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「楽しみね、エリオット」
「そうですね」
「赤ん坊は施設で何度も抱っこしているけど、何度抱いても幸せな気持ちになるの。あの甘い柔らかな匂いも純粋な瞳も簡単に壊れてしまいそうなほど小さな身体も全てが愛おしいわ」
子供がいれば聖母になっただろうと慈愛に満ちた笑みを浮かべるユーフェミアを見つめながらエリオットはこれから抱きしめてもらえる赤ん坊が羨ましくなった。
「ごめんなさいね、エリオット」
「何がでしょう?」
「私がクリュスタリスまで行きたいなんてワガママを言ったからあなたを付き合わせることになってしまったわ」
「俺はユーフェミア様の剣であり盾です。ユーフェミア様が行かれる場所ならどこへでもお供いたします」
エリオットにとってはラッキーでしかない任務。トリスタンが来ればすぐに部屋から追い出されてしまうし、城ではラモーナが一緒。ユーフェミアと二人きりになる時間などないも等しい。
クリュスタリスまでの道のりは長く、その間はずっと馬車の中で二人きりなのだから文句などあろうはずもない。
「こっちには初めてくるから新鮮だわ」
「何もないですけどね」
「騎士の訓練で来たことがあるのでしょう?」
「はい」
「羨ましいわ」
ここにあるのは更地と森だけ。目を輝かせて見るほどのものは何もないのだ。だが、建物が多い場所よりは少し安全ではある。野盗が隠れているのではと警戒する必要がないのだから。
「随分細い道を通るのね」
「一本道ですから」
馬車一台が通るのでやっとな細い道。すぐそこは崖で、ロープすら張られてはいない。
この先の橋を渡る前にトリスタンの両親は亡くなった。突然暴れ出した馬を制御しきれず崖の下に真っ逆さま──……
今回はエリオットやブラッドリーも馬車の点検に立ち会って不備がないかを確認した。馬の健康状態もチェックし、一切の不安を取り除いたからこそトリスタンは見送ることにした。
馬車を確認してからユーフェミアが乗り込むまで馬車を監視していたのはエリオットで、馬車の周りはブラッドリーを筆頭に騎士団が警備していたため怪しい者は近付いていない。
大丈夫。
そう言い聞かせながらも通り過ぎるまでは異常なほどの不安が渦巻く。
「うわっ! うわわわわわわっ!」
「キャアアアアアッ!」
「ユーフェミア様!」
もうすぐ橋にかかる。そんなときに馬車が大きく揺れた。ジッと座っていられないほどの、馬車が倒れるのではないかと思うほどの揺れにエリオットがユーフェミアを片腕で抱きしめ、剣を抜く。
「何事だ!」
「う、馬が急に暴れだして! 止まりません! うわああっ!」
揺れが鎮まったかと思った直後、馬車が急発進する。全速力で駆けだした馬を必死に止めようとする御者が何度も叫ぶ。
「ダメだ! そっちへ行くな! やめろやめろやめろ! 落ちるーッ!」
橋は渡っていない。橋は渡らず直進する馬がどこへ向かっているのか、御者の言葉でわかった。
「ユーフェミア様、お許しください!」
「え? エリオッ──!?」
馬車のドアを蹴り開け、ユーフェミアを抱きしめたまま外へと飛びだした。ユーフェミアの身体を抱きしめ、頭を打たないように腕で守りながら土埃を上げて地面を転がる。
馬の勢いは速く、全速力に近い。地面に落ちたときの衝撃と意思に反して転がるスピードにエリオットの顔が歪む。
「うわぁぁぁぁあああああッ!」
この先は崖。そこへ一心不乱に駆けていく馬。まるでそこがゴールであるかのように躊躇なく飛んだ。
あまりのスピードに一瞬、飛び降りるのを躊躇したせいで降りられなかった御者の大きな悲鳴が段々と小さくなり、馬車が谷底に激突したのだろう音と共に消えた。
「ユーフェミア様、大丈夫ですか!?」
「わたくしは大丈夫──……エリオット! あなた、血が出てるわッ!」
制服の上からでもわかるほどの出血が腕にあるのにエリオットはユーフェミアを抱きしめたまま周りを警戒している。
「これぐらいなんともありません。それより今はここから離れましょう。何者かの襲撃を受けたかもしれません」
「血が出てるのよ! 先に手当てしなきゃ!」
「安全の確保が先です!」
エリオットの怒鳴り声に肩を跳ねさせるユーフェミアに謝ってから抱き上げ、襲撃かと剣を抜いている騎士たちに指示しながら森へと駆けていく。
「陛下ッ! 陛下―!」
ぐったりして動かなくなった女の隣で四肢を鎖で繋がれたヴィクターに尋問していたトリスタンのもとへ必死の形相で家臣が飛び込んできた。ヴィクターの身体から飛んだ血を浴びた顔を拭わないまま振り向くトリスタンにギョッとし、一瞬、ヴィクターに視線をやるも慌ててトリスタンへと戻してその場で膝をついた。
「先ほど、王妃陛下の護衛についていた騎士より報告があり、一時間ほど前に王妃陛下の馬車が崖に落下したとのことですッ!」
トリスタンの世界が停止する。なんの音もしない。何もない世界にいるような感覚に陥った。
あってはならないことが起きた。想像していた最悪のことが。
瞬きも、呼吸さえも忘れて固まるトリスタンを臣下は恐る恐る見続ける。
「ユーフェミア、は……」
止まっていたトリスタンの口が動き、震えた声が出る。
「ユーフェミアは生きているのか……?」
血の気が引いてるトリスタンに臣下は何度も頷く。
「ユーフェミア様はご無事です! どうかご安心を!」
無事と聞いて安堵したのか地面に膝をついたトリスタンを慌てて支える。涙が溢れそうだった。
「チッ……」
静かな地下牢に響いた舌打ち。トリスタンがいる場所で聞こえていい音ではない。聞こえたのは後方。女は気を失っており、かろうじて意識を保っているヴィクターから発されたのだ。
「ヴィクター……やはり貴様か……」
ゆらりと立ち上がったトリスタンが鞭を捨て、ブラッドリーの腰から剣を抜いてヴィクターに近付き、首元に剣先を当てる。
「答えろ、ヴィクター。貴様がユーフェミアを殺そうとしたのか……」
冷たい声を発するトリスタンは危険だ。特にこの地下牢でそうなると命の保証はない。ブラッドリーは騎士たちに持ち場へ戻るよう命令し、自分は後方で待機することにした。
「ッ!」
ブッと音を立ててトリスタンの顔に口内に溢れる血を唾と共に吐きかけたヴィクターにトリスタンは表情を変えない。この行為は側近としての行動ではなく、裏切り者の行動。王に唾を吐きかけて無事で済むはずがないことはヴィクターもわかっているだろうに、なぜだとブラッドリーのほうが動揺を隠せなかった。
「ネズミが随分な真似をするじゃないか」
「ぐああぁぁあああッ!」
トリスタンはヴィクターの脇腹に押し当てた剣をゆっくりと突き刺した。躊躇なく、手慣れたやり方。
ヴィクターの悲鳴が響く。
「安心しろ。ゆっくり殺してやる。そうだ、貴様に赤い服をプレゼントしてやろうじゃないか。貴様のために王直々に仕立ててやるものだ」
「ぐぅうううッ!」
グリッと剣が腹の中で捻じるように動かされると全身に激痛が走る。それでもヴィクターの命乞いなどしない。
「ハッ……仕留め損ねたか……ぐおぉぉおおッ! ああぁぁああああッ!」
開き直ったような発言に剣が思いきり捻じられ、痛みに目を見開きながら悲鳴を上げるヴィクターを見つめるトリスタンは一度剣を抜いた。
鮮血が地面へ流れ、血溜りができていく。キレイに生きてきた身体に空いた穴から漏れる血。それに伴う激痛。ただ貫かれただけならまだしも、ヴィクターは内臓を刃で傷つけられている。普通に貫かれたよりも傷は深く、痛みは強いだろう。
「ああ……こんな腐ったネズミを側近にしていたなんてな。末代までの恥だ」
「世継ぎも残せん女を妻に持つ男が末代とは笑わせる! アステリアはお前が滅ぼすんだ! お前が役立たずな女を妻にしたからアステリアは滅びる! お前が薄汚い下町の女を王妃になんかしたから! 全てお前のせいだ! 死んだ両親はさぞ鼻が高いだろう! お前のようなどうしようもないクズをこの世に王として残したんだからな!」
トリスタンの言葉にカッとなったヴィクターが暴言を吐くもトリスタンは眉一つ動かさないままヴィクターを見ている。感情を露にするまでもないとでも言いたげに。
「よく喋るネズミだな」
「私がネズミならお前は──ガハッ!」
「余計なことは喋るな。舌があるうちに僕の質問にだけ答えろ」
「ははっ……ははははははっ! ユーフェミアが死ねばお前の最高の顔が見られたのに残念だよ! お前を一人ぼっちの可哀相な王様にしてやりたかったのに! ははははははははっ──あぁぁぁあああッ!」
まるで痛みなど感じていないかのように大きな笑い声を響かせるヴィクターの反対側の脇腹に剣が突き刺さった。
「貴様は父親とよく似ているな」
「ッ!? な……ん、だと……」
荒い呼吸を繰り返しながら驚いた顔でトリスタンを見るヴィクター。
「コーディ・オールポート。貴様の父親だろう」
なぜ知っているのか。そう聞きたげに見つめるヴィクターは餌を求める魚のように口を動かすだけで言葉も声も出ていない。両脇を刺された痛みのせいで感情的になることすらできなくなっている。
「ヴィクター・エイミスと名乗っているが、貴様の本名はヴィクター・オールポート。あの愚か者、コーディ・オールポートの息子だろう」
「おろ、か……だと……。お前の父親のせいで……お前の父親のせいで父は死んだんだぞ!」
やれやれと呆れたように首を振るトリスタンは剣を振って血を払う。
「死んだのはお前の父親の意思だろう。僕の父が殺したのではない」
「貴様の父親が俺の両親を罰しなければ父は、我が家が廃れることはなかった! 全てお前の父親のせいだ!」
「民の税を横領などせねば罰されることもなかった。貴様の父親は己が地位を利用して私腹を肥やした。罰されるのは当然だろう」
コーディ・オールポートも王に仕えていた。高い地位にいながら欲を掻いた男は罰され、オールポート家は没落した。
普段穏やかな父親が珍しく憤慨していたのをトリスタンは覚えている。オールポートという名前も。
「父は貴様の父を信頼していた」
「だったら見逃せばよかっただろう! 私の父が何年仕えたと思っている! お前の祖父の時代からだ! 四十年! 四十年仕えたんだ! それをたった一度のミスでお前の父親は信頼していた一番の部下を罰したんだ! 側近でありながら王に見放された! それがどういうことかわかるか!?」
「愚か者の末路というだけだ。悪さをすれば罰せられる。そんなことは子供だってわかっている」
「ふざけるな! お前が役立たずの妻のために使っている額と比べれば父が懐に入れたのは大した額じゃない! お前らばかり贅沢する権利がどこにある!」
人は怒りで痛みを忘れる。怒鳴る度にヴィクターの腹からは水鉄砲のように血が吹き出しているが、ヴィクターがそれに顔を歪めることはない。怒りに支配され、顔を真っ赤に染めながらトリスタンを睨みつけている彼は自分が出血していることすら忘れているのだろう。
「父が問題視したのは貴様の父が盗んでいたのが民が必死の思いで納めてくれた税だったからだ。毎日必死に働いて稼いだ中から支払ってくれている税を貴様の父は愚かにも湯水のごとく使ったのだ。四十年仕えたから多少の犯罪は見逃せ? ここはアステリアだぞ。どんな些末な犯罪とて見逃すことはない」
「没落した貴族に待っているのは死だ! 犯罪者は死ねと言っているのか!?」
「大なり小なりあるが、僕はそう思っている」
耳を疑いたくなる言葉だが、この地下牢に入った瞬間に気付いた染みついた血の匂いと床や壁、拷問道具にこびりついた血液がアステリアが平和と謳われる理由を物語っていた。
恐ろしいと感じたのはそれだけではなく、その血に染まっているのがブラッドリーではなくトリスタンであるということ。
種無し、能無しと馬鹿にされてきた幼稚な王。妻に弱く、妻に依存している情けない王だったはずなのに、ここに入ってから……いや、入る前からトリスタンの雰囲気は変わった。ここに入ってからは尚更だ。
ユーフェミアがいればきっとここまでしなかった。そう思ったヴィクターにとって、このタイミングは最悪なものでしかない。
「父の判断に間違いはない。むしろ温情があったと感謝すべき対応だった」
「温情だと!? 家が没落したことで父は死んだんだぞ!」
没落すれば爵位が奪われる。だが、命まで奪うことはない。そこからどう立ち直るかはその者次第。大体の貴族が貴族時代の贅沢が忘れられず借金を繰り返して自滅していく中、賢い貴族は世の中の流れを見て商売を始め、再生する者もいる。必ずしも破滅への道というわけではないのだが、オールポート家はその〝大体の貴族〟に入ってしまった。
爵位にしがみつく貴族にとって爵位がなくなることほど耐えられないものはない。コーディ・オールポートが没落したことに耐えられず自死を選んだのだとしても、トリスタンはそれに同情するつもりはなかった。
「だから、僕の両親を殺したというのか?」
深呼吸をしてから静かに問いかけるトリスタンにヴィクターは笑う。
「ククッ……そうだ。父が死んだとき、必ずお前たちに復讐すると決めたんだ」
「いつ細工をした?」
「賢い王家の人間は賢いあまり、馬に薬を打たれるとは想像もしなかっただろうなぁ」
「馬に?」
「遅効性の吸引薬だ。ここを出発してからちょうどあの崖に差し掛かる頃に効果が表れるようになってる。ククッ、馬が暴れだしたとき、お前の両親は悲鳴を上げただろう。そして馬車が地面を離れたとき、絶望し、そして抱き合いながら死んでいったんだろうなあ!」
トリスタンは両親が事故で死んだと聞いていた。馬が暴れ、御者はそれを制御できずに崖下に落ちたんだと。子供の頃はわからなかったが、大人になってからずっと疑問だった。王室の馬は大人しく利口な馬ばかり。初めての道ではなかったはずなのに崖に転落するほど興奮するわけがないと。それでも何か証拠があったわけではない。調べようにも高所から地面に叩きつけられた馬も馬車も人も、あまり形が残っていなかったのだ。だからトリスタンはなんとか自分を納得させてきた。納得できない不可解なことがあっても。
しかし、ようやく真実がわかった。そのことを白状したヴィクターがあの日の犯人でもあること。今日の事故を誘発させたこと。
「ララに情報を流した理由はなんだ?」
「バカは扱いやすくていい。レオンハルトがユーフェミアに惚れていることを話してやったら簡単に感情的になった。ユーフェミアという女が──ッ!? あ、あ……ああぁぁああッ!」
顔の横を剣が縦にかすめた。地面にポトリと落ちたそれがなんなのか見た瞬間、それが誰の物かを理解するとすぐに痛みを感じた。
「僕の最愛の女性の名を貴様如きが口にするな」
「お、俺の耳がッ……!」
ララに情報を流した犯人でもあることも分かった今、トリスタンの最終目標は決定したも同然。
「貴様は死刑では生ぬるいな、ヴィクター」
はらわたは煮えくり返っているはずなのに不思議なほど腹の底が冷えているような感じがして怒鳴り声は出てこない。静かな感情があるだけ。
「死刑制度のないアステリアで死刑か! いいじゃないか! 戦争を知らないおめでたい国民の前で恐怖を植え付ける第一号が私とは光栄だ! 国民はこう思うだろう! あのバカで幼稚な王の素顔は残忍なもので人の命を軽んじる王だったとな! はっはっはっはっはっは!」
ユーフェミアを殺せなかったのは残念だが、ヴィクターは縋りつくような惨めな真似だけはするものかと大声を上げて笑うことにした。
死は免れない。なら大舞台で死んでやろうと覚悟を決めた。
国を、王を、王妃を愛している民に人が処刑される姿を見せつけられるのならそれはそれで願ったりだと言い張るヴィクターにトリスタンは顔を寄せる。
「おめでたいな。貴様は父親そっくりだぞ、ヴィクター」
バカにしたように鼻で笑うトリスタンに眉を寄せるヴィクター。
「国民に恐怖を植え付ける? 広場で堂々と処刑されるとでも思っているのか? 貴様のようなドブネズミにそんな大舞台はもったいない。貴様はこの地下牢で惨めに死んでいくだけだ。だが喜べ。僕が直々にその首を刎ねてやる」
「ふ、ふざけるな! そんなことが許されるはずがないだろう! 俺は王の側近だぞ! 側近がなんの報告もなく変われば民は怪しむ!」
「心配するな。民にはこう説明しておくさ。ヴィクター・エイミスは愚かにもそなたらの税に手をつけたことが発覚した故、流刑に処した、とな」
「ふざけるなぁぁぁあああ!」
吐血するほどのヴィクターの怒声もトリスタンの表情を動かすものにはならない。
「ララにユーフェミアが不妊だという情報を流し、民に責められる算段だったのだろうが甘かったな。アステリアの民にとって希望は世継ぎだけではない。彼女とて民の希望なのだ。腐った目に眼鏡などかけているから世界が歪んで正しいことが見えぬのだ。貴様の負けだ、ヴィクター・オールポート」
「私をその名で呼ぶな! 私は没落などしていない! 私はヴィクター・エイミスだ!」
「貴様は負け犬のヴィクター・オールポートだ。地獄でそう告げろ。悪魔たちは喜んで受け入れてくれるだろう。貴様の父親も待っていることだしな。向こうで再会して酒でも交わせ。己が血のワインでな」
顔を離したトリスタンが持ち上げた剣先が喉元に触れるとヴィクターの喉がヒュッと鳴る。ガタガタと身体が震えだし、異常な量の汗が流れだす。
腹部の両側から流れる血が意識を薄れさせようにも恐怖が邪魔をする。
「平和を謳うアステリアでこんなことが許されると思っているのか!? お前はアステリアの歴史を血で汚しているんだぞ!」
「アステリアの歴史は変わらない。汚いことは全て闇に葬ればいい。これからもな」
「俺を見逃せばこのことは──」
宙で横一線に引かれた剣の動き残像のように残る。
四肢を鎖で繋がれ、抵抗することもできなかったヴィクターの叫びが途絶え、苦悶の表情が地面に転がった。
「もう喋るな」
トリスタンは剣をブラッドリーに渡した。滴る血を払うこともせず、ブラッドリーと目を合わせることもなく静かに階段を上がっていく。
「陛下、馬の準備ができています!」
「馬など必要ない」
「は? お、王妃陛下のもとへ駆けつけないのですか!?」
「必要ない。ユーフェミアは無事だ。迎えの騎士は既に派遣されているのだから僕が行く必要はない」
「し、しかし……」
予想外すぎる答えに騎士たちは唖然としていた。トリスタンなら馬を出せと叫びながら命令し、そして用意された馬に乗ってユーフェミアのもとへ駆けつけるのだと思っていたから。
それなのに今のトリスタンは異常なまでに冷静で、どこか人が変わってしまったかのように見えるほど声が冷たい。
「彼女が戻ったら知らせろ」
そう言って部屋に戻る道中「風呂の用意をしろ」と告げ、使用人たちは慌てて風呂の準備に追われた。
自分で脱ぎ捨てた服にはヴィクターの返り血がベッタリとついている。壁にかかっている鏡に近付くと思ったよりずっと多くの血を浴びている自分が写っていた。
これは誰だ? ひどい顔をしている。この顔を見るたび、トリスタンは吐き気がする。昔のように実際にトイレに駆け込んで吐くことはなくとも吐き気は感じる。すっかりと慣れてしまった行為。罪悪感を抱くこともなく行える秘密裏に行われる処刑。彼女と結婚してから何度繰り返してきた行為か……
「ユーフェミアが見たら絶望するだろうな。いや、それだけでは済まないか……」
アステリアは平和な国だと信じているユーフェミアに今まで手を汚してきた回数を伝えれば怯えて離婚を言い出すかもしれないと思うとトリスタンは不覚にも笑ってしまう。笑い事などではないのに、笑ってしまうのは自分が信じられないほどの嘘つきだから。嘘はつかないと約束しておきながら墓まで持っていく嘘を数えきれないほど抱えている。
「ああ……」
死ぬまで繰り返すだろうアステリアの秘密。代々受け継いでいる血染めの手で愛する妻を抱き、これから親になって子を抱く。そんなことが許されるのだろうか。自分が父親から受け継いだように、自分も子に継がせる側となる。そのとき、自分はあのときの父親のように迷いなく、そして子供はあのときの自分のように覚悟を決められるのだろうか。自分の代で終わりにすべきか。
誰にも相談できない悩みに二十年間ずっと頭を悩ませてきた。いつか晴れるだろうか。晴れるはずがない。血に染まったこの手は二度と元には戻らないのだから。
アステリアは世界で最も平和な国。それを守るために手を汚すことを厭わないトリスタンに後悔はない。ヴィクターに言ったことが全てだ。
「僕はトリスタン。アステリアの王だ」
鏡の中の自分に向かってそう告げた。
「平和か……」
顔や手についた血を水で洗い流してから熱い湯に浸かると大きく息を吐きだし、目を閉じた。
「そうですね」
「赤ん坊は施設で何度も抱っこしているけど、何度抱いても幸せな気持ちになるの。あの甘い柔らかな匂いも純粋な瞳も簡単に壊れてしまいそうなほど小さな身体も全てが愛おしいわ」
子供がいれば聖母になっただろうと慈愛に満ちた笑みを浮かべるユーフェミアを見つめながらエリオットはこれから抱きしめてもらえる赤ん坊が羨ましくなった。
「ごめんなさいね、エリオット」
「何がでしょう?」
「私がクリュスタリスまで行きたいなんてワガママを言ったからあなたを付き合わせることになってしまったわ」
「俺はユーフェミア様の剣であり盾です。ユーフェミア様が行かれる場所ならどこへでもお供いたします」
エリオットにとってはラッキーでしかない任務。トリスタンが来ればすぐに部屋から追い出されてしまうし、城ではラモーナが一緒。ユーフェミアと二人きりになる時間などないも等しい。
クリュスタリスまでの道のりは長く、その間はずっと馬車の中で二人きりなのだから文句などあろうはずもない。
「こっちには初めてくるから新鮮だわ」
「何もないですけどね」
「騎士の訓練で来たことがあるのでしょう?」
「はい」
「羨ましいわ」
ここにあるのは更地と森だけ。目を輝かせて見るほどのものは何もないのだ。だが、建物が多い場所よりは少し安全ではある。野盗が隠れているのではと警戒する必要がないのだから。
「随分細い道を通るのね」
「一本道ですから」
馬車一台が通るのでやっとな細い道。すぐそこは崖で、ロープすら張られてはいない。
この先の橋を渡る前にトリスタンの両親は亡くなった。突然暴れ出した馬を制御しきれず崖の下に真っ逆さま──……
今回はエリオットやブラッドリーも馬車の点検に立ち会って不備がないかを確認した。馬の健康状態もチェックし、一切の不安を取り除いたからこそトリスタンは見送ることにした。
馬車を確認してからユーフェミアが乗り込むまで馬車を監視していたのはエリオットで、馬車の周りはブラッドリーを筆頭に騎士団が警備していたため怪しい者は近付いていない。
大丈夫。
そう言い聞かせながらも通り過ぎるまでは異常なほどの不安が渦巻く。
「うわっ! うわわわわわわっ!」
「キャアアアアアッ!」
「ユーフェミア様!」
もうすぐ橋にかかる。そんなときに馬車が大きく揺れた。ジッと座っていられないほどの、馬車が倒れるのではないかと思うほどの揺れにエリオットがユーフェミアを片腕で抱きしめ、剣を抜く。
「何事だ!」
「う、馬が急に暴れだして! 止まりません! うわああっ!」
揺れが鎮まったかと思った直後、馬車が急発進する。全速力で駆けだした馬を必死に止めようとする御者が何度も叫ぶ。
「ダメだ! そっちへ行くな! やめろやめろやめろ! 落ちるーッ!」
橋は渡っていない。橋は渡らず直進する馬がどこへ向かっているのか、御者の言葉でわかった。
「ユーフェミア様、お許しください!」
「え? エリオッ──!?」
馬車のドアを蹴り開け、ユーフェミアを抱きしめたまま外へと飛びだした。ユーフェミアの身体を抱きしめ、頭を打たないように腕で守りながら土埃を上げて地面を転がる。
馬の勢いは速く、全速力に近い。地面に落ちたときの衝撃と意思に反して転がるスピードにエリオットの顔が歪む。
「うわぁぁぁぁあああああッ!」
この先は崖。そこへ一心不乱に駆けていく馬。まるでそこがゴールであるかのように躊躇なく飛んだ。
あまりのスピードに一瞬、飛び降りるのを躊躇したせいで降りられなかった御者の大きな悲鳴が段々と小さくなり、馬車が谷底に激突したのだろう音と共に消えた。
「ユーフェミア様、大丈夫ですか!?」
「わたくしは大丈夫──……エリオット! あなた、血が出てるわッ!」
制服の上からでもわかるほどの出血が腕にあるのにエリオットはユーフェミアを抱きしめたまま周りを警戒している。
「これぐらいなんともありません。それより今はここから離れましょう。何者かの襲撃を受けたかもしれません」
「血が出てるのよ! 先に手当てしなきゃ!」
「安全の確保が先です!」
エリオットの怒鳴り声に肩を跳ねさせるユーフェミアに謝ってから抱き上げ、襲撃かと剣を抜いている騎士たちに指示しながら森へと駆けていく。
「陛下ッ! 陛下―!」
ぐったりして動かなくなった女の隣で四肢を鎖で繋がれたヴィクターに尋問していたトリスタンのもとへ必死の形相で家臣が飛び込んできた。ヴィクターの身体から飛んだ血を浴びた顔を拭わないまま振り向くトリスタンにギョッとし、一瞬、ヴィクターに視線をやるも慌ててトリスタンへと戻してその場で膝をついた。
「先ほど、王妃陛下の護衛についていた騎士より報告があり、一時間ほど前に王妃陛下の馬車が崖に落下したとのことですッ!」
トリスタンの世界が停止する。なんの音もしない。何もない世界にいるような感覚に陥った。
あってはならないことが起きた。想像していた最悪のことが。
瞬きも、呼吸さえも忘れて固まるトリスタンを臣下は恐る恐る見続ける。
「ユーフェミア、は……」
止まっていたトリスタンの口が動き、震えた声が出る。
「ユーフェミアは生きているのか……?」
血の気が引いてるトリスタンに臣下は何度も頷く。
「ユーフェミア様はご無事です! どうかご安心を!」
無事と聞いて安堵したのか地面に膝をついたトリスタンを慌てて支える。涙が溢れそうだった。
「チッ……」
静かな地下牢に響いた舌打ち。トリスタンがいる場所で聞こえていい音ではない。聞こえたのは後方。女は気を失っており、かろうじて意識を保っているヴィクターから発されたのだ。
「ヴィクター……やはり貴様か……」
ゆらりと立ち上がったトリスタンが鞭を捨て、ブラッドリーの腰から剣を抜いてヴィクターに近付き、首元に剣先を当てる。
「答えろ、ヴィクター。貴様がユーフェミアを殺そうとしたのか……」
冷たい声を発するトリスタンは危険だ。特にこの地下牢でそうなると命の保証はない。ブラッドリーは騎士たちに持ち場へ戻るよう命令し、自分は後方で待機することにした。
「ッ!」
ブッと音を立ててトリスタンの顔に口内に溢れる血を唾と共に吐きかけたヴィクターにトリスタンは表情を変えない。この行為は側近としての行動ではなく、裏切り者の行動。王に唾を吐きかけて無事で済むはずがないことはヴィクターもわかっているだろうに、なぜだとブラッドリーのほうが動揺を隠せなかった。
「ネズミが随分な真似をするじゃないか」
「ぐああぁぁあああッ!」
トリスタンはヴィクターの脇腹に押し当てた剣をゆっくりと突き刺した。躊躇なく、手慣れたやり方。
ヴィクターの悲鳴が響く。
「安心しろ。ゆっくり殺してやる。そうだ、貴様に赤い服をプレゼントしてやろうじゃないか。貴様のために王直々に仕立ててやるものだ」
「ぐぅうううッ!」
グリッと剣が腹の中で捻じるように動かされると全身に激痛が走る。それでもヴィクターの命乞いなどしない。
「ハッ……仕留め損ねたか……ぐおぉぉおおッ! ああぁぁああああッ!」
開き直ったような発言に剣が思いきり捻じられ、痛みに目を見開きながら悲鳴を上げるヴィクターを見つめるトリスタンは一度剣を抜いた。
鮮血が地面へ流れ、血溜りができていく。キレイに生きてきた身体に空いた穴から漏れる血。それに伴う激痛。ただ貫かれただけならまだしも、ヴィクターは内臓を刃で傷つけられている。普通に貫かれたよりも傷は深く、痛みは強いだろう。
「ああ……こんな腐ったネズミを側近にしていたなんてな。末代までの恥だ」
「世継ぎも残せん女を妻に持つ男が末代とは笑わせる! アステリアはお前が滅ぼすんだ! お前が役立たずな女を妻にしたからアステリアは滅びる! お前が薄汚い下町の女を王妃になんかしたから! 全てお前のせいだ! 死んだ両親はさぞ鼻が高いだろう! お前のようなどうしようもないクズをこの世に王として残したんだからな!」
トリスタンの言葉にカッとなったヴィクターが暴言を吐くもトリスタンは眉一つ動かさないままヴィクターを見ている。感情を露にするまでもないとでも言いたげに。
「よく喋るネズミだな」
「私がネズミならお前は──ガハッ!」
「余計なことは喋るな。舌があるうちに僕の質問にだけ答えろ」
「ははっ……ははははははっ! ユーフェミアが死ねばお前の最高の顔が見られたのに残念だよ! お前を一人ぼっちの可哀相な王様にしてやりたかったのに! ははははははははっ──あぁぁぁあああッ!」
まるで痛みなど感じていないかのように大きな笑い声を響かせるヴィクターの反対側の脇腹に剣が突き刺さった。
「貴様は父親とよく似ているな」
「ッ!? な……ん、だと……」
荒い呼吸を繰り返しながら驚いた顔でトリスタンを見るヴィクター。
「コーディ・オールポート。貴様の父親だろう」
なぜ知っているのか。そう聞きたげに見つめるヴィクターは餌を求める魚のように口を動かすだけで言葉も声も出ていない。両脇を刺された痛みのせいで感情的になることすらできなくなっている。
「ヴィクター・エイミスと名乗っているが、貴様の本名はヴィクター・オールポート。あの愚か者、コーディ・オールポートの息子だろう」
「おろ、か……だと……。お前の父親のせいで……お前の父親のせいで父は死んだんだぞ!」
やれやれと呆れたように首を振るトリスタンは剣を振って血を払う。
「死んだのはお前の父親の意思だろう。僕の父が殺したのではない」
「貴様の父親が俺の両親を罰しなければ父は、我が家が廃れることはなかった! 全てお前の父親のせいだ!」
「民の税を横領などせねば罰されることもなかった。貴様の父親は己が地位を利用して私腹を肥やした。罰されるのは当然だろう」
コーディ・オールポートも王に仕えていた。高い地位にいながら欲を掻いた男は罰され、オールポート家は没落した。
普段穏やかな父親が珍しく憤慨していたのをトリスタンは覚えている。オールポートという名前も。
「父は貴様の父を信頼していた」
「だったら見逃せばよかっただろう! 私の父が何年仕えたと思っている! お前の祖父の時代からだ! 四十年! 四十年仕えたんだ! それをたった一度のミスでお前の父親は信頼していた一番の部下を罰したんだ! 側近でありながら王に見放された! それがどういうことかわかるか!?」
「愚か者の末路というだけだ。悪さをすれば罰せられる。そんなことは子供だってわかっている」
「ふざけるな! お前が役立たずの妻のために使っている額と比べれば父が懐に入れたのは大した額じゃない! お前らばかり贅沢する権利がどこにある!」
人は怒りで痛みを忘れる。怒鳴る度にヴィクターの腹からは水鉄砲のように血が吹き出しているが、ヴィクターがそれに顔を歪めることはない。怒りに支配され、顔を真っ赤に染めながらトリスタンを睨みつけている彼は自分が出血していることすら忘れているのだろう。
「父が問題視したのは貴様の父が盗んでいたのが民が必死の思いで納めてくれた税だったからだ。毎日必死に働いて稼いだ中から支払ってくれている税を貴様の父は愚かにも湯水のごとく使ったのだ。四十年仕えたから多少の犯罪は見逃せ? ここはアステリアだぞ。どんな些末な犯罪とて見逃すことはない」
「没落した貴族に待っているのは死だ! 犯罪者は死ねと言っているのか!?」
「大なり小なりあるが、僕はそう思っている」
耳を疑いたくなる言葉だが、この地下牢に入った瞬間に気付いた染みついた血の匂いと床や壁、拷問道具にこびりついた血液がアステリアが平和と謳われる理由を物語っていた。
恐ろしいと感じたのはそれだけではなく、その血に染まっているのがブラッドリーではなくトリスタンであるということ。
種無し、能無しと馬鹿にされてきた幼稚な王。妻に弱く、妻に依存している情けない王だったはずなのに、ここに入ってから……いや、入る前からトリスタンの雰囲気は変わった。ここに入ってからは尚更だ。
ユーフェミアがいればきっとここまでしなかった。そう思ったヴィクターにとって、このタイミングは最悪なものでしかない。
「父の判断に間違いはない。むしろ温情があったと感謝すべき対応だった」
「温情だと!? 家が没落したことで父は死んだんだぞ!」
没落すれば爵位が奪われる。だが、命まで奪うことはない。そこからどう立ち直るかはその者次第。大体の貴族が貴族時代の贅沢が忘れられず借金を繰り返して自滅していく中、賢い貴族は世の中の流れを見て商売を始め、再生する者もいる。必ずしも破滅への道というわけではないのだが、オールポート家はその〝大体の貴族〟に入ってしまった。
爵位にしがみつく貴族にとって爵位がなくなることほど耐えられないものはない。コーディ・オールポートが没落したことに耐えられず自死を選んだのだとしても、トリスタンはそれに同情するつもりはなかった。
「だから、僕の両親を殺したというのか?」
深呼吸をしてから静かに問いかけるトリスタンにヴィクターは笑う。
「ククッ……そうだ。父が死んだとき、必ずお前たちに復讐すると決めたんだ」
「いつ細工をした?」
「賢い王家の人間は賢いあまり、馬に薬を打たれるとは想像もしなかっただろうなぁ」
「馬に?」
「遅効性の吸引薬だ。ここを出発してからちょうどあの崖に差し掛かる頃に効果が表れるようになってる。ククッ、馬が暴れだしたとき、お前の両親は悲鳴を上げただろう。そして馬車が地面を離れたとき、絶望し、そして抱き合いながら死んでいったんだろうなあ!」
トリスタンは両親が事故で死んだと聞いていた。馬が暴れ、御者はそれを制御できずに崖下に落ちたんだと。子供の頃はわからなかったが、大人になってからずっと疑問だった。王室の馬は大人しく利口な馬ばかり。初めての道ではなかったはずなのに崖に転落するほど興奮するわけがないと。それでも何か証拠があったわけではない。調べようにも高所から地面に叩きつけられた馬も馬車も人も、あまり形が残っていなかったのだ。だからトリスタンはなんとか自分を納得させてきた。納得できない不可解なことがあっても。
しかし、ようやく真実がわかった。そのことを白状したヴィクターがあの日の犯人でもあること。今日の事故を誘発させたこと。
「ララに情報を流した理由はなんだ?」
「バカは扱いやすくていい。レオンハルトがユーフェミアに惚れていることを話してやったら簡単に感情的になった。ユーフェミアという女が──ッ!? あ、あ……ああぁぁああッ!」
顔の横を剣が縦にかすめた。地面にポトリと落ちたそれがなんなのか見た瞬間、それが誰の物かを理解するとすぐに痛みを感じた。
「僕の最愛の女性の名を貴様如きが口にするな」
「お、俺の耳がッ……!」
ララに情報を流した犯人でもあることも分かった今、トリスタンの最終目標は決定したも同然。
「貴様は死刑では生ぬるいな、ヴィクター」
はらわたは煮えくり返っているはずなのに不思議なほど腹の底が冷えているような感じがして怒鳴り声は出てこない。静かな感情があるだけ。
「死刑制度のないアステリアで死刑か! いいじゃないか! 戦争を知らないおめでたい国民の前で恐怖を植え付ける第一号が私とは光栄だ! 国民はこう思うだろう! あのバカで幼稚な王の素顔は残忍なもので人の命を軽んじる王だったとな! はっはっはっはっはっは!」
ユーフェミアを殺せなかったのは残念だが、ヴィクターは縋りつくような惨めな真似だけはするものかと大声を上げて笑うことにした。
死は免れない。なら大舞台で死んでやろうと覚悟を決めた。
国を、王を、王妃を愛している民に人が処刑される姿を見せつけられるのならそれはそれで願ったりだと言い張るヴィクターにトリスタンは顔を寄せる。
「おめでたいな。貴様は父親そっくりだぞ、ヴィクター」
バカにしたように鼻で笑うトリスタンに眉を寄せるヴィクター。
「国民に恐怖を植え付ける? 広場で堂々と処刑されるとでも思っているのか? 貴様のようなドブネズミにそんな大舞台はもったいない。貴様はこの地下牢で惨めに死んでいくだけだ。だが喜べ。僕が直々にその首を刎ねてやる」
「ふ、ふざけるな! そんなことが許されるはずがないだろう! 俺は王の側近だぞ! 側近がなんの報告もなく変われば民は怪しむ!」
「心配するな。民にはこう説明しておくさ。ヴィクター・エイミスは愚かにもそなたらの税に手をつけたことが発覚した故、流刑に処した、とな」
「ふざけるなぁぁぁあああ!」
吐血するほどのヴィクターの怒声もトリスタンの表情を動かすものにはならない。
「ララにユーフェミアが不妊だという情報を流し、民に責められる算段だったのだろうが甘かったな。アステリアの民にとって希望は世継ぎだけではない。彼女とて民の希望なのだ。腐った目に眼鏡などかけているから世界が歪んで正しいことが見えぬのだ。貴様の負けだ、ヴィクター・オールポート」
「私をその名で呼ぶな! 私は没落などしていない! 私はヴィクター・エイミスだ!」
「貴様は負け犬のヴィクター・オールポートだ。地獄でそう告げろ。悪魔たちは喜んで受け入れてくれるだろう。貴様の父親も待っていることだしな。向こうで再会して酒でも交わせ。己が血のワインでな」
顔を離したトリスタンが持ち上げた剣先が喉元に触れるとヴィクターの喉がヒュッと鳴る。ガタガタと身体が震えだし、異常な量の汗が流れだす。
腹部の両側から流れる血が意識を薄れさせようにも恐怖が邪魔をする。
「平和を謳うアステリアでこんなことが許されると思っているのか!? お前はアステリアの歴史を血で汚しているんだぞ!」
「アステリアの歴史は変わらない。汚いことは全て闇に葬ればいい。これからもな」
「俺を見逃せばこのことは──」
宙で横一線に引かれた剣の動き残像のように残る。
四肢を鎖で繋がれ、抵抗することもできなかったヴィクターの叫びが途絶え、苦悶の表情が地面に転がった。
「もう喋るな」
トリスタンは剣をブラッドリーに渡した。滴る血を払うこともせず、ブラッドリーと目を合わせることもなく静かに階段を上がっていく。
「陛下、馬の準備ができています!」
「馬など必要ない」
「は? お、王妃陛下のもとへ駆けつけないのですか!?」
「必要ない。ユーフェミアは無事だ。迎えの騎士は既に派遣されているのだから僕が行く必要はない」
「し、しかし……」
予想外すぎる答えに騎士たちは唖然としていた。トリスタンなら馬を出せと叫びながら命令し、そして用意された馬に乗ってユーフェミアのもとへ駆けつけるのだと思っていたから。
それなのに今のトリスタンは異常なまでに冷静で、どこか人が変わってしまったかのように見えるほど声が冷たい。
「彼女が戻ったら知らせろ」
そう言って部屋に戻る道中「風呂の用意をしろ」と告げ、使用人たちは慌てて風呂の準備に追われた。
自分で脱ぎ捨てた服にはヴィクターの返り血がベッタリとついている。壁にかかっている鏡に近付くと思ったよりずっと多くの血を浴びている自分が写っていた。
これは誰だ? ひどい顔をしている。この顔を見るたび、トリスタンは吐き気がする。昔のように実際にトイレに駆け込んで吐くことはなくとも吐き気は感じる。すっかりと慣れてしまった行為。罪悪感を抱くこともなく行える秘密裏に行われる処刑。彼女と結婚してから何度繰り返してきた行為か……
「ユーフェミアが見たら絶望するだろうな。いや、それだけでは済まないか……」
アステリアは平和な国だと信じているユーフェミアに今まで手を汚してきた回数を伝えれば怯えて離婚を言い出すかもしれないと思うとトリスタンは不覚にも笑ってしまう。笑い事などではないのに、笑ってしまうのは自分が信じられないほどの嘘つきだから。嘘はつかないと約束しておきながら墓まで持っていく嘘を数えきれないほど抱えている。
「ああ……」
死ぬまで繰り返すだろうアステリアの秘密。代々受け継いでいる血染めの手で愛する妻を抱き、これから親になって子を抱く。そんなことが許されるのだろうか。自分が父親から受け継いだように、自分も子に継がせる側となる。そのとき、自分はあのときの父親のように迷いなく、そして子供はあのときの自分のように覚悟を決められるのだろうか。自分の代で終わりにすべきか。
誰にも相談できない悩みに二十年間ずっと頭を悩ませてきた。いつか晴れるだろうか。晴れるはずがない。血に染まったこの手は二度と元には戻らないのだから。
アステリアは世界で最も平和な国。それを守るために手を汚すことを厭わないトリスタンに後悔はない。ヴィクターに言ったことが全てだ。
「僕はトリスタン。アステリアの王だ」
鏡の中の自分に向かってそう告げた。
「平和か……」
顔や手についた血を水で洗い流してから熱い湯に浸かると大きく息を吐きだし、目を閉じた。
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