最高の和食

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第一章 食わず嫌い

第六話~アント出版の曲者~

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 編集部の朝は忙しい。いや、朝だけではない、一日中、一年中多忙な日々を過ごす。もうちょっとうまく立ち回れば少しは落ち着いて仕事が出来る筈なのに、何故か皆それをしようとしない。と言うよりかは、グルメ編集部に限って言えば、約一名がいつも引っ掻き回すせいで落ち着いて仕事をさせてもらえないという方が正しいのかもしれない。

「ゴルルルラァ! 徳川ァ!」
「は、ははははいっ!?」

 白泉の怒号が飛んだのを合図に、また今日も忙しい一日が始まった。
 朝、コンビニで偶然まどかと出会った柚希はまどかと共に出社し、そして席につこうとした。が、まどかが一度は引いた椅子を、先ほどの一声で再び元の位置に戻す羽目となっている。鼻息荒く突進してくる白泉を遠目からでも見てしまえば、誰だっておちおち座ってなどいられやしなかった。
 さて、どうやら今日のターゲットはまどかの様だ。普段から口の悪いのが白泉の特徴ではあるが、今日はいつも以上に酷い。その事はまどかだけでなくこのフロアに居合わせた全員が感じていて、皆自分に火の粉が飛んでこない様にとその場から一斉に散り始めた。

「お前、ここ最近で“四季彩”に行ったのっていつだ?」

 白泉の言う“四季彩”というのは、長年アント出版で掲載を続けている上得意の料亭だ。どうしてもダークな色合いでまとまりがちな和食を、赤や黄色などの色とりどりな食材を使う事で人気を博しており、一時は“女性が行ってみたい和食料理屋ランキング一位”をずっとキープしていた。
 ただ、ここ最近は急激に客足が遠のいているのも事実。編集部が今もっとも力を入れなければならないクライアントであった。

「え? 四季彩ですか? そうですね……。多分、一か月位前に……」
「はぁっ!? 一か月ぅ?」
「えと、な、何か??」
「『何か?』じゃねぇよ! お前メール見たのか?」
「……いーえ? まだですけど?」

 まどかの表情からして「今来たところなのに見てるわけねーだろ!」と言いたげなのが読み取れる。止めておけばいいのにまどかは完全に白泉のペースに飲まれ、まさに売り言葉に買い言葉で一触即発といった状態だった。
 このまま二人を放っておいて大丈夫なのかと案じている柚希に、誰かが声を掛けた。

「あーあ。またあの二人始まっちゃいましたね」
「一之瀬君」

 傍観者と化している柚希の横でそう言ったのは、グルメ編集部のオアシスでもあり目の保養対象でもある、まだシャワーの水がたまになって弾ける美肌を標準装備しているぴっちぴちな十九歳、一之瀬 アキラだった。
 別名グルメ王子と揶揄されるほどの容姿端麗、品行方正を地で行く彼は、このグルメ編集部の中でもひときわ目立っており、まさに鶏群一鶴けいぐんいっかくそのものである。
 彼の様な男の子がいつもいれば士気もあがるってもんだが、残念ながらまだ大学生の彼はアルバイトとしてここに勤務しており、週に二、三日程しか姿を見せないのであった。

「今日出勤だったんだ」
「はい」

 にっこりと王子様スマイルで微笑む一之瀬に、少しばかり残っていた柚希のなけなしの母性本能がくすぐられた。

「ところでなんで揉めてるんですか?」
「いやー、ちょっと良くわかんないのよね」

 首を捻りながら柚希と一之瀬が白泉のデスクにいる二人に視線を移す。どうやら先ほどから白泉がメール、メールと連呼していたわけを、まどかはやっとわかった様だった。

「え、嘘。掲載やめる!?」

 まどかが目を丸くして言った。

「嘘なもんか。うちに泣き入れられないように締切ギリギリまで引っ張って、もう入稿期限切れますよって時にこのメール。しかも時間見て見ろ。深夜四時だと! 流石に誰も気付かんわ。確信犯だろこれ」

 白泉は自身の椅子にどかっと座ると、引き出しから煙草を取り出しそれに火をつけた。
 大きく吸い込み一気に白煙を吐き出す。顎を引きながら斜め上のまどかを見上げる白泉は、かなり恐ろしかった。

「――どうすんだよ」
「どうって言われてもですね。やめたいって言うんなら仕方ないじゃないですか。ここまで用意周到にするってことは本気でやめようと思ったわけでしょうし、それを無理にお願いするのはどうかと」
「あ"ーっ! んなこたぁわかってんだよ! くそ、あのじいさんいつまでも高い掲載料払うもんだからてっきりボケてるのかと思ってたのに。せっかく日本の和食がどっかの馬鹿なお偉いさんに無形文化遺産だかなんだかに登録されたから、それをネタにしてまたあそこに高値で売り付けるつもりだったのが全部パァだ!」

(……鬼畜だ)

 二人のやりとりを聞いている人間は皆心の中でそう思っているに違いない。柚希は試しに隣に居る一之瀬の方へと顔を向けた。

「はい? どうかしましたか?」
「――あ、ううん、別に」

 そうでないのがここに居た。干からびたグルメ編集部のオアシスは何事にも動じない。常にたぷんたぷんと満ち足りた潤いを保ち続けていた。




「で、なんで私も一緒に行かないといけないのかな?」

 鬼と化した白泉。「今すぐ四季彩に行って頭下げてお願いするなりなんなりしてこい!」と言われたまどかはまだわかる。だが、なんのとばっちりなのか柚希も一緒に行って謝って来いと言われ、妙齢の女二人は大きく肩を落とし仲良く電車に乗って四季彩へと向かっていた。

「編集長命令なんだから仕方ないじゃん。一人より二人で攻めた方が落としやすいからだってさ」
「鬼畜だ……」

 そこまで執着することの意味が柚希には全くわからなかった。

「だけど、白泉編集長って私から見れば十分出来る女(ひと)なのに、なんでグルメ編集部の売り上げは上がんないのかなぁ」

 ポツリと呟いた何気ないその言葉に、まどかは驚きの表情を見せた。

「あれ? 柚希にはまだ言ってなかったっけ? トラベル編集部の事」
「トラベル編集部って……あの、うちで一番の売り上げ出してる部署でしょ? それがどうしたの?」

 アント出版一のお荷物部署であるグルメ編集部に対してエリート編集者で軒を連ねているトラベル編集部は、アント出版雑誌部門の中でも一番の売り上げを誇っている。国内旅行をメインに雑誌を作っており、中でも社長の七光りである息子の有本編集長が着任してからというもの、軒並み数字が伸び始めたということは誰もが知る周知の事実だった。

「トラベル編集部の有本編集長いるでしょ。どうもあの人が曲者らしいのよ」
「うん?」
「何でかはわからないんだけど、やたら白泉編集長を目の敵にしてるみたいでさ。うちが何か特集組んだら、まるっきり同じ特集当ててきたりするわけよ。あっちの方がページ数も予算も上だもん。同じ特集組まれたら弱小編集部のうちに勝ち目はないよね」

 まどかの話を聞いた柚希は、どうにも腑に落ちない顔をしていた。

「え? なにそれ。身内で潰しあいしてるってこと?」
「有本編集長は絶対認めないけどね。……でも、ありゃ絶対クロだよ」

 ありえない。柚希はそう思った。
 大手出版社ならそういった確執もあるかも知れない。だが、社員が僅か100名足らずのアント出版の様な中堅どころ、しかもいずれは自分が社長となるかも知れない会社だと言うのに、そんな事をして一体何の得があるのだろうか。

「……ねぇ、まどかぁ。世の中いろんな人がいるもんだねぇー」
「そうだねぇー」

 今のは聞かなかった事にしよう。
 車窓から見える腹が立つほど真っ青な空をぼんやりと眺めながら、柚希は現実逃避にひた走っていた。



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