触れられない、指先

未知之みちる

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前篇

其の二

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 はじめまして、けわいしさん。
 顔を合わすなり、その人は彼にそう呼びかけた。
 馴染みの店で拘りなく店員の勧めるままに初めて会う女であった。
 彼は度々雑誌などで取り上げられる。彼を知っていた彼女は出会った瞬間、名前を知らされていたにもかかわらず、彼に化粧師けわいしさんと呼び掛けた。
 あまり知られていないこの読み方を彼はひどく好む。愛でる言葉を重ねられたことにより、彼の好奇心は一瞬で昂まった。
 妖艶とはかけ離れた美しさが滲む面持ちで彼に化粧師さんと呼びかけた彼女の姿は彼の好むものと一致していた。飾り気がない。綺麗に飾り気がない。
 彼の思うところの美しいの基準は外見でも外面でもない。確かに彼女は整った顔立ちであったが、醸し出す雰囲気は造形とは関係なく満開に花が満ちた瑞々しいものだった。にこりと笑った様にどきりとした。
 彼女の使った古めかしい言葉と愛嬌の良さに彼は期待を膨らませた。
 下手に自分を繕う女は学がない、と彼は思う。それは決して知識がない、一般常識から逸する、そういった概念の元より来るものではなかった。自らを磨こうと覚えらない女を彼は学がないと称する。自らを磨いている人は最小限の飾りしか必要としないと彼は考える。
「よく知ってるね」
 彼が穏やかな口調で初対面の彼女へ投げ掛けると、彼女は言った。
「化粧には色々な読み方があるけれど、わたしはこの響きが一番好きよ」
「古典が好きなの?」
「詳しくないわ、ちっとも。ただこの読み方を好んでいるだけ」
 そう言って肩を竦めた姿にも愛嬌が滲み好感が増す。今日はがっかりしなければよいと願いながら彼は促される儘に彼女の手を取った。
「心地好い感覚」
 うっとりと小さな声で彼女は囁いた。彼に囁いたわけではなく、それは独り言だった。
 彼の手の感触は冷ややかで温かだった。
 彼女は顔を合わせてからの数分で彼の性質をある程度見破っていた。
 その後、彼は度々彼女の元へ向かうようになる。彼女は彼の幾人しかいないお気に入りのひとりとなった。幾人、彼の心を惹きつける女はそうそういない。
 美しい人を探す彼の中に美しさを持つ人はいても、求めるところまでは到底及ばない。
 そうして遊びの中で彼が求めるものは娯楽などではなく、恋愛などでもなく、知ることにある。会話を重ね、肌を重ね、相手を知ることに関しては貪欲さを伴う。落胆のその手前にそれが存在する。
 故に出会った瞬間だけは落胆する可能性を抱かない。
 自分に素直な彼は仕事の際、相手に興味を抱きながら穏やかにメイクを施していく。相手の心理を見つけ出す行為には快楽を感じる。自分の手で変化していく様を嬉しそうにしているモデルに対して嫌悪感を抱きながら施すことはないが、最終的に自分の欲するものと相手の在り方、本音を隠す繕い方に落胆と怒りを覚えて鋭く言葉を吐き出す。
 毒舌を吐いてしまうことには、自分への葛藤も混ざっていた。
 繊細さが為に、我が強いといえば強い彼は拘りが沢山ある。
 自分に対してのそれはひどく壁が高い。
 最も愛おしい人に出会った過去、その時彼はその壁を自ら更に更に高く持ち上げてしまった。そして満足を覚えない。
 そうして今の彼が形成されてしまった。
 彼の汚点、その壁を登ろうとしない人を蔑む。
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