最高の和食

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第一章 食わず嫌い

第九話~二人を阻むもの~

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 柚希を店から追い出すため、翔太郎は狭い店内を彼女の腕を掴んで歩く。柚希の持っているカバンが椅子に当たって傾いた所為で、翔太郎の歩くスピードに合わせる事が出来なかった。
 そんな事にも気づかない翔太郎は柚希の訴えに耳を貸すこともせず、その速度を速めて行った。

「あ、ああああのっ! 発条さん、ちょっと待って下さい。椅子がっ……きゃぁっ!」

 そしてとうとう柚希は床に倒れ込んでしまった。
 必然的に、柚希の腕を掴んでいた翔太郎も引っ張られ、床に膝をつく格好となった。

「あ、悪い。大丈夫か」
「あたたたっ。……もう急になんなんですか! なんで発条さんが怒るんですか?」

 やっと腕が解放される。柚希は上体を起こすと、大理石が敷かれた冷たい床の上にペタンと座り直し、両手を床についた姿勢で翔太郎を問い詰めた。

「別に怒ったわけじゃ」
「怒ってますよ! ……私はただ、室井さんとの関係を教えて欲しいだけなのに。なのに、なんで私が『男だったら誰でもいい』だなんてわけわかんない話にすり替わってるんですか」

 二人は床に座ったまま同じ目の高さで話を続ける。翔太郎はたまらず立ち上がろうとしたがすかさずその腕を柚希が掴み、ちゃんと答えるまで離さないとばかりに凄んで見せた。

「発条さん。私、この間、一度でいいからデートしてくださいって言いましたよね? それが何を意味するのかはいくらなんでもわかってますよね?」
「――」

 目を逸らす翔太郎に向かって心の内を訴えるが、彼の顔にはやはり怒りの表情が浮かんでいる。

「なのにそんな事言うなんて。私が発条さんだけでなく、他の人にもデートして欲しいって言ってるとでも思ってるんですか? ――だとしたら、それは間違いです。私がそんな事言うのは発条さんだけ――」
「はっ、よく言うよ」

 ずっと黙っていた翔太郎だったが、我慢出来ないとばかりに声を発した。ガラッと人が変わってしまったかの様な鋭い眼差しで柚希を睨み付ける。まるで汚いものでも見る様なその蔑む視線に、立場が一気に逆転した。

「え?」
「あんたこの間男連れでここに来ただろ? わざわざご丁寧に見せに来なくてもあんたの言う事なんて全然本気にしてないから」
「……何の事ですか? 私はいつも一人でしか来てないですよ」

 翔太郎からすればとぼけているとしか思えないのか、柚希に対して向けられる疑いの眼差しは変わらない。どういう事かと困惑している柚希に、彼は何かを思い出した様な表情を見せた。

「――ああ。あん時のあんた、やけにぐったりしてたから丁度お持ち帰りされてたところか」
「は、はいい!?」

 ますます翔太郎の言っている意味がわからない。次から次へと飛び出す衝撃的な言葉の数々に開いた口が塞がらなかった。

「長い髪でピアスをつけた、いかにもチャラチャラした男だったもんな。あれはあんたの遊び相手の一人か? あ?」
「ピアス? ……それってもしかして」

 陸の事だ。柚希の周りで親しくさせてもらっている異性と言えば、この翔太郎と職場の人間。後は陸しか思いつかなかった。
 一緒にいたらしい男の目星はついたものの、翔太郎が見たのはいつの話であって、そして何故陸が志の田に柚希を連れて来たのかもわからない。
 唯一わかっているのは、翔太郎に勘違いさせてしまうほどの事を自分がしてしまったのだという事だけだった。

「……」

 記憶を辿っていた柚希は、デスペラードで酔っ払って記憶を無くした事があったのを思い出した。

「あの、もしかしてこの間私がラストオーダーギリギリに来ちゃって、満席でお店に入れなかった日の話ですか?」

 意識が戻った時は何故か自宅に居て、しかも部屋が綺麗に片付けられていた。またもや陸に送り届けられたのだとわかり謝りに行かねばとずっと思っていたが、そういう時に限って仕事が立て込んでいて中々行くことが出来なかったのだった。
 もっと早く行っていれば陸からあの時何があったのか話を聞けたかも知れない。そうしたら、こんな誤解が生まれる事もなかったのにと、デスペラードにいかなかった事を激しく後悔した。

「そうだよ」
「ああ、やっぱり! なぁんだ、びっくりした。あっ、彼は陸って言って――」

 でも、相手が陸という事であれば何も問題はない。彼は単なる仲の良い友達なのだし、疚しい事など何もないのだから。ちゃんと話せばきっとわかってくれる。
 だが、そう思っていたのは柚希ただ一人だけだった。

「あんたなんなの!? デートしてくれとか誘ってきたかと思ったら、その数時間後には他の男とヤッてるとか」
「ヤッ!?」

 翔太郎の口からそんな汚い言葉が発せられた事に、柚希は驚いたと共にカッと顔が熱くなるのがわかった。

(もしかして……嫉妬、してくれてるのかな)

 確証はないけれどそうとしか思えない。諦めかけていたこの恋が今現実のものになるのかもしれないと感じ、恥ずかしさに頬を染めた。
 いつもは二人の間には必ずカウンターがある。乗り越える事の出来ない大きな壁の様なものだと思っていたが、今の二人にはそんなものはない。手を伸ばせば触れられる距離に翔太郎が居て、実際今彼の腕を柚希は掴んでいるのだ。今更ながら翔太郎の整った顔立ちを間近で見た柚希は、緊張で心臓が早鐘を打つのを感じていた。
 翔太郎の事を思って頬を染めた柚希だったが、当の翔太郎はどうやら柚希が陸との情事を思い出しているとでも思ったのだろう。――馬鹿にすんな。柚希に聞こえるか聞こえないかの小さな声でそう呟いた。

「えっ、違っ――。 ……っ!?」
「あんた。そんなにヤリてぇの?」

 不意に両手首を取られ柚希は壁に貼り付けられる。翔太郎の急変振りに柚希は目を丸くした。

「そ、な……、――い、痛ッ」

 翔太郎は何か誤解している。だが、言い訳する時間など与えるつもりはないのか、手首にかかる圧がぐっと強まった。
 薄暗い店の中で切れ長の目が更に細められる。怒気をはらんでいるその口調が冷酷さを助長し、彼には逆らえないのだと柚希に恐怖感を植え付けた。

「そんなに俺とヤリたいってんなら。――今すぐここでヤッってやるよ」
「――!」

 言葉を失う柚希を見て、翔太郎の口の端がクッと上がった。ゆっくりと顔が近づき始めると、今まで一度たりとも感じた事のない翔太郎の吐息が口元を掠める。体温がわかるほど近くに感じ、黒い影が徐々に柚希を覆い始めた。
 このまま目を閉じれば大好きな彼と一つになれる。

「――。……やっ」

 しかし、柚希は顔を伏せ、翔太郎の唇から逃げる事を選んだ。
 いくら翔太郎の事が好きだと言っても、誤解を解けないままこの冷たい床の上でまるで性欲処理をするだけの様な扱いはされたくない。今は柚希の方が好きの度合いが上なのはわかっている。柚希と同じくらいまで、とはいかなくても、ある程度翔太郎の気持ちが追い付くまでは安易に身体を繋げる様なことはしたくなかった。
 翔太郎の急変振りに柚希の胸が痛む。何がどうしてこうなったのか全くわからなかった。

「ふん。一丁前にキスは嫌ってか。いつの時代の娼婦だよ」
「っ!」

 信じられない言葉が頭の上から降って来たことで、柚希は伏せていた顔を勢いよく上げた。

「違う! 私はちゃんとあなた、が……」

 翔太郎の顔を見た途端、柚希はその先を言えず言い淀んでしまう。まるで信頼している人に裏切られたかのような、怒りの側面に見えるどこか悲し気な瞳。今何を言ったとしても彼の気持ちが穏やかになるとはとても思えず、言いかけた言葉を飲み込んだ。

「俺が、なんだよ」
「……」

 柚希は黙って首を左右に振る。それを見た翔太郎はチッと舌打ちをすると、手首にかけている圧を緩めた。
 翔太郎がやっと話が出来る状態になったのだと思い、ホッと安堵の表情を浮かべた。

「――。……? あ、あの、発条さんっ?」

 翔太郎はその場で立ち上がると、血流が止められて冷たくなった手首をさする柚希の腕を再び掴んで立ち上がらせた。そのまま店の外へ柚希を放り出すと、何も言わず扉をしめようとする。柚希が身を挺してそれを阻むと、翔太郎は大きなため息を吐いた。

「なっ、待ってください。私の話がまだ終わってません!」
「こっちには無い。仕事の邪魔をするなら帰ってくれ。それと、――もう二度とここには来るな」

 扉にかけている柚希の手を払うと、無情にもその扉は閉ざされた。

「そんな、開けて下さい! 話を聞いて下さい……。こんなの、――納得いきません! 発条さん!」

 何度扉をたたいても、何度翔太郎を呼んでみても、二人を阻むその扉が開かれることは無かった。


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