『闇を闇から』

segakiyui

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第1章

12.絶対零度の領域から(5)

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 タクシーを降りて真崎のマンションに辿りついたときには夜の九時を回っていた。
 この分じゃ、ほんとに帰れないかもしれない。
 美並がそう思ったのは、時間だけではなくて、今ひとつ繭が回復していない真崎の様子のせいだ。食事の時よりは普通に会話できている感じだが、何かの拍子にするっと魂が抜けてしまったような顔になる。それは一瞬だけ、すぐに我に返ったように美並に笑いかけてくるのだが、眼鏡の奥から微笑む眼がとんでもないほど邪気がなくて、返って痛々しい気にさえなる。
 何か、あったんだな。
 美並は軽く眉を寄せた。
 真崎が出ていったのは昼を回っている。それから今まで数時間、恵子と一緒に過ごしていたと考えると、さっきから微かに漂う香りは無視できない。
 ボディシャンプー、じゃないかな、これは。
 普段の真崎は香水系をつけていない。流通管理課課長という役職が多くの人間と応対するということ、その中には未だ男性の「香り」を不愉快がる人間も居るということがあって、あえて何もつけないようにしている、ボディシャンプーも香料控え目の赤ちゃん用だし、と笑ったことを覚えている。
 それに、思い出す、ということばさえ空恐ろしいと思うが、大石がらみで真崎にしがみついたのは、何のことない、今日の午前中で、その時は確かに何の匂いもしなかった。
 寝た、のかな。
 それ以外に真崎がシャワーを浴びる理由が思いつかない。
 けれど、それがもし本当だとしても、なぜかそれは真崎を酷く追い詰めてしまっている。それこそ自殺でもしかねない、そう思ったのは、『きたがわ』を出る時に、気づかわしげに振り返ったテラスの向こう、何があるんですか、と尋ねると、道路、そう応えて小さく笑ったからだ。「すぐ下にあるんだ、交通量も多いし」。
 嬉しそうなその声にぞっとしたのは、きっと職業的なものだ。
 発作的に自殺をする人間はいる。けれど、それは発作的なだけにできたりできなかったりする。周囲も本人の落ち着かなさに気付き、意識的無意識的に遮るからだ。
 怖いのは一つ一つそこへ追い込まれていく人間だ。日常生活の中で、丁寧に周囲と自分を切り離していくステップを進め、まるでそれが必然のようにそちらへ向かう人間は、周囲にほとんど合図を出さない。そして、きちんと自殺をしてしまう。
 福祉系で仕事をしていれば、そういうことを一度や二度は経験する。
 真崎の嬉しそうな気配は自殺をすると決めてしまった人間の明るさに似ていた。もう終わりにするから、何があっても構わない、何も迷わない、そういう軽さとおおらかさ。
 美並が好きだと言ったことを覚えていなかったのは、あの時真崎の気持ちがどこかに消えていたからだ。戻ってきたのは美並を抱き締めている最中か、後だ。
 っていうことは。
 ひょっとして、キスしたことも、今一つ覚えてないのか?
「………う~」
「何?」
「いえ」
 あんな大胆なこと、二度は無理だからね。
 僅かに顔が熱くなって、思わず思考を逸らせた。
 真崎が恵子と寝たかもしれない、それは確かにつらくて不愉快だけれど、今一番気になって不安なのは、普通ならそれが気持ちよくて楽しい出来事のはずなのに、真崎がそれに自分を失うほど傷ついてしまっている、ということだ。
 何かあった。
 単に幸せなデート、で済まないことが。
 そして、そういう自分を真崎自身も不安がっている。だから一人で居たくない。そういうことだ。
 ならばへたなことをすると、美並が帰った直後にこの窓からでも飛び下りかねない、そういうことだ。
「ちょっと寒いな……暖房つけるね」
「はい」
 先に立っていそいそと入っていく真崎に、鞄の中のミルクホイッパーに触れる。
「…これがほぐしてくれればいいけど」
 真崎に続いて部屋の中に入り、ゆっくり動き出したエアコンに澱んだ空気がかき混ぜられているのに気付いた。
「……課長?」
「なに?」
 ジャンパーをソファに脱ぎ捨て、さっそくキッチンに向かったらしい真崎の声が響いてくる。
「ここへどれぐらい帰ってるんですか?」
「……え?」
 確かにケージはなくなっている、けれど、部屋の中で動いたものはそれぐらいだ。
「どれぐらい、って?」
「部屋の空気、悪くなってます。一度換気したいんですが、いいですか?」
「あ…うん」
 真崎は不思議そうに頷き、再びコーヒーの用意をしながら、
「……週に……一……二回?」
「……戻ってからは?」
「……………帰って…ないかな?」
 あちこちの窓を開けていて思わず振り返る。
「帰ってない?」
 じゃあ、どこに居たんです、この数日、と続けると、
「ん……会社とか……ネットカフェとか……? 着替えは取りに戻ってる、シャワーも浴びたいし」
「……仕事できるはずだよ」
 思わず唸った。
 つまり真崎はほとんど家に帰らず、たぶんその間ずっと仕事をしているわけだ。
「何のための家なんだか…」
「え?」
 コーヒー入ったよ、それはどうするの、と尋ねてきた真崎に、
「牛乳ありますか?」
「あ……そっか」
 ミルクホイッパーだから牛乳要るんだよね。
 慌てて冷蔵庫を覗いた真崎が、がっかりした顔で振り返る。
「ないよ」
「んー、じゃあ」
 これは次にしましょうか、そう言いかけた矢先、美並の鞄から携帯の着メロが響いた。
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