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しおりを挟む私の元にその報せが齎されたのは、小雨が窓ガラスをポツポツと打ち始めた週末の午後の事だった。
静けさを上塗る無粋な振動音に、ページを繰る指を止めて顔を上げる。その時私は、自室でカウチソファに腰掛けながら友人に借りた本を読み返している最中だった。一度読了していただけにそう熱中していた訳でもなく、だからすぐにスマホの画面に視線を投げたのだが…見て後悔した。何故読み始める前に消音モードにしておかなかったのだろうと。
画面に表示されていたのは、私のすぐ上の兄であるミツテルの名だった。つい応答するのを躊躇ってしまうのは、私がこの兄の事を幼い頃から苦手だからだ。何故なら、次兄であるミツテルはとにかく何かと私に構い、顔を見ればくどくどと説教を垂れるからだった。
(気づかなかった事にしようか…)
一瞬、そう思った。しかし、口喧しい上に執拗い性質の兄の事。彼の方で用があるなら、無視しても取るまでは何度でも掛かって来る筈だ。それはそれで煩わされる。
よって、私は諦めて通話ボタンをスワイプするしかなかった。
「はい」
『はい、じゃないだろう。どれだけ連絡を寄越さない』
開口一番に言葉を遮られ、口を噤む。やはり無視を決め込めばよかったと思った。数ヶ月ぶりに聞く次兄の声は相変わらず苛立ちを含んでいて、もう子供ではないというのにどうしても身が竦んでしまう。何故この人は私に対していつも不機嫌なのか。
しかし、貴方がそんなだから連絡を避けているのだと言う訳にもいかず、私はスマホの送話口を左手で抑えて小さく溜息を吐く。それから、気を取り直して話し始めた。
「…申し訳ありません。お伝えするほど変わり映えもないものですから」
そう言うと、チッと少しも憚らない音量の舌打ちが聴こえた。
『薄情な奴だ』
「すみません…」
『…まあ良い』
面倒なと思いながら、私は謝罪の言葉を口にする。いつもならばそれで少しは次兄の声色が和らぎ、何のかのと用を話し始める。
しかし今日は、いつもとは少し違った。続く兄の声は、逆にどこか固く緊張した様子で、私に問いかけてきた。
『最近の此方の様子は把握しているか?』
「あ…いえ」
故郷である和皇国を出て、母方の叔父を頼りサースリンに渡ったあの日から、私はある種の情報を遮断する為に故意に和皇国のニュースをブロックしていた。テレビも観ないし、必要な連絡以外でスマホを弄る事も減った。以前の人間関係を全て断ち、編入先の学園でも目立つ事を避けて物静かに過ごす事で余計な詮索を避けた。次兄以外の家族も、時たま連絡をくれる時にも近況をやり取りする程度。そんな風に数年も暮らしているうち、いつしか私は浦島太郎のように和皇の事から遠ざかってしまっていた。
兄だって、私がそうせざるを得ない状況であるのは承知しているだろうに、何故そんな事を聞くのだろうか。
訝しみながら兄の次の言葉を待った私が聞かされたのは、胸を抉られるようなセンセーショナルなニュースだった。
『隆慶殿下…いや、陛下が先頃、番を結ばれた。御番様は男性だ。昨日、ご懐妊されていらっしゃる事がわかった』
「…!!」
ひゅっと息を飲むと同時に、胃の腑から腹に冷水が注ぎ込まれたように、一気に体温が下がった気がした。
こんな日が来る事はわかっていた。その覚悟であの方の隣を捨てた筈だ。にも関わらず、実際にその知らせを受けるとこんなにも目の前が揺らぐ。
己の身勝手さに吐き気がしそうだった。
「そう、ですか。それは、おめでたい事です」
数年ぶりに荒れ狂う胸の内を推し隠し、精一杯に言葉を紡ぐ。しかし声の僅かな震えは隠し切れず。言った後に兄に気取られてはいないだろうかと気になった。
『ああ、めでたい事だ。そうには違いない。
だが、ミツクニ。お前は本当に、これで良かったのか?』
やはり動揺は伝わっていたのか、いつになく憐れむような兄の言葉に、私は答える事が出来ないまま無言で通話を終了させてしまった。しまったと思ったが、意外な事にコールバックが無いところを見ると、兄なりに察してくれたのか。
(良いのかもなにも…)
手足から力が抜けて、私は座っていたカウチソファに仰向けに沈み込む。スマホを持ったまま、右肘で顔を覆った。真っ暗に閉ざされた視界にぼんやりと浮かぶ、忘れ得ぬ美しい面影。
捨て去って、忘れようと足掻いていた過去が鮮やかに蘇ってきてしまう。
「隆慶、さま…」
あのまま傍にいたら、絶対に生き地獄に落ちるとわかっていた。だから、逃げた。
何れ他の者を選ぶと知りながら傍に居られるほど、自分が強くはないとわかっていたから。
私はベータ。
アルファとは永遠に番う事など出来ない、只のベータの男だ。
素顔を知れば、どんな人間であろうと心を掴まれずにはいられない、そんなお方だった。神経質なまでに繊細で傷つきやすい心と、人目を避けるように覆い隠された、けれども芸術的なまでに端麗な顔立ち。それは神を祖にするという尊い血統に恥じぬ眩ゆさで私を照らした。輝くように美しい、などという月並みな表現では、およそ足りない。
和皇国皇孫であり、現在皇位継承権第一位である隆慶皇太子殿下。我が国で、今上陛下に並ぶ尊いお方。
そんな存在に、如何にもお前だけが特別だとばかりに扱われ、好意を寄せられ続けたなら…とうとう陥落してしまったのは、決して私の意思が弱い所為だけではない筈だ。
想いをはっきりと告げられたあの日の事は、今でもはっきりと覚えている。
中等部の卒業式の後、3年生の一年間を過ごした教室に、2人きり。クラスメイト達の姿はとうになく、静かなものだった。幼稚舎から高等部までエスカレーターの学園だと、クラスメイト達の殆どは卒業の感慨に浸る事も無くあっさりしたもの。卒業・進学と言っても、高等部を卒業しない限りは同じ敷地内で使う校舎が変わるだけ。大半の生徒達はそういう認識だと思う。
しかし隆慶殿下は、何か思うところがあったのだろうか。まるで教室に別れを惜しむかのように窓際の自分の席に座ったまま、じっと外を眺めておられた。となれば、近習としては殿下を一人残していく訳にもいかず。私もその前の席に腰掛け、同じように外を眺める事にした。したが、さして変わり映えもしない、見飽きた景色にすぐに退屈。とはいえ殿下がご覧になっていらっしゃるのだから、帰ろうとおっしゃらない限りは共に見るべきなのだろうと当たり前のように思っていた。
静かな、本当に静かな空間だった。
開けた窓からは時折風が入ってきて、殿下の長く伸びた黒髪を揺らす。すると前髪が割れて、その隙間からはあの美しい黒曜石のような瞳がきらめいた。それにはからずも胸が躍ったのは仕方の無い事だ。日頃は秘められているが、殿下は万人を惑わせる美貌をお持ちなのだから。ときめいてしまうのは、決して私が異常なのではない。自分にそう言い訳をしながら、私は殿下のお姿に見蕩れていた。
そんな時だ。殿下の唇が動き、私の名を呼ばれたのは。
「ミツクニ」
「はい」
「好きだ。…友情よりも深い意味で、だ」
時が止まった気がした。頭の中で言われた言葉を反芻し、その意味を理解する。そして、答えた。
「存じませんでした、、、殿下が私に、そんな…」
嘘だった。私はとうに知っていた。殿下が私に恋心を寄せてくださっているのを。しかし、お立場的にそれを口になさるとは思えなかったから、完全に意表を突かれてしまった。
しかし驚きが少し収まると、困った事になってしまったと思った。だが反面、高揚感があったのは否定しない。正直に言えば、嬉しかった。
だからその後の振る舞いが感情的になってしまった事にも、言い訳はしない。
「一旦気持ちをお受けいたします」
そう口にした時、私の頭からは、常々祖父や父に言い含められ続けた戒めの言葉の数々は綺麗さっぱり吹き飛んでいた。
もしこの時に。
自分の感情を御する事が出来ていたのならば、私はその後の壮絶な葛藤や後悔などを味わわずに済んだのかもしれなかった。
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