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第一章 食わず嫌い
第二話~飛んで火にいる腹の虫~
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「ねぇねぇ、酷いと思わない? こんなに一生懸命尽くしてんのにデートひとつもしてくれないなんて」
柚希がいつも食事を持ち帰るのは、志の田の帰りに必ずと言っていいほどこの“バー デスペラード”に寄るからだった。
和風のお店から一転。暗い店内には生簀の代わりに熱帯魚が飾られ、炭に漬け汁がジュッと鳴る音が響く代わりにジャズが流れている。
志の田もこのデスペラードも、柚希にとって同じくらいお気に入りの場所であった。
「はぁ、またその話? 柚も頑張るねぇ」
左耳には複数のピアス。肩まで届く長髪を軽く結んだチャラ男全開の細身のこの男性は、グラスを拭き上げながらうんざりとした面持ちで眉を顰めた。
宮里 陸は、この店のバーテンダーであり柚希の良き相談相手。柚希は陸が自分と同じ二十八歳という事もあり、初めて飲みに来たその日から二人はすぐに意気投合した。
しかし、ここ最近の柚希は必ずと言っていいほど志の田に寄った帰りに店に現れる。したがって、必然的に愚痴を聞かされる羽目になることに陸はほとほと嫌気が差していた。
「そもそも、柚は本来の目的を達成したのかよ?」
「本来の目的?」
「うん」
「背中から抱き付く?」
「ぶっ! 違うだろ。お前の仕事って一体何?」
「グルメ編集者?」
「だろ? てか何で疑問形なんだよ」
「だって急な人事異動で最近編集になったんだから仕方ないじゃない。そもそも未だに納得してないし」
その話になると決まって柚希の機嫌が悪くなる。陸は仕返しとばかりにとどめを刺す様な言葉を柚希に浴びせた。
「ああ、例の付き合ってた上司に振られた挙句、左遷されましたってやつ?」
「左遷言うな。私だって気にしてんだから」
三か月前、アント出版のWEBデザイナーとして勤務していた柚希は、当時の部署の上司である神代 浩輔と極秘で付き合っていた。社内恋愛は色々と面倒だからと二人の関係は秘密にすることを条件とされていたのだが、柚希から溢れ出る好き好きオーラが全開過ぎたせいか、二人の関係を知られていないと思っているのは最早柚希ただ一人、といったような状況だった。それに加え、柚希の極度の味音痴が追い打ちをかけ「味覚が合わないから君とは結婚できない」と一方的に別れを告げられてしまった。さらに翌週にはWEBデザイナーである柚希が何故かアント出版一のお荷物編集部と言われている“グルメ編集部”に異動と相成ったのだから、左遷、若しくは証拠隠滅と思われても仕方がなかった。
「絶対あの店をうちの雑誌に載せるんだーって言ってたろ?」
「……ああー」
「え、なにその『そんな事もあったなぁ』みたいな顔は」
「だってさー、篠田さんは全くその気ないんだもん仕方ないじゃない。雑誌なんかに取り上げられたらお客さんが一杯来ちゃって、ただでさえ狭いのに食べられない人が増えたら困るんだって。雑誌っつったって、うちのじゃあ大して影響力ないと思うんだけどね。お客さんが増えれば店舗拡大なりなんなりすれば済む事だしさ」
柚希は口先を尖らせながら、茶色の液体が入ったロックグラスの氷をくるくると指で回した。
「じゃあさ、志の田の代わりにうちのっけてよ。勿論無料で」
グラスを拭き上げる手を止め、陸はここぞとばかりに身を乗り出した。
「ばか。そう何度も何度も無料枠あげられないってーの」
「何度もって、たった一回だけだろ。しかもこーんな小っせぇとこ」
指を使ってどれだけ小さかったかをこれみよがしにアピールするも、パンっと柚希にその手を払われてしまった。
「あー、やだやだ。大したことない店に限って無料枠くれくれ五月蠅いんだよね」
「あっ! おま、……てんちょー!」
「でもさぁ、未だにあの出会いは私にとって衝撃的だったなぁ」
「って、スルーかよ」
やれやれと言った表情を見せる陸の気も知らず、うっとりとした目で柚希は回想にふけり始めた。
三か月前。
その日、 浩輔にフられた柚希は、あまりのショックに会社を早退した。このまままっ直ぐ家路につくのが嫌で、普段は歩かない路地裏を当てもなくとぼとぼと歩く。何軒かお店らしい建物があるもまだ日が高いせいかどの店もシャッターが下ろされており、辺りはやけに静かだった。
(――?)
ぼんやりと歩いていると、店舗なのか住宅なのかも判別つかない建屋からいい香りが流れ出ている事に気付く。間口が狭くひなびた雰囲気のある二階建てのその建屋の前で、柚希の足がピタリと止まった。
(――なんだろう、いい匂い)
暖簾もかかっていなければ看板もない。引き戸の和風扉がかろうじてここはお店なんだろうなと思うほど、あっさりとした外観だった。
(何の匂いかな?)
いつまでも味音痴のレッテルを張られるのは悔しい。柚希は目を瞑りながらまるで犬の様にくんくんとその扉の前で匂いの正体を突き止めようとしていた。
「――。……っ!?」
「あ……」
その時、ガラガラガラッと目の前の扉が開き、中から小さな看板を持った白衣姿の男性が出て来た。店の前で目を瞑って鼻をくんくんとさせている柚希を見て、その男性は目を丸くしている。その様子からかなりびっくりさせてしまったのだという事が見て取れた。
「……あっと、すみません、まだ開店前で」
「あっ、いや、その、私は」
完全に客だと思われている。しかも、開店待ちするほどのかなりコアなファンだと。そう思われているんじゃないかと考えると「いい匂いがしたもんだから、ちょっと立ち止まっただけ」などと言うことが出来ず、つい口ごもってしまった。
「えっと……、――あ」
この場を切り抜けるには何と言えばいいのかと考えていると、「グーゥッ、キュルルルル……」と柚希の腹の虫が盛大に鳴った。
「……」
(たっ、タイミング悪っ)
目の前の男性はあっけにとられている様子だった。そりゃそうだ。開店前の店の前で匂いを嗅ぐ挙動不審な女が、待ってましたとばかりに腹の虫を鳴らしたのだから無理もない。
浩輔にフられたショックで昼ご飯を食べていなかったから、きっとそのツケが今になって回って来たのだろう。あまりのタイミングの悪さにいたたまれなくなり、両手でお腹を押さえながらカーッと頬を染めた。
「あのっ、ごめ……」
「良かったら――」
柚希が踵を返そうとしたその時、白衣の男性は手にした看板を設置しながら柚希に声を掛けた。
「え?」
「まだ開店前ですけど、どうぞ」
夕焼けを背にニッコリと笑みを浮かべたその男性は、優しく柚希を招き入れた。
それが柚希と翔太郎の初めての出会いだった。
柚希がいつも食事を持ち帰るのは、志の田の帰りに必ずと言っていいほどこの“バー デスペラード”に寄るからだった。
和風のお店から一転。暗い店内には生簀の代わりに熱帯魚が飾られ、炭に漬け汁がジュッと鳴る音が響く代わりにジャズが流れている。
志の田もこのデスペラードも、柚希にとって同じくらいお気に入りの場所であった。
「はぁ、またその話? 柚も頑張るねぇ」
左耳には複数のピアス。肩まで届く長髪を軽く結んだチャラ男全開の細身のこの男性は、グラスを拭き上げながらうんざりとした面持ちで眉を顰めた。
宮里 陸は、この店のバーテンダーであり柚希の良き相談相手。柚希は陸が自分と同じ二十八歳という事もあり、初めて飲みに来たその日から二人はすぐに意気投合した。
しかし、ここ最近の柚希は必ずと言っていいほど志の田に寄った帰りに店に現れる。したがって、必然的に愚痴を聞かされる羽目になることに陸はほとほと嫌気が差していた。
「そもそも、柚は本来の目的を達成したのかよ?」
「本来の目的?」
「うん」
「背中から抱き付く?」
「ぶっ! 違うだろ。お前の仕事って一体何?」
「グルメ編集者?」
「だろ? てか何で疑問形なんだよ」
「だって急な人事異動で最近編集になったんだから仕方ないじゃない。そもそも未だに納得してないし」
その話になると決まって柚希の機嫌が悪くなる。陸は仕返しとばかりにとどめを刺す様な言葉を柚希に浴びせた。
「ああ、例の付き合ってた上司に振られた挙句、左遷されましたってやつ?」
「左遷言うな。私だって気にしてんだから」
三か月前、アント出版のWEBデザイナーとして勤務していた柚希は、当時の部署の上司である神代 浩輔と極秘で付き合っていた。社内恋愛は色々と面倒だからと二人の関係は秘密にすることを条件とされていたのだが、柚希から溢れ出る好き好きオーラが全開過ぎたせいか、二人の関係を知られていないと思っているのは最早柚希ただ一人、といったような状況だった。それに加え、柚希の極度の味音痴が追い打ちをかけ「味覚が合わないから君とは結婚できない」と一方的に別れを告げられてしまった。さらに翌週にはWEBデザイナーである柚希が何故かアント出版一のお荷物編集部と言われている“グルメ編集部”に異動と相成ったのだから、左遷、若しくは証拠隠滅と思われても仕方がなかった。
「絶対あの店をうちの雑誌に載せるんだーって言ってたろ?」
「……ああー」
「え、なにその『そんな事もあったなぁ』みたいな顔は」
「だってさー、篠田さんは全くその気ないんだもん仕方ないじゃない。雑誌なんかに取り上げられたらお客さんが一杯来ちゃって、ただでさえ狭いのに食べられない人が増えたら困るんだって。雑誌っつったって、うちのじゃあ大して影響力ないと思うんだけどね。お客さんが増えれば店舗拡大なりなんなりすれば済む事だしさ」
柚希は口先を尖らせながら、茶色の液体が入ったロックグラスの氷をくるくると指で回した。
「じゃあさ、志の田の代わりにうちのっけてよ。勿論無料で」
グラスを拭き上げる手を止め、陸はここぞとばかりに身を乗り出した。
「ばか。そう何度も何度も無料枠あげられないってーの」
「何度もって、たった一回だけだろ。しかもこーんな小っせぇとこ」
指を使ってどれだけ小さかったかをこれみよがしにアピールするも、パンっと柚希にその手を払われてしまった。
「あー、やだやだ。大したことない店に限って無料枠くれくれ五月蠅いんだよね」
「あっ! おま、……てんちょー!」
「でもさぁ、未だにあの出会いは私にとって衝撃的だったなぁ」
「って、スルーかよ」
やれやれと言った表情を見せる陸の気も知らず、うっとりとした目で柚希は回想にふけり始めた。
三か月前。
その日、 浩輔にフられた柚希は、あまりのショックに会社を早退した。このまままっ直ぐ家路につくのが嫌で、普段は歩かない路地裏を当てもなくとぼとぼと歩く。何軒かお店らしい建物があるもまだ日が高いせいかどの店もシャッターが下ろされており、辺りはやけに静かだった。
(――?)
ぼんやりと歩いていると、店舗なのか住宅なのかも判別つかない建屋からいい香りが流れ出ている事に気付く。間口が狭くひなびた雰囲気のある二階建てのその建屋の前で、柚希の足がピタリと止まった。
(――なんだろう、いい匂い)
暖簾もかかっていなければ看板もない。引き戸の和風扉がかろうじてここはお店なんだろうなと思うほど、あっさりとした外観だった。
(何の匂いかな?)
いつまでも味音痴のレッテルを張られるのは悔しい。柚希は目を瞑りながらまるで犬の様にくんくんとその扉の前で匂いの正体を突き止めようとしていた。
「――。……っ!?」
「あ……」
その時、ガラガラガラッと目の前の扉が開き、中から小さな看板を持った白衣姿の男性が出て来た。店の前で目を瞑って鼻をくんくんとさせている柚希を見て、その男性は目を丸くしている。その様子からかなりびっくりさせてしまったのだという事が見て取れた。
「……あっと、すみません、まだ開店前で」
「あっ、いや、その、私は」
完全に客だと思われている。しかも、開店待ちするほどのかなりコアなファンだと。そう思われているんじゃないかと考えると「いい匂いがしたもんだから、ちょっと立ち止まっただけ」などと言うことが出来ず、つい口ごもってしまった。
「えっと……、――あ」
この場を切り抜けるには何と言えばいいのかと考えていると、「グーゥッ、キュルルルル……」と柚希の腹の虫が盛大に鳴った。
「……」
(たっ、タイミング悪っ)
目の前の男性はあっけにとられている様子だった。そりゃそうだ。開店前の店の前で匂いを嗅ぐ挙動不審な女が、待ってましたとばかりに腹の虫を鳴らしたのだから無理もない。
浩輔にフられたショックで昼ご飯を食べていなかったから、きっとそのツケが今になって回って来たのだろう。あまりのタイミングの悪さにいたたまれなくなり、両手でお腹を押さえながらカーッと頬を染めた。
「あのっ、ごめ……」
「良かったら――」
柚希が踵を返そうとしたその時、白衣の男性は手にした看板を設置しながら柚希に声を掛けた。
「え?」
「まだ開店前ですけど、どうぞ」
夕焼けを背にニッコリと笑みを浮かべたその男性は、優しく柚希を招き入れた。
それが柚希と翔太郎の初めての出会いだった。
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