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第2章
1.美並(2)
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「ただいま~」
真崎がいつものごとく、ふわあっとした様子で入ってくる。
「どうでしたか」
「あんまりうまくないなあ」
小さく溜め息をついて、部屋の隅のコーヒーサーバーに向かい、紙コップに注いだブラックを顔をしかめて飲み下す。
「なんで細田さんは、ああやってあちこちに安請け合いしちゃうんだろうねえ」
「さあ」
「できないことをできると言ったんなら、後始末もしてほしいなあ」
「そのために課長がいらっしゃるんでしょう」
「……それを言っちゃおしまいでしょう…」
溜め息を重ねかけた真崎が伊吹の視線を捉えて、紙コップに唇に当てたまま動きを止めた。
交渉でよほど疲れたのか、眼鏡の奥で瞳が潤んでいる。少し寄せた眉、尖らせた唇がコーヒーに濡れていて、いつかの夜、それもホテルで崩れかけていた画像に重なる。
視線で美並が何を見ているのか気付いたらしく、真崎は誘うようにコップを口からそっと離した。薄く開いた唇に舌先を覗かせ、コップの縁を舐めてみせる。目を細めて微かに笑い、伊吹の視線を感じて恥じらうような、もっと欲しいとねだるような顔で目元を薄赤く染める。
男が浮かべるとはとても思えない、あやうげで華やかな誘惑の色。
「っ…」
こぉらぁ。
思わず声を上げてしまいそうになった。
なんて顔をしてるんだ、ここは会社だぞ、仕事中だぞ、他の人間も居るんだぞ、そんな露骨に誘ってどうする。
美並が思わずきつく眉を寄せて相手を睨みつけると、真崎はますます嬉しそうにはにかんで笑った。ゆるんだ視線が甘く溶けて、眼鏡を外させて覗き込みたくなってしまう。
『伊吹さん』
柔らかな声が耳元を過った。
それとなく、何となく、週末を真崎の部屋で過ごすことが増えている。帰ろうとする美並を巧みに引き止めるのは、お互いゲームのようになりつつあって、狭いからごめん、そう謝ってベッドの中で抱き締めてくる真崎は大抵先に寝落ちてしまう。
けれど。
『……み……なみ』
一つの巣に籠るつがいの鳥のように寄り添って眠りに落ちる瞬間、なぜかいつも切なげに呼ぶ声を聞く。美並が抱かれるときは名前を呼ぶんだろう、そう話した真崎も実はその時だけ名前を呼ぶ癖があるのかと思うと、軽く力が加わってくる腕にもかなりどきどきする。
あんな顔で、あんな声で、我慢しきれない、とねだられたら。
まずい。
くら、と頭の中心が回った美並が目を逸らそうとした矢先、
「課長」
石塚が唐突にキーボードの音を響かせ始めて、真崎がびくりとする。
「はい」
「決済書類が溜まってるんですが」
「う」
「伊吹さん」
「はいっ」
慌てて顔を戻して、すみません、と謝ると、軽く首を振った石塚が背後を伺った。後ろを通り抜けた真崎が奥の棚を開く物音に紛れ込ませるように、
「さっきの話だけど」
「はい」
さりげない声の軽さと反対に真面目な視線に美並も顔を引き締める。
「実際に会社の近くで見た人も居るの」
「最近ですか?」
頷いて、少し身を乗り出したから、美並も耳を寄せた。
「ちょっと様子が気になったって。彼女、もともと生真面目なところがあるし、思い込み激しいところもあるし」
「……はい」
ちら、と目線で棚から書類を引き抜き、捲り出している真崎の背中を示す。
「、と付き合って結婚するって会社中に触れ回っていたらしいんだけど」
「……」
「でも、本気にしない人の方が多かった」
「え?」
「前にも同じようなことがあって。その時は別の課の人だけど、一方的に入れ込む傾向にはあったから」
「その時は…」
「向こうは公にしてなかったけれど、同棲していた相手も居て、まさかと思っていたようね。そうしたら、マンションに押し掛けられて、捨てるの捨てないのと大騒ぎになったことがあったのよ」
「そう、ですか…」
どうも牟田相子というのは、真崎相手に限らずテンションの高い人間だったらしい。
「今度の場合は、アプローチしていた時から、奇妙がられててね」
切れ者の真崎がなぜ牟田などに迫ったのだろうと、今もまだ不思議がられているが、真崎はいつものようにのらりくらりと逃げて、結局真崎の本心がどこにあったのかはわからない。
「でも……酷い男よね」
石塚は冷やかに結論した。
「女を道具扱いしてる」
確かにいくら理由があるにせよ、自分勝手にアプローチして落とし、しかも切り捨てるように振ってしまうやり方は十分酷いだろう。おまけに相子には思い込みとは言え、過去に辛い恋愛経験がある。真崎にしがみつくようになったのは無理もないかもしれない。
そうだ、それに関わる孝の一件は、まだ何もわかっていない。
美並は思い出した。
真崎と、真崎の家族のことも、半分もわかったどうか。
わからないままに次々いろんなことが起きて、わかったことと言えば、真崎がかなりな深さで傷ついていて、それを今までは修復する術さえないままに生きてきた、ということぐらいだけど。
美並は眉を寄せる。
この恋には大きな障害がある。
出会ったことをただの苦痛にしかねないほどの大きな壁が。
「あれは毒だと思うのよね」
ぼそりと石塚がつぶやいて我に返った。
「毒?」
浮かしていた腰を椅子に戻して、石塚は眼鏡の奥でひややかに真崎を見ている。
「自覚してやってるのかどうかわからないけど、何かの拍子に妙に人を誘う顔をするでしょう?」
なのに、本人は誰も欲しがってないからね、と石塚は美並を振り向いた。
「付き合うのはいいけど、牟田さんみたいになっちゃおしまいだから」
女じゃなくてよかったのかもしれない。
石塚は溜め息まじりに仕事を再開しながら苦笑した。
「今頃、会社内が引っ掻き回されてめちゃくちゃになってた」
「でも……」
「え?」
「女性問題を次々起こしていくなら同じですよね?」
「まあ、女はなかなか自分の人生失ってまで男に賭けたりしないから」
石塚がまた指を止め、ひょいと美並を覗き込む。
「ああ、いっそ」
「いっそ?」
「あなたならちょうどいいかもしれない」
「はい?」
「あれの制御装置」
「はぁい?」
真崎京介というのは最終兵器か何かですか。
美並は思わず引きつった。
真崎がいつものごとく、ふわあっとした様子で入ってくる。
「どうでしたか」
「あんまりうまくないなあ」
小さく溜め息をついて、部屋の隅のコーヒーサーバーに向かい、紙コップに注いだブラックを顔をしかめて飲み下す。
「なんで細田さんは、ああやってあちこちに安請け合いしちゃうんだろうねえ」
「さあ」
「できないことをできると言ったんなら、後始末もしてほしいなあ」
「そのために課長がいらっしゃるんでしょう」
「……それを言っちゃおしまいでしょう…」
溜め息を重ねかけた真崎が伊吹の視線を捉えて、紙コップに唇に当てたまま動きを止めた。
交渉でよほど疲れたのか、眼鏡の奥で瞳が潤んでいる。少し寄せた眉、尖らせた唇がコーヒーに濡れていて、いつかの夜、それもホテルで崩れかけていた画像に重なる。
視線で美並が何を見ているのか気付いたらしく、真崎は誘うようにコップを口からそっと離した。薄く開いた唇に舌先を覗かせ、コップの縁を舐めてみせる。目を細めて微かに笑い、伊吹の視線を感じて恥じらうような、もっと欲しいとねだるような顔で目元を薄赤く染める。
男が浮かべるとはとても思えない、あやうげで華やかな誘惑の色。
「っ…」
こぉらぁ。
思わず声を上げてしまいそうになった。
なんて顔をしてるんだ、ここは会社だぞ、仕事中だぞ、他の人間も居るんだぞ、そんな露骨に誘ってどうする。
美並が思わずきつく眉を寄せて相手を睨みつけると、真崎はますます嬉しそうにはにかんで笑った。ゆるんだ視線が甘く溶けて、眼鏡を外させて覗き込みたくなってしまう。
『伊吹さん』
柔らかな声が耳元を過った。
それとなく、何となく、週末を真崎の部屋で過ごすことが増えている。帰ろうとする美並を巧みに引き止めるのは、お互いゲームのようになりつつあって、狭いからごめん、そう謝ってベッドの中で抱き締めてくる真崎は大抵先に寝落ちてしまう。
けれど。
『……み……なみ』
一つの巣に籠るつがいの鳥のように寄り添って眠りに落ちる瞬間、なぜかいつも切なげに呼ぶ声を聞く。美並が抱かれるときは名前を呼ぶんだろう、そう話した真崎も実はその時だけ名前を呼ぶ癖があるのかと思うと、軽く力が加わってくる腕にもかなりどきどきする。
あんな顔で、あんな声で、我慢しきれない、とねだられたら。
まずい。
くら、と頭の中心が回った美並が目を逸らそうとした矢先、
「課長」
石塚が唐突にキーボードの音を響かせ始めて、真崎がびくりとする。
「はい」
「決済書類が溜まってるんですが」
「う」
「伊吹さん」
「はいっ」
慌てて顔を戻して、すみません、と謝ると、軽く首を振った石塚が背後を伺った。後ろを通り抜けた真崎が奥の棚を開く物音に紛れ込ませるように、
「さっきの話だけど」
「はい」
さりげない声の軽さと反対に真面目な視線に美並も顔を引き締める。
「実際に会社の近くで見た人も居るの」
「最近ですか?」
頷いて、少し身を乗り出したから、美並も耳を寄せた。
「ちょっと様子が気になったって。彼女、もともと生真面目なところがあるし、思い込み激しいところもあるし」
「……はい」
ちら、と目線で棚から書類を引き抜き、捲り出している真崎の背中を示す。
「、と付き合って結婚するって会社中に触れ回っていたらしいんだけど」
「……」
「でも、本気にしない人の方が多かった」
「え?」
「前にも同じようなことがあって。その時は別の課の人だけど、一方的に入れ込む傾向にはあったから」
「その時は…」
「向こうは公にしてなかったけれど、同棲していた相手も居て、まさかと思っていたようね。そうしたら、マンションに押し掛けられて、捨てるの捨てないのと大騒ぎになったことがあったのよ」
「そう、ですか…」
どうも牟田相子というのは、真崎相手に限らずテンションの高い人間だったらしい。
「今度の場合は、アプローチしていた時から、奇妙がられててね」
切れ者の真崎がなぜ牟田などに迫ったのだろうと、今もまだ不思議がられているが、真崎はいつものようにのらりくらりと逃げて、結局真崎の本心がどこにあったのかはわからない。
「でも……酷い男よね」
石塚は冷やかに結論した。
「女を道具扱いしてる」
確かにいくら理由があるにせよ、自分勝手にアプローチして落とし、しかも切り捨てるように振ってしまうやり方は十分酷いだろう。おまけに相子には思い込みとは言え、過去に辛い恋愛経験がある。真崎にしがみつくようになったのは無理もないかもしれない。
そうだ、それに関わる孝の一件は、まだ何もわかっていない。
美並は思い出した。
真崎と、真崎の家族のことも、半分もわかったどうか。
わからないままに次々いろんなことが起きて、わかったことと言えば、真崎がかなりな深さで傷ついていて、それを今までは修復する術さえないままに生きてきた、ということぐらいだけど。
美並は眉を寄せる。
この恋には大きな障害がある。
出会ったことをただの苦痛にしかねないほどの大きな壁が。
「あれは毒だと思うのよね」
ぼそりと石塚がつぶやいて我に返った。
「毒?」
浮かしていた腰を椅子に戻して、石塚は眼鏡の奥でひややかに真崎を見ている。
「自覚してやってるのかどうかわからないけど、何かの拍子に妙に人を誘う顔をするでしょう?」
なのに、本人は誰も欲しがってないからね、と石塚は美並を振り向いた。
「付き合うのはいいけど、牟田さんみたいになっちゃおしまいだから」
女じゃなくてよかったのかもしれない。
石塚は溜め息まじりに仕事を再開しながら苦笑した。
「今頃、会社内が引っ掻き回されてめちゃくちゃになってた」
「でも……」
「え?」
「女性問題を次々起こしていくなら同じですよね?」
「まあ、女はなかなか自分の人生失ってまで男に賭けたりしないから」
石塚がまた指を止め、ひょいと美並を覗き込む。
「ああ、いっそ」
「いっそ?」
「あなたならちょうどいいかもしれない」
「はい?」
「あれの制御装置」
「はぁい?」
真崎京介というのは最終兵器か何かですか。
美並は思わず引きつった。
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