『闇を闇から』

segakiyui

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第1章

3.オーバーラップ(4)

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「……………悔しいんだって」
 ゆっくりと目を開ける。
 コーヒーカップを両手で包んで見上げてくる伊吹に微笑む。
 そのカップになりたい、と一瞬願った。
 本当のことはきっと言えない。
 けれど、『イブキ』について話すことはできる。
「何にも努力しないで、僕にうんと愛されるのがむかつくんだって言ってたよ」

 どうして、こんなことするの?
 『たまたま』に納得できなかった。回数を重ねるごとに違う、違う、そんな理由じゃない、そう思っていた。
 折りに触れては尋ねてみた、どうしてこんなことするの?
『お前は可愛がられてるからな』
 たった一度だけ大輔が吐き捨てた。
『何も頑張らなくても何でもできてみんなに好かれてる……俺より、ずっと』
 すぐに忘れろ、と凄まれて、忘れたつもりになっていたけど、今思い出したのは昏く重い大輔の横顔。
『お前は俺の場所を汚す』

「……部屋をそれ以上汚さないようにって『イブキ』をくるんで隠しておいて」

 あいつがどこかの男と寝てできた子どものくせに。ゴミはゴミ置き場が似合うんだ。
 自分が両親の子どもではないのだと、そこでようやく知らされた。

「部屋には置いておけないからゴミ袋に入れてゴミ置き場に持っていったんだってさ」

 なのに。
『むかつくんだよ、なのに、なんでお前はそんなにみんなに好かれるんだ』
 苛立ってのしかかってきた大輔の叫び。
『なんで俺はお前が気になるんだ!』
 込み上げた、強い吐き気。
 なんだよ、それ。
 じゃあ大輔は。
 大輔は。

「追い掛けて、問いつめて、けれど、僕を好きだからだって言うんだ」

 伊吹の問いに応えているのか、それとも自分の奔流を堪えているだけなのか。わからなくなってきて、京介は強く目を閉じる。

「それが『好き』だって言う気持ちなら、僕は金輪際そんなものは要らない…っ」

 大輔の想いが絡みつく。相子の想いと絡み合う。
 『好き』だという気持ちで代弁させた『それ』は、京介を踏みにじっていく執着に他ならないのに。

 こくり、と伊吹がコーヒーを飲み込む音がして、のろのろと目を開けた。
 静かな瞳が見上げていた。
 京介の口にしたものはどろどろで濁った救いようのない物語だったはずなのに、伊吹の瞳は曇りもせずに澄んでいる。
「……ねえ」
 なんでそんなに静かなの。
「はい」
 柔らかな声が応じて、ふいと周囲の空気が温かくなった気がした。
「僕は今、どう見えてるの」
 きっと伊吹の目にはとんでもないものが見えているに違いない。
 職場でもどこでも、外には一切見えていない、じくじくと膿んで腐って京介自身さえ触れることができない部分。
 伊吹がぽつりと答えた。
「割れたガラスです」
 瞬きした。
 割れた、ガラス?
「そんなものが突っ込まれたら、誰だって一瞬手を引いてしまう」
 密やかで柔らかな苦笑に見愡れる。
「穏やかに言い包めるのがうまいと思ってたけど、そうじゃない、みんな、課長の奥にある割れたガラスに触って怪我をしないように無意識に攻撃を控えたんですよ」
 気付かないのかな、と京介はぼんやりと思った。
 その、割れたガラス、に今伊吹は両手を丸ごと突っ込んでいるのに。
 なぜ怪我をしていないんだろう、君は。
 なぜ静かなままなんだろう。
 なぜ、京介の淹れたコーヒーなんかここで飲んでいるんだろう、まるでどこかの宮殿で寛ぐような顔で。
「……そっか…」
 たぶん、伊吹には、割れたガラスは見えていない。
 きっと、何か、別のものが見えている。
 京介に見えている腐って膿んだ傷でもなく、みんなが恐れる割れ砕けたガラスでもなく、何か全く別のものが。
 だから伊吹はここまで京介を覗き込んでも怪我をしなくて、ただただ穏やかに側に居る。
 けれど、それはごまかしじゃないの?
 君は怖さの余り目を閉じて自分をごまかしているんじゃないの?
「武器、なくしちゃったかもしれないですね」
「え?」
「みんな安心して攻撃できるようになりますから」
「……どうかな」
 主語はみんな、なんだ。
 真崎は眼鏡を外し、目元を掌で擦りながら、苦笑する。
 伊吹は京介を見ているんだろうか。
 目の前に居てはくれるけど、遠巻きに眺めているだけなんじゃないだろうか。
「まだまだ火種を持ってるかもしれないよ?」
 もっと深く京介を知ったなら、伊吹も京介の中に割れたガラスを見るんだろうか。そのガラスで怪我をしまいと、急ぎ足に逃げていくんだろうか。
「まあ、でも」
 コーヒーを飲み終えた伊吹が立ち上がった。見上げた京介に瞳を細めた営業スマイルで応じ、
「コーヒー一杯分の仕事はしたみたいだし、私、帰りますね……ごちそうさまでした」
 コーヒー一杯分の仕事?
 京介の中に残酷な気持ちが沸き上がる。
 僕がコーヒー一杯のためにどんな思いをしたのか知らないくせに。
 知らせてやろうか?
 今ならできる、京介は男で伊吹は女だ。
 ここは京介のテリトリーで、力づくなら何でも奪える、あの時の大輔のように。どれほど悲鳴を上げたって、ここの防音は完璧だ、あの山の中のように。
 伊吹が、みんなが気付いている『割れたガラス』にも気付かないほど遠くからしか京介を見てくれないなら、無理矢理にでも引き寄せて、目の前にそれを突き付けてやろうか。他人事だと笑っている澄ました顔に、京介が何を考えているのか見せつけてやろうか。
 歩き出した伊吹の前に眼鏡を掛け直して立ち塞がった。
「黙って帰すと思ってる?」
 目の前の伊吹に自分が重なる。大輔に脅されて竦んでたじろいだ自分。
 割れたガラスに手を突っ込んで無事に済むわけないじゃないか。自分が何をしたのか、わかってないなら教えてやる。京介の味わった苦痛と恐怖がどんなものだったか、伊吹にはっきり思い知らせてやる。
 身体の底から荒々しくて濁って澱んだものが立ち上がる。
 そうだ、これで貫き犯してしまえば伝わるだろう、京介の傷みも澱みも苦しさも。
 けれど。
「はい」
 まっすぐ鮮やかに微笑まれて、ことばが空中で消えてしまった。
 透明で強くて綺麗な視線。
 抵抗できないほど深くまでぐさりと貫かれた気がして身体が震える。
 違う。
 見えている。
 伊吹には全部見えている、京介の中に今立ち上がってきた欲望さえも。
「……なんで?」
 尋ねた声が掠れているのがわかった。甘えるように響くのもわかった。
「だって、『イブキ』が見てますもん」
 イブキが、見ている。
 腰からまた疼くような痺れが走り上がった。
 遮る術なく全てを暴かれ晒されて、一番脆い部分に触れられている、そんな妄想が躯一杯に溢れ返って息を呑む。
「じゃあ、失礼しまーす」
 伊吹は平然と部屋を出ていく。引き止めたくても動けない。
 やがて背後でばたりと容赦なく、ドアが閉まる音が響いた。
「は…ぁ」
 呪縛を解かれて思わず床に座り込む。
 まるで京介が伊吹に襲われてしまったみたいだ。
「やば……」
 自分の身体を抱き締めて呟きながら、冷えた壁に過熱した額を当てた。
 気持ちいい。
 どうにかなりそうなほど気持ちいい。
 自分の何もかも伊吹に見抜かれ晒され暴かれていく、そう思うだけで呼吸が上がる。
 きっと伊吹の前でなら、京介は何も隠さずに済む、卑しさも汚さも愚かしさも全部必ず見通されるから。
「どうしよう……伊吹さん……僕」
 君がどうしても欲しいかもしれない。
 京介は久し振りに煽りたててくるものにくすくす笑った。
 
 
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