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Side Story2.緒方side ~この手を伸ばして~
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少し前に志望していた大学からの合格通知が届き、高校生活は残すところ数カ月を切った。
今日は高校卒業後に一人暮らしを始める部屋の契約を終えた後、なんとなく一人で街をぶらぶらしていた。
高校生活は悪いものではなかった。
気の置けない友人もできたし、部活でもいい成績を残せた。やり残したことなんてない、はず。それなのに、ここのところずっとなぜか気持ちが晴れないのはなぜなんだろう。
冷たい風が頬をかすめる冬の早い夕暮れの中、僕はギュッとマフラーを締め直して駅向かう足を速めた。
「緒方?」
突然後ろから名を呼ばれ振り返ると、そこには黒のダウンジャケットを着た背の高い男が僕の方を見て立っていた。
歳のころは三十代前半くらいで、堀の深い目を額の真ん中で分けた真っ直な黒髪の間に湛えた男。なんとなく見覚えはあるものの、記憶の中でその人の面影を捜してみてもピタッと来る人がいない。戸惑った顔でいると、その男は僕の方に少しだけ距離を詰めた。
「あれ? もしかしてたった一年で忘れられてる?」
その声と、かき上げた前髪から見えた少し寂しそうな笑顔でようやくこの目の前にいる男が誰かを思い出した。
「……宮野先生?」
「思い出したか。久しぶりだな」
「すいません、雰囲気が違ってすぐにわかりませんでした」
「あぁそうか。学校以外で会うのは初めてだもんな」
宮野は昨年度までうちの学校にいたスクールカウンセラーで、学校にいる時はワイシャツにスラックス、その上から白衣を羽織るのがお決まりのスタイルだった。
目の前にいる宮野は首にグルグルとまかれた幅広の黒いマフラーに黒いダウンジャケット、色の濃いジーパン姿だ。そのせいか、宮野だとわかってもまだ違和感がある。
宮野の言う通り、白衣姿しか見たことがなかったんだから仕方がないのかもしれない。
「せっかくだし少し話さないか? 近況教えてよ」
特に断る理由もないからと僕は宮野と近くにあった喫茶店で話をすることにした。
店に入ると僕たちは一番奥のテーブル席に向かい合って座り、宮野はホットコーヒーを、僕は温かいカフェオレを頼んだ。
カウンターといくつかのテーブル席があるだけの狭い店内にはコーヒーのほろ苦い香りが漂い、淡いオレンジ色の光を放つペンダントライトと、耳障りのいい音量で流れるジャズがノスタルジックな雰囲気を醸し出している。
それなのに、僕は何とも言えない居心地の悪さになんだかそわそわとしていた。
でもそれは慣れない喫茶店の雰囲気のせいだけじゃない。この目の前にいる男との記憶がそうさせているんだろう。
「今は自由登校か?」
「はい。受験も終わったので、久しぶりにゆっくりしています」
「そうか」
向けられる穏やかな眼差しと優しく響く低音に、宮野と過ごした時の記憶が自然と頭に流れ込む。
一年前まで僕と宮野は決して人には言えない関係だった。
宮野と出会ったのは、僕が高校に上がって少したってからだった。
それは、eスポーツ部の先輩の瀬良と、クラスメイトで友人の高槻が恋人同士になった頃。
早いうちから自分の性的指向が男性に向いていることに気が付いていた僕は、母親がテレビに出てくる僕と同じ指向の男性タレントに向けた侮蔑の言葉で、それが“普通”とは違うことだということを知った。
血のつながった親でも受け入れてもらえない。だから、人を好きになっても、“他人”が僕の想いを受け入れて、さらに同じだけの想いを返してくれるなんて夢のまた夢だと思っていた。叶わない望みだと思っていた。
それなのに、瀬良と高槻はお互いの性別など全く気にもかけず、初めからそうであることが自然なことであるかのように惹かれ合い、想い合うようになった。
それを見て、諦めていたはずの僕の想いが“熱”を持ち、固く凍り付いていた僕の望みを炙りだした。ギリギリのバランスで保っていた僕の心はその熱によっていとも簡単に崩れ、直接的に身体の不調となって表に顔を出した。
その日も頭の中で打ち鳴らされ続ける鐘の音が鎮まるまで少し休ませてもらおうと保健室に行ったけど中に人の気配はなく、ドアにも鍵がかかっていた。
どうしようかとふらつく頭を悩ませていると隣の部屋のドアが開き、白衣を着た男が出てきた。
それが宮野だった。
「どうした? 顔色悪いな。 保健室空いてないのか? ならこっちで休んでいきな」
穏やかな笑顔で手招きする宮野に従って足を踏み入れたのは、ローテーブルをはさんでおかれた二脚の二人掛けソファーと、シングルベッドが一台あるだけの小さな部屋だった。
その時初めて話をした宮野は、ここが『相談室』だということと、自分はスクールカウンセラーであることを説明してから僕の名前を聞き、ベッドに寝かせてくれた。
「俺は会議があるからもう戻ってこないけど、スペアキー渡しておくから帰りたくなったら鍵かけて帰ってな。鍵は明日にでも返してよ」
こんなにも簡単に生徒に鍵を渡してもいいのかと思ったけど、後から聞いてみると、僕が教師の間では“優等生”で通っていることを知っていたらしく、問題ないだろうと思ったんだとか。カウンセラーでも人の本質をそうそう見破れるものではないらしい。
誰もいない相談室は生徒たちの喧騒は遥か遠くにあって、まるで世界から隔離された場所のように感じた。でも、窓際に置かれたベッドは人の体温のように温もっていて、その日僕は久しぶりにぐっすり眠った。
そして僕はその鍵を返さなかった。
宮野は週に三回、月、水、金曜日だけ相談室にいた。
宮野がいる時に相談室を利用すると、どうやらその報告が担任教師にいくらしい。それは面倒だから、宮野がいない火、木曜日にその鍵を使って相談室で仮眠をとるようになった。
ある日の火曜日、また相談室で仮眠を取ろうと思っていたら、上級生に声を掛けられた。
彼は僕のことが好きだと言った。
名前も顔も知らない人だったけど、好意を向けられるのは悪い気はしなかった。
僕はその上級生を相談室に連れて行き、一度だけという約束で体の関係を持った。
もしかしたら熱を持った僕の“想い”を満たしてくれるかもしれない、そう思った。
でも、初めてのセックスは大きな感動もこれと言った感想もなく、『こんなもんか』と思っただけだったし、相手に特別な感情を抱くこともなかった。
男子校という特殊な環境のせいなのか、それ以降も僕に好意を向けてくる人は案外いて、そう言う人たちと関係を持つのに相談室を使った。中には一度だけの人もいたし、後腐れがなさそうな人であればいわゆるセフレの関係になった人もいた。
セックスは気持ちがよかったし、求められていれる瞬間は少しだけ崩れた心の隙間を埋められる気がした。でも結局、僕の想いは満たされることはなかったし、望みが現実のものとなることはなかった。
そんな生活が半年ほど続いていて二年生に進級したころ、相談室を勝手に使っていたことが宮野にばれた。
その日もセフレの一人と相談室にいたところに、たまたま書類を取りに来たという宮野と鉢合わせた。
その時僕の上に乗っかって腰を振っていた男は、あっという間に僕を置いて逃げた。
まぁ見つかってしまったものはしょうがないし、と平然としていると、宮野は大きなため息をついて、僕に服を整えてソファーに座るように促した。
「緒方、だよな。いろいろ聞きたいことはあるけど……まず、なんでここに入れるんだ」
「去年、先生から鍵をもらいました」
僕はベッドに座ったままそう答えると、宮野は記憶たどるように左上に視線を泳がせ、少しして思い出したのか、また大きなため息をついてうなだれた。
「緒方は優等生だって聞いてたんだけどな」
「成績とか、教師からの評判だけで言えば優等生だと思いますよ」
「優等生はこんなところに忍び込んで遊ばないだろ。それから、いい加減足をしまえ」
怒っているというよりは、目線をこちらに向けず、明らかに困惑した様子の宮野の顔を見て、僕はピンときた。
この人は僕と“同じ”だ。そして、僕もその対象になるのだと。
僕は足をあらわにしたままソファーに座る宮野の上に正面で向き合うように跨り、首の後ろへと手をまわして唇を重ねた。初めて近づいた宮野からは、少しだけたばこの香りがした。
宮野が僕を引き離したのは、重ねた唇からその中へと舌を挿し込んだときだった。
「おい、やめろ! ストップ!」
「なんで?」
「なんでじゃないだろ?! 俺を無職の犯罪者にしたいのか?!」
「勃たせてるくせに何言ってるんですか」
僕と宮野の間で不自然に盛り上がるそこを指でなぞると、宮野は眉根をピクリ寄せた。
その様子に少し気をよくした僕は、宮野の膝の上から降りて足の間に膝をつき、もう一度そこを指で撫でて宮野を見上げた。
「これ、ヌイてあげますよ。口止め料ってことで」
「えっおい、やめ…っ!」
宮野は言葉とは裏腹に、僕を強く拒否する様子は見せなかった。だからそのまま宮野のベルトを外し、そこから取り出した固く反り立つものの先端を舌先で舐め、口に含んだ。
舌を這わすたびにビクリと小さく震え、さらに固さを増す“それ”にどうしようもない劣情が沸き上がる。
さっき真っ最中に宮野が部屋に入ってきたせいもあって、僕の体は満足を迎えていない。想いは満たせなくても、欲は満たせることを知ってしまった僕の体はそれを欲して卑しく疼いた。気が付けば自然と自分の指を後ろへと這わせ、中へと挿し込んでいた。それを動かして自分の好いところを探りあてると、宮野のものを含んだままの僕の口から小さく声が漏れる。それに反応したのか、宮野はまた体を小さく震わせた。
どんな顔をしているのか見てやろうと顔を上げると、宮野は困惑の中にしっかりと欲を孕んだ瞳で僕を見下ろし、それを理性でなんとか抑え込もうとするかのように両手で口を覆ってていた。その瞳にさらに僕の劣情は掻き立てられた。
ドクドクと脈打つものを口から放してもう一度宮野の正面に跨って肩に手を置き、僕の後ろに宮野のそれをあてがった。宮野はまだ口を押えたまま、荒い息で体を震わせながら僕を見つめていた。そのまま腰を落としてゆっくりと僕の中に宮野を収めていくと、それがすべて収まる前に宮野は口を覆っていた手で僕を抱え込み、噛みつくように口を塞ぎながら僕をソファーへと押し倒した。
僕を見下ろしながら荒く息を吐きだす宮野の瞳から困惑の色は消え、窓から差し込む夕日のように赤く欲に染まっていた。
その瞳に、欲だけではなく心の隙間が少し埋まったような気がした。
「これで共犯ですね、先生」
首に回した手をグッと引いて今度は僕から唇へ噛みつき、その後は与えられる快感に身をゆだねた。
「あー……やっちまった……」
いわゆる賢者タイムとでもいうのか、事後、宮野はソファーで頭を抱えながらうなだれていた。
その様子はなかなか面白かったけど、部屋の時計はすでに六時を過ぎている。いつもここにいる時間は授業が終わってから一時間程度なのについ長居して、部活に行くには少し遅い時間になってしまった。
今日はもう帰ろうと服を整えて部屋を出て行こうとすると、宮野は僕の腕を掴んだ。
「鍵、返しなさい」
さっきまで欲丸出しにして僕に跨っていたくせに、急に真面目な先生の顔をする宮野に面くらい、僕は思わず吹き出してしまった。ずるい大人に子ども扱いされるのは少々癪に障るし、大人しく従う必要もない。
僕は「なに笑ってんだ」なんてちょっと焦ってる宮野の白衣の襟首をつかんでグッと引き寄せてキスをした。
「また来ます」
優等生らしくにっこりと微笑んで見せると、宮野はぽかんと口を少し開き、魂がどこかへ抜けて行ってしまったような顔をした。
その顔を見てまた吹き出しそうになったけど、ぐっと飲みこんで僕は相談室を出た。
それからというもの、相変わらず火、木曜日は勝手に利用しつつ、宮野がいる時も相談室に足を向けるようになった。
宮野は自分から僕に手を伸ばすことはなかったけど、誘えば案外あっさりとそれに乗ったし、なんだかんだ鍵を無理やり取り返すようなこともしなかった。
そんな関係がしばらく続き、冬が終わりを迎える頃、宮野は次年度から違う学校に赴任することが決まった。
「ここに来るのは今週で最後だ。だから、さすがにもう鍵を返してくれ。スペアと揃えて学校に返さないといけない」
複製は作っていないよな、なんて言われたけど、さすがにそこまではしていないし、後任のカウンセラーが宮野のようにごまかしが利く人だという可能性はあまりにも低い。そろそろ潮時だろうと僕は大人しく鍵を返した。
これからはどこでしようかな、なんて考えていたら、宮野は不思議なことを口にした。
「なぁ緒方。俺とここ以外で会う気はないか?」
その言葉の意味が分からず、僕は思わず首をかしげた。宮野はもちろん、他のセフレとも相談室以外で会ったことはないし、その必要を感じたこともなかった。
「ない、か」
宮野は小さくため息を吐いてから僕を抱き寄せ、キスをした。宮野から手を伸ばしてきたのはこれが最初で最後だった。
「もう誰とでも寝るようなことはやめろ」
「失礼ですね。『誰とでも』じゃなくて、ちゃんと相手は選んでます」
「後腐れないやつ?」
「そうですね」
「俺もその一人か」
「そうですね」
その時宮野がどんな顔をしていたのか、胸に抱かれていた僕からは見えなかった。
「お待たせいたしました」
店主が運んできたカフェオレを僕の前に置くと、カップから上る湯気からはコーヒーのほろ苦い香りの中にミルクの優しい香りが立ち込める。
それを手に取り口に含むと、その優しい甘さと温かさに少しだけ気まずかった気持ちもほぐれて思わずほっと息が漏れた。
「相談室使えなくなってからどうしてるんだ。さすがにやめたか」
一息ついたのもつかの間、いきなり核心を突くような宮野の問いかけに、うっかりカフェオレを吹き出しそうになる。何とか取り繕ってカップをソーサーに置き、宮野と目を合わさないままポツリと答えた。
「部室で……」
「はぁ?! お前は……」
「で、でも今は一人だけだし」
なぜこんな言い訳のようなことを宮野にしてるんだろうかと思いながら、目線を横に向けたままでいたが、宮野からのリアクションがない。どうしたのかとチラリと顔を見ると少し丸めた目と視線が合った。ところが宮野はすぐに僕から目を逸らし、視線を下へと向けた。
「……恋人ができたのか」
「違います。セフレ……でもないけど……なんだろう、体の関係のある後輩?」
「なんだそれ。でも……、そいつは今までのやつらとは違うんだな」
「えっ?」
「だってそいつだけで満足できてるってことだろ」
宮野は相変わらず視線を僕に向けないまま、コーヒーを口に運んだ。その宮野の言葉に僕はグッと一瞬息が止まった。
その後輩、敦也は部活の二つ下の後輩で、高槻の弟。
友達ではないし、もちろん恋人でもない。でも、セフレとも違う。だって、今までのそういう人たちとの関係とは、過ごす時間の長さも、交わす言葉も、何もかもが全然違うから。
だから、敦也との関係は人との関係性を表す名前のどれにも当てはまらない、そんな曖昧な関係。
そんな関係が始まったのは、彼が僕の所属しているeスポーツ部へ入部してきて少し経った頃だった。
たまたま部室でセフレと会っているところを見られたのが始まり。
敦也は、部室を“そういうこと”に使っていたことに随分と怒った。
普段の敦也は絵にかいたような好青年で、誰にでも優しくて、いつも楽しそうで、悩みなんてなさそうで……。瀬良も“わんこ系のかわいい弟だ”なんて言っていた。
努力しなくても誰からも好かれる、そんな人間。
うわべだけ取り繕って優等生のふりをしてる僕とは全然違う人種。
そう思ってた。
だから、その怒った顔を見て、こんな顔もするのかって言う驚きと、ちょっとした悪戯心がわいた。
その人懐っこい、柔らかな笑顔を崩してやりたかった。
それで、「じゃー敦也が相手してよ」なんてからかうようなことを言った。きっとそれに対する答えは「ふざけんな」とか、「無理」とか、僕を否定する拒絶の言葉だと思った。
でも、違った。
敦也は鋭い牙のような視線を僕に向け、「わかった」と言って僕を机に押し倒した。その姿はまったくもって“かわいい弟”なんかじゃなかった。
結局、敦也に翻弄されるがまま体の関係をもって以来、主導権なんて握れたことはない。それでも、それを嫌だと思ったことは一度もない。
始まりからめちゃくちゃだったんだ。だから敦也の前では取り繕う必要も、相手の望む姿でいる必要もない。一緒にいてすごく楽だった。それどころか、敦也がいつもとは違う顔を自分だけに向けているということに優越感すら覚えた。
他愛もないことで笑いあって、じゃれ合うように言い合いをして、年下だなんてことも全然気にならないくらい敦也と過ごす時間は本当に楽しかった。
案外僕たちは似た者同士なんじゃないかな、って思った。
そんなことに僕は随分と救われていたんだ。
でもきっと、高校生活が終わると同時に僕と敦也のこの曖昧な関係も終わる。
だって続ける理由がない。
最近はずっと治まっていた頭の中の鐘の音が、なぜか一度だけズキンと大きな音を鳴らした。
「僕は特別な相手は作りません。たまたま今ほかにいないだけです」
目線を下げたままもう一度口に運んだカフェオレは、少しだけ冷めたせいかさっきよりも苦く感じた。
「……おまえ、今自分がどんな顔してるかわかってる?」
「えっ?」
顔を起こすと、宮野はいつもの穏やかな顔とは違う真剣な眼差しで僕の方を真っ直ぐと見ていた。どんな顔って、どんな顔なんだろうか。今は正直宮野の視線に戸惑っているから、そう言う顔をしていると思う。
何も答えずにいると、宮野は椅子にもたれていた体を起こし、机の上でカップに添えていた僕の手を握った。
「それなら俺でもいいのか?」
手の甲に触れる宮野の手はひんやりと冷たくて、その温度にビクッと心臓が震えた。
「お前は俺のことなんて思い出しもしなかっただろうけど、俺はこの一年、ずっとお前のことが忘れられなかったよ」
さっきよりもずっしりと響く低音とその眼差しは冗談を言っているようにはとても思えず、早くなる鼓動のせいで僕は何も言葉が出てこない。
「だからまたこうやって二人で会いたい。これからなら、どこででも会えるだろ?」
まだカップに添えられたままの僕の手を握る力が少し強まると、カップはカチャっと音を立てて中のカフェオレを揺らした。
あの日、最後に相談室で会った時に宮野が言った『ここ以外で』の意味をようやく理解した。宮野は僕と関係を続けたいと思っていたんだ。
でも僕はそれを望まなかった。
望む望まない以前に、“相談室”という箱庭の中だけの関係を外に出すということも、“出せる”ということも、想像すらしなかったんだ。
ずっと黙ったままでいた僕を見て、宮野は少し表情を柔らかくしてフッと息を吐き、握っていた手を離した。
「今、自分でどういう顔してると思う?」
「お、驚いた顔……?」
「どっちかって言うと、困った顔に見えるよ」
困っている……と言われると、そうかもしれない。何と答えたらいいのか、返す言葉が出てこない。でも一つだけはっきりとしているのは、この提案を受け入れることはできないということ。
「ごめん……なさい……」
「それは俺への答え?」
僕は目線を合わせないまま小さく頷いた。
「なんで?」
「なんで?!」
まさかの問い返しに、思わず大きな声が出た。焦ってカウンターにいる店主にちらっと視線を向けたけど、気にしていないのか、そう言うふりをしているのか、視線がかち合うことはなかった。僕は戸惑いを隠せないまま視線を目の前のテーブルに落とした。
「俺だからダメ?」
「ち、違います」
「じゃあなんで?」
「えぇ……それは……」
なぜか食い下がってくる宮野にどう答えたらいいのわからず、しどろもどろになってしまう。それはきっと僕自身もその答えがわからないからだ。
この一年、過去に関係のあった人からも、そうじゃない人からも何回か声を掛けられたけど、すべて断った。
それは敦也とした、『部室には誰も連れ込まない』っていう約束を守るため。
でも、これからはその “約束”を守る必要はない。
そもそも、高校を出たら部室は使えない。誰とだって、どこでだって会っていいんだ。
それなのに、なんで僕は宮野の提案を断ったんだろう。
宮野は優しかったし、体の相性だって悪くなかった。今からなら関係を持っても、もう宮野が咎められることもない。セックスがしたいだけならこの提案を断る理由なんてないはずだ。
でも、さっき触れられた手は今も違和感が残ってる。
『違う』って心が言っている。
違う? なにと?
くすぶっていた想いがまた熱を取り戻したかのようにじわじわと僕の心に広がっていく。
「じゃあ、その後輩に言われても断るのか?」
宮野の言葉にビクッと肩が震えた。
さっき言った通り『宮野だからダメ』なんじゃない。きっと他の人に言われても断った。
それなら敦也でも……?
いや、そもそも前提が間違ってる。敦也にとって僕との関係は望んだものではない。だから『断る』ことを考えるなんて思い上がり以外の何物でもない。
「敦也は……後輩はそもそもそんなこと言いません」
自分で口に出した言葉に、何かが胸に刺さったような痛みを感じた。
この痛みは何? ダメだ、考えたくない。
ギュッとこぶしを握り締めると、宮野は小さくため息を吐いて堀の深い目を半眼にしてジトッと僕の方を見た。
「お前、案外臆病だったんだな。まぁフラれた身としてはこれ以上お膳立てしてやるのは癪に障るから、俺はもう何も言わん。後は自分で考えろ」
「……カウンセラーとしてその対応はありなんですか」
「なんだ、話聞いてほしいのか?」
「いえ、結構です」
宮野はまたふうっと息を吐き、また穏やかな笑顔に表情を戻してから、残っていたコーヒーを一気に飲み干した。
「昔はずっとすました顔していまいち何考えてるのかわからなかったけど、今はこの短い時間の中でも随分いろんな顔が見れた。それだけでもいい出会いがあったんだろうなってわかるよ。それをこれからどうするかはお前次第だ。案外、素直に手を伸ばしたら、その手を取ってくれるかもしれないぞ」
そう言うと、宮野は伝票を手に取り立ち上がり、僕の髪をクシャっと撫でた。
「もしまた会うことがあったら、いい話が聞けることを期待してる。じゃあな」
手を振りながら店を出て行く宮野の後姿を見送ったあと、カップに残ったカフェオレを口に含むと、すっかり冷めてしまったそれはひやりと喉を冷やし、体の中へ流れ落ちていった。
店の外に出ると、まだ午後六時前だというのにすっかりあたりは暗くなり、吹く風の冷たさがさらに増したように感じた。
この時間なら、まだ部活中だ。部員としては三年生の秋にすでに引退したけど、それからも図書室で勉強した後に部室へ行き、敦也と二人で会っていた。
でも、受験が本格的に始まってからは学校自体に行かなくなったし、一番最近では二週間前に合格の報告に行ったっきりだ。でも、その日は部室に顔を出しただけですぐに帰った。だからもう二か月以上、敦也と二人っきりにはなっていない。
きっとこのまま卒業して、会うこともなくなるんだろう。そう思っていた。それでいいと思っていた。そうするしかないと思っていた。
でも、本当にそれでいいの? 臆病な自分が抑え込んでいた“想い”がどんどんと熱を増していく。僕は手をグッと握り込み、駅へと急いだ。
「緒方さん?! どうしたの?」
久々に開いた視聴覚室の扉の先に変わらない人懐っこい笑顔が見えると、胸がドクンと大きく高鳴った。
一度家に戻り、制服に着替えてから来たせいもあって、すでに七時を過ぎている。残っている部員は敦也を含めてあと数人だけで、その部員らはもう帰り支度を始めていたようだった。
「ごめん、急に来て。もう帰るところだった?」
「みんなはもう帰るみたいだけど、俺はもう少し残っていこうかなと思ってたから、大丈夫」
少しだけ話をしから二人で他の部員たちを見送ると、敦也はカチリと静かに視聴覚室のドアのカギを下ろした。僕はそれに気が付かないふりをして敦也に背を向ける。窓の向こうに見える体育館にはまだ明かりが灯り、夜の暗闇にぼんやりと浮かび上がっているように見えた。
何度も見たはずの光景なのになぜだか今日は現実感がなくて少しだけ怖くなる。こうやって部室も、僕の居場所ではなくなっていくんだろう。
「もう、来ないかと思ってた」
吸い込まれるように眺めていた景色がふいに消え、カーテンで閉ざされた部室はまるで世界から隔離されたように感じる。目の前にいる敦也も実は幻なんじゃないかと不安になって手を伸ばすと、触れた頬からじんわりと感じる熱がそうではないことを教えてくれた。
敦也は頬に触れる僕の手を上からぎゅっと握ると、静かに目を閉じて握った手のひらに唇を付けた。
再びその瞳が開いたときには、さっきまでの穏やかな瞳とは違う熱を持った視線が僕を射貫く。そのまま腕を引かれ、唇が重なった。
しばらく重ねていた唇が離れると、敦也は僕を胸に抱き寄せた。触れたところから感じる温度、耳元にかかる息、くすぐったくなるような優しい香り、そして少しだけ早い胸の音。この距離でしか感じられないものの全てが僕に訴えかけてくる。
やっぱり、僕は敦也が好きなんだ。
離れたくない、離したくない、僕の手を取ってほしい。
抱えきれないほど大きく膨らんだ想いがあふれて、敦也の背に回した手に自然と力が入っていく。
どうしたらいいんだろう……なんて考えていると、ふいに敦也の唇が僕の耳に触れた。
敦也は最初こそは無遠慮に容赦なく僕の体を暴いたけど、それ以来はずっと触れる指先も、唇も、見つめる眼差しも、僕へ向けられるそのすべてが優しくて、『大切にされている』なんて勘違いをしそうになる。その優しさに込められた熱に、僕は浮かされているんだろうか。
今も、触れられたところが熱くて、溶けてしまいそうだ。
「あっ……!」
「緒方さん、なんか今日すごいね。どこ触ってもビクビクする」
そう言って背を撫でる敦也の指の動きに僕の体はまたビクッと震える。
視聴覚室の横に長い机の端に両手を置いた僕の腰を掴み、敦也は後ろからゆっくりと僕の中に入り込んだ。僕の中を埋めていくその圧迫感で苦しいはずなのに、中に広がる熱に体の温度も上がっていく。その熱が奥まで達すると、こらえきれず体が震えた。
「ははっ、挿れただけでイっちゃったね。するの久しぶり? 俺以外とはしてなかった?」
「んっ、して……ないっ、あつやとしか……あっ」
「そっか」
敦也は一度僕から体を離すと、今度は僕を机の上に仰向けに寝かせ、正面から僕の中へ一気に入り込んだ。
「あぁっ!」
その衝撃に腰が跳ね、目に溜まる涙で視界がぼやける。与えられる快感で意識も体も溶かされていき、“自分”の輪郭があいまいになっていく。それが急に怖くなって必死に両手を伸ばすと、ぼやけた視界の先から僕を見つめていた眼差しがフッと緩み、僕よりも大きな手のひらが重なった。
敦也は指を絡ませながら僕の手をぎゅっと握ると自分の口元へと運び、そっと唇を付けた。
「大丈夫? 立てる?」
敦也が僕のシャツのボタンを閉めていく様子をまだ力の入らない体のままぼーっと見つめていると、敦也は少し不安そうな顔で僕の顔を覗き込んだ。
し終えると、敦也はいつも当たり前のように僕の体をきれいにして、服を整えてくれる。今まで関係を持ったセフレは終わったらさっさと帰って行ったから、最初のころはこの甲斐甲斐しさにも少し驚いた。
たとえそれが敦也にとっては“普通のこと”でも、僕にとっては“嬉しいこと”で、敦也に惹かれる理由としては十分だったんだろう。敦也への気持ちをはっきりと自覚したからか、その優しさがくすぐったくて、少しだけ痛い。僕は敦也と目を合わせないまま「大丈夫だよ」と小さく答えて立ち上がった。
「次はいつ学校くるの?」
「卒業式前日かな。式の予行練習のために午前中だけくるよ」
「そっか。じゃーもうここには来ない?」
「そうだね」
敦也は僕と会えなくなることを少しは残念に思ってくれるだろうか。寂しいと思ってくれるだろうか。そんなことを思いながら敦也にそっと視線を向けると、伏せられた目の下に長い睫毛が影を作っていた。
そんな置き去りにされたような寂し気な顔をされたら、期待してしまう。
少しだけ、手を伸ばしてもいいだろうか。
「そういえば今日、一人暮らしするための部屋決めてきたんだ」
「えっ。そう、なんだ」
「卒業式終わったら引っ越すから、春休み、遊びに来る?」
僕の言葉に敦也はパッと顔を上げ、真っ直ぐと僕を見た。その眼差しに、さっきから痛いほど早く動く心臓が一段と大きな音を立てた。
「いいの?」
「うん。敦也さえよければ……」
「いいに決まってる! 行くよ! 絶対に行くから!!」
その答えと、とろけるように目じりを下げる敦也を見て、こみ上げてくる涙を必死にグッと抑えて、僕はなんとか笑顔を作った。
臆病な僕が手を伸ばして掴んだのは、きっと少し先の未来だけ。
でも、それでいい。
いつかきみが隣に立つ誰かを選ぶまで、どうかもう少しだけこの曖昧な関係を続けさせて。
今日は高校卒業後に一人暮らしを始める部屋の契約を終えた後、なんとなく一人で街をぶらぶらしていた。
高校生活は悪いものではなかった。
気の置けない友人もできたし、部活でもいい成績を残せた。やり残したことなんてない、はず。それなのに、ここのところずっとなぜか気持ちが晴れないのはなぜなんだろう。
冷たい風が頬をかすめる冬の早い夕暮れの中、僕はギュッとマフラーを締め直して駅向かう足を速めた。
「緒方?」
突然後ろから名を呼ばれ振り返ると、そこには黒のダウンジャケットを着た背の高い男が僕の方を見て立っていた。
歳のころは三十代前半くらいで、堀の深い目を額の真ん中で分けた真っ直な黒髪の間に湛えた男。なんとなく見覚えはあるものの、記憶の中でその人の面影を捜してみてもピタッと来る人がいない。戸惑った顔でいると、その男は僕の方に少しだけ距離を詰めた。
「あれ? もしかしてたった一年で忘れられてる?」
その声と、かき上げた前髪から見えた少し寂しそうな笑顔でようやくこの目の前にいる男が誰かを思い出した。
「……宮野先生?」
「思い出したか。久しぶりだな」
「すいません、雰囲気が違ってすぐにわかりませんでした」
「あぁそうか。学校以外で会うのは初めてだもんな」
宮野は昨年度までうちの学校にいたスクールカウンセラーで、学校にいる時はワイシャツにスラックス、その上から白衣を羽織るのがお決まりのスタイルだった。
目の前にいる宮野は首にグルグルとまかれた幅広の黒いマフラーに黒いダウンジャケット、色の濃いジーパン姿だ。そのせいか、宮野だとわかってもまだ違和感がある。
宮野の言う通り、白衣姿しか見たことがなかったんだから仕方がないのかもしれない。
「せっかくだし少し話さないか? 近況教えてよ」
特に断る理由もないからと僕は宮野と近くにあった喫茶店で話をすることにした。
店に入ると僕たちは一番奥のテーブル席に向かい合って座り、宮野はホットコーヒーを、僕は温かいカフェオレを頼んだ。
カウンターといくつかのテーブル席があるだけの狭い店内にはコーヒーのほろ苦い香りが漂い、淡いオレンジ色の光を放つペンダントライトと、耳障りのいい音量で流れるジャズがノスタルジックな雰囲気を醸し出している。
それなのに、僕は何とも言えない居心地の悪さになんだかそわそわとしていた。
でもそれは慣れない喫茶店の雰囲気のせいだけじゃない。この目の前にいる男との記憶がそうさせているんだろう。
「今は自由登校か?」
「はい。受験も終わったので、久しぶりにゆっくりしています」
「そうか」
向けられる穏やかな眼差しと優しく響く低音に、宮野と過ごした時の記憶が自然と頭に流れ込む。
一年前まで僕と宮野は決して人には言えない関係だった。
宮野と出会ったのは、僕が高校に上がって少したってからだった。
それは、eスポーツ部の先輩の瀬良と、クラスメイトで友人の高槻が恋人同士になった頃。
早いうちから自分の性的指向が男性に向いていることに気が付いていた僕は、母親がテレビに出てくる僕と同じ指向の男性タレントに向けた侮蔑の言葉で、それが“普通”とは違うことだということを知った。
血のつながった親でも受け入れてもらえない。だから、人を好きになっても、“他人”が僕の想いを受け入れて、さらに同じだけの想いを返してくれるなんて夢のまた夢だと思っていた。叶わない望みだと思っていた。
それなのに、瀬良と高槻はお互いの性別など全く気にもかけず、初めからそうであることが自然なことであるかのように惹かれ合い、想い合うようになった。
それを見て、諦めていたはずの僕の想いが“熱”を持ち、固く凍り付いていた僕の望みを炙りだした。ギリギリのバランスで保っていた僕の心はその熱によっていとも簡単に崩れ、直接的に身体の不調となって表に顔を出した。
その日も頭の中で打ち鳴らされ続ける鐘の音が鎮まるまで少し休ませてもらおうと保健室に行ったけど中に人の気配はなく、ドアにも鍵がかかっていた。
どうしようかとふらつく頭を悩ませていると隣の部屋のドアが開き、白衣を着た男が出てきた。
それが宮野だった。
「どうした? 顔色悪いな。 保健室空いてないのか? ならこっちで休んでいきな」
穏やかな笑顔で手招きする宮野に従って足を踏み入れたのは、ローテーブルをはさんでおかれた二脚の二人掛けソファーと、シングルベッドが一台あるだけの小さな部屋だった。
その時初めて話をした宮野は、ここが『相談室』だということと、自分はスクールカウンセラーであることを説明してから僕の名前を聞き、ベッドに寝かせてくれた。
「俺は会議があるからもう戻ってこないけど、スペアキー渡しておくから帰りたくなったら鍵かけて帰ってな。鍵は明日にでも返してよ」
こんなにも簡単に生徒に鍵を渡してもいいのかと思ったけど、後から聞いてみると、僕が教師の間では“優等生”で通っていることを知っていたらしく、問題ないだろうと思ったんだとか。カウンセラーでも人の本質をそうそう見破れるものではないらしい。
誰もいない相談室は生徒たちの喧騒は遥か遠くにあって、まるで世界から隔離された場所のように感じた。でも、窓際に置かれたベッドは人の体温のように温もっていて、その日僕は久しぶりにぐっすり眠った。
そして僕はその鍵を返さなかった。
宮野は週に三回、月、水、金曜日だけ相談室にいた。
宮野がいる時に相談室を利用すると、どうやらその報告が担任教師にいくらしい。それは面倒だから、宮野がいない火、木曜日にその鍵を使って相談室で仮眠をとるようになった。
ある日の火曜日、また相談室で仮眠を取ろうと思っていたら、上級生に声を掛けられた。
彼は僕のことが好きだと言った。
名前も顔も知らない人だったけど、好意を向けられるのは悪い気はしなかった。
僕はその上級生を相談室に連れて行き、一度だけという約束で体の関係を持った。
もしかしたら熱を持った僕の“想い”を満たしてくれるかもしれない、そう思った。
でも、初めてのセックスは大きな感動もこれと言った感想もなく、『こんなもんか』と思っただけだったし、相手に特別な感情を抱くこともなかった。
男子校という特殊な環境のせいなのか、それ以降も僕に好意を向けてくる人は案外いて、そう言う人たちと関係を持つのに相談室を使った。中には一度だけの人もいたし、後腐れがなさそうな人であればいわゆるセフレの関係になった人もいた。
セックスは気持ちがよかったし、求められていれる瞬間は少しだけ崩れた心の隙間を埋められる気がした。でも結局、僕の想いは満たされることはなかったし、望みが現実のものとなることはなかった。
そんな生活が半年ほど続いていて二年生に進級したころ、相談室を勝手に使っていたことが宮野にばれた。
その日もセフレの一人と相談室にいたところに、たまたま書類を取りに来たという宮野と鉢合わせた。
その時僕の上に乗っかって腰を振っていた男は、あっという間に僕を置いて逃げた。
まぁ見つかってしまったものはしょうがないし、と平然としていると、宮野は大きなため息をついて、僕に服を整えてソファーに座るように促した。
「緒方、だよな。いろいろ聞きたいことはあるけど……まず、なんでここに入れるんだ」
「去年、先生から鍵をもらいました」
僕はベッドに座ったままそう答えると、宮野は記憶たどるように左上に視線を泳がせ、少しして思い出したのか、また大きなため息をついてうなだれた。
「緒方は優等生だって聞いてたんだけどな」
「成績とか、教師からの評判だけで言えば優等生だと思いますよ」
「優等生はこんなところに忍び込んで遊ばないだろ。それから、いい加減足をしまえ」
怒っているというよりは、目線をこちらに向けず、明らかに困惑した様子の宮野の顔を見て、僕はピンときた。
この人は僕と“同じ”だ。そして、僕もその対象になるのだと。
僕は足をあらわにしたままソファーに座る宮野の上に正面で向き合うように跨り、首の後ろへと手をまわして唇を重ねた。初めて近づいた宮野からは、少しだけたばこの香りがした。
宮野が僕を引き離したのは、重ねた唇からその中へと舌を挿し込んだときだった。
「おい、やめろ! ストップ!」
「なんで?」
「なんでじゃないだろ?! 俺を無職の犯罪者にしたいのか?!」
「勃たせてるくせに何言ってるんですか」
僕と宮野の間で不自然に盛り上がるそこを指でなぞると、宮野は眉根をピクリ寄せた。
その様子に少し気をよくした僕は、宮野の膝の上から降りて足の間に膝をつき、もう一度そこを指で撫でて宮野を見上げた。
「これ、ヌイてあげますよ。口止め料ってことで」
「えっおい、やめ…っ!」
宮野は言葉とは裏腹に、僕を強く拒否する様子は見せなかった。だからそのまま宮野のベルトを外し、そこから取り出した固く反り立つものの先端を舌先で舐め、口に含んだ。
舌を這わすたびにビクリと小さく震え、さらに固さを増す“それ”にどうしようもない劣情が沸き上がる。
さっき真っ最中に宮野が部屋に入ってきたせいもあって、僕の体は満足を迎えていない。想いは満たせなくても、欲は満たせることを知ってしまった僕の体はそれを欲して卑しく疼いた。気が付けば自然と自分の指を後ろへと這わせ、中へと挿し込んでいた。それを動かして自分の好いところを探りあてると、宮野のものを含んだままの僕の口から小さく声が漏れる。それに反応したのか、宮野はまた体を小さく震わせた。
どんな顔をしているのか見てやろうと顔を上げると、宮野は困惑の中にしっかりと欲を孕んだ瞳で僕を見下ろし、それを理性でなんとか抑え込もうとするかのように両手で口を覆ってていた。その瞳にさらに僕の劣情は掻き立てられた。
ドクドクと脈打つものを口から放してもう一度宮野の正面に跨って肩に手を置き、僕の後ろに宮野のそれをあてがった。宮野はまだ口を押えたまま、荒い息で体を震わせながら僕を見つめていた。そのまま腰を落としてゆっくりと僕の中に宮野を収めていくと、それがすべて収まる前に宮野は口を覆っていた手で僕を抱え込み、噛みつくように口を塞ぎながら僕をソファーへと押し倒した。
僕を見下ろしながら荒く息を吐きだす宮野の瞳から困惑の色は消え、窓から差し込む夕日のように赤く欲に染まっていた。
その瞳に、欲だけではなく心の隙間が少し埋まったような気がした。
「これで共犯ですね、先生」
首に回した手をグッと引いて今度は僕から唇へ噛みつき、その後は与えられる快感に身をゆだねた。
「あー……やっちまった……」
いわゆる賢者タイムとでもいうのか、事後、宮野はソファーで頭を抱えながらうなだれていた。
その様子はなかなか面白かったけど、部屋の時計はすでに六時を過ぎている。いつもここにいる時間は授業が終わってから一時間程度なのについ長居して、部活に行くには少し遅い時間になってしまった。
今日はもう帰ろうと服を整えて部屋を出て行こうとすると、宮野は僕の腕を掴んだ。
「鍵、返しなさい」
さっきまで欲丸出しにして僕に跨っていたくせに、急に真面目な先生の顔をする宮野に面くらい、僕は思わず吹き出してしまった。ずるい大人に子ども扱いされるのは少々癪に障るし、大人しく従う必要もない。
僕は「なに笑ってんだ」なんてちょっと焦ってる宮野の白衣の襟首をつかんでグッと引き寄せてキスをした。
「また来ます」
優等生らしくにっこりと微笑んで見せると、宮野はぽかんと口を少し開き、魂がどこかへ抜けて行ってしまったような顔をした。
その顔を見てまた吹き出しそうになったけど、ぐっと飲みこんで僕は相談室を出た。
それからというもの、相変わらず火、木曜日は勝手に利用しつつ、宮野がいる時も相談室に足を向けるようになった。
宮野は自分から僕に手を伸ばすことはなかったけど、誘えば案外あっさりとそれに乗ったし、なんだかんだ鍵を無理やり取り返すようなこともしなかった。
そんな関係がしばらく続き、冬が終わりを迎える頃、宮野は次年度から違う学校に赴任することが決まった。
「ここに来るのは今週で最後だ。だから、さすがにもう鍵を返してくれ。スペアと揃えて学校に返さないといけない」
複製は作っていないよな、なんて言われたけど、さすがにそこまではしていないし、後任のカウンセラーが宮野のようにごまかしが利く人だという可能性はあまりにも低い。そろそろ潮時だろうと僕は大人しく鍵を返した。
これからはどこでしようかな、なんて考えていたら、宮野は不思議なことを口にした。
「なぁ緒方。俺とここ以外で会う気はないか?」
その言葉の意味が分からず、僕は思わず首をかしげた。宮野はもちろん、他のセフレとも相談室以外で会ったことはないし、その必要を感じたこともなかった。
「ない、か」
宮野は小さくため息を吐いてから僕を抱き寄せ、キスをした。宮野から手を伸ばしてきたのはこれが最初で最後だった。
「もう誰とでも寝るようなことはやめろ」
「失礼ですね。『誰とでも』じゃなくて、ちゃんと相手は選んでます」
「後腐れないやつ?」
「そうですね」
「俺もその一人か」
「そうですね」
その時宮野がどんな顔をしていたのか、胸に抱かれていた僕からは見えなかった。
「お待たせいたしました」
店主が運んできたカフェオレを僕の前に置くと、カップから上る湯気からはコーヒーのほろ苦い香りの中にミルクの優しい香りが立ち込める。
それを手に取り口に含むと、その優しい甘さと温かさに少しだけ気まずかった気持ちもほぐれて思わずほっと息が漏れた。
「相談室使えなくなってからどうしてるんだ。さすがにやめたか」
一息ついたのもつかの間、いきなり核心を突くような宮野の問いかけに、うっかりカフェオレを吹き出しそうになる。何とか取り繕ってカップをソーサーに置き、宮野と目を合わさないままポツリと答えた。
「部室で……」
「はぁ?! お前は……」
「で、でも今は一人だけだし」
なぜこんな言い訳のようなことを宮野にしてるんだろうかと思いながら、目線を横に向けたままでいたが、宮野からのリアクションがない。どうしたのかとチラリと顔を見ると少し丸めた目と視線が合った。ところが宮野はすぐに僕から目を逸らし、視線を下へと向けた。
「……恋人ができたのか」
「違います。セフレ……でもないけど……なんだろう、体の関係のある後輩?」
「なんだそれ。でも……、そいつは今までのやつらとは違うんだな」
「えっ?」
「だってそいつだけで満足できてるってことだろ」
宮野は相変わらず視線を僕に向けないまま、コーヒーを口に運んだ。その宮野の言葉に僕はグッと一瞬息が止まった。
その後輩、敦也は部活の二つ下の後輩で、高槻の弟。
友達ではないし、もちろん恋人でもない。でも、セフレとも違う。だって、今までのそういう人たちとの関係とは、過ごす時間の長さも、交わす言葉も、何もかもが全然違うから。
だから、敦也との関係は人との関係性を表す名前のどれにも当てはまらない、そんな曖昧な関係。
そんな関係が始まったのは、彼が僕の所属しているeスポーツ部へ入部してきて少し経った頃だった。
たまたま部室でセフレと会っているところを見られたのが始まり。
敦也は、部室を“そういうこと”に使っていたことに随分と怒った。
普段の敦也は絵にかいたような好青年で、誰にでも優しくて、いつも楽しそうで、悩みなんてなさそうで……。瀬良も“わんこ系のかわいい弟だ”なんて言っていた。
努力しなくても誰からも好かれる、そんな人間。
うわべだけ取り繕って優等生のふりをしてる僕とは全然違う人種。
そう思ってた。
だから、その怒った顔を見て、こんな顔もするのかって言う驚きと、ちょっとした悪戯心がわいた。
その人懐っこい、柔らかな笑顔を崩してやりたかった。
それで、「じゃー敦也が相手してよ」なんてからかうようなことを言った。きっとそれに対する答えは「ふざけんな」とか、「無理」とか、僕を否定する拒絶の言葉だと思った。
でも、違った。
敦也は鋭い牙のような視線を僕に向け、「わかった」と言って僕を机に押し倒した。その姿はまったくもって“かわいい弟”なんかじゃなかった。
結局、敦也に翻弄されるがまま体の関係をもって以来、主導権なんて握れたことはない。それでも、それを嫌だと思ったことは一度もない。
始まりからめちゃくちゃだったんだ。だから敦也の前では取り繕う必要も、相手の望む姿でいる必要もない。一緒にいてすごく楽だった。それどころか、敦也がいつもとは違う顔を自分だけに向けているということに優越感すら覚えた。
他愛もないことで笑いあって、じゃれ合うように言い合いをして、年下だなんてことも全然気にならないくらい敦也と過ごす時間は本当に楽しかった。
案外僕たちは似た者同士なんじゃないかな、って思った。
そんなことに僕は随分と救われていたんだ。
でもきっと、高校生活が終わると同時に僕と敦也のこの曖昧な関係も終わる。
だって続ける理由がない。
最近はずっと治まっていた頭の中の鐘の音が、なぜか一度だけズキンと大きな音を鳴らした。
「僕は特別な相手は作りません。たまたま今ほかにいないだけです」
目線を下げたままもう一度口に運んだカフェオレは、少しだけ冷めたせいかさっきよりも苦く感じた。
「……おまえ、今自分がどんな顔してるかわかってる?」
「えっ?」
顔を起こすと、宮野はいつもの穏やかな顔とは違う真剣な眼差しで僕の方を真っ直ぐと見ていた。どんな顔って、どんな顔なんだろうか。今は正直宮野の視線に戸惑っているから、そう言う顔をしていると思う。
何も答えずにいると、宮野は椅子にもたれていた体を起こし、机の上でカップに添えていた僕の手を握った。
「それなら俺でもいいのか?」
手の甲に触れる宮野の手はひんやりと冷たくて、その温度にビクッと心臓が震えた。
「お前は俺のことなんて思い出しもしなかっただろうけど、俺はこの一年、ずっとお前のことが忘れられなかったよ」
さっきよりもずっしりと響く低音とその眼差しは冗談を言っているようにはとても思えず、早くなる鼓動のせいで僕は何も言葉が出てこない。
「だからまたこうやって二人で会いたい。これからなら、どこででも会えるだろ?」
まだカップに添えられたままの僕の手を握る力が少し強まると、カップはカチャっと音を立てて中のカフェオレを揺らした。
あの日、最後に相談室で会った時に宮野が言った『ここ以外で』の意味をようやく理解した。宮野は僕と関係を続けたいと思っていたんだ。
でも僕はそれを望まなかった。
望む望まない以前に、“相談室”という箱庭の中だけの関係を外に出すということも、“出せる”ということも、想像すらしなかったんだ。
ずっと黙ったままでいた僕を見て、宮野は少し表情を柔らかくしてフッと息を吐き、握っていた手を離した。
「今、自分でどういう顔してると思う?」
「お、驚いた顔……?」
「どっちかって言うと、困った顔に見えるよ」
困っている……と言われると、そうかもしれない。何と答えたらいいのか、返す言葉が出てこない。でも一つだけはっきりとしているのは、この提案を受け入れることはできないということ。
「ごめん……なさい……」
「それは俺への答え?」
僕は目線を合わせないまま小さく頷いた。
「なんで?」
「なんで?!」
まさかの問い返しに、思わず大きな声が出た。焦ってカウンターにいる店主にちらっと視線を向けたけど、気にしていないのか、そう言うふりをしているのか、視線がかち合うことはなかった。僕は戸惑いを隠せないまま視線を目の前のテーブルに落とした。
「俺だからダメ?」
「ち、違います」
「じゃあなんで?」
「えぇ……それは……」
なぜか食い下がってくる宮野にどう答えたらいいのわからず、しどろもどろになってしまう。それはきっと僕自身もその答えがわからないからだ。
この一年、過去に関係のあった人からも、そうじゃない人からも何回か声を掛けられたけど、すべて断った。
それは敦也とした、『部室には誰も連れ込まない』っていう約束を守るため。
でも、これからはその “約束”を守る必要はない。
そもそも、高校を出たら部室は使えない。誰とだって、どこでだって会っていいんだ。
それなのに、なんで僕は宮野の提案を断ったんだろう。
宮野は優しかったし、体の相性だって悪くなかった。今からなら関係を持っても、もう宮野が咎められることもない。セックスがしたいだけならこの提案を断る理由なんてないはずだ。
でも、さっき触れられた手は今も違和感が残ってる。
『違う』って心が言っている。
違う? なにと?
くすぶっていた想いがまた熱を取り戻したかのようにじわじわと僕の心に広がっていく。
「じゃあ、その後輩に言われても断るのか?」
宮野の言葉にビクッと肩が震えた。
さっき言った通り『宮野だからダメ』なんじゃない。きっと他の人に言われても断った。
それなら敦也でも……?
いや、そもそも前提が間違ってる。敦也にとって僕との関係は望んだものではない。だから『断る』ことを考えるなんて思い上がり以外の何物でもない。
「敦也は……後輩はそもそもそんなこと言いません」
自分で口に出した言葉に、何かが胸に刺さったような痛みを感じた。
この痛みは何? ダメだ、考えたくない。
ギュッとこぶしを握り締めると、宮野は小さくため息を吐いて堀の深い目を半眼にしてジトッと僕の方を見た。
「お前、案外臆病だったんだな。まぁフラれた身としてはこれ以上お膳立てしてやるのは癪に障るから、俺はもう何も言わん。後は自分で考えろ」
「……カウンセラーとしてその対応はありなんですか」
「なんだ、話聞いてほしいのか?」
「いえ、結構です」
宮野はまたふうっと息を吐き、また穏やかな笑顔に表情を戻してから、残っていたコーヒーを一気に飲み干した。
「昔はずっとすました顔していまいち何考えてるのかわからなかったけど、今はこの短い時間の中でも随分いろんな顔が見れた。それだけでもいい出会いがあったんだろうなってわかるよ。それをこれからどうするかはお前次第だ。案外、素直に手を伸ばしたら、その手を取ってくれるかもしれないぞ」
そう言うと、宮野は伝票を手に取り立ち上がり、僕の髪をクシャっと撫でた。
「もしまた会うことがあったら、いい話が聞けることを期待してる。じゃあな」
手を振りながら店を出て行く宮野の後姿を見送ったあと、カップに残ったカフェオレを口に含むと、すっかり冷めてしまったそれはひやりと喉を冷やし、体の中へ流れ落ちていった。
店の外に出ると、まだ午後六時前だというのにすっかりあたりは暗くなり、吹く風の冷たさがさらに増したように感じた。
この時間なら、まだ部活中だ。部員としては三年生の秋にすでに引退したけど、それからも図書室で勉強した後に部室へ行き、敦也と二人で会っていた。
でも、受験が本格的に始まってからは学校自体に行かなくなったし、一番最近では二週間前に合格の報告に行ったっきりだ。でも、その日は部室に顔を出しただけですぐに帰った。だからもう二か月以上、敦也と二人っきりにはなっていない。
きっとこのまま卒業して、会うこともなくなるんだろう。そう思っていた。それでいいと思っていた。そうするしかないと思っていた。
でも、本当にそれでいいの? 臆病な自分が抑え込んでいた“想い”がどんどんと熱を増していく。僕は手をグッと握り込み、駅へと急いだ。
「緒方さん?! どうしたの?」
久々に開いた視聴覚室の扉の先に変わらない人懐っこい笑顔が見えると、胸がドクンと大きく高鳴った。
一度家に戻り、制服に着替えてから来たせいもあって、すでに七時を過ぎている。残っている部員は敦也を含めてあと数人だけで、その部員らはもう帰り支度を始めていたようだった。
「ごめん、急に来て。もう帰るところだった?」
「みんなはもう帰るみたいだけど、俺はもう少し残っていこうかなと思ってたから、大丈夫」
少しだけ話をしから二人で他の部員たちを見送ると、敦也はカチリと静かに視聴覚室のドアのカギを下ろした。僕はそれに気が付かないふりをして敦也に背を向ける。窓の向こうに見える体育館にはまだ明かりが灯り、夜の暗闇にぼんやりと浮かび上がっているように見えた。
何度も見たはずの光景なのになぜだか今日は現実感がなくて少しだけ怖くなる。こうやって部室も、僕の居場所ではなくなっていくんだろう。
「もう、来ないかと思ってた」
吸い込まれるように眺めていた景色がふいに消え、カーテンで閉ざされた部室はまるで世界から隔離されたように感じる。目の前にいる敦也も実は幻なんじゃないかと不安になって手を伸ばすと、触れた頬からじんわりと感じる熱がそうではないことを教えてくれた。
敦也は頬に触れる僕の手を上からぎゅっと握ると、静かに目を閉じて握った手のひらに唇を付けた。
再びその瞳が開いたときには、さっきまでの穏やかな瞳とは違う熱を持った視線が僕を射貫く。そのまま腕を引かれ、唇が重なった。
しばらく重ねていた唇が離れると、敦也は僕を胸に抱き寄せた。触れたところから感じる温度、耳元にかかる息、くすぐったくなるような優しい香り、そして少しだけ早い胸の音。この距離でしか感じられないものの全てが僕に訴えかけてくる。
やっぱり、僕は敦也が好きなんだ。
離れたくない、離したくない、僕の手を取ってほしい。
抱えきれないほど大きく膨らんだ想いがあふれて、敦也の背に回した手に自然と力が入っていく。
どうしたらいいんだろう……なんて考えていると、ふいに敦也の唇が僕の耳に触れた。
敦也は最初こそは無遠慮に容赦なく僕の体を暴いたけど、それ以来はずっと触れる指先も、唇も、見つめる眼差しも、僕へ向けられるそのすべてが優しくて、『大切にされている』なんて勘違いをしそうになる。その優しさに込められた熱に、僕は浮かされているんだろうか。
今も、触れられたところが熱くて、溶けてしまいそうだ。
「あっ……!」
「緒方さん、なんか今日すごいね。どこ触ってもビクビクする」
そう言って背を撫でる敦也の指の動きに僕の体はまたビクッと震える。
視聴覚室の横に長い机の端に両手を置いた僕の腰を掴み、敦也は後ろからゆっくりと僕の中に入り込んだ。僕の中を埋めていくその圧迫感で苦しいはずなのに、中に広がる熱に体の温度も上がっていく。その熱が奥まで達すると、こらえきれず体が震えた。
「ははっ、挿れただけでイっちゃったね。するの久しぶり? 俺以外とはしてなかった?」
「んっ、して……ないっ、あつやとしか……あっ」
「そっか」
敦也は一度僕から体を離すと、今度は僕を机の上に仰向けに寝かせ、正面から僕の中へ一気に入り込んだ。
「あぁっ!」
その衝撃に腰が跳ね、目に溜まる涙で視界がぼやける。与えられる快感で意識も体も溶かされていき、“自分”の輪郭があいまいになっていく。それが急に怖くなって必死に両手を伸ばすと、ぼやけた視界の先から僕を見つめていた眼差しがフッと緩み、僕よりも大きな手のひらが重なった。
敦也は指を絡ませながら僕の手をぎゅっと握ると自分の口元へと運び、そっと唇を付けた。
「大丈夫? 立てる?」
敦也が僕のシャツのボタンを閉めていく様子をまだ力の入らない体のままぼーっと見つめていると、敦也は少し不安そうな顔で僕の顔を覗き込んだ。
し終えると、敦也はいつも当たり前のように僕の体をきれいにして、服を整えてくれる。今まで関係を持ったセフレは終わったらさっさと帰って行ったから、最初のころはこの甲斐甲斐しさにも少し驚いた。
たとえそれが敦也にとっては“普通のこと”でも、僕にとっては“嬉しいこと”で、敦也に惹かれる理由としては十分だったんだろう。敦也への気持ちをはっきりと自覚したからか、その優しさがくすぐったくて、少しだけ痛い。僕は敦也と目を合わせないまま「大丈夫だよ」と小さく答えて立ち上がった。
「次はいつ学校くるの?」
「卒業式前日かな。式の予行練習のために午前中だけくるよ」
「そっか。じゃーもうここには来ない?」
「そうだね」
敦也は僕と会えなくなることを少しは残念に思ってくれるだろうか。寂しいと思ってくれるだろうか。そんなことを思いながら敦也にそっと視線を向けると、伏せられた目の下に長い睫毛が影を作っていた。
そんな置き去りにされたような寂し気な顔をされたら、期待してしまう。
少しだけ、手を伸ばしてもいいだろうか。
「そういえば今日、一人暮らしするための部屋決めてきたんだ」
「えっ。そう、なんだ」
「卒業式終わったら引っ越すから、春休み、遊びに来る?」
僕の言葉に敦也はパッと顔を上げ、真っ直ぐと僕を見た。その眼差しに、さっきから痛いほど早く動く心臓が一段と大きな音を立てた。
「いいの?」
「うん。敦也さえよければ……」
「いいに決まってる! 行くよ! 絶対に行くから!!」
その答えと、とろけるように目じりを下げる敦也を見て、こみ上げてくる涙を必死にグッと抑えて、僕はなんとか笑顔を作った。
臆病な僕が手を伸ばして掴んだのは、きっと少し先の未来だけ。
でも、それでいい。
いつかきみが隣に立つ誰かを選ぶまで、どうかもう少しだけこの曖昧な関係を続けさせて。
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自らの都合で聖王セシルを追放し、異世界から新たな「勇者」を召喚したアドレアン聖王国。
しかし、その身勝手な選択が、国を、大地を、そして人々の心を根底から腐らせていく。
壊れゆく少年勇者と、彼を歪に愛した騎士。
二人の執着が交わったとき、聖王国は二度と再生不能な終焉へと突き進む。
裏切り者たちには、因果応報という名の、容赦なき報いが下る。
これは、傲慢な国が崩壊するまでの、無慈悲な記録。
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『嘘つき王と影の騎士』から引き続き読んでくださる皆様へ
この物語は、セシルを虐げた者たちが、ただただ因果応報の末路を辿るだけの物語です。
本編に救いはありません。
セシルたちのその後が気になるという方は、本編は飛ばして、最終話の後に掲載する「閑話」のみをお読みいただくことをお勧めいたします。
本作は『嘘つき王と影の騎士』の続編となりますが、前作をお読みでない方でも一つの物語としてお楽しみいただけます。
【完結】あなたのいない、この異世界で。
Mhiro
BL
「……僕、大人になったよ。だから……もう、───いいよね?」
最愛の人に先立たれて3年。今だ悲しみから立ち直れず、耐えられなくなった結(ゆい)はその生涯を終えようとする。しかし、次に目が覚めたのは、生命を見守る大樹がそびえ立つ異世界だった。
そこで亡き恋人の面影を持つ青年・ルークと出会う。
亡き恋人への想いを抱えながらも、優しく寄り添ってくれるルークに少しずつ惹かれていく結。そんなある日、ある出来事をきっかけに、彼から想いを告げられる。
「忘れる必要なんてない。誰かを想うユイを、俺はまるごと受け止めたい」
ルークの告白を受け入れ、幸せな日々を送る結だったが、それは突然終わりを迎える。
彼が成人を迎えたら一緒に村を出ようと約束を交わし、旅立つ準備を進めていた矢先、結は別の女性と口づけを交わすルークの姿を目撃してしまう。
悲しみの中で立ち止まっていた心が、異世界での出会いをきっかけに再び動き出す、救済の物語。
※センシティブな表現のある回は「*」が付いてますので、閲覧にはご注意ください。
ストーリーはゆっくり展開していきます。ご興味のある方は、ぜひご覧ください。
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