、ここで考えてても仕方ない!」
柚希は思い切って志の田の扉を開けた。
「こんばんはー……」
扉を開けるといの一番で翔太郎がいつも立っている場所を確認する。だが、いつもそこに居る筈の翔太郎の姿はなく、ついでに言うと篠田の姿も見えない。見たところ、席はかろうじて一席だけ空いている状態であり十分入っている方であった。
お客さんが入っているのに、二人とも調理場に入ってしまっているなんて珍しいな。そう思った時、裏から篠田が慌てて飛び出してきた。
「いらっしゃ――? あ、佐和さん」
「こんばんは。なんだか今日は忙しそうですね」
空いている席に腰を下ろすと、篠田がおしぼりを出してくれた。いつもこの役は翔太郎なのに、よっぽど立て込んでいるのだろうか。
篠田と他愛のないやり取りをする間も、柚希の視線は調理場へと注がれていた。
「いやぁ、参ったよ! この間わしが風邪をひいてしまったんだけどね」
「あ、らしいですね。発条(はつじょう)さんから聞きました。その後大丈夫ですか?」
「ああ、わしはね。だが、どうやらぜんに感染(うつ)してしまったみたいでな」
「え?」
「高熱があるのに無理して出ようとするから、少し前に家に帰らせたんだよ」
「じゃあ、今日は発条さんはお休み?」
「そうなんだ。悪いねせっかく来てくれたってのに、こんな老いぼれしかいなくて」
「そ、そんなっ」
がっかりした感がよっぽど顔に出ていたのだろうか。柚希は慌てて胸の前で両手を小さく振った。
なんとタイミングの悪い。せっかく一之瀬を借り出してまで仕事を早く終わらせたと言うのに、当の本人がいないのであれば誤解を解くことも出来ない。
今まで、翔太郎が店に出ていないことなど一度もなかったのもあってか、柚希の落胆ぶりは相当なものであった。
「はぁー、さっきまで暇だったから大丈夫だと思ったのに、急に入りだしちゃって。あ、佐和さん、オーダーもう少し待ってもらえる? 今ぜんの所に持っていく用のめしを準備してる所なんだよ。悪いんだけど、もうすぐ出来るからわしの手が空くまで少し待っててもらえるだろうか」
こんなに忙しいと言うのにわざわざ翔太郎への差し入れを準備しているのだと聞くと、よっぽど具合が悪いのかと心配になる。篠田が体調を崩していると翔太郎から聞いた時とは比べ物にならない程、翔太郎の事が気になって仕方がなかった。
「おーい、ビールお代わり頂だーい」
「あいよ! ……で、佐和さんいいかな?」
「――あの! もし良かったら」
調理場へ戻ろうとする篠田を、柚希は慌てて引き止めた。
柚希の右手には篠田が走り書きで書いた翔太郎の家の住所と簡単な地図。そして左手にはまだ温かい差し入れを大事そうに抱えていた。忙しい篠田に代わり、自分に差し入れを届けさせてほしいという厚かましい申し出に、篠田は「そりゃ有難い」とあっさり柚希にその役目を託した。
二人っきりで話すチャンスがやって来たと思ったのもつかの間、体調の悪い相手に話すにはあまり宜しくない内容である事に気付く。また翔太郎の怒りに触れ、この間の二の舞になってしまうんじゃないかという一抹の不安から、先ほどまで軽やかだった柚希の足は、徐々にその速度を落としていった。
「また怒らせちゃったら嫌だしなぁ。とりあえず、今日の所は約束だけとりつけて、差し入れだけ渡して帰ろうっと」
そう決めた途端、柚希の足取りが急に軽くなった。
「こ、……こ?」
篠田から渡されたメモと今目の前にある建物をもう一度見比べる。フランス語らしき集合住宅名からは想像もつかぬほど純和風な文化住宅に、少し身構えてしまっていた柚希の緊張がほぐれた。
各部屋の扉横にある二層式の洗濯機。小さい子供もここに住んでいるのだろう。まだ補助輪のついている自転車が何台か乱雑に置かれているのが見えた。それらを横目でみながら、錆だらけの鉄の階段を音を響かせて登って行く。先ほどまでは篠田の誤字だとばかり思っていた「と」と言う文字が、部屋の号数を表すものだという事を「発条」と書かれた表札の前に立つまで気付かなかった。
建物名と外観の余りの落差に少しは気持ちが軽くなったものの、やはりこの間の事もあってか徐々に緊張感が高まって来る。この扉一枚隔てた向こう側に翔太郎が居るのだと思うと、差し入れを持つ手が微かに震えた。
扉のすぐ横にある柵のついた小さな窓から、部屋の光が零れている。
大きく深呼吸をして、右手に持ったメモを上着のポケットの中へ突っ込むと、そのままインターホンへと指を伸ばした。
「……。――ん? って、あれ? ピンポンどこだ??」
柚希もかなり古いアパートに住んでいるが、インターホン位はある。勿論、モニターなどは皆無だが。
翔太郎の家は柚希の更に上を行き、インターホンすらない様だった。
「んー、どうしよ。……あっ、そうか」
インターホンを探している手で軽く握りこぶしを作り、コンコンとドアをノックする。たったこれだけのことなのに、なぜすぐに気付かなかったのだろうかと柚希は首を捻った。
何でもある今の時代が普通だと思うからこそ、こんな簡単な事にも気付けないのだ。と、まるで翔太郎に教えられたとでも思ったのか、柚希は彼の家の扉でさえも愛おしそうに見つめていた。
「………。――?」
しかし、ノックをしたものの一切反応がない。再びノックをしながら今度は声を掛ける事にした。
「――あの、夜遅くにすみません! 発条さんいますか?」
「はーい、どなたですか?」
「……っ!?」
部屋の中から聞こえて来たのは翔太郎の心地よい低音ではなく、紛れもなく女性の声。想定外の出来事に一瞬で身体が硬直した柚希は、ゆっくりと開かれた扉の向こうに居るその人を見て二度驚かされることとなった。
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