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1巻

1-2

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「袴田くーん!! はーかーまーだーくーん! まーた俺のパソコン動かなくなっちゃったよ~袴田君~!」

 袴田君はピクッと体を反応させて声のするほうを見ると、眼鏡めがねを直した。

「何したんですか」

 落ち着いた声で返事をして。

「何もしてないよ?」

 という、とぼけた答えにも淡々と答える。

「何もしてないのに止まるわけないでしょう、何しようとしたんですか」
「え? 書式を変えようと思ってあそこのアレのアレを押してみたんだけどさ~」
「やっぱりしてるじゃないですか、今行きます。では尾台さんまた」

 あっさり頭を下げて去っていく袴田君。私もその背中に頭を下げた。

「え? あ、はい。さようなら(永久に)」

 袴田君はこいこいされてるほうに行ってしまったよ……
 私は気を取り直して仕事再開。
 毎日至るところで聞こえる「袴田くーん」の声。袴田君はいつもいろんな人に頼られている。
 総務部って会社によって請け負う業務の範囲が違うと思うんだけど、うちの会社の総務部は、なんでも屋みたくなってる。
 皆、口癖が「じゃあ総務に聞くか」とか、「なら総務に頼むか」になってて、なんでも総務総務言ってる。まあそれも、袴田君が来た二年前からの話だけど。
 チラッて遠ざかっていく背中を見ていたら、高い声が聞こえて後ろから首に抱きつかれた。

「えったーん!! 本っ当にあのクソババーどうにかならないのかな、殴りたい」

 振り返るといたのは、茶髪のマッシュボブのめぐちゃんこと久瀬くぜめぐみ。仕事もできるし、顔も可愛いバイトの子。私の下で働いてくれている。初めて指導してあげてって言われた子だから、誰かにめぐちゃんが褒められると私まで嬉しくなる。
 まあ見た目は私とは対照的だから、仕事以外だと立場が逆転しますけどね、めぐちゃん彼氏いますし。
 めぐちゃんは二十四歳だから年も近いし話しやすいし、このまま正社員になってうちで働いてくんないかなーって思うくらい気が合う。
 めぐちゃんは私を〝えっちゃん〟って愛称で呼ぶほど仲良くしてくれるし、いつも味方してくれるのは嬉しいけど、今日はちょっと荒ぶりすぎてて苦笑い。

「そういうのすぐ言っちゃダメだってば」
「だってムカつくし。そろそろ一言ひとこと言ってもい?」
「ダメ、そんなことしたらクビになっちゃうよ?」
「だってさあああ!! …………まあわかったよ。で? なぁーに、えっちゃん! 袴田君と何かあったの?」
「ヒッ!! んんん……何かあったんかな、めぐちゃん」

 首から離れためぐちゃんは少し不満の残った顔でこっちを見た。

「なーに? 自分のことっしょ」
「あの…………えっと……うん」

 ちょっと沈黙……
 やっぱこのままじゃいかんよな! でも、袴田君のこと、自分じゃどうしていいかわからないし……飲み会……こないだのこと、まずはちゃんと思い出さないと。そうだ、はじめはめぐちゃんと一緒に飲んでたはず。
 よし! 心を決めて、いつも知らんぷりしてる飲み会の席での私の姿を聞いてみようかな。
 下向いて深呼吸して、キリッてして顔上げてみた。

「あのさ……」
「ん? えっちゃん? どった?」
「君が行きたいって言ってたお店、予約してみたんだけど今夜一緒にどう? 僕に優しくエスコートさせてくれない?(イケボ)」
「やだ~朝からイケメンが誘ってくるんだけど~。行く行く~」
新橋しんばしの立ち飲み屋でいい?」

 そのままの調子で言ったら、ふんと顔を横に向けられてしまった。

「そこ予約いらんし。帰りまで時間あるんだから、写真えしそーなとこ、ちゃんと探しといてよね」
「はい喜んで」

 急ぎの資料終わらせて昼休みにお店決めて(ちょっとおしゃれな、チーズたくさんある店)、午後葛西さんのファイルチェックやってたら仕事終わんなくなって残業。でも、いつもさっさと定時で帰っちゃうくせに、めぐちゃんが手伝ってくれた。

「ありがとう! めぐ様」
「いいよいいよ! もっと大きな声で私の好感度上げてくれていいよ!」
「仕事! 手伝って! くれて! ありがとう!! 久瀬! 恵さん!!」
「わざとやってるの? 恥ずかしいからやめてよ、上司にさりげなく褒めるみたいな、そういうのよろしく」
「わかった、じゃあ言って欲しいタイミングで合図して。そんでこっちの仕事もお願いいたします」
「何、明日の分もしれっと渡してんの?」

 残念ながら明日の分は突き返されたけど、予約に間に合うように帰り支度じたくだ。
 どこに恋のチャンスがあるかわからないからね! と会社を出る前にめぐちゃんは念入りにメイクを直していた。
 私は、まあテカり抑えるくらいでいーかなぁ。だってメイク道具ないし……恋のチャンスは……あるか? いるか?
 二人で仕事やダイエットの話をしながら到着したのは、おしゃれなバル。ネットの写真より雰囲気よくて、一人で外食できない私としてはすっごい興奮した。
 席に着いておすすめのワインを一本と、すぐ出てくるアラカルトを頼む。
 お店の内装や窓の外を見てメイン決めるのちょっと悩んでたら、ワインと小さなチーズが運ばれてきた。
 今日も頑張ったーってまだ月曜日だけど、とりあえず乾杯。飲みやすいワインを堪能たんのうしてたらめぐちゃんが口を開いた。

「それで? 私になんの用ですか?」
「ああ、えっと……」

 今日聞きたいのはアレ、こないだの飲み会もだけど、私はちょいちょい記憶なくすくらい飲んでしまってるので、その時の様子なんかが聞けるといいなぁって思ってます。
 はい、もうそろそろ酒の飲み方気をつけます。
 で、それ聞くとめぐちゃんはワインをクルクルしながら首を傾げた。

「飲み会の時のえっちゃん?」

 私は頷く。

「そうそう、ほら私、お酒飲むとテンション上がっちゃって、気がついたら家帰ってきてるみたいなの多々なんだよね。化粧も落としてるし、ちゃんとベッドで寝てるし、苦情もないから気にしてなかったんだけど、私ってどんな感じ?」

 言ったらめぐちゃんにニッコリされる。

「いい年した女がみっともないね☆」
「わかってるから!! 以後気をつけます! すみません」
「まあ、えっちゃんが言うように、ハイテンションになって笑い上戸じょうごになってるよ。何話しても笑ってくれるから、おっさんどもに大人気。だから毎回飲み会にも誘われてるんじゃん?」

 あんまりおかしなところはないのかなって思いながら、ワインに口つける。

「こないだも、私に甘えてスリスリしてきてたよ。楽しいからいいけどね。でもモテないよねあれは」
「そっすか」
「まあ偉いとこは、あんだけ酔っぱらってもお持ち帰りされないとこだよね」
「ぶっ!!」

 動揺しちゃってせっかく口に入れたワインを噴き出したんだけど、めぐちゃんはノーリアクションでチーズ切り分けていた。
 せこせこテーブルを拭く私に、知らん顔でめぐちゃんは続ける。

「こないだの金曜日はね~まあいつもどおり私に甘えてきて二人で話してて……」
「はじめのほうは覚えてるよ。ビール飲みながら仕事の話してたんだけど、焼酎しょうちゅうと日本酒頼んだとこらへんから記憶が曖昧あいまい
「ああ、ちょうどそのくらいで席替えでもしようってなったんだよ。あの飲み会、全部署来てたでしょ? いろんな部著の人と交流しようって。そしたら、えっちゃんとこに開発部のお偉いさんが来てさ」
「え? んん……開発って……あの、毛の薄い」
「ハゲなんていっぱいいるんだから、そんなの特徴になんないっつーの。村井むらいさんね。で、村井さんがはぁはぁしながら、『尾台さんは下の名前、絵夢ちゃんって言うんだってね? 可愛い~名前だね~』って言って」
「あ、あ、あ……」

 う~ん、なんとなく想像つく。私の名前ってばいつもネタにされるから。

「ニヤニヤしながら、小さな声で『夜もエムなの?』って聞いてて」
「ヒィィイ…………キモい……」
「そしたら、えっちゃんが笑いながら『総務の人ぉ~総務の人来てぇ!!』って」
「え?」
「助けを呼び出したんだよ」
「なんですって!?」

 それはちょっと意味不明すぎて、ワインを一気飲みですわ。

「で、一秒後には眼鏡めがねキラッてさせた人が間に入って、『どうも、総務部袴田です。村井さん、僕の名前はご存じですか? 僕ユウタって言うんですけど、って書くんですよ。確かめてみます?』」
「おぉぉ……ぉがふとぃ……」
「……って言って、話題らしてもらってたよ」
「へぇ……」

 めぐちゃんはからになったグラスに真っ赤なワインをそそいでくれる。切り分けたチーズは私が苦手なウォッシュタイプを避けてくれてあった。

「そのあと村井さんは他に呼ばれて私も席立ったんだけど、えっちゃんの隣にはずっと袴田君が座ってくれてたよ」
「そ、そうなんだ……」

 袴田君と話した記憶はまったくなくて……ちょっと禁酒が頭をよぎるんだけど。会社ではほぼ話したことないし、何話したのかとか全然想像できない……とりあえず袴田君ってどんな人なのか聞いてみなきゃ。

「ああ……へぇ、そうですか。あー……うーんっと、めぐちゃんって袴田君どう思う?」
「どうって、典型的なメガネイケメンじゃね? しかもいい人だし。だってバイトの私だって袴田君呼びだよ。なんだろうね、皆が袴田君袴田君呼ぶから呼んじゃうよね」
「わかる、年上なのにね。でも総務部ってコミュ力高いイメージあるじゃん? 袴田君は見た目総務部って感じしないよね」

 それこそいんキャっていうか、無口っぽいし、何考えてるのかわからないし。

「そうかな? えっちゃんあんまり話したことないからでしょ? 袴田君忙しくても〝話しかけんなオーラ〟出さないし、声かけたらいつでも手止めて聞いてくれるし、要望も必ず『検討してみます』って眼鏡めがねキラッてさせながら言ってくれるよ」

 めぐちゃん、袴田君に詳しくてびっくり。正社員の私が何も知らないのに。

「めぐちゃん袴田君と話すの?」
「うち人事も総務がやってるから、私のバイト面接、袴田君だったんだよ。入社したあとも仕事はどうだとか、無理してないかとか聞いてくれるよ」
「へー……」

 そうなんだ。袴田君っていろんなことしてるんだなーとか思っていたら、めぐちゃんが話を続けてた。

「確か袴田君って、私よりちょっと前に親会社の三神企画から来て総務部立ち上げたんでしょ? うちの職場の環境改善のため、だっけ? 威圧的に制することしないし、こんだけ皆から信頼されて馴染んでるってすごいよ~」
「そう考えればそうだよね…………はあヤダヤダ。私自分のことばっかりで、本当周りを見てないんだなぁ」

 そうだそうだ……三年前、三神企画の子会社すべてでおこなわれた社内調査アンケートで、我らがGDCの従業員満足度は、数ある子会社を差し置いて、ダントツのワースト一位だったそうだ。
 従業員の満足度は顧客の満足度にも直結するということで、業績に影響が出る前に職場の環境改善、社内政治を正すのを目的に、三神企画から出向してきたのが袴田君たち、今の総務部のメンバーだった。
 ワインをクイッとしたら、めぐちゃんが止めてくる。

「で? 袴田君と何があったの? 酔っちゃう前に教えてよ~」
「え? なんにも……ないけど……(当社比)」
「いや、隠そうとしても無理だから! 飲み会後消えた二人! 翌週現れる袴田君!! 動揺する尾台絵夢!!! いつものえっちゃんなら泥酔でいすいしても何食わぬ顔して出勤してくるくせに、『この間何があった?』なんて聞いといて、何もないは通らんよ」
「わわわわわわかったよ!! わかりましたから!!」

 洞察力どうさつりょく鋭すぎるし、正直私もちょっと話聞いてもらいたいしでかくかくしかじか話したら、可愛いお顔の眉間が寄ってしまった。

「はぁああ!? 二人で裸で寝てて、何も言わずに帰って、ゲームしてエロ本読んで寝た?」
「違う違う!! TL漫画!!」
「言い方なんてどーでもいいし! どういう思考回路してんの、それ」
「いやだって、袴田君しゃべったことなかったし私処女だったし、テンパっちゃってね? 起きた時の第一声とかわかんないし、寝起きブスだし、でも寝たふりったって起きるまで何していいかわからないし、寝てる間に屁してるかもしんないし脇の処理も甘いし、股の毛なんて気にもしてなかっ……」
「そんなのどぉーでもいーんだけどぉ!!」

 テーブル、ドン!! ってされちゃったから、ヒャァアって手で顔おおいながら言う。

「だからほらあの、いつもと変わらない日常を送ればなかったことに……」
「なんねぇな! こんなことあった? 服汚してさ、ああ汚れちゃった~でもいつもどおりに着てたら汚れがいつの間にか元どおりに」
「ならねえな!! 汚れは汚れだよ!!」
「お前のしくじりを汚れとか言うな!」

 めぐちゃんに、頭に手刀しゅとう振り下ろされた。う、嘘……先に汚れって言ったのめぐちゃんじゃん!!
 話合わせたのにおかしいなって頭さすってたら、めぐちゃんったら男前にワイン飲み干して新しいのいだあと、きゅっと唇をぬぐってる。それでまだ納得いってないって目で言ってきた。

「どうこじらせたら、そーなんのかわかんないんだけど!? で? 今日袴田君来てたじゃん。なんて?」
「なんで勝手に帰ったのかって筆談で言われた」
「そんで?」
「責任取るから結婚してって」
「え? 責任? は? えっちゃん妊娠してんの!? エロ本なんて読んでる場合じゃないじゃん! 何酒飲んでんの! 吐け!! 健診の予約しろ!」

 ワイングラス奪われちゃった。責任って……

「いやいや、そういう意味じゃな…………え? そういう意味なの!!」

 え!? 急にあせりが!!

「知らないし……まあ妊娠してたとしても、昨日今日でしかも袴田君がわかるわけないんだから、エッチしちゃったことの責任だろーけどさ……」
「…………だよね」

 エッチしちゃった、か……おかしいな……自分のことなのに妙に実感湧かなくて……意味もなくジェルネイルのはがれてるとこ気になる、ガリガリ。
 それ以上答えないで爪いじってたら、はいはいどうぞってグラスを返された。めぐちゃんは面倒臭そうな顔で言う。

「で? どーすんの、付き合うの? えっちゃん気になる人いないでしょ」
「え、気になる人? 気になるっていうか……営業の桐生さんは常々一般的にいいなとは思ってるよ」
「桐生さん? 成績トップの? うへぇ。取り柄もないこじらせアラサーが理想ばっか高くてウザー」
「うるさいな、気になる人いるかって聞かれたから『桐生さん素敵だね』って言っただけでしょ。なんとも思ってないし」
「はあ? そんなこと言って、朝隣で寝てたのが桐生さんだったら、今頃彼女面かのじょづらしてたんじゃないの?」
「すいまっせーん!! 同じワインもう一本くださーーい!」

 なんだよ、人の心を読む力でもあるのかよ久瀬恵! 怖すぎる! 怖すぎるので聞こえないふりして、チーズ食べてワイン飲む! 生ハムも食べてワイン飲む!! オリーブ食べてワイン飲む、ワイン飲む!! 飲む! クラクラする!!
 めぐちゃんは冷たい目でワインをかたむけながら溜め息ついてる。

「あーあーあーあー……いい年した女が、どうしてそういう逃げるようなお酒の飲み方しかできないわけ? まあいいよ、袴田君と付き合わなくてもさ、ちゃんとしっかりした理由で断りなよ」
「ん?」
「だって袴田君って、絵に描いたような草食系じゃん。受付のギャルちゃんたちがああいう眼鏡めがね君好きみたいで『休みの日遊びましょーよ☆☆』ってびしてたら、袴田君眼鏡めがねキラッてさせながら、『休日は趣味に没頭したいので。今は女性には興味ないんです、ごめんなさい』ってキッパリ断ってたよ」
「へぇ~」
「それなのに、何故かえっちゃんには心許したんだからさ」
「うん」
「ゲームとエロ本に夢中で手が離せません、とかなしだよ」
「わかってるよ! 中学生じゃないんだから」
「袴田君いい人だし、いちおし物件だよ。付き合ってみたら?」

 私のほうがめぐちゃんより年上なのに情けないなまったくもう!! ……って一気にゴクゴクやってたのが効いたのか、ちょっと楽しくなってきたなハハハ。

「いやいや、付き合うって私たちお互いのことふふふふ、まだ全然知らないしへへへ。そーだよなーんも知らないもんアハハハハハ」
「あれ? そんな飲ませたかな」
「全然飲んでないよオホホホ。それにしてもドジっちゃったんだなぁー。袴田君ちにポーチ忘れちゃってハハハどーしよ、返してほしーへへ」
「ふぅん? じゃあ連絡しとかないとね。まあとりあえずお酒はそこまでにしときなよ」
「え、なんで! やだーまだ全然飲んでないのにーフォフォフォ」

 ……ってそこらへんまではハッキリ記憶にあって、そのあとすっごい美味しい苺とリンゴのマリネ食べてワイン進んじゃったのまでは覚えてんだけど。

「んっ……」

 気持ちいい揺れで目覚ましたら、車のガラス窓に寄りかかってた。
 え? 何? 車? この匂い……は、ああ、タクシーかな。
 まだうつらうつらしちゃう。んっと……胸のとこジャケットかかってる……手温かい……温かい? ん? なんで? え? に、握られてる! 誰!?
 手ぎゅってしたら、窓の外見てる人がこっちを向いた。やだ、その顔……暗い車内で眼鏡めがねがキラッて光ってる。

「起きました?」
「ははははは袴田……く?」
「はい、袴田です」
「お、お疲れ様です!」
「お疲れ様です」
「ななななななんで!?」
「会社に残って仕事をしていたら、久瀬さんから上司が酔い潰れたと電話があって」
「ええ…………ああ!! あのすみません」
「いえ、大丈夫ですよ。運転代行の手配とか二次会の場所とか……割とこの手の仕事もするんで」
「はあ」
「ああでも」

 袴田君は握ってる私の手を自分の口のとこまで持っていくと、甲にちゅってしてきた。

「ヒャッ!!」
「さすがに、店まで迎えに行ってタクシーに同乗して、手繋ぐなんてしませんけど」
「へ? あ! ごめんなさい! あの、謝るので手離してもらってもい……」
「ダメですよ」
「どして」
「今度は〝お先に失礼します〟って勝手に帰られたくないですから」

 袴田君、にやって口角吊り上げてる。

「ヒグッ」

 袴田君って笑うんだ! しかもあの、なんか怖い系の笑い方。
 手揺らしてみる。引っ張っても離してくれないから!

「えっと、あのこれってどこに向かってますか?」
「家、ですけど」
「いえ?」
「俺の」
「降りる降りる降りる降りまっす!!」

 無理だし! と手振りまくるけど、強固すぎて外れません!! 効きませんね、とでも言うように袴田君は笑顔を崩さずに言う。

「化粧ポーチ、いいんですか?」
「あ」
「動揺しているのは重々わかるんですが、逃げてばかりじゃ何も始まりませんよね」
「だって怖い……これから何が始まるんですか」
「逃げたり、目を伏せたり……自分の視界からなくなれば解決したと思う、尾台さんの間違った認識を改めることができると思います」
「おおおおお! なんか袴田君先生っぽい」

 そうしたら袴田君、眼鏡めがねキラッてさせて言う。

「いえ、総務です」
「総務格好良すぎじゃないですか!」
「尾台さんだって格好良いですよ、うちの営業が外でのびのびと仕事できるのは、他でもない事務さんのフォローあってこそですし。尾台さん評判いいですよ」
「え? え? そうですか」

 あ、やだ。仕事褒めてくれたら、この人いい人☆ とか思っちゃう私、チョロイぜ。
 怖いゲージが下がって、ちょっと話に耳かたむけちゃったりなんかする。

「尾台さん、納期は必ず守ってくれるし、資料にミスも少ないし、無理な注文も聞いてくれるって営業の人言ってましたよ。頑張りすぎるのは心配ですけど、残業もしないように自分で仕事量調整してるし、素晴らしいと思います」

 が、褒められ慣れてないせいで、いい返しが思いつかず、すぐ辛くなる不思議。

「ああ……あの……もういいです、恥ずかしくなってきました」
「あと、うちにそんな風習はないのに、社内文書の時は少し左にかたむけて捺印なついんしてますよね。逆に社外の契約書で、尾台さんの印鑑がかすれているのを見たことがありません。いつも綺麗に真っ直ぐ、色濃く力強く押されています。どっちも好きですよ」
「ああ……ハンコ……上司にお辞儀してるみたいに見えるからいいって聞いてやってました」
「そんなの律儀にする人いませんよ」
「そっか……契約書は、私のハンコがかすれてたらお客さんが不安になるかなって、気合い入れて押してました」
「好きですよ」
「う」

 さっき一回言われて流したんだけど、袴田君はもう一回言ってきた。

「好きです、尾台さんのそういうところ」

 三回言ってきた。
 でもなんて返していいのかわからない。袴田君は答えない私に何も言わなかった。
 いまさら手繋ぐの恥ずかしく思えてくる。相変わらず手を離してくれないから、ちょっと気まずくなって外でも見ておいた。
 ハンコなんてもう癖になっちゃって気にも留めてなかったんだけど、そんな小さなところでも気がついてくれる人がいるって嬉しいなぁ。
 でも、私だけ特別ってわけじゃないよな、仕事の一環? めぐちゃんのことも気にかけてるみたいだし。
 そしたらクイクイと手を引っ張られたから、袴田君のほうを見る。

「仕事、辛くないですか?」
「え?」
「仕事内容ではなくて、人間関係とか」
「人間関係……」
「まだまだ古い体質から抜け切れてないですからね、うちの会社。俺は尾台さんの力になりたいので、なんでも言ってください」

 あっもしかして、朝の葛西さんの件かな? えっ、気づいて助けてくれた……?

「あの……今日はありがとうござい、ました?」
「いいえ。だって俺の用事のほうが重要だったでしょう?」

 袴田君はくすって笑う。そしたらドキンってあれ……なんかちょっと……あれ、変な動悸どうき……してる?
 胸の鼓動が今まで感じたことのないくらいでどうしていいのかわからない。

「御茶ノ水で、尾台さんのおすすめのお店はありますか」

 沈黙して固まってたら、袴田君が話を振ってくれた。
 私は昼お弁当持参だし、そもそも外食が苦手なんだ、とか逆に袴田君のおすすめのお店の話してたら…………ヤ、ヤバイ、いつの間にかタクシーが停まっていた。
 お金を払おうと思ったのにカードを出されてしまうし、先降ろされちゃうしで、何もできなかった。


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