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1巻
1-1
しおりを挟む第一章 それは総務の袴田君
絶体絶命って四字熟語は、アニメやマンガの主人公が窮地に追いやられた時に使う言葉だと思っていた。目が覚めて、私はその〝窮地〟という見知らぬ土地に立っている。
こんな二十七歳の、出るとこ出てない平凡OLの私が使う言葉じゃないと思います、神様!!
ねぇ神様!! 教えて?
ここはどこ!? それで隣で私に背中向けて寝てるこの人は誰!? そんでどうして部屋がこんな汚いの? 泥棒にでも入られたの!? あの山は何? ゴミ? 貝塚? え、じゃあこの人古代人?
背中見てもまったく答えは出ず! とりあえず頭痛いから、眉間もみもみ。
しかも裸。繰り返す、しかも、私も男も裸なのである。事後みたくなってしまっているのである。
下着は着けてたからベッドから下りて、落ちてた服そっと取って、音立てないで着た。
いや、ちょっと待てよ、もっかい寝て起きたら家のベッドだった的な、ミラクルな現象に…………………………
なんないから。サッと寝て起きてみたけど二度手間!!
過ちは過ちだから、どうにかしないとですよね。もういい年した大人ですからね、現実逃避はよくないですね。
男は寝息だけを響かせて、とても気持ちよさそうです。時刻は午前五時です。
吹き出物が一切ない、男の綺麗な背中をじっと見つめてたら選択肢が浮かんできた。
【何食わぬ顔で彼女面してみる】
【見ぬふりならぬ、なかったことにする】
【消す】
【悲劇のヒロインぶって泣いてみる】
【消す】
【もっかい寝る】
待って待って、不穏な選択肢が二回も出てる!
ちょっと周り見渡したけど……うーん武器になりそうなものは…………いや、こんな汚部屋のもの何も触りたくないな。そうなると武器は…………
自分の両手を見てワナワナしてしまった。こ、これは武者震いよ……! この無防備な状態なら、女の私でもできるはず!!
い、いや、やめとこ! 勢いでお母さんとお父さんの涙を見たくない!!
それであの……本当に誰だこの人。私は彼と昨夜何をしてしまったんだ、全然思い出せないけど……!
昨日の夜は…………確か会社の飲み会だった。
はい記憶終了。
ヤバくない? それしか覚えてないよ……記憶飛ぶほど飲んだっけ。
でも、ちょっと待って。この黒髪もしかして……
あれ? もしかして…………
いや、ごめん。
全然思いつかないんだけど!
でもよ? もしも営業のまあまあイケてる社員様だったら、ラッキーじゃないですかね、これは!
最後にちょっと、ちょっとだけよ?
お顔見て帰ってもよろしいかしら? 場合によっては朝ご飯作って、彼女面していいかしら?
神様お願い、桐生さん(営業トップ)!! 神様お願い桐生さん(営業トップ)!! 神様お願い桐生さん(営業トップ)!! 桐生さん(営業トップ)!! 桐生さん(営業トップ)!! 営業トップ!!
ベッドに乗って顔を覗きにいったら……
「んっ……」
まさかの艶っぽい声を出しながら黒い頭が揺れて、家主は私のほうを向いた。
うぉぉぉぉおおおおお!!!
袴田君かあぁあ………………!!!
まあ、髪と体格から桐生さんじゃないってことくらい、わかってたけどさ!
うわぁ……総務の袴田君……………………えええぇぇええ、話したことないぃい。
えっと、待って……は、袴田君の情報は……総務で……二年前に会社に来て……うん、それだけ!
でもあの……寝息を立てる袴田君は思ってたより綺麗な顔してる……会社では草食眼鏡って感じなのに……え? この人にいろいろされ……?
う、う、う!!
はい解散!! 撤収!!!
「お先に失礼します」
超小さな声で言って荷物を持って、私は一目散に袴田君の部屋をあとにしたのだった。
とりあえず家に帰って二度寝した。今日土曜日でよかった。
昼過ぎに起きた頃には頭もスッキリしてたし、見慣れた部屋での目覚めは最高だった。紅茶でも飲も……
ポットのお湯が沸くまで、スマホを弄ってみる。友達からメッセージが来てるくらいで、特に変わったことはなかった。
袴田君の連絡先も入ってなかったし(よかった)、もちろん桐生さんの連絡先も入ってなかった(くっそ)。
うんだって、本当に何もなかったしね☆ うふ。
マジ、あれ夢だったんじゃ?
と思えてきた…………ああ、うん夢でいいや。
お湯が沸いたからティーポットにお湯を注いで蓋をして、蒸らす間、今度は郵便物を眺めてみた。
近くにできたジムにピザや寿司、マンションやスーパーのチラシ……それと、区だより…………
「あ」
尾台絵夢様。おお、やっと私宛の郵便物だ。そして、そのハガキに溜め息なんて出てしまった。
「あああ……そう、夏奈子結婚したんだ。オメデト」
苗字が変わった大学の友人からのハガキの裏には、結婚式の写真がプリントされてた。しかも何これハワイ? 海外挙式? 呼ばれてないけどあれかな、身内だけでやったのかな。だって夏奈子仲良かったから呼んでくれてるはずだし。
え、仲良かったと思ってるの、私だけパターン?
結婚するほどの恋人がいたって知らなかったし、最後のやりとりはお正月だったかな? 年賀状のやりとりはしたよね、ん? 仲…………良いよねぇ?
…………うっそやだ、やめよ! やめよ! い、忙しかったんだよきっと! うんそう!
携帯持って、やっぱり置いて。ハガキ来たんだから私もお返事書いて、何かプレゼントでも贈ろ。
紅茶一口飲んだ……うわ、すっぱ!! ああこれハイビスカス入ってるんだっけ、すんごい酸っぱい。でも、いつもより酸味五割増しくらいに感じる。
ソファーに座って窓を見た。雲一つないカラッとした晴天で、それなのに洗濯物すら干してないベランダって…………
ヤバイな、この世界に一人ぼっち感ヤッバイ! でも特に予定もない!
だがしかし寂しくもない私、最強!!
結婚したいな~とは思わないんだけど、結婚したいくらい好きな人いるのは、いーなーと思う。
結婚したら、今まで一人で使ってた時間を他人と共有しなきゃなんないわけで。好き勝手できないし、ズボラな姿見せて幻滅されてもやだから、常にちゃんとしなきゃならないよねぇ?
そんなの耐えられない! って思うんだけど、きっと違うんだよね。
だって、ずっと一緒にいたいくらい好きな人だから結婚するんだもんなぁ。
共有しなきゃいけない、とかそういう気持ちじゃないんだ、きっと。私のことわかってもらいたいし、相手のこともわかりたい。一緒にいるのが楽しくて楽しくて仕方ない。そんな相手だから結婚するんでしょ。
いいなぁ。そんな人、出会ってみたいなぁ。
でも私まだ彼氏いない歴=年齢だしな。
………………ああ、そうか。
すごいことに気がついて、顔を両手で覆った。
私は記憶もないまま乙女散らしちゃったって!? 袴田君で!?
ないないないないない!
うん、ない!
なかったことになってるからノーカンです。
いやでもさ、『わたくし殿方のために初めては温めておきましたの。キラッ☆』とか今時重たいよね? 金曜日だしたまにはワンナイトラブもいいよね! みたいな感性がなかったから、処女拗らせたわけだし。
うん、だからこれでよかったのよ!! だって私はもう二十七歳の立派な大人(涙目)。
泣いてないです! これはあれ、生き別れの弟を思い出しただけよ(姉しかいない)。
そして私は何もせずに……いやゲームして大好きなTL漫画読んで(調教と服従で検索する)、土曜日を終えてしまった……現実逃避ではないです、現実から逃避なんて不可能ですから。
そして迎えた、日曜日。まあ目立ったイベントもないもんで。
いつもどおり、午前中はヨガに行く(いろんな体位ができるよう柔軟な体作りを心がけてまっす! ちなみにこの体を使えそうな予定はなし。いや使ったのかな……うううう、助けて)。
レッスンを終えて、毎週会う、同じようなアラサー独身の顔見知りたちに挨拶する。ヨガスタジオのシャワー浴びたあと、なんだか最近、化粧のりが前と違うんだよなぁって化粧水パッティングしながら思った。
入れ! 入れ!! 私の角質層の奥深くまで染み込め化粧水!! 多分、皆もそう思いながらやってるはず……!
鏡を見て、全然綺麗になってなくて溜め息だ…………エッチすると綺麗になるんじゃないのかよ、神様嘘つきすぎ!
そこには四流私大卒、二十七歳、営業事務の冴えない私が映っていた。
勉強得意じゃなかったけど大学行けって親がうるさかったから、行けるとこに行った。得意なものも特にない。
顔は普通。インパクトはないけど、顔のせいで人を不快にさせたことはないかな。
化粧したら化けると無責任に言われて、本気で化粧したら歌舞伎役者みたいになったから、いつもナチュラルメイク。
体形は…………食にこだわりないから普通。
髪は伸ばしてる、輪郭隠せるから。前髪は作ってない、風吹くたびに直すの面倒臭いから。
笑顔は頑張ってる、こんな私が無愛想にしてたら救いようがないから。
背筋は伸ばすようにしてる、少しでも印象をよく見せたいから。
話はしっかり聞くようにしてる、私は面白いことが言えないから。
何に対しても否定しないようにしてる、私が否定されるのが怖いから。
そして、私みたいのを陰キャラ、通称『陰キャ』と言うらしい。
へえ悪くないな陰キャ。実は陰でクラス操ってそうじゃん、私には全然そんな能力ないけど。
趣味は…………実はこないだまであったけど、卒業した。
それは時間が経つにつれ、ゆっくり黒歴史になりつつある。もう絶対あの世界には戻らないんだけど、未だに段ボールに入ってるその痕跡が、なかなか捨てられないでいる。
……まぁ、そんなことを考えてもしょうがないんだけどね。
さっとパウダー叩いてヨガスタジオを出た。
午後は一週間分の買い物だ。
会社帰りにちょっとコンビニ、くらいはいいけど、スーパーまで寄るのは面倒臭いし、それから帰って料理なんてやってらんない。
でも毎日外食したら安月給OLの私じゃ有料ゲームできなくなってしまうから、節約するに越したことはない。
だから食材をまとめて安いスーパーで買って、日曜に作り置きしてる。
今日も何作ろうかなーっていろいろ買って帰ってきて、狭い玄関を通ろうとしたら、置いといた段ボールにつまずいて舌打ちしてしまった。
段ボールが倒れて、中からウィッグと衣装が投げ出される。
…………見なかったことにして部屋に入った。これが私の黒歴史。
趣味は…………多分二年前に聞かれたら、笑顔で「コスプレです!」って答えたかな。
すごいんだよ? 陰キャの私が、本当に魔法にかけられたみたいに変身できるんだ!
テーピング使ったら骨格も変えられるし、たくさん持ってたメイク道具で、好きな顔になれた。服だって作ってた。すごい楽しかった。
生まれ変わったような瞬間が快感で、このために生きてるってレベルだった。
カメラのフラッシュが気持ちいいんだ。ファンだっていっぱいいたし、私しか撮らないって言ってたカメラマン様だっていたんだからね。
〝にゃんにゃん〟って痛い名前だったけど、私がやるポーズは〝にゃんにゃんポーズ〟って流行ったりもしたんだよ!(うん、恥ずか死ねる)
でも、私を師匠師匠って崇拝してくれてた子に、SNSの裏アカウントで【いい年して魔法少女とか、マジでキメェ。さっさと引退しろ】って陰口言われてるの見て、やめてしまった。
その子、私より一回り若いんだけど、他の人もそう思ってたらどーしようって、いたたまれなくなってしまってな!
裏アカ見た瞬間は悲しかったかな? 怒りとかはなくて、はぁマジかって溜め息ついて、私にまつわるすべてのアカウントを消去した。
メイク教えてあげたり、一緒に服作ったり、妹みたいに思ってたんだけどね。何か気に障ることでもしちゃったのかな。今となってはわからない。
まあ、あのままやってても引き際がわからなかったし、これでよかったんだと思う!
思い入れのあるキャラクターだったから、どうしてもやりたくてね。でも、いつまでも魔法少女だなんて、私がおかしかったんだ。
年齢に応じたコスプレってあるんだけど、まだ今年はできるんじゃないかなって無理してやってたのも事実、キモイって言われてたのが現実。
誰にも何も告げずに、にゃんにゃん氏は突然消えていなくなって…………
そのままあの世界には、まったく触れてない。けれど後悔はしていない。
冷蔵庫に食材をしまって、一週間の大体の配分考えながらちょっとした夕飯を作って食べた。明日のお弁当の下拵えも済んだし、ゲームして寝よ寝よ。おやすみなさい。
で、月曜日。さらに一日経ったら金曜日の袴田君なんかすっかり忘れていた。
我ながらなんだよこの性格は、と思う。
ただ、世間で言う『さとり世代』な私は、ネガティブなことがあっても「仕方ない」で済ませるように、脳が勝手に働いてしまうんだよね。生まれた時から大変な世の中だったし、みたいな。
だってもう、やっちゃったものは仕方ないじゃんか。
落ち込んだって愚痴零したって励まされたって、結局私が立ち上がらないといけないわけで。
だったらはじめから悪いほうに捉えなければ万事解決っしょ!
起きて、顔洗って、さぁメイク~メイク~って思ったら………………
う、う、う、嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘!!
うっそでしょ!? メイクポーチがないんだけど……!
え? 嘘、なんでなんで?
休みはちょっと眉描くのとパウダーくらいだから、家にある予備ので済ませてて、気づかんかった……
やだ、落とした? 落としたのかなぁ。
コスプレやめてから、私の楽しみといえば、新作のコスメ買ってニヤニヤすることだったのに!(結局使わず誰かにあげる)
百貨店のカウンターでお姉さんにお化粧してもらってお話しして、買って外までお見送りしてもらうの大好きで、給料注ぎ込んでる二十七歳。
あのポーチこの夏限定のだったし、中身あわせて総額五万くらいしたんだけど…………ショック。
いや、落とした私が悪いんだけどさ。
まあ、しょうがないか。神様がこれを機にプチプラコスメにしなさいって勧めてんのかもしれない。ああそうですか、そうしますよ、私の顔はプチプラですね。
……ん? あ?
ちょっとやな予感する。
もしかして、もしかして神様。袴田君の家に忘れてきたなんてこたぁーないですよね?
だって、袴田君ちなんて行ったことないしぃ!
パスケースも財布も入ってたから、バッグの中身あんまり確認せずに帰っちゃったんだよなぁ。
えー……袴田君ち?
うわぁあ……マジですか。
とりあえず、ここでウダウダ考えても仕方ないし、予備のメイク道具でそれなりに顔作って、会社行くか。
メイク終わらせて家を出て、電車乗って会社に着いて、いつもどおり制服着替えて、皆にニコニコ尾台です!
私は始業の三十分前にはデスクについてて、着替えもあるから会社には一時間前には来てる。営業さんのスケジュールチェックしたりお花にお水あげたり、ゴミ出しもしなきゃいけないから。私が好きでしてることだけどね。それ全部終わらせたら、営業さんがデスクに来た。
「尾台さん、新しい商材の顧客向けの資料作ってもらっていいかな。ちょっと急ぎで」
「はい、わかりました」
パソコンのキーボード打つ手を止めて、笑顔で封筒を受け取った。中身取り出してデータ確認する。ああこれなら前に同じような資料作ったからフォーマットがあるな、と頷いた。
私の働いている会社は、株式会社グロリアス・デイズ・カンパニー、通称GDC。各地にある映像制作会社と動画サイトやテレビ局などを仲介する、映像の代理営業を主な事業としている企業だ。
会社の場所は御茶ノ水で、建物は古め。うちの会社の名前だけ言われても皆「?」って感じだろうけど、親会社は株式会社三神企画って聞けば、誰でも「おおっ!!」と驚くのだ。
三神企画は世界累計利用者数が四千万人を突破したアプリゲームの開発に、若者に人気の動画配信サイト運営、映画の配給に……と、幅広くエンターテインメント事業を展開している超有名、優良企業だ。
会長がテレビで特集されたこともあるし、就職したい企業ランキングでも常に上位をキープしている。
まあ、私が働いているのは、その子会社の営業事務ですけどね。でもうちの会社もずっと黒字経営なんだぞ。
仕事は特別できるほうではないけど、社員同士仲が良いし、フォローしあえる関係だから、手一杯で連続深夜残業って日はない。
まあ仲が良いのは、一人を除いてだけど……
「尾台さん、こっちのファイルのチェックもお願いね」
さぁ資料を作ろうと思ったらデスクにドサッとファイルを置かれて、二時間はかかりそうな量に笑顔が固まる。
「え……」
「私、大事な用があるから、午後までには済ませておいてちょうだい」
「でも、ちょうど今……」
「はあ?」
そう。私を威圧的な態度で睨む、この葛西さんという営業事務のお局が、ちょっと曲者。
初めて会った時の葛西さんは、それはもうやりたい放題で営業部を牛耳っていた。
気分次第で仕事をしたりしなかったり。機嫌が悪い時は誰も話しかけられない。お昼休みは時間どおりに帰って来ないのは当たり前、しかもそのお昼ご飯代を部下の個人指導とか適当な理由をつけて、領収書切ってた。備品も勝手に持って帰るし全然ルール守らない人だったんだけど、会社の創業時からいる人で社長にも顔が利くから、誰も何も言えなかった。
気に入らないことがあれば、周りに当たり散らすし、小さなことでグチグチ……
まるで、ドラマの悪役のような人だった。
右も左もわからなかった五年前の入社時、私は葛西さんの下につけられた。初めて会った時、葛西さんは私を頭の先から足の先まで見てこう言った。
『これは、使えなそうな……ハズレを引いてしまったわ』
いやな顔をされると反射的に「すみません」や「ごめんなさい」が出てしまう私は、それからお局の格好の餌食になってしまい、毎日ストレスの捌け口にされている。
そんなんで、堪え性のない私は入社早々、仕事辞めてもいーかなーって思ったけど、わずかながら味方いたし、今は後輩もいるし、ここで私がストッパーになれれば他に被害者出ないかも、なんて意地張って今に至る。以前私の席に座っていた人は葛西さんのいびりのせいで三か月で辞めて、鬱にまでなったって……何をこんなに我慢する必要があるのって自分でもわからないし、べつにヒーローになりたいわけじゃないけど……
でもそれで営業の人や他の人の手が止まるくらいなら説教くらいって、私が引き受けちゃったりなんかして、本当私ってばか。
まぁ、こんないやがらせなんていつものことだから諦めてるけど、今日月曜日か……週はじめは忙しくなるし、時間取られたくないんだけど……
じっと考えてたら、葛西さんがイライラしながら口を開いた。
「『でも』、なんて言い訳してる暇があるなら、さっさと今してる仕事片づければいいでしょう」
「言い訳したつもりじゃ」
「じゃあ何? 男からもらった仕事だけ受けるって? 本当に尾台さんは媚を売るのだけは得意ね」
わざとらしく耳元で小さな声で言われて、さっき受け取った封筒をつつかれる。
「そんな」
悔しいようなよくわかんない気持ち……でもここで言い返したら、話が長引いて仕事が進まないだけだし。
唇をぐっと噛んで「わかりました」って言おうとしたら。
「尾台さん」
「ん?」
いつも名前呼ばれたら大体誰だかわかるのに、その声は初めて。視線だけそっちに向けたら…………う、嘘!!
「お取り込み中すみません、総務部の袴田です。尾台さんに用があるのですが、ちょっとお借りしても?」
「え、ええ……私はべつに」
突然の袴田君の登場に葛西さんは少し引いてる。そして私はものすんごく引いてる。
「ありがとうございます。ああっと……さっき聞こえたのですが、葛西さんの大事な用、とは? 俺も彼女に特別な用事があるんです。でも、あなたの用事次第では彼女がこれを終わらせてからでないと、俺と話ができませんよね?」
袴田君が長い指で机に置かれたファイルを指すと、葛西さんは慌ててファイルを抱きかかえた。
「終わったら呼びなさいよ」
「はい」
葛西さんは逃げるようにその場を去って、袴田君が残って……え? 助けてくれ……? え? えええ?
二人で葛西さんの背中を見送っていたんだけど、袴田君は眼鏡を押し上げながらすぐに私のほうを向いた。
「それですみません、尾台さん。これ……ちょっと確認してもらってもいいですか」
「ひッ!!」
一歩距離を詰められてビビる。っていうか何? なんで袴田君こっち来んの!? 怖い!!
「大事な用です」
「え? 確認って、なんで私? えっと、そのあの、あ、あのおはようございます」
「おはようございます。はいこれ、目を通してもらっていいですか」
また一歩詰め寄られた。眼鏡がキラッと光ってる。
袴田雄太、二十八歳。
そう。あの、起きたら隣にいた総務の袴田君だ。
目が隠れそうな癖毛の前髪、さらにはその目すらも見えなくする黒縁の眼鏡。眼鏡のブリッジの下には高く筋の通った鼻がある。唇は薄いピンク。
あ、背高い、そんで白い。初めてちゃんと正面から見たな、総務の袴田君。
正直こう、性の匂いが弱い感じの、THE草食系なんだけど、そんな方が……私と……裸で……うわわわわあああ!!
皆が袴田君袴田君言うから存在だけは知ってたけど、こんな近くに来られたのは初めてだ。
黙っていたら、袴田君は脇に挟んでいた書類を私の前に出して、静かな声で言う。
「これ……」
「あ、はい! すみませんなんでしょう」
左上がクリップで綴じられた書類を押しつけられて、見てみれば付箋が貼られてて。
受け取ってからそこに書いてあった言葉を読んで、息が詰まった。
【なんで勝手に帰ったんですか】
「!!!!」
ヤバイ! 汗、汗出てくる!
袴田君、直立不動の姿勢崩さず! 答えらんないから次のページ次のページ!!
【好きです】
無理! 次!
【責任は取ります】
なななん、なんの話!? 次!
【結婚しましょう】
しません!!
「はははははきゃまだ君! これはちょっとダメだと思いますよ!! 相手の意見がまったく考慮されてませんし一方的すぎます! もう一度見直…………いやいやいや、なかったことにしましょう! それがお互いのためです!!」
て言って、お腹に書類を突き返す。
「それこそ一方的すぎます」
袴田君は書類を顔のとこまで持ち上げると、最後の一ページをめくって見せてきた。
【探しものは俺の家にありますよ】
はい、終わった。
私を真っ直ぐ見て微動だにしない袴田君を前に、口から魂出していたら、私の席の後ろのほうから声がした。
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