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ある日の奥様と旦那様

ある日の奥様と旦那様 後編

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 ガチャリと鍵を回す音がして玄関のドアが開きました。

「ただいま戻りました」
「総一郎さん?! 早いですね、どうしたんですか? 体調でも悪いんですか?」

 お昼過ぎになっていきなりの総一郎さんの帰宅。まさかこんなに早く帰宅するとは思っていなかったので私、おトイレ掃除の真っ最中でした。トイレのドアから顔を覗かせるとまだ個室に篭城していると思われたみたいで、総一郎さんが慌てて靴を脱いで飛んできて私のことをトイレから引っ張り出してドアを乱暴に閉めました。

「あの、総一郎さん、私、おトイレの掃除していてバケツを中に置きっぱなしなんですけど……」
「トイレの片付けは後で僕がしますから、めぐみさんはこっちに来て下さい」
「ゴム手袋もしたままなのに……」

 そう言いながら手袋をした手を顔の前でブラブラさせます。

「じゃあそれを外して先ずは手を洗いましょうか」

 洗面所に無理やり押していかれたので仕方なく手袋を外し、総一郎さんが渡してくれた石鹸で大人しく手を洗いました。普段の総一郎さんからすると今日は珍しく強引な感じです。私が手を洗い終えてタオルで拭くやいなや、その手を取ってそのままリビングへと引っ張って行きます。ほら、いつもはこんなことしない人なのに。

「どうしてこんなに早く戻ってきたんですか? もしかして急患でも入ったんですか?」

 長澤君をはじめ今日のメンバーは全員が医師としてこの辺一帯の病院で働いている人達ばかりです。ですから急な呼び出しがあれば休暇中でも病院に駆けつけなければならない人もいます。だから約束していても急患で飲み会が取り止めなんてことは今までも何度かあったので今回ももしかしてと思ったのですが、総一郎さんの顔を見る限りそうではない感じです。

「帰れと言われました」
「え?」

 総一郎さんはちょっと情けない顔をしています。

「結婚記念日を忘れて友達と会う約束した挙句、嫁が行って来いと許可をくれたからと言ってノコノコ出てくる大馬野郎は親友でも何でもないと言われて店から文字通り蹴り出されました。で、これは西風さんのケーキです」

 そう言って、私が大好きなカフェ西風さんのケーキの箱をテーブルに置く総一郎さん。この箱の大きさ、一体いくつ買ってきたんでしょう? もしかしてホールで買ってきたとか言いませんよね?

「蹴り出されてしまったんですか? 黙っていれば分からなかったのに」
「いえ、僕の顔を見て長澤が直ぐに何かあったと気が付いたんです。彼から尋問されて逃げられなくてつい……」

 白状してしまったんですね。本当に総一郎さんは嘘がつけない人なんですね……。きっと頑張って誤魔化そうとしていたのに長澤君に容赦なく尋問されてしどろもどろになってしまったんでしょうけど。

「せっかく顔を合わす機会なのに残念でしたね。長澤君、今回はどれぐらい日本に滞在できるんですか?」
「そのことなんですが……」

 更に総一郎さんの顔が情けなくなりました。

「実は今回の帰国はうちの理事長に呼ばれたからなんだそうです」
「理事長先生に? 先生のお知り合いに難しい病気の人でも?」
「いえ、そうじゃなくてうちの附属病院で働かないかって」

 総一郎さんが勤めている大学附属病院はそれなりに待遇が良いのは知られていますが、長澤君はそういうことで大人しく呼びかけに応じるような人ではないと聞いていたので少し驚きました。

「待遇よりも卵かけご飯に飢えていたそうですよ、長澤」
「卵かけご飯……」

 確かに海外では白いご飯はともかく安全に食べられる生卵を手に入れるのは難しそうですね。

「でもそれだけで?」
「もちろんそれだけじゃないと思いますよ。理事長なら高級な卵かけご飯を好きなだけ食べさせるから是非ともうちの病院に来てくれぐらい言うかもしれませんが、それだけで長澤が釣れるとは思えませんし。多分うちの病院レベルの底上げじゃないですかね」

 そういう将来のビジョンを理事長先生が熱く語ってそれに長澤君が興味を抱いたのでは?というのが総一郎さんの推理です。なるほど。それなら納得できます。総一郎さんから聞いていた長澤君は外科医としても優秀だけど良い意味でそういう野心も持っているということでしたから。

「なので来週末に一旦あちらに戻って、引っ越し作業をしてから本格的にこちらで住む準備を始めるそうです」
「そうなんですか。あ、お住まいは決まったんですか?」
「その辺は理事長の至れり尽くせりだそうで」
「……なるほど」

 太っ腹で狸な理事長先生のことですから何もかもこちらで用意するから身一つで来てくれても構わないよぐらいは言いそうですよねと笑ったら、総一郎さんも確かにねと笑いました。そしてその笑いを引っ込めるとおずおずといった感じでこちらを見詰めてきます。

「あの、めぐみさん?」
「はい?」
「僕、この通り長澤達に店から追い出されてしまったので、もし良ければこれから出掛けませんか?」

 大事な結婚記念日を忘れてしまった事実は消せないけれど埋め合わせをさせて下さいと付け加えました。その気持ちは凄く嬉しいんです。嬉しいんですけど……。

「まだお掃除の途中なんですけど」
「そう、ですか……」

 ガックリと肩を落としてしまった総一郎さん。ちょっと可哀想な気がしてきました。だけど今更お掃除を放り出してお出掛けする気にはなれません、おトイレにバケツもまだ置きっぱなしになっていることですし。なので可哀想な総一郎さんの為に妥協案を提示することにしました。

「お出掛けするより総一郎さんが買ってきてくれたケーキを早く食べたい気がします」
「だったらお茶の用意しますね! あ、その前にお昼ご飯ですよね。めぐみさんまだですよね、何が食べたいですか? 今日は僕が何か作りましょうか? それとも何か頼みますか? あ、ほら、美味しいお寿司屋さんが近くにできたじゃないですか。出前のチラシが確かはいっていた筈……」
「お寿司いいですね」
「特上を頼みましょうか、せっかくだし!」

 総一郎さんはソファから立ち上がると電話へと向かい、横の籠に入れてあったお寿司屋さんのチラシを引っ張り出しました。

「あの、総一郎さん……」
「なんですか? あ、ちょっと待って下さいね。もしもし、コンフォート希望が丘の山口と申しますが出前をお願いしたいのですが宜しいですか? あ、はい、電話番号は……」

 特上のお寿司を二人分頼むと、お願いしますと電話の前で頭を下げています。その仕草を見て電話口で頭を下げたって相手には見えないんですよ?って前にも言ったことがあるんですが、この癖は治りそうにありませんね。勢い良く頭を下げてテーブルや壁にぶつけないようにさえ注意してくれれば良いのですが。

「すみません、電話にお店の人が出たものですから。で、なんでしょう」
「ここに座ってもらえますか?」
「はい?」

 首を傾げながら総一郎さんは私の横に腰掛けました。

「戻ってきてくれたのが嬉しかったので、今日は忘れちゃって言わないでおこうと思っていたことをお知らせしますね」
「なんでしょう」
「山口家に家族が増えることになりました。……聞いていますか?」
「……」

 総一郎さんの顔が固まってます。ツンツンと頬を指で突くとハッと我に返って私のことをジッと見詰めました。

「今、なんて言いました?」
「家族が増えるんですよ。総一郎さんと私の赤ちゃんです。実は昨日、病院で診てもらってきたんです」

 再び沈黙した総一郎さん、いきなり立ち上がってウロウロし始めました。

「あ、あの、その、特上じゃ駄目じゃないですかね?! 極上とか最上級とか特級とかないんですかね?!」

 なんだか斜め上な言葉に私もちょっとビックリです。

「総一郎さん、お寿司は日本酒とは違うんですよ?」
「お酒?! 駄目ですよ、めぐみさんはお酒は飲んじゃ駄目です!!」

 完全に舞い上がってしまったようです。もう少し改まった雰囲気の中でお話をした方が良かったでしょうか?

「総一郎さん、落ち着いて下さい。お寿司は特上のままで良いですよ。私としては並でも十分なんですけど」
「なに言ってるんですか、せっかくの記念日でしかもめぐみさんに赤ちゃんができたと分かったのに並だなんて駄目です。そうだ、他にお祝いの為に何か……」
「総一郎さん、そんな前でウロウロしたら私が落ち着けませんから、こっちにきて大人しく座って下さい」

 その言葉でションボリするとこちらに戻ってきて私の隣に座りました。

「あの……」
「はい?」
「気分が悪いとかはないですか?」
「まだそこまでじゃないんです。ちょうど六週目に入ったところですって」
「そうですか。これからは体を大事にしなくちゃいけませんね、僕も出来るだけ家のことは手伝うようにします」
「お願いしますね」
「はい!」

 それからお寿司屋さんがお寿司を届けてくれるまでにと急いでおトイレに置きっぱなしにしていた掃除道具を片付けました。総一郎さんは自分がやると大騒ぎしていましたが、まだそこまでしてもらうほどお腹が大きくなったわけでもありませんし、まだまだ先は長いんですから自分で出来ることは自分でやりますと強めに言ったら渋々ながら諦めたようです。今からこんな過保護な様子だったらこれから先が思いやられてしまいますね。同じ心療内科にいる子育て中の森永先生やベテランママの吉永師長に少し注意をしてもらわなくてはいけないかもしれません。

 ともあれ、私の考えていた結婚記念日とはちょっと違う感じにはなりましたが、お寿司も美味しかったしグレープフルーツのタルトも美味しかったし概ね素敵な一日となりました。来年の今頃は赤ちゃんが加わった三人で素敵な記念日を迎えたいものですね、総一郎さん。そんなことを言ったらまた舞い上がってとんでもないことになりそうなので口にはしませんでしたけど。


+++++


 それから暫くして長澤君は総一郎さんと同じ大学附属病院の外科医としてやってきました。親友が同じ職場にやってきたというのに総一郎さんの顔色は何となくさえません。

「その日一番に顔を合わせると必ず言われるんですよ。今日は嫁との大事な記念日・約束は忘れてないかって。もう勘弁して欲しいです……」

 最近では私の健診についていかなくても良いのか? 出産教室への参加はするのか?と色々といわれているようです。優秀な外科医の長澤君はどうやら執事の素質もあるようです。ただし、この執事さん、なかなかの鬼執事のようですね。
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