『闇を闇から』

segakiyui

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第1章

5.ショーダウン(3)

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 あー、吐きそう。
 夕食の間中、京介は緊張し続けていた。
 大輔が親しそうに伊吹に話し掛けるのが気に触る。これみよがしに低い声で呟いて、え、すみません、なんて、と伊吹が大輔の口元へ体を近付けるたびに、胃がずきずきする。
 ついでに恵子が嬉しそうに何度もこちらを見遣っては微笑む、その顔にも吐きそうになる。
 魑魅魍魎の世界だよね、よくこの中で暮らしてるよ、子ども達。
 さすがの大輔も自分の子どもには手を出していないだろうな、と思って、笑えない冗談に目眩がした。
 そういう人間関係を伊吹は全く気付いていないようだ。
 出されたものは丁寧においしそうに食べていく。苦手なものもほとんどないのか、見慣れないものが出てくると、これは何ですか、と無邪気なほど明るく尋ねていて、家で恵子を助けている近所の女性があれやこれやと嬉しそうに教えていた。
「ごちそうさまでした」
 きちんと箸を揃えて置き、指先まで伸ばした手を合わせて伊吹は頭を下げる。
 そう言えば、食事を奢ったときもそんなふうにいただきます、と頭を下げていたな、とぼんやり思っていると、
「ああ、京介、ちょっと話がある」
 大輔がついでのように切り出してぎくりとした。
「もう少ししたら出なくちゃならないから、飯が済んだら部屋に来てくれ」
「今日でなくてもいいでしょう」
「明日も泊まるのか」
「いや」
「じゃあ今日中だ」
「伊吹さんを放っておくわけにいかないし」
「あ、私ならお部屋でひと休みさせてもらってますけど」
 伊吹があっさり突き放す。
「退屈しない?」
「大丈夫ですよ、一人で考え事するのも好きですし」
 にこりと笑った顔を思わず凝視した。
 僕は一人になりたくないんだけど。
 唇まで出かけたことばを何とか呑み込む。
「じゃあ、すみませんが、伊吹さん、ちょっとこいつを借りますよ」
 大輔が薄笑いする。
「おい、恵子」
「はい、お部屋に御案内しますね」
 どうぞ、と恵子まで席を離れて、それを合図に大輔が立ち上がる。
「おい」
「……わかった」
 促されてのろのろと席を立った。

 大輔の部屋は夫婦の部屋とは別にある、というのは初めて知った。しかも、それが母屋から離れているということも。
「増築したんだ」
 縁側に面した襖を開いて、大輔が顎をしゃくる。
「ふぅん」
 本当はぞくりと背中の付け根が縮むような気がした。覚られまいと京介は背筋を伸ばして部屋の中に入る。背後から続いた大輔がたん、と高い音をたてて襖を閉める。
 逃げ場はない、ってこと?
 振り返ると、唇の片端を上げた凄んだ笑みで大輔が笑っている。
「どういうつもりだ」
「何のこと」
「あんな女、連れ込んできて」
「言っただろう、伊吹さんは婚約者だよ」
「同僚だと言ってたぞ」
 ずい、と一歩前に進んだ大輔が同じぐらいの背の高さなのに、体つきで京介を圧倒するように顔を寄せてきた。
「抱けるのか、ええ」
「大輔には関係ないだろ」
「関係あるよ、兄貴としては大事な弟がちゃんと女を抱けるのか心配してやってるんじゃないか」
 下半身に伸びてきた手をぱん、と叩いた。
「罪悪感から?」
「何」
「僕におかしなことを仕掛けてた、その影響を心配してるとでも?」
 違うよね?
 じっと相手を見つめると、大輔がまた薄笑いする。
「おかしなこと?」
 くつくつ、と笑った。
「違うだろ、手ほどきってやつだ、あれは」
「……」
「どうすれば気持ちいいことができるかって教えてやったんだ、性教育だな」
「ふざけたことを言うなよ」
 震えそうになるのを押し殺す。今なら体力もある力もある、黙って襲われるようなことはない、たとえここが母屋から離れていても、抵抗し悲鳴を上げて騒げば、明らかになって困るのは大輔なのだ。
「なあ、勘違いしてないか」
「……」
「あの女、お前を男だと見てると思うか?」
 思いもかけないことを言われて、一瞬呆然とした。
「女にとって男は自分を抱くもんだ……誰かに抱かれるようなのは女にとっちゃ男じゃない」
「………」
「あの女がお前のことをどこまで知っているかわからないが、まあ話してみろよ、とっくりと。その上で、付き合ってく気になるかどうか」
 大輔が苦笑しながら肩を竦める。
「そこもじっくり聞いてみな?」
 たとえば、こういうことをされてとっさに逃げられない男なんか、好みなのかどうか。
 そう言って大輔は京介を壁に押し付けた。

 廊下をとぼとぼと戻ってきて、京介は伊吹の部屋の前で体を起こした。
 唇を横殴りに擦る。大輔の煙草の匂いがまだ残っているようで気持ち悪い。何度もうがいしてきたのだが、自分の脆さに泣き出したくなるほどがっかりしている。
 キスされただけだ。
 キスっていうか、口を塞がれただけだ。
 けれど、そうされたことが、見つけかけた出口まで塞がれたように思える。
「くそ…っ」
 どうして逃げなかった。どうして殴らなかった。どうして叫ばなかった。
 伊吹が自分を男としては見ていないと言われて、一瞬気持ちに空白ができた、その一瞬に付け込まれた。
 それが、予想以上に堪えている。
 もう十分大人になったから、そんなことなど起こらないと、起こっても対処できると思っていた。
 なのに、それが今もまた起こったということが、この先永遠に出られない牢獄に放り込まれたように思える。
 伊吹が居るはずの部屋には灯が入っていた。ちょっと襖を開けてみて、拒まれる様子もなかったから、そのまま開いて呆気に取られた。
「……伊吹……」
 部屋のまん中に敷かれた布団の上、上掛けも外さず大の字になっている大胆さもそうだが、初めて泊まる他人の家でくうくうと口を開いて寝息を立てているしたたかさもたいしたものだ。
「……よく眠ってるなあ……」
 疲れたんだよね、きっと。
 呟きつつ、襖を閉めてぺたりと側に座ってみたが、目を覚ます気配もない。
「不用心…」
 ゆっくりとした静かな呼吸に胸が上下している。温かそうで柔らかそうな胸が。
「伊吹……」
 そっと覗き込んだ。
「風邪引くよ」
「ん……」
 甘い鼻声が応じて、ずん、と腰が重くなった。
 男だと思っていない、って? なら、それはそれでやりようがあるよね?
 伊吹の体を跨いで両側に手をつき、耳元まで顔を降ろして囁く。
「添い寝してあげようか」
「……ん……」
 ふうわりした応答を是と取って、そっと体を降ろした。
「大胆なかっこで寝ちゃって」
 そういう格好で寝られるとさ、まるでどうぞ御自由にって言われてるようにしか見えないよ。
 くっつけた下半身はゆっくり境界から暖まってくる。大輔に押さえ付けられて凍えるほど寒かったのが、内側から静かに熱が戻ってきて、京介は吐息をついた。
「気持ち…いいな」
 もう少し重なりたい、と体重を乗せてしまったせいか、唸った伊吹が目を開ける。しばらくはぼんやりしてるだろうから、もう少しあったかいのを楽しませてもらおう、そう微笑んだ京介に、
「こら」
 はっきりした伊吹の声が響いた。
「あれ、起きちゃった」
「起きちゃった、じゃない」
 肉食獣が唸るみたいに伊吹がドスのきいた声を出す。
「だって、添い寝していいって言ったじゃないか」
「これは添い寝じゃないだろう」
 じろりと睨み上げてくる視線は猛々しい炎を宿している。どう見たって圧倒的にまずい状態、悲鳴をあげるか身もがくかのはずなのに、殺気立って細められた目はたじろいでもいない。
 さっきの僕と全然違う……凄いな。
 嬉しくてにこにこ笑いながら、自分が大輔になったような妙な気分になった。
「日本語は難しいねえ」
「叫びます」
「まさか」
 すう、とあっさり伊吹が準備に入った。まぎれもなく本気、それが取れる一番の方法だと確信しているようで迷いもためらいもない。
「はいはいはいはい、起きます起きます」
 残念。
 これでこんなに近付けるのは最後かもしれない、とふいに思って、意志を示すみたいに腰を押し付けてみる。けれど、突き飛ばされるのは今あまりにも辛いから、後は急いで体を離した。
「お風呂入れってさ」
 風呂をすすめられているのは本当、でも山道を歩くから後にしようと考えていたけれど。
「その後でお墓行こう」
 綺麗になったあったかな体を同じ場所で暴くのは運命って言うんだろうか。
「夜に?」
 訝し気に尋ねてくる伊吹に、そうだよ、ここまで踏み込んだのが悪いんだ、とあの頃の自分を罵倒したように胸の中で呟いて冷やかに笑う。
「雰囲気いいでしょ?」
 どうせ嫌われるなら、うんと派手に嫌われるのもまた一興。いっそ恨まれて殺してもらえればすっきりしてしまうかもしれないね?
 伊吹ならちゃんと仕留めてくれるだろう、僕なんかと違ってさ。
 京介は笑みを張りつけたまま背中を向けた。
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