あがり

斗有かずお

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(ひょっとしたら、史上最短記録かもな。いや、私情か)
 春風は、おわったにもかかわらず、なおも一郎にしがみついている。仕事上の演技にしては長い。
(いくら商売でも、そんな気分になるときもあるわな。この子は感じやすいのかもしれないし。だとしたら、この仕事は、なおさらたいへんだ。体がもたないだろうよ)
 鼓動は高鳴り、すっかり潤っている。しがみつかれたまま、一郎は腰を引こうとした。
「抜かないで」
 春風は、小さく叫んだ。一郎は、耳を疑う。
「早い方がいいよね。ゴムが破れてはいないだろうけど、念のために」
「今日は安全日だから、大丈夫。ちょっと疲れちゃったから、しばらく、このままでいたいな」
 ソープ嬢や本番ヘルス嬢から、おわった後も抱き合っていたいと言われたことなど、これまでなかった。戸惑いはするが、相手は自分好みで十以上も若そうな女だ。悪い気はしない。女の柔肌は温かく、心地よくもある。
「うん、別にかまわないけど」
 春風の顔は窺えないが、一本こなした安堵ではなく、疲労というよりも、むしろ悲愴の色が浮かんでいるような気がしてならない。
(四、五本こなして、疲れが出たんだろうな。雅代も、そのあたりが一番きついって言ってたっけ。あがるってきめたら、なおさらだろう)
 この界隈の本番ヘルス店には、ブランド物で身を飾る、あっけらかんとした若い女が少なくない。物悲しさを醸し出している女に当たったのは初めてだった。
「この仕事は、しんどいよね」
 一郎は、春風の耳元で囁いた。
 少し間をおいて、
「うん」
 と春風は細く小さく答えた。
「体は、大丈夫? この手の仕事をやって、腎臓とか肝臓とか、内臓を悪くする女の子も結構いるみたいだから、あがった後に検査しておいたほうがいいかもね」
「うん……ありがとう」
 本番風俗嬢の仕事は、きつい。変態行為以外は、なんでもありだろう。それが苦にならない女は、ごく少数のはずだ。体力的なきつさはともかく、日に何人もの男に最後まで買われる精神的なきつさを、一郎は想像できない。乗っけているだけだから平気だと、雅代はよく強がっていたが、生理休暇の日には五つも六つも老けて見えた。
 一郎も一度だけだが、買われたことがあった。ベッドで貪欲だった有閑マダムからあげた即入三ヶ月のカード料は、春風が一郎に買われて手にするとり分とほぼ同じだ。
「次の仕事は、決まってるの?」
 一郎は、また春風の耳元で囁いた。春風は、小さく首を振り、柔らかい黒髪が一郎の鼻先を掠める。
「しばらくは、休もうって思ってます。……こんな仕事しかやったことがないから、普通の仕事をちゃんとやれる自信も、まだないし」
(こんな仕事か。オレを相手に卑下する必要はねえよ。カタギにもヤクザにもなれないような、半端者に……。それに、春を売るってのは、ホモサピエンスになる前からのある種の女の習性で、メスは餌をとってきたオスに報酬として交尾を許したっていうし。今だって好きでもない男と金目当てで結婚して、セックスを許して、挙句に子どもまで産んでやる女は、ごまんといる)
 旧姓豊田早季子の顔が、脳裏をかすめる。二つ年上の純和風美人は、三鷹で新聞屋をやっていたころの担当読者で、半同棲までいった仲だった。「一郎君は、私の人生最愛の人で、生涯最高のセックスパートナー」とまで言い切っておきながら、早季子はある日突然、結婚するからと別れを切り出した。相手はふたまわり近く年の離れた年商数十億円の会社社長だった。
 夕刊の代配の最中に、吉祥寺のサンロード商店街で、偶然早季子を見かけたことがある。幼子の手を引いていた。ブランド物らしき人目をひく派手な衣装は、早季子にも、母親そっくりの顔をした幼い娘にも、似合っていなかった。
 世間から風俗嬢が蔑まれるように、東京やその近辺では表の新聞屋でさえも見下される。裏風俗嬢の春風に、裏新聞屋の一郎は、親近感を抱かずにはいられない。
「春風さんは業界ズレしてないから、普通の仕事についても、きっとやっていけるよ。それに、オレは好きだけどね。体を張って仕事をしている女の人って。二十年近くも前の話だけど、そんな女の人に、恋をしていたことがあったなあ」
 今度は「そんな女の人」の顔が、再び脳裏をかすめる。九年前に一緒に暮らしていたソープ嬢も、とつづけて言いそうになり、一郎は慌てて口をつぐんだ。ヒモだったとは言えない。本当は新聞屋じゃなくて新聞拡張員だと白状した方がましだ。
 出し抜けにタイマーがピピピ……と電子音を立てた。終了十分前の合図を受け、春風は体を張って仕事をする女の顔を作った。
「ありがとう。休ませてくれて。シャワーを浴びましょうか」
 細い両腕からようやく解放され、一郎は上体を起こした。
「すごくよかったよ。超スッキリした。この後、仕事を頑張れそうだ」
「よかった。私は、もうすぐあがっちゃうから、またきてね、って言えなくて、すごく残念」
 口元に薄い笑みを浮かべつつ、春風は目を細める。
「今月いっぱいなら、いるんだよね。また、こようかな。系列の店から、お呼びもかかるだろうし」
 最寄りの新聞販売店には、毎月必ず二回は入っている。
「本当?」
 身を乗り出してきた春風の茶褐色の虹彩が、目の前で爛々と輝いた。一郎は、自分の顔が赤らんでいくのがわかり、
「うん、約束する」
 と呟くように言って目を背けた。
(どこかで、偶然見かけたわけじゃない。この子は、どことなく、あの人に似てる……)
 一郎は、表の新聞屋になって間もないころを思い出さないわけにはいかなかった。真面目に汗水垂らして懸命に働き、大学も休まずに通う新聞奨学生だった二十歳のころを。
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