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第2章
1.美並(4)
しおりを挟む 圭吾?
どきりとしてカップを持ち上げたまま動きを止め、京介は背後の会話に耳を澄ませる。
「早かったね」
聞き覚えのある声が応じて、自分の中にとげとげしたものが凍っていくのがわかった。
「一緒に来てくれればよかったのに」
「奈保子が見れば十分じゃないか」
「でも、新居、なのよ」
奈保子という名前を頭の中に刻み込んだとたん、新居、ということばが響いて瞬きする。
新居?
「二人で暮らしていく場所じゃない」
二人で、暮らす。
思わず微笑んでしまった。ゆっくりとカップを傾け、冷めたコーヒーを飲み込む。ちろ、とカップを舐めたのは癖になりそうな記憶のせい、けれど今胸に広がったのは深い安堵だ。
観葉植物の鉢を隔てて背中合わせに座っているのは大石圭吾に違いないが、その大石は結婚する予定があるらしい。しかも新居まで固まりつつあるならば、もう伊吹と縁はあるまい。
機嫌よく飲み干したカップを置こうとして、目の前の男がいまいましそうに舌打ちするのを見た。
「……くそっ」
低く唸った声にはまぎれもない怒りが籠っていて、誰かを彷佛とさせる黒い瞳にも猛々しい光が躍っている。
ひょっとして彼が気にしているのは大石じゃなくて、相手の女の方だったのか?
それはちょっと話がややこしくなる、そう思った瞬間、背後からためらった声が聞こえてぎくりとした。
「……ちょっと……結婚を待ってもらえないかな」
「……え?」
相手の女の声も驚いているが、京介は心臓を冷たい手で鷲掴みされたような気になった。
「何よ、急に。どういうこと?」
そうだ、それを京介も知りたい。
もちろん、結婚は成人していれば本人同士に決定権がある。けれど、それに伴う様々な事情は、社会で暮らす上でそうそう覆せるものではない。ましてや、あれほど行き届いた仕事をする大石が、何も考えずにそんなことを言い出すわけもない。
ならば、その、理由は。
「考えたい、ことが、でてきた」
歯切れの悪い口調で大石は口ごもった。
「仕事の展開が」
「嘘よ」
言いかけたことばを相手がばしりと遮る。
「嘘だわ」
そうだ、それは嘘だ。
京介も確信する。
大石が結婚前提の付き合いを始めていて、仕事の流れを考えなかったはずがない。
「………あなた、変よ」
奈保子と呼ばれた女は大石の沈黙に苛立ったように口を開いた。
「この間から、ずっと変」
「…この間から?」
「桜木通販? あそこと難しい話をまとめてくるって出かけてからずっと」
「っ」
一瞬息を呑んでしまって、目の前の男が不審そうに京介を見た。
「どうかしたんですか?」
「いや、ちょっと」
手を上げて、ウェイトレスにコーヒーの追加を頼む。ぼくもお願いします、と男が今度はココアを頼んだ。それからちょっと考えて、サンドイッチも付け加える。
「腹減っちゃった」
半分言い訳するように唇を尖らせて呟き、こちらに視線を上げてきたが、京介はそれどころではない。運ばれてきたコーヒーに手を伸ばし、指が震えそうになって、そっともう片方の手を添えて口元に持ち上げる。その耳に、迷った声で大石が続けることばが地獄の使者のもののように響く。
「まさか、まだ一人でいるなんて」
誰のこと?
喉を焼くコーヒーの熱さが遠い。
「……君は、美並は他の男と結婚したって言ったじゃないか」
詰るような大石の声が熱を帯びる。
美並。
京介がまだ伊吹さん、としか呼べないその距離を、時間を軽々越えて呼び掛ける甘い声音の意味を、誰が聞き損ねるだろう。
「失敗した僕を、見限った、と」
「……」
「確かに僕は美並のことばを頼りにしすぎた、だから失敗した。そんな僕を見損なって美並が離れていった、それはわかった。結婚すると言って施設を辞めた、それもわかった。僕ともう関わりたくなかったということだ、だから」
僕はあの後一切連絡を取らないようにしたんだ、彼女をこれ以上苦しめないように。
大石は堪えかねたような声で続けた。
奈保子は黙っている。
「嘘をついたのは……君だろう。なぜ騙した?」
そういう、ことだったのか。
京介はごく、ごく、と機械的にコーヒーを飲んだ。
大石は事業に失敗して、助言した伊吹の信頼を失ったと思ったのだ。そこへ伊吹が退職し他の男と結婚すると吹き込んだのが、この奈保子という女で、ひょっとすると伊吹に彼女のせいで大石が自殺したと責めたのも奈保子だったのかもしれない。そして、大石も伊吹もそれを真に受けて、お互いの気持ちを確かめることもなく、いや、たぶん、お互いを大切にするあまりに、黙って離れていった。
「桜木通販との折衝も、君は反対していた……美並が勤めていることを知っていたんだろう?」
大石は切なそうに訴えた。
「人から聞いたよ。君は美並に僕が自殺したと言ったそうだね。美並がどんなに傷つくか、わかっててやったのか?」
ごくん。
最後の一口が一気に喉を滑り落ちていって、京介はぼんやりとカップを見下ろした。
両思い、だったのか。
それどころか、今でも大石は、まとまりかけた結婚をためらうほどに伊吹のことを想っている、そういうことだ。
そして、伊吹も今もまだ、大石のことに関しては、激しく気持ちを揺らせてくる。大石の後を追い掛けて京介を振り返りもしなかった後ろ姿、半泣きでしがみついてきた弱々しさや、京介が自殺しかけた時に見せた激怒も、つまりは、心の隅に大石がいるからこそで。
唐突に、伊吹が作ってくれたあのふわふわしたミルクのコーヒーが飲みたい、と思った。
今すぐ時間を戻して、あの夜に戻りたい。笑う伊吹の顔を見ながら、温かいカップを抱えて寄り添いたい。
でも、たぶん、それは。
「……美並美並って、何よ」
がたん、と奈保子が席を立つ音がした。
「忘れないでよ、今のあなたの婚約者は私、岩倉奈保子、なの!」
ヒステリックな、けれど、底に痛いほど溢れている傷みに京介は胸が詰まった。
「あなたの隣にいるのは、私なの!」
「奈保子っ!」
大石がうろたえたように立ち上がって後を追う。
どきりとしてカップを持ち上げたまま動きを止め、京介は背後の会話に耳を澄ませる。
「早かったね」
聞き覚えのある声が応じて、自分の中にとげとげしたものが凍っていくのがわかった。
「一緒に来てくれればよかったのに」
「奈保子が見れば十分じゃないか」
「でも、新居、なのよ」
奈保子という名前を頭の中に刻み込んだとたん、新居、ということばが響いて瞬きする。
新居?
「二人で暮らしていく場所じゃない」
二人で、暮らす。
思わず微笑んでしまった。ゆっくりとカップを傾け、冷めたコーヒーを飲み込む。ちろ、とカップを舐めたのは癖になりそうな記憶のせい、けれど今胸に広がったのは深い安堵だ。
観葉植物の鉢を隔てて背中合わせに座っているのは大石圭吾に違いないが、その大石は結婚する予定があるらしい。しかも新居まで固まりつつあるならば、もう伊吹と縁はあるまい。
機嫌よく飲み干したカップを置こうとして、目の前の男がいまいましそうに舌打ちするのを見た。
「……くそっ」
低く唸った声にはまぎれもない怒りが籠っていて、誰かを彷佛とさせる黒い瞳にも猛々しい光が躍っている。
ひょっとして彼が気にしているのは大石じゃなくて、相手の女の方だったのか?
それはちょっと話がややこしくなる、そう思った瞬間、背後からためらった声が聞こえてぎくりとした。
「……ちょっと……結婚を待ってもらえないかな」
「……え?」
相手の女の声も驚いているが、京介は心臓を冷たい手で鷲掴みされたような気になった。
「何よ、急に。どういうこと?」
そうだ、それを京介も知りたい。
もちろん、結婚は成人していれば本人同士に決定権がある。けれど、それに伴う様々な事情は、社会で暮らす上でそうそう覆せるものではない。ましてや、あれほど行き届いた仕事をする大石が、何も考えずにそんなことを言い出すわけもない。
ならば、その、理由は。
「考えたい、ことが、でてきた」
歯切れの悪い口調で大石は口ごもった。
「仕事の展開が」
「嘘よ」
言いかけたことばを相手がばしりと遮る。
「嘘だわ」
そうだ、それは嘘だ。
京介も確信する。
大石が結婚前提の付き合いを始めていて、仕事の流れを考えなかったはずがない。
「………あなた、変よ」
奈保子と呼ばれた女は大石の沈黙に苛立ったように口を開いた。
「この間から、ずっと変」
「…この間から?」
「桜木通販? あそこと難しい話をまとめてくるって出かけてからずっと」
「っ」
一瞬息を呑んでしまって、目の前の男が不審そうに京介を見た。
「どうかしたんですか?」
「いや、ちょっと」
手を上げて、ウェイトレスにコーヒーの追加を頼む。ぼくもお願いします、と男が今度はココアを頼んだ。それからちょっと考えて、サンドイッチも付け加える。
「腹減っちゃった」
半分言い訳するように唇を尖らせて呟き、こちらに視線を上げてきたが、京介はそれどころではない。運ばれてきたコーヒーに手を伸ばし、指が震えそうになって、そっともう片方の手を添えて口元に持ち上げる。その耳に、迷った声で大石が続けることばが地獄の使者のもののように響く。
「まさか、まだ一人でいるなんて」
誰のこと?
喉を焼くコーヒーの熱さが遠い。
「……君は、美並は他の男と結婚したって言ったじゃないか」
詰るような大石の声が熱を帯びる。
美並。
京介がまだ伊吹さん、としか呼べないその距離を、時間を軽々越えて呼び掛ける甘い声音の意味を、誰が聞き損ねるだろう。
「失敗した僕を、見限った、と」
「……」
「確かに僕は美並のことばを頼りにしすぎた、だから失敗した。そんな僕を見損なって美並が離れていった、それはわかった。結婚すると言って施設を辞めた、それもわかった。僕ともう関わりたくなかったということだ、だから」
僕はあの後一切連絡を取らないようにしたんだ、彼女をこれ以上苦しめないように。
大石は堪えかねたような声で続けた。
奈保子は黙っている。
「嘘をついたのは……君だろう。なぜ騙した?」
そういう、ことだったのか。
京介はごく、ごく、と機械的にコーヒーを飲んだ。
大石は事業に失敗して、助言した伊吹の信頼を失ったと思ったのだ。そこへ伊吹が退職し他の男と結婚すると吹き込んだのが、この奈保子という女で、ひょっとすると伊吹に彼女のせいで大石が自殺したと責めたのも奈保子だったのかもしれない。そして、大石も伊吹もそれを真に受けて、お互いの気持ちを確かめることもなく、いや、たぶん、お互いを大切にするあまりに、黙って離れていった。
「桜木通販との折衝も、君は反対していた……美並が勤めていることを知っていたんだろう?」
大石は切なそうに訴えた。
「人から聞いたよ。君は美並に僕が自殺したと言ったそうだね。美並がどんなに傷つくか、わかっててやったのか?」
ごくん。
最後の一口が一気に喉を滑り落ちていって、京介はぼんやりとカップを見下ろした。
両思い、だったのか。
それどころか、今でも大石は、まとまりかけた結婚をためらうほどに伊吹のことを想っている、そういうことだ。
そして、伊吹も今もまだ、大石のことに関しては、激しく気持ちを揺らせてくる。大石の後を追い掛けて京介を振り返りもしなかった後ろ姿、半泣きでしがみついてきた弱々しさや、京介が自殺しかけた時に見せた激怒も、つまりは、心の隅に大石がいるからこそで。
唐突に、伊吹が作ってくれたあのふわふわしたミルクのコーヒーが飲みたい、と思った。
今すぐ時間を戻して、あの夜に戻りたい。笑う伊吹の顔を見ながら、温かいカップを抱えて寄り添いたい。
でも、たぶん、それは。
「……美並美並って、何よ」
がたん、と奈保子が席を立つ音がした。
「忘れないでよ、今のあなたの婚約者は私、岩倉奈保子、なの!」
ヒステリックな、けれど、底に痛いほど溢れている傷みに京介は胸が詰まった。
「あなたの隣にいるのは、私なの!」
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