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第三章 春
Order21. 動き出した時間
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参考:「Order8.」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/209105547/463556247/episode/4952073
--------------
紺色のセーラー服にお下げ髪の女の子が店を訪れたのは、梅雨の真っ只中で、朝から小雨が降っている午後だった。〝S中学〟と書かれた紺色の学生カバンを妙に大事そうに抱えている。
今日はピアノ弾きの少女はオフで、常連客が引き、一息ついたところだった。
女の子には見覚えがあった。去年の秋、毎日という程ひとりで店を訪れ、ホットココアを飲みながらしきりに手紙のようなものを書いていた。秋以降ぱったり来なくなっていた彼女が、半年以上振りにやって来た。
「いらっしゃい。何にする?」
「あ、あの。オレンジジュース」
青年に声を掛けられ、か細い声で女の子が答える。
「久しぶりだね。学校はどう?」
「! あたしの事、覚えててくれたんですか?」
「忘れないよ」
青年は、当たり前のように微笑んだ。その微笑みに、女の子は一瞬緊張した顔を浮かべる。
入口からふたつ目にあるふたり掛けのテーブルに腰掛け、しばらくすると果汁百%のフレッシュジュースが運ばれて来た。カウンターに戻ろうとする青年に、女の子が叫んだ。
「あの!」
振り向いた青年の瞳に、切羽詰ったような女の子の表情が飛び込んだ。
「一週間前、友達が死んだんです」
一瞬、ふたりの間の時間が止まったようにしんとした。止まった時間を無理矢理動かすように、女の子は唾を飲み込む。
「……お通夜で、両親は急死、としか言いませんでした。誰も真相は知りません。でも、あたしは知ってるんです。……加奈子が自殺したって」
青年は変わらず動きを止めている。女の子は、それまで堪えていたものを吐き出すように喋り続ける。
「あの子、いじめられてたんです。小学生の頃からずっと……。それは、あたしがいじめられてたから。それをかばったから、あの子まで標的にされたんです。……去年、本当はあたしが死ぬつもりだった。逃げたかった。でも、そうすれば加奈子がひとりぼっちになっちゃう。そう思うと、できなかった。あたしが死んだら、もしかして教育委員会や学校も、もっと生徒に目を配るようになるかもしれない。でも、きっといじめはなくならない。そんな中で加奈子ひとり残して死ねないし、あたし、もう少し生きようって思うようになったんです」
「…………」
「加奈子、ずっとあたしに〝死んじゃだめ〟って言ってくれてた。生きて闘って見返してやろうよって言ってた。あたし、そんな加奈子と手を取って、励まし合ってたの」
女の子はカバンから、ピンクの携帯電話を取り出した。
「加奈子の携帯に、あたしに宛てたメッセージが送られないまま残ってたらしいんです。お通夜の後、彼女のお母さんから送って貰いました。……聴いて下さい」
『早織、ごめんね。私、早織より弱い。自分で気づかなかった、こんな自分。先輩に弱音を吐いたの。死にたい位辛いって。もう限界だって。先輩、なんて言ったと思う?〝死んじゃだめだよ。お父さんもお母さんも悲しむよ。頑張れ。命は大事にしろよ〟って。そんなのわかってる。でも、もう頑張れないの。ごめんね。早織には言えなかった。早織には生きてて欲しかったから。もしも言えば、早織も一緒に死ぬって言ったでしょ? 早織は生きて。私の分まで生きて』
「あたし、加奈子の気持ちがすごくよくわかったんです。もしもあたしがこんな言葉掛けられても、きっと嬉しくなかった。心に響かないんだもの。何のために生きるの? お母さんやお父さんのためなの? どこまで頑張れば救われるの? 何の目印もなくこれ以上頑張れない! 何で命が大事なんて言えるの? 世界中、みんな平気で殺し合いしてるじゃない!」
女の子は、目にいっぱいの涙を溜めて叫んだ。
「でも、もっと哀しいのは、加奈子があたしを置いてひとりて逝っちゃった事。結局、あたしもひとりぼっちだった。加奈子だけはあたしをひとりにしないって思ってたのに。結局何もわかり合えてなかった。やっぱり、あたしはひとりだった!」
女の子は号泣した。ピアノも時計もなく、静まり返った店内に、女の子の嗚咽としゃくりあげる声だけが響いていた。
どの位の時間が経っただろう。少しばかり落ち着いた女の子を見て、青年はゆっくりと彼女と同じテーブルの向かい側の椅子に座った。
「……どうして僕に?」
「わからない。ただ、あたしは……」
女の子は鼻を啜ると、今度は水色の封筒を取り出した。
「去年の秋、あたしが生きようと思ったのは、この店のお陰でもあったから……」
そう言って、青年にまだ新しい封筒を渡した。目と鼻を真っ赤にしながら。
「いつでもいい。読んで下さい。そして、ここはあたしの場所だって……そう言って下さい」
「わかった」
青年は封筒を預かると、少しだけ表情を曇らせた。
「……もしも店長さんなら、加奈子になんて声を掛けましたか? ううん。もしもあたしが明日死ぬかもしれないと決めてたら、なんて声を掛けてくれますか?」
青年は右手を口元に当て、しばらくじっと何かを考えていた。
「……僕も、ずっとひとりだったよ。でもそれを〝ひとりぼっち〟とか〝寂しい〟とは思わなかった。強いとも言われたよ。でも、そうじゃない。多分本当はすごく恐かった。何かを失うのが恐かったんだ。だからひとりの方が楽だって思ってたような気がする。誰かに依存するのが恐かったんだよ。……それは今も同じかもしれない」
「…………」
「君の質問の答えだけど……僕みたいに半端な男、掛ける言葉なんか持ち合わせてないよ。でも、一緒に歩くかな」
「一緒に?」
女の子は首を傾げた。
「うん。今日みたいなどんよりした雨の日でも、何か素敵な事がひとつ起こるかもしれない。でもたいくつな男だから、その内あめんぼうの生態について喋り出す可能性もあるけど」
青年は笑った。女の子もふふふと笑った。中学生らしい、無邪気な笑顔だった。
「動物も虫も植物も、生きる事しか考えない。人間よりずっと純粋で、一生懸命生きてる。勇気を貰えるんだ。彼らを見てると。……ジュース、おいしいよ」
女の子は黙ってオレンジジュースを何口か飲んだ。
「おいしい……」
「おいしいものしか出さないさ」
青年はいつの間にか小雨の止んだ空を、ガラス窓越しに見つめた。その横顔をじっと見つめていた女の子は、右手を伸ばして青年の手にある水色の封筒を取り戻した。
「やっぱり、いい。まだ、読まなくていい」
「うん。僕も、読みたくなかった」
女の子はオレンジジュースを飲み干すと、封筒をカバンに仕舞い込み、ジュース代を赤い財布から取り出した。
「あたし、今年受験なの。高校に行ったら、何か楽しい事見つかるかな?」
「高校に行くまでもなく見つかるよ。扉、開けてごらん」
青年に言われるまま立ち上がり、店の扉を開けて外に出てみると、湿気を含んだ蒸し暑い空気が肺に流れ込むのを感じた。だが、女の子は目を輝かせた。
「わぁ……」
「久しぶりに見たな」
ふたりの視線の先には、重い雲がぶっきらぼうにちぎれ、まるで梅雨とは思えないほどの快晴になった空が顔を出していた。そして、その空に橋を掛けたような虹がはっきりと掛かっている。
「きれい……」
女の子の目は、店に入って来た時とは別人のように輝いていた。
「生き物だけじゃない。虹だって、一見無機質に見える楽器だって生きてる。例えばピアノなら、長期間放置すると弦やフェルトが劣化してしまう。定期的に調律やメンテナンスをして気を配ってやらないと、拗ねていざという時に思ったような音を奏でてくれないのさ」
「……人と同じなんですね」
「そう。今まで気にも留めなかったものに、目を向けてごらん。君の世界は広い。君がここに訪れた事だって、確かに何かのきっかけになるはずだよ。君の人生にとって」
女の子は肩越しに振り返ると、虹が映る青年の瞳を見上げた。
「今度、一緒にあめんぼうを探してくれますか? 梅雨が明けたら……」
「お安い御用」
青年はにっこりと片目をつぶってみせた。女の子はペコリと頭を下げると、お下げ髪をポーンと背中に投げ、虹を目指すように一歩ずつしっかりとした足取りで歩き出した。
〈加奈子に……、加奈子に、最後のメッセージを送ります。あたしは、まだ終わらないって〉
止まっていた女の子の時間は動き出していた。僅かだけれど、一秒一秒確実に。
https://www.alphapolis.co.jp/novel/209105547/463556247/episode/4952073
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紺色のセーラー服にお下げ髪の女の子が店を訪れたのは、梅雨の真っ只中で、朝から小雨が降っている午後だった。〝S中学〟と書かれた紺色の学生カバンを妙に大事そうに抱えている。
今日はピアノ弾きの少女はオフで、常連客が引き、一息ついたところだった。
女の子には見覚えがあった。去年の秋、毎日という程ひとりで店を訪れ、ホットココアを飲みながらしきりに手紙のようなものを書いていた。秋以降ぱったり来なくなっていた彼女が、半年以上振りにやって来た。
「いらっしゃい。何にする?」
「あ、あの。オレンジジュース」
青年に声を掛けられ、か細い声で女の子が答える。
「久しぶりだね。学校はどう?」
「! あたしの事、覚えててくれたんですか?」
「忘れないよ」
青年は、当たり前のように微笑んだ。その微笑みに、女の子は一瞬緊張した顔を浮かべる。
入口からふたつ目にあるふたり掛けのテーブルに腰掛け、しばらくすると果汁百%のフレッシュジュースが運ばれて来た。カウンターに戻ろうとする青年に、女の子が叫んだ。
「あの!」
振り向いた青年の瞳に、切羽詰ったような女の子の表情が飛び込んだ。
「一週間前、友達が死んだんです」
一瞬、ふたりの間の時間が止まったようにしんとした。止まった時間を無理矢理動かすように、女の子は唾を飲み込む。
「……お通夜で、両親は急死、としか言いませんでした。誰も真相は知りません。でも、あたしは知ってるんです。……加奈子が自殺したって」
青年は変わらず動きを止めている。女の子は、それまで堪えていたものを吐き出すように喋り続ける。
「あの子、いじめられてたんです。小学生の頃からずっと……。それは、あたしがいじめられてたから。それをかばったから、あの子まで標的にされたんです。……去年、本当はあたしが死ぬつもりだった。逃げたかった。でも、そうすれば加奈子がひとりぼっちになっちゃう。そう思うと、できなかった。あたしが死んだら、もしかして教育委員会や学校も、もっと生徒に目を配るようになるかもしれない。でも、きっといじめはなくならない。そんな中で加奈子ひとり残して死ねないし、あたし、もう少し生きようって思うようになったんです」
「…………」
「加奈子、ずっとあたしに〝死んじゃだめ〟って言ってくれてた。生きて闘って見返してやろうよって言ってた。あたし、そんな加奈子と手を取って、励まし合ってたの」
女の子はカバンから、ピンクの携帯電話を取り出した。
「加奈子の携帯に、あたしに宛てたメッセージが送られないまま残ってたらしいんです。お通夜の後、彼女のお母さんから送って貰いました。……聴いて下さい」
『早織、ごめんね。私、早織より弱い。自分で気づかなかった、こんな自分。先輩に弱音を吐いたの。死にたい位辛いって。もう限界だって。先輩、なんて言ったと思う?〝死んじゃだめだよ。お父さんもお母さんも悲しむよ。頑張れ。命は大事にしろよ〟って。そんなのわかってる。でも、もう頑張れないの。ごめんね。早織には言えなかった。早織には生きてて欲しかったから。もしも言えば、早織も一緒に死ぬって言ったでしょ? 早織は生きて。私の分まで生きて』
「あたし、加奈子の気持ちがすごくよくわかったんです。もしもあたしがこんな言葉掛けられても、きっと嬉しくなかった。心に響かないんだもの。何のために生きるの? お母さんやお父さんのためなの? どこまで頑張れば救われるの? 何の目印もなくこれ以上頑張れない! 何で命が大事なんて言えるの? 世界中、みんな平気で殺し合いしてるじゃない!」
女の子は、目にいっぱいの涙を溜めて叫んだ。
「でも、もっと哀しいのは、加奈子があたしを置いてひとりて逝っちゃった事。結局、あたしもひとりぼっちだった。加奈子だけはあたしをひとりにしないって思ってたのに。結局何もわかり合えてなかった。やっぱり、あたしはひとりだった!」
女の子は号泣した。ピアノも時計もなく、静まり返った店内に、女の子の嗚咽としゃくりあげる声だけが響いていた。
どの位の時間が経っただろう。少しばかり落ち着いた女の子を見て、青年はゆっくりと彼女と同じテーブルの向かい側の椅子に座った。
「……どうして僕に?」
「わからない。ただ、あたしは……」
女の子は鼻を啜ると、今度は水色の封筒を取り出した。
「去年の秋、あたしが生きようと思ったのは、この店のお陰でもあったから……」
そう言って、青年にまだ新しい封筒を渡した。目と鼻を真っ赤にしながら。
「いつでもいい。読んで下さい。そして、ここはあたしの場所だって……そう言って下さい」
「わかった」
青年は封筒を預かると、少しだけ表情を曇らせた。
「……もしも店長さんなら、加奈子になんて声を掛けましたか? ううん。もしもあたしが明日死ぬかもしれないと決めてたら、なんて声を掛けてくれますか?」
青年は右手を口元に当て、しばらくじっと何かを考えていた。
「……僕も、ずっとひとりだったよ。でもそれを〝ひとりぼっち〟とか〝寂しい〟とは思わなかった。強いとも言われたよ。でも、そうじゃない。多分本当はすごく恐かった。何かを失うのが恐かったんだ。だからひとりの方が楽だって思ってたような気がする。誰かに依存するのが恐かったんだよ。……それは今も同じかもしれない」
「…………」
「君の質問の答えだけど……僕みたいに半端な男、掛ける言葉なんか持ち合わせてないよ。でも、一緒に歩くかな」
「一緒に?」
女の子は首を傾げた。
「うん。今日みたいなどんよりした雨の日でも、何か素敵な事がひとつ起こるかもしれない。でもたいくつな男だから、その内あめんぼうの生態について喋り出す可能性もあるけど」
青年は笑った。女の子もふふふと笑った。中学生らしい、無邪気な笑顔だった。
「動物も虫も植物も、生きる事しか考えない。人間よりずっと純粋で、一生懸命生きてる。勇気を貰えるんだ。彼らを見てると。……ジュース、おいしいよ」
女の子は黙ってオレンジジュースを何口か飲んだ。
「おいしい……」
「おいしいものしか出さないさ」
青年はいつの間にか小雨の止んだ空を、ガラス窓越しに見つめた。その横顔をじっと見つめていた女の子は、右手を伸ばして青年の手にある水色の封筒を取り戻した。
「やっぱり、いい。まだ、読まなくていい」
「うん。僕も、読みたくなかった」
女の子はオレンジジュースを飲み干すと、封筒をカバンに仕舞い込み、ジュース代を赤い財布から取り出した。
「あたし、今年受験なの。高校に行ったら、何か楽しい事見つかるかな?」
「高校に行くまでもなく見つかるよ。扉、開けてごらん」
青年に言われるまま立ち上がり、店の扉を開けて外に出てみると、湿気を含んだ蒸し暑い空気が肺に流れ込むのを感じた。だが、女の子は目を輝かせた。
「わぁ……」
「久しぶりに見たな」
ふたりの視線の先には、重い雲がぶっきらぼうにちぎれ、まるで梅雨とは思えないほどの快晴になった空が顔を出していた。そして、その空に橋を掛けたような虹がはっきりと掛かっている。
「きれい……」
女の子の目は、店に入って来た時とは別人のように輝いていた。
「生き物だけじゃない。虹だって、一見無機質に見える楽器だって生きてる。例えばピアノなら、長期間放置すると弦やフェルトが劣化してしまう。定期的に調律やメンテナンスをして気を配ってやらないと、拗ねていざという時に思ったような音を奏でてくれないのさ」
「……人と同じなんですね」
「そう。今まで気にも留めなかったものに、目を向けてごらん。君の世界は広い。君がここに訪れた事だって、確かに何かのきっかけになるはずだよ。君の人生にとって」
女の子は肩越しに振り返ると、虹が映る青年の瞳を見上げた。
「今度、一緒にあめんぼうを探してくれますか? 梅雨が明けたら……」
「お安い御用」
青年はにっこりと片目をつぶってみせた。女の子はペコリと頭を下げると、お下げ髪をポーンと背中に投げ、虹を目指すように一歩ずつしっかりとした足取りで歩き出した。
〈加奈子に……、加奈子に、最後のメッセージを送ります。あたしは、まだ終わらないって〉
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