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第三章 春
Order22. ピアノが泣いた日 《前編》
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参考:「Order19.」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/209105547/463556247/episode/5895840
--------------
「よう、あんたかい。ここのマスターってのは」
土砂降りの雨が降りしきる午後。雨の匂いをいっぱいに含んだ目つきの悪い男が、ここ『春秋館』にやって来た。入って来た瞬間に、嫌な予感が背筋を走り、少女は無意識に演奏をやめてしまった。一組だけいるカップルの客も、楽しげな会話を中途半端にやめて、チラリと男に目をやった。
男は学生服姿だった。近所の公立高校のカバンを小脇に抱えている。かなり体格の良い大柄な男だが、身なりからしてもちろん高校生なのだろう。大人びた顔つきをしているが、よく見ると頬に青春の証、ニキビがたくさんできていた。
「僕ですよ」
青年がいつものカウンターの中から返事をすると、男はつかつかと大股に青年に近づく。少女はいったい何が起こるのだろうと緊張した。カウンターを挟んで、青年を斜めから見る男の口から出たのは、意外な言葉だった。
「まどかの言った通りだな。随分若いじゃないの」
〈まどか? まどかって……〉
「君達よりはずっと年上だけどね」
青年は微笑んだ。
確か、〝辻まどか〟と名乗ったいつかのポニーテールの女子高生も、同じ公立高校のカバンを持っていたはず。この男はあのまどかの知り合いなのだろうか。
「ふぅ~ん」
男は青年を胡散臭そうにジロジロ見ているが、青年は全く動じない。
「気に入らねぇなぁ。そのツラ。まどかがイラつくのもわかるぜ」
「言いがかりじゃない……」
少女は思わずボソッと呟いたが、運悪く男の耳に届いてしまったらしい。男は、ターゲットを変えた野生動物のように不意にこちらに向き直ったので、少女は氷のように固まってしまった。
「で、あんたがまどかと張り合ってるっていうピアノ弾きのお姉さん?」
男がニヤニヤしながら言う。
「張り合っ……わたしが?」
「言ってたぜ、あいつ。〝あたしには絶対ピアノ弾かせて貰えない〟ってよ」
「そんな事ないわ。弾かなかったのは彼女の方ですもの……」
「たかがこんなピアノに、あいつも何ムキになってんだか」
男は半笑いで斜め上からピアノを見下ろした。
たかが? 少女は少々ムッとした。
「必要ないだろ、こんな小さな喫茶店にピアノなんて」
男は小ばかにしたようにせせら笑うと、今度は少女の方に大股で近づいてきた。少女は思わず座ったまま身を引く。
男は何を思ったか、ピアノの鍵盤をいきなり乱暴に叩いた。ピアノの悲鳴が店中に響き渡る。聴いた事のないピアノの泣き声だ。少女は両耳を押さえ、大声を出しそうになった。
一組いたカップルは巻き込まれるのを恐れたのか、ピアノの悲鳴が合図だったかのようにテーブルにコインを置いてそそくさと出て行った。お客にとってもとんだ災難だ。
「こんな店辞めたら? あんた困ってんじゃないの? 臨時休業ばっかりで」
「な、なぁに、それ」
少女は、怯まずに男を睨み上げた。
「まどかに言わせると、あんた結構な腕らしいじゃねぇか。もったいねぇよなぁ。こんなちっぽけな店で弾き語りやってるなんてさぁ。あんただったら、探せばもっと他に色々あるんじゃないの」
男は相変わらず鍵盤をグローブのような手で乱暴に叩き続けている。白鍵盤のCやEやF達、それに黒鍵盤のC#にD#達が荒れ狂い、泣き叫んでいる。聴いたことのないような嫌な不協和音。この一年以上、少女と一心同体だったピアノが。青年の想いもいっぱい詰まっているはずのピアノが……少女の心も痛くて、怒りと悲しみが込み上げてきた。
直後、男の顔が醜く歪んだ。
「……いて!!」
「?」
男の右手を背後から思い切り掴んだ人物がいた。
「触るな」
「あ?」
男が肩越しに振り返ると、青年だった。無表情で、男の腕を右手でしっかりと掴んでいる。
「いてぇな。離せよ。たかがピアノだろ。女に手出した訳じゃねぇぞ」
「同じ事だよ」
少女はハラハラした。背が高く体格の良い男に比べると、細身の青年はかなり華奢に見える。男が本気を出せばいったいどうなるのだろう。
だけど、不思議な事に男は青年の手を解けない。まるで岩の間に挟まって動けなくなったように身動きできないのだ。男はもがきつつ、痛みと苛立ちで顔をしかめている。
「……離せって言ってるだろ!」
男の額に汗が滲み出した。
「二度とピアノに触らないって誓うかい」
「け、ばかばかしい! ……いててて!!」
青年は全く手加減なく男の腕を背中に捻りあげた。このままでは男の腕は抜けてしまうかもしれない。
少女は、驚いていた。青年と出逢ってもうすぐ二年になる。いつもにこにこして「争い事は苦手」という顔をしている彼が、こんな行動をするなんて。それに、華奢に見える青年の腕のいったいどこに、大男をねじ伏せる程の力があったのか。
「わ、わかったよ。触らねぇよ……」
青年がその言葉に右腕の力を緩めると、男は即座に腕を引いて振り返り、その手でいきなり青年の胸倉を掴んだ。正に殴り掛からんばかりの勢いで。
「ち、ちょっと!」
少女は思わず立ち上がって、男のカッターシャツを背後から引っ掴む。だけど、それきり何も起こらない。
恐々と男の背中から覗いてみると、青年は、黒い前髪の向こうからただじっと男の顔をまっすぐに見つめている。ガードなど全くなく、無防備としか言いようがない。青年が殴られる位なら、自分が割って入って殴られようと思った。だが、男は相変わらずしかめっ面をしているが、握り締めた拳はピクリとも動かない。まるで天敵と向かい合って動けなくなった、やたら冷静なマングースとハブのようだ。
数秒の後、先に視線を逸らしたのはハブの方だった。
「け、全く。面白くねぇ!」
男はバツの悪そうな顔で捨てぜりふを吐き、青年から乱暴に腕を離すと、一番近くにあった椅子にどっかと腰を下ろした。可哀想な椅子も、ギシギシと鳴いている。
「お前、本当にまどかの言った通りの男だな」
「?」
「普段はのほほ~んとした顔してるのに、ピアノの事になるとムキになるって」
「試したの? ひどいわ!」
今度は少女が顔をしかめた。
「おい、入って来いよ」
その言葉が合図だったのか、木製の扉の向こうからポニーテールの少女・辻まどかがおっかなびっくり入って来た。
《後編に続く》
https://www.alphapolis.co.jp/novel/209105547/463556247/episode/5895840
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「よう、あんたかい。ここのマスターってのは」
土砂降りの雨が降りしきる午後。雨の匂いをいっぱいに含んだ目つきの悪い男が、ここ『春秋館』にやって来た。入って来た瞬間に、嫌な予感が背筋を走り、少女は無意識に演奏をやめてしまった。一組だけいるカップルの客も、楽しげな会話を中途半端にやめて、チラリと男に目をやった。
男は学生服姿だった。近所の公立高校のカバンを小脇に抱えている。かなり体格の良い大柄な男だが、身なりからしてもちろん高校生なのだろう。大人びた顔つきをしているが、よく見ると頬に青春の証、ニキビがたくさんできていた。
「僕ですよ」
青年がいつものカウンターの中から返事をすると、男はつかつかと大股に青年に近づく。少女はいったい何が起こるのだろうと緊張した。カウンターを挟んで、青年を斜めから見る男の口から出たのは、意外な言葉だった。
「まどかの言った通りだな。随分若いじゃないの」
〈まどか? まどかって……〉
「君達よりはずっと年上だけどね」
青年は微笑んだ。
確か、〝辻まどか〟と名乗ったいつかのポニーテールの女子高生も、同じ公立高校のカバンを持っていたはず。この男はあのまどかの知り合いなのだろうか。
「ふぅ~ん」
男は青年を胡散臭そうにジロジロ見ているが、青年は全く動じない。
「気に入らねぇなぁ。そのツラ。まどかがイラつくのもわかるぜ」
「言いがかりじゃない……」
少女は思わずボソッと呟いたが、運悪く男の耳に届いてしまったらしい。男は、ターゲットを変えた野生動物のように不意にこちらに向き直ったので、少女は氷のように固まってしまった。
「で、あんたがまどかと張り合ってるっていうピアノ弾きのお姉さん?」
男がニヤニヤしながら言う。
「張り合っ……わたしが?」
「言ってたぜ、あいつ。〝あたしには絶対ピアノ弾かせて貰えない〟ってよ」
「そんな事ないわ。弾かなかったのは彼女の方ですもの……」
「たかがこんなピアノに、あいつも何ムキになってんだか」
男は半笑いで斜め上からピアノを見下ろした。
たかが? 少女は少々ムッとした。
「必要ないだろ、こんな小さな喫茶店にピアノなんて」
男は小ばかにしたようにせせら笑うと、今度は少女の方に大股で近づいてきた。少女は思わず座ったまま身を引く。
男は何を思ったか、ピアノの鍵盤をいきなり乱暴に叩いた。ピアノの悲鳴が店中に響き渡る。聴いた事のないピアノの泣き声だ。少女は両耳を押さえ、大声を出しそうになった。
一組いたカップルは巻き込まれるのを恐れたのか、ピアノの悲鳴が合図だったかのようにテーブルにコインを置いてそそくさと出て行った。お客にとってもとんだ災難だ。
「こんな店辞めたら? あんた困ってんじゃないの? 臨時休業ばっかりで」
「な、なぁに、それ」
少女は、怯まずに男を睨み上げた。
「まどかに言わせると、あんた結構な腕らしいじゃねぇか。もったいねぇよなぁ。こんなちっぽけな店で弾き語りやってるなんてさぁ。あんただったら、探せばもっと他に色々あるんじゃないの」
男は相変わらず鍵盤をグローブのような手で乱暴に叩き続けている。白鍵盤のCやEやF達、それに黒鍵盤のC#にD#達が荒れ狂い、泣き叫んでいる。聴いたことのないような嫌な不協和音。この一年以上、少女と一心同体だったピアノが。青年の想いもいっぱい詰まっているはずのピアノが……少女の心も痛くて、怒りと悲しみが込み上げてきた。
直後、男の顔が醜く歪んだ。
「……いて!!」
「?」
男の右手を背後から思い切り掴んだ人物がいた。
「触るな」
「あ?」
男が肩越しに振り返ると、青年だった。無表情で、男の腕を右手でしっかりと掴んでいる。
「いてぇな。離せよ。たかがピアノだろ。女に手出した訳じゃねぇぞ」
「同じ事だよ」
少女はハラハラした。背が高く体格の良い男に比べると、細身の青年はかなり華奢に見える。男が本気を出せばいったいどうなるのだろう。
だけど、不思議な事に男は青年の手を解けない。まるで岩の間に挟まって動けなくなったように身動きできないのだ。男はもがきつつ、痛みと苛立ちで顔をしかめている。
「……離せって言ってるだろ!」
男の額に汗が滲み出した。
「二度とピアノに触らないって誓うかい」
「け、ばかばかしい! ……いててて!!」
青年は全く手加減なく男の腕を背中に捻りあげた。このままでは男の腕は抜けてしまうかもしれない。
少女は、驚いていた。青年と出逢ってもうすぐ二年になる。いつもにこにこして「争い事は苦手」という顔をしている彼が、こんな行動をするなんて。それに、華奢に見える青年の腕のいったいどこに、大男をねじ伏せる程の力があったのか。
「わ、わかったよ。触らねぇよ……」
青年がその言葉に右腕の力を緩めると、男は即座に腕を引いて振り返り、その手でいきなり青年の胸倉を掴んだ。正に殴り掛からんばかりの勢いで。
「ち、ちょっと!」
少女は思わず立ち上がって、男のカッターシャツを背後から引っ掴む。だけど、それきり何も起こらない。
恐々と男の背中から覗いてみると、青年は、黒い前髪の向こうからただじっと男の顔をまっすぐに見つめている。ガードなど全くなく、無防備としか言いようがない。青年が殴られる位なら、自分が割って入って殴られようと思った。だが、男は相変わらずしかめっ面をしているが、握り締めた拳はピクリとも動かない。まるで天敵と向かい合って動けなくなった、やたら冷静なマングースとハブのようだ。
数秒の後、先に視線を逸らしたのはハブの方だった。
「け、全く。面白くねぇ!」
男はバツの悪そうな顔で捨てぜりふを吐き、青年から乱暴に腕を離すと、一番近くにあった椅子にどっかと腰を下ろした。可哀想な椅子も、ギシギシと鳴いている。
「お前、本当にまどかの言った通りの男だな」
「?」
「普段はのほほ~んとした顔してるのに、ピアノの事になるとムキになるって」
「試したの? ひどいわ!」
今度は少女が顔をしかめた。
「おい、入って来いよ」
その言葉が合図だったのか、木製の扉の向こうからポニーテールの少女・辻まどかがおっかなびっくり入って来た。
《後編に続く》
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