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第一章 食わず嫌い
第一話~手ごたえなしの恋~
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メイン通りから一本外れた暗い路地裏。人の往来が殆どないと言っていいほど寂しい場所に、ぽわんっと優しいオレンジ色した小さな看板が控えめに点灯している。
間口が狭く趣のある二階建ての建屋。看板には「志の田」と書かれているだけで、一見する限りでは何屋なのかも判別出来ない。しかし、ひとたびその前を通りさえすれば、カツオと昆布の利いた和風だしの優しい香りが辺りを漂い、必然的にそこが食事処であることはすぐにわかるものだった。
その店の前を通る腹を空かせた人達は自然と歩く速度を緩める。グルメ雑誌の編集者である佐和 柚希もかつてはその一人だった。
二十八歳という、若いともおばさんとも言えない妙齢の彼女。ここ数年は手入れが楽だと言う理由から、ずっとショートスタイルを維持している。太っているわけでも痩せているわけでもなく、所謂中肉中背。決してモテないわけではないが、自分から好きにならないと長続きしない様なタイプだった。
基本残業が多い職種ではあるが、早く仕事を終わらせることが出来た時に急いで向かう先は決まってその和食料理店。以前、たまたまふらっと立ち寄ったその店の料理に心を打ち抜かれ、それからと言うもの足繁くこの店に通うようになっていた。
「んー! 最っ高! 隠し味の生姜がきいてる!」
柚希はカウンターに出された鰆の焼き物を口にしてそう言った。しかし、その料理を出した料理人は何故か小さく溜息を吐いた。
「……生姜? 山椒だろ。それに隠してもないがな」
表情一つ変えずにそう言うと、メニューの中から“鰆の山椒焼き”と書かれている文字を指し示した。
料理人の名前は発条 翔太郎。和食の料理人らしい、スッとした目鼻立ちで整った顔をしている。落ち着いた見かけから年の頃はよく三十代前半だと思われがちだが、実は柚希より二つ年下のまだ二十六歳だった。
翔太郎は最初の方こそちゃんと敬語で会話していたのだが、冒頭の様にあまりにも柚希が的外れな話を振ってくるため、最近では邪険に扱われるようになってしまっていた。
「……じょ、冗談ですよ、冗談! そそ、山椒ね、さんしょー!」
「ふん」
「あ、あはは……、お、おいしいなぁーっと」
ピシッと糊のきいた白衣に和帽子をかぶり、切れ長の目で柚希を睨み付けると翔太郎は面倒臭いとばかりに店の裏へと下がって行った。
「あーあ、また失敗しちゃったなぁ」
カウンターの上に肘をつき、はぁっと特大の溜息を吐く。グルメ編集者らしく言ってみたのだったが、逆に自分が無知で味音痴だと言うことを露呈する結果となってしまった。
「佐和さん、銜え箸なんかして行儀悪い。そんなんじゃまた“ぜん”に嫌われるぞ」
そう言ってカウンターの端の方から柚希を戒めたのは、翔太郎と同じ白衣の中にワイシャツとネクタイ姿でいかにもな風貌の男性、この店の店主でもある料理長の篠田だった。篠田が“ぜん”と呼ぶのは翔太郎の呼び名である。“発条”と書いて“ぜんまい”とも読めることから、愛着の意味を込めて篠田は彼の事をそう呼んでいた。
「はーい、すみません」
口に含んでいた箸を出すと、店の奥にチラリと見える翔太郎の広い背中を追いかける。白衣越しでもわかる筋肉質なその身体は、柚希だけでなく誰もが惚れ惚れした。
正直に言うと、心を打ち抜かれたのはここの料理だけではない。先ほど華麗にダメ出しを食らわせた彼、翔太郎にも心を打ち抜かれてしまったのだった。
「はぁ。何て美味しそうな――」
(カラダなんだろうか)
いつの日か無条件であの背中に抱き付ける日が来ないものかと、柚希は夢に思い描いていた。
「なにをボーっとしてるんだ」
再び表に出て来た翔太郎は、自分へと向けられる柚希の熱い視線に気づき眉根を寄せる。
「いやー、美味しそうだなと」
あまりにもボーっとしていたせいで、本音が口から零れている事にまだ気付いていない。
「は? 何が?」
問い返されて初めて、自分が失言をしてしまったのだと気付いた。
「え? あー、……鰆が?」
「もう食ったろ」
「ああ、そ、そうですね」
慌てて取り繕ってみたが、明らかに翔太郎の眉根はくっきりと深い縦じわが刻まれている。山椒の事といい、この事といい、思った事が勝手に口から出てしまう自分がほとほと嫌になった。
しかし、ここまでくれば料理を食べに来ているのか翔太郎を食べるために来ているのか最早見当がつかない。少なくとも、翔太郎を持ち帰る事は出来ないがここの料理を持ち帰る事は出来るので、柚希はいつもの様に締めの食事を包んでもらうよう、翔太郎に頼んだ。
「こんばんはー。わぁ、もしかして今日も一杯?」
「いらっしゃい」
「……?」
柚希はその声に振り返ると、見たところ二十代中ごろの女性三人組が困った顔をしながら店に入って来た。
「そうなんですよ、いつもすみません」
申し訳なさそうな表情で翔太郎が頭を下げた。
この店は間口も狭いが店内も狭い。カウンター十席のみだから少しでもタイミングを逃せばたちまち座れなくなる。
「ぜんさん、いい加減予約制にしてよ」
「すみません、うちはそういうのやってなくて」
困りながらも笑顔を浮かべる翔太郎をもっと見ていたいと思ったが、柚希の隣が二席空いていて自分も食べ終わった事だしと、仕方なくこの三人組に席を譲ってやろうと立ち上がった。
「発条さん、私帰りますから。――あの、良かったらここどうぞ」
「え? でも」
「わぁ! いいんですか! 有難うございます!」
「いえいえ」
立ち上がりレジへと向かおうとした柚希に翔太郎が声を掛ける。
「持ち帰りの用意がまだ出来てないんだが」
「あ、今日はもういいですよ。なんなら発条さんが召し上がってください……って、ここで働いてたらもっといいものが食べられますよね! 失礼しました!」
また睨まれる。柚希はそう思ったが、翔太郎の口元は僅かに上がりそれは微笑んでいるようにも、若しくは嘲笑っているかの様にも思えた。
(あれ? いつもと何か……違う?)
拍子抜けしながらも翔太郎に会計をお願いする。
「悪いな。今度何か御礼でもするから」
「え? 本当ですか!? じ、じゃあ、じゃあ!」
「却下」
「えー!? まだ何も言ってないじゃないですかっ!」
「あんたが何言おうとしてんのか大体わかる」
「もう! わかってんなら一度位デートして下さいよ」
「あんたね……」
「へ?」
お釣りを渡される時に翔太郎の顔が耳元に近づく。
(え? 何? 内緒話? やだぁ、もう発条さんてば照れ屋さんなんだから)
ドキドキしながら柚希が顔を寄せると「今度店でそんな話したら出禁にすっからな」とドスのきいた低い声で呟かれた。
「ごっ、ごめんなさい! もうしません! ご馳走様でした」
慌てて店から出た柚希の後姿を見て翔太郎は僅かに口元を緩めた。
間口が狭く趣のある二階建ての建屋。看板には「志の田」と書かれているだけで、一見する限りでは何屋なのかも判別出来ない。しかし、ひとたびその前を通りさえすれば、カツオと昆布の利いた和風だしの優しい香りが辺りを漂い、必然的にそこが食事処であることはすぐにわかるものだった。
その店の前を通る腹を空かせた人達は自然と歩く速度を緩める。グルメ雑誌の編集者である佐和 柚希もかつてはその一人だった。
二十八歳という、若いともおばさんとも言えない妙齢の彼女。ここ数年は手入れが楽だと言う理由から、ずっとショートスタイルを維持している。太っているわけでも痩せているわけでもなく、所謂中肉中背。決してモテないわけではないが、自分から好きにならないと長続きしない様なタイプだった。
基本残業が多い職種ではあるが、早く仕事を終わらせることが出来た時に急いで向かう先は決まってその和食料理店。以前、たまたまふらっと立ち寄ったその店の料理に心を打ち抜かれ、それからと言うもの足繁くこの店に通うようになっていた。
「んー! 最っ高! 隠し味の生姜がきいてる!」
柚希はカウンターに出された鰆の焼き物を口にしてそう言った。しかし、その料理を出した料理人は何故か小さく溜息を吐いた。
「……生姜? 山椒だろ。それに隠してもないがな」
表情一つ変えずにそう言うと、メニューの中から“鰆の山椒焼き”と書かれている文字を指し示した。
料理人の名前は発条 翔太郎。和食の料理人らしい、スッとした目鼻立ちで整った顔をしている。落ち着いた見かけから年の頃はよく三十代前半だと思われがちだが、実は柚希より二つ年下のまだ二十六歳だった。
翔太郎は最初の方こそちゃんと敬語で会話していたのだが、冒頭の様にあまりにも柚希が的外れな話を振ってくるため、最近では邪険に扱われるようになってしまっていた。
「……じょ、冗談ですよ、冗談! そそ、山椒ね、さんしょー!」
「ふん」
「あ、あはは……、お、おいしいなぁーっと」
ピシッと糊のきいた白衣に和帽子をかぶり、切れ長の目で柚希を睨み付けると翔太郎は面倒臭いとばかりに店の裏へと下がって行った。
「あーあ、また失敗しちゃったなぁ」
カウンターの上に肘をつき、はぁっと特大の溜息を吐く。グルメ編集者らしく言ってみたのだったが、逆に自分が無知で味音痴だと言うことを露呈する結果となってしまった。
「佐和さん、銜え箸なんかして行儀悪い。そんなんじゃまた“ぜん”に嫌われるぞ」
そう言ってカウンターの端の方から柚希を戒めたのは、翔太郎と同じ白衣の中にワイシャツとネクタイ姿でいかにもな風貌の男性、この店の店主でもある料理長の篠田だった。篠田が“ぜん”と呼ぶのは翔太郎の呼び名である。“発条”と書いて“ぜんまい”とも読めることから、愛着の意味を込めて篠田は彼の事をそう呼んでいた。
「はーい、すみません」
口に含んでいた箸を出すと、店の奥にチラリと見える翔太郎の広い背中を追いかける。白衣越しでもわかる筋肉質なその身体は、柚希だけでなく誰もが惚れ惚れした。
正直に言うと、心を打ち抜かれたのはここの料理だけではない。先ほど華麗にダメ出しを食らわせた彼、翔太郎にも心を打ち抜かれてしまったのだった。
「はぁ。何て美味しそうな――」
(カラダなんだろうか)
いつの日か無条件であの背中に抱き付ける日が来ないものかと、柚希は夢に思い描いていた。
「なにをボーっとしてるんだ」
再び表に出て来た翔太郎は、自分へと向けられる柚希の熱い視線に気づき眉根を寄せる。
「いやー、美味しそうだなと」
あまりにもボーっとしていたせいで、本音が口から零れている事にまだ気付いていない。
「は? 何が?」
問い返されて初めて、自分が失言をしてしまったのだと気付いた。
「え? あー、……鰆が?」
「もう食ったろ」
「ああ、そ、そうですね」
慌てて取り繕ってみたが、明らかに翔太郎の眉根はくっきりと深い縦じわが刻まれている。山椒の事といい、この事といい、思った事が勝手に口から出てしまう自分がほとほと嫌になった。
しかし、ここまでくれば料理を食べに来ているのか翔太郎を食べるために来ているのか最早見当がつかない。少なくとも、翔太郎を持ち帰る事は出来ないがここの料理を持ち帰る事は出来るので、柚希はいつもの様に締めの食事を包んでもらうよう、翔太郎に頼んだ。
「こんばんはー。わぁ、もしかして今日も一杯?」
「いらっしゃい」
「……?」
柚希はその声に振り返ると、見たところ二十代中ごろの女性三人組が困った顔をしながら店に入って来た。
「そうなんですよ、いつもすみません」
申し訳なさそうな表情で翔太郎が頭を下げた。
この店は間口も狭いが店内も狭い。カウンター十席のみだから少しでもタイミングを逃せばたちまち座れなくなる。
「ぜんさん、いい加減予約制にしてよ」
「すみません、うちはそういうのやってなくて」
困りながらも笑顔を浮かべる翔太郎をもっと見ていたいと思ったが、柚希の隣が二席空いていて自分も食べ終わった事だしと、仕方なくこの三人組に席を譲ってやろうと立ち上がった。
「発条さん、私帰りますから。――あの、良かったらここどうぞ」
「え? でも」
「わぁ! いいんですか! 有難うございます!」
「いえいえ」
立ち上がりレジへと向かおうとした柚希に翔太郎が声を掛ける。
「持ち帰りの用意がまだ出来てないんだが」
「あ、今日はもういいですよ。なんなら発条さんが召し上がってください……って、ここで働いてたらもっといいものが食べられますよね! 失礼しました!」
また睨まれる。柚希はそう思ったが、翔太郎の口元は僅かに上がりそれは微笑んでいるようにも、若しくは嘲笑っているかの様にも思えた。
(あれ? いつもと何か……違う?)
拍子抜けしながらも翔太郎に会計をお願いする。
「悪いな。今度何か御礼でもするから」
「え? 本当ですか!? じ、じゃあ、じゃあ!」
「却下」
「えー!? まだ何も言ってないじゃないですかっ!」
「あんたが何言おうとしてんのか大体わかる」
「もう! わかってんなら一度位デートして下さいよ」
「あんたね……」
「へ?」
お釣りを渡される時に翔太郎の顔が耳元に近づく。
(え? 何? 内緒話? やだぁ、もう発条さんてば照れ屋さんなんだから)
ドキドキしながら柚希が顔を寄せると「今度店でそんな話したら出禁にすっからな」とドスのきいた低い声で呟かれた。
「ごっ、ごめんなさい! もうしません! ご馳走様でした」
慌てて店から出た柚希の後姿を見て翔太郎は僅かに口元を緩めた。
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