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第1章
6.月の下(7)
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抱きたいな。
もう、ほんとに駄目だ、伊吹が抱きたい。
けれど。
「う~……頭……いたー」
足下をふらつかせながら歩いている伊吹の手を引きながら京介は振り向く。
伊吹の顔色はまだ白い。
さっきまで溢れていた熱っぽさはすっかり消えて、今はむしろ寒いのかもしれない、そそけだった顔で必死に歩いているのを見ると、さすがに今は押し倒せない。
それに気になることは他にもある。
『さ……わぐな……聞こえ……ない……っ』
殺気立った叱責。
『な…んだって……?』
『あの人も……この人も……?』
誰かの声を繰り返すような呟き。
伊吹は何も見えない、と言った。けれど、さっきのことばは明らかに『何か』を聞き取り耳をすませている気配だ。
「見えるって大変なんだね」
かまをかけてみる。
「あんなになっちゃうなんて知らなかったよ、ごめんね」
さりげなく自分の心配も伝えて、握った手にそっと力を入れてみた。
手は握り返してこない。寂しくて、もうちょっと力を込めてみたけれど、ちょうど不安定に体を揺らせた時だったから、たまたまだと思ったかもしれない。
絶対の距離が空いている。
京介は覚って唇を噛んだ。
山道を丁寧に辿って降りながら、さっきまであれほど近くに居たはずなのに、今は握った手さえ遠く感じる伊吹にずきずきする。
抱き締めちゃ、いけなかったかな。
こめかみへのキスはさすがにまずかったよな。
でも、止められなかったし。止めるつもりもなかったし。
今だってこんなに伊吹が欲しい。
切なくなってくる思考に詰まって伊吹の声が聞こえていなかったらしく、ふいに耳に考え込んだ声が届いた。
「イブキの墓参りってのは口実で、私に何か見させようとしたんですか」
「鋭いね」
唇を片端だけ引き上げて、かろうじて笑えた。
なんだ。何もわかってないのか。
京介の苦しさも辛さも、今堪えている衝動も何も気付いてなくて、ただ勘がいいから連れてきたと、まだそう思っているのか。
「けれど、墓参りはしたかったから付き合ってくれて嬉しかったよ」
さらりと言い捨てた。
「だってさ、普通そういうことでも言わないとこういうところに付き合ってくれないでしょう」
いい加減なふうに、中途半端な物言いに聞こえるように声を軽くした。思い余ってこんなところで伊吹を暴こうとしたなんて、絶対気付かれないように。いつものように感情を隠して装おう。真崎京介はこんなふうに、人の気持ちに鈍感で曖昧な男なんですよ、とことさら演じる。
そうでもしないと、手を握っているのさえ辛かった。でもまだ放したくなかったから、何とか握っていたかったから、平然と足をすすめる。
伊吹が呆れたように溜め息をつく。
見損なわれたのかな。それでも、嫌われるよりはうんといいよね、そう思った矢先、
「まんま言えばよかったんですよ」
「え?」
「孝さんの死に、どうも大輔さんや恵子さんが関わってるみたいだけれど、確かめ切れないから手伝ってくれって」
「っっ!」
体に電気が走った。立ち止まって振り返れば、伊吹は顔をしかめて頭を撫でていて、危うくぶつかりかけてこちらを見上げる。
イブキの墓参り、の話じゃなかったのか。
いや、その話しかしなかった、と思うのに。
「そういうのが見えたの」
「課長はそう疑ってたんですか」
逸らそうとしたつもりでなくても無意識に外したポイントを、伊吹がきっちり引き戻す。
見上げてくる瞳は月光を微かに跳ねて、暗い水のように見える。
「ちょっと、ね」
一瞬、そこに自分の全てが映されたような気がして、京介は顔を背けた。再び伊吹の手を握って山道を降り始めると、きゅ、と力を込められる。
見せて。
まるでそうねだられたような気がした。
沸き起こった衝動。何もかも伊吹に晒して楽になりたい。
同時に揺り返す激情。でも、できればもう少しだけ、伊吹の前ではまともな男でいたい。
打ち明けてしまえば、普通の付き合いなどできなくなるかもしれない。伊吹は京介を問題のある男だとして、曖昧に離れていってしまうか、表面を取り繕って、今より遠い距離を保とうとするかもしれない。
今のままもう少し頑張れば、それでも上司と部下でいられる。恋人にはなれなくても遠ざけられたりはしないだろう。
けれど。
けれど。
空を見上げた。どこかに進むべき道の啓示が現れないかと思った。
だが、空は静かに月を浮かべ、星を飾って広がっているだけだ。
「もともと恵子さんって言うのは、大輔の幼なじみで………でも、高校から大学までは孝の彼女だったんだよね」
「は?」
少し話してみよう。家の事情とか、人間関係とか、そういうありきたりなものから。
「だけど、恵子さんのお父さんが死んじゃって母子家庭になって、彼女は僕達の親父の会社の事務に入ったんだよ」
「あの、お父さんの会社って……」
「ああ、このあたりの材木を一手に扱ってたんだ。今はもうないけど」
一瞬伊吹が黙り込んで、何か早々にまずいことを口にしたのかと不安になった。握っている手がするりと抜かれて、じゃあこれでと逃げられやしないかと竦む。
「正真正銘の坊ちゃんだったのか」
ぽつりと呟かれた思いっきり見当違いの感想に、思わず、あのね、と睨んでしまった。
人の気持ちも知らないで、そんなきょとんとした顔で。
「すみません。それで?」
気を取り直して話を再開する。とにかく、現実に絞って話していけば、それほど拒まれはしないだろう。
「そうしたら、今度はそこで一緒に働いてた大輔と接近していっちゃって」
それほど単純な展開じゃなかったけれどね。
いっぱいいっぱいいろんなものが絡んでいて。
「僕は恵子さんと孝がうまく行ってると思ってた。彼女のお父さんが亡くなった時も、大輔と一緒に働くことになった時も、ちゃんと孝に相談してると思ってた、けど」
京介や孝がこんな傷を抱えていなければ。大輔が他に女がいれば。ついでに恵子が少しだけ孝の気持ちを考えてくれたなら。
あるいはまた、あの日京介が逃げきれたなら。あるいは『ぼけ』が救えたなら。
悲劇の何かは防げたんだろうか。
「違ったんだね」
おそらくは、きっと何も変わらなかったんだろう。
一番始めから縺れて絡んだ糸は、細かく切れることでしか解せず自由にならないのだろう。
諦めが、広がってきた。
「とにかく、恵子は大輔と結婚して、孝はホテルで殺されて」
掌の伊吹の手が、自分から京介の手を握らないように、京介がどれほど握り締めてもただただ柔らかく受け止められるように、求めても、無駄なのだ。
どれほど、欲しがっても、永遠にこれは手に入らない。
きっとそういうことなのだ。
辛くて、笑った。
わかった瞬間に、自分がどれほどこの手だけでも欲しかったのか、深く理解した。
「僕はもう、ここには戻らなくなった」
最後にそっと、握り締める。
二度と触れられないかもしれない、小さな手。
その手が示した信頼を、裏切らなかったからよしとするしかないんだろう。
京介一人が背負えばいいだけで、誰も巻き込むわけにはいかないのだ。
ただそういうことだろう。
ざくざくして脈打って、どこかでどんどん崩れていく内側を眺めながら、
「はい、伊吹さんは無事に戻ってきたよ、よかったね」
微笑んで、手を放した。
もう、ほんとに駄目だ、伊吹が抱きたい。
けれど。
「う~……頭……いたー」
足下をふらつかせながら歩いている伊吹の手を引きながら京介は振り向く。
伊吹の顔色はまだ白い。
さっきまで溢れていた熱っぽさはすっかり消えて、今はむしろ寒いのかもしれない、そそけだった顔で必死に歩いているのを見ると、さすがに今は押し倒せない。
それに気になることは他にもある。
『さ……わぐな……聞こえ……ない……っ』
殺気立った叱責。
『な…んだって……?』
『あの人も……この人も……?』
誰かの声を繰り返すような呟き。
伊吹は何も見えない、と言った。けれど、さっきのことばは明らかに『何か』を聞き取り耳をすませている気配だ。
「見えるって大変なんだね」
かまをかけてみる。
「あんなになっちゃうなんて知らなかったよ、ごめんね」
さりげなく自分の心配も伝えて、握った手にそっと力を入れてみた。
手は握り返してこない。寂しくて、もうちょっと力を込めてみたけれど、ちょうど不安定に体を揺らせた時だったから、たまたまだと思ったかもしれない。
絶対の距離が空いている。
京介は覚って唇を噛んだ。
山道を丁寧に辿って降りながら、さっきまであれほど近くに居たはずなのに、今は握った手さえ遠く感じる伊吹にずきずきする。
抱き締めちゃ、いけなかったかな。
こめかみへのキスはさすがにまずかったよな。
でも、止められなかったし。止めるつもりもなかったし。
今だってこんなに伊吹が欲しい。
切なくなってくる思考に詰まって伊吹の声が聞こえていなかったらしく、ふいに耳に考え込んだ声が届いた。
「イブキの墓参りってのは口実で、私に何か見させようとしたんですか」
「鋭いね」
唇を片端だけ引き上げて、かろうじて笑えた。
なんだ。何もわかってないのか。
京介の苦しさも辛さも、今堪えている衝動も何も気付いてなくて、ただ勘がいいから連れてきたと、まだそう思っているのか。
「けれど、墓参りはしたかったから付き合ってくれて嬉しかったよ」
さらりと言い捨てた。
「だってさ、普通そういうことでも言わないとこういうところに付き合ってくれないでしょう」
いい加減なふうに、中途半端な物言いに聞こえるように声を軽くした。思い余ってこんなところで伊吹を暴こうとしたなんて、絶対気付かれないように。いつものように感情を隠して装おう。真崎京介はこんなふうに、人の気持ちに鈍感で曖昧な男なんですよ、とことさら演じる。
そうでもしないと、手を握っているのさえ辛かった。でもまだ放したくなかったから、何とか握っていたかったから、平然と足をすすめる。
伊吹が呆れたように溜め息をつく。
見損なわれたのかな。それでも、嫌われるよりはうんといいよね、そう思った矢先、
「まんま言えばよかったんですよ」
「え?」
「孝さんの死に、どうも大輔さんや恵子さんが関わってるみたいだけれど、確かめ切れないから手伝ってくれって」
「っっ!」
体に電気が走った。立ち止まって振り返れば、伊吹は顔をしかめて頭を撫でていて、危うくぶつかりかけてこちらを見上げる。
イブキの墓参り、の話じゃなかったのか。
いや、その話しかしなかった、と思うのに。
「そういうのが見えたの」
「課長はそう疑ってたんですか」
逸らそうとしたつもりでなくても無意識に外したポイントを、伊吹がきっちり引き戻す。
見上げてくる瞳は月光を微かに跳ねて、暗い水のように見える。
「ちょっと、ね」
一瞬、そこに自分の全てが映されたような気がして、京介は顔を背けた。再び伊吹の手を握って山道を降り始めると、きゅ、と力を込められる。
見せて。
まるでそうねだられたような気がした。
沸き起こった衝動。何もかも伊吹に晒して楽になりたい。
同時に揺り返す激情。でも、できればもう少しだけ、伊吹の前ではまともな男でいたい。
打ち明けてしまえば、普通の付き合いなどできなくなるかもしれない。伊吹は京介を問題のある男だとして、曖昧に離れていってしまうか、表面を取り繕って、今より遠い距離を保とうとするかもしれない。
今のままもう少し頑張れば、それでも上司と部下でいられる。恋人にはなれなくても遠ざけられたりはしないだろう。
けれど。
けれど。
空を見上げた。どこかに進むべき道の啓示が現れないかと思った。
だが、空は静かに月を浮かべ、星を飾って広がっているだけだ。
「もともと恵子さんって言うのは、大輔の幼なじみで………でも、高校から大学までは孝の彼女だったんだよね」
「は?」
少し話してみよう。家の事情とか、人間関係とか、そういうありきたりなものから。
「だけど、恵子さんのお父さんが死んじゃって母子家庭になって、彼女は僕達の親父の会社の事務に入ったんだよ」
「あの、お父さんの会社って……」
「ああ、このあたりの材木を一手に扱ってたんだ。今はもうないけど」
一瞬伊吹が黙り込んで、何か早々にまずいことを口にしたのかと不安になった。握っている手がするりと抜かれて、じゃあこれでと逃げられやしないかと竦む。
「正真正銘の坊ちゃんだったのか」
ぽつりと呟かれた思いっきり見当違いの感想に、思わず、あのね、と睨んでしまった。
人の気持ちも知らないで、そんなきょとんとした顔で。
「すみません。それで?」
気を取り直して話を再開する。とにかく、現実に絞って話していけば、それほど拒まれはしないだろう。
「そうしたら、今度はそこで一緒に働いてた大輔と接近していっちゃって」
それほど単純な展開じゃなかったけれどね。
いっぱいいっぱいいろんなものが絡んでいて。
「僕は恵子さんと孝がうまく行ってると思ってた。彼女のお父さんが亡くなった時も、大輔と一緒に働くことになった時も、ちゃんと孝に相談してると思ってた、けど」
京介や孝がこんな傷を抱えていなければ。大輔が他に女がいれば。ついでに恵子が少しだけ孝の気持ちを考えてくれたなら。
あるいはまた、あの日京介が逃げきれたなら。あるいは『ぼけ』が救えたなら。
悲劇の何かは防げたんだろうか。
「違ったんだね」
おそらくは、きっと何も変わらなかったんだろう。
一番始めから縺れて絡んだ糸は、細かく切れることでしか解せず自由にならないのだろう。
諦めが、広がってきた。
「とにかく、恵子は大輔と結婚して、孝はホテルで殺されて」
掌の伊吹の手が、自分から京介の手を握らないように、京介がどれほど握り締めてもただただ柔らかく受け止められるように、求めても、無駄なのだ。
どれほど、欲しがっても、永遠にこれは手に入らない。
きっとそういうことなのだ。
辛くて、笑った。
わかった瞬間に、自分がどれほどこの手だけでも欲しかったのか、深く理解した。
「僕はもう、ここには戻らなくなった」
最後にそっと、握り締める。
二度と触れられないかもしれない、小さな手。
その手が示した信頼を、裏切らなかったからよしとするしかないんだろう。
京介一人が背負えばいいだけで、誰も巻き込むわけにはいかないのだ。
ただそういうことだろう。
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