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第1章
3.オーバーラップ(2)
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「はい、着きましたよ、どうぞ」
「ありがとうー」
「じゃあいいですね」
「んー」
伊吹が手を離しかけたとたんにぱん、とドアの隣の壁を叩いてみせると、ぎょっとしたように見上げてきた。
「何」
「ふらついちゃった」
「あー……はいはい」
京介が鍵を出してドアを開ける間、ため息まじりに伊吹が腕を掴んで支えてくれる。
どこまでもどこまでもお人好しだね、こんなところまで、のこのこと。
胸の中で薄笑いしながら、京介はドアを開けて中に入る。よいしょ、と重そうに爪先を引きずれば、ちょっとお邪魔しますね、と伊吹も靴を脱いだ。
そのまま短い廊下を奥へ進む。突き当たりのドアを開けて、あ、そうそう、と思い出したように伊吹を振り向いた。
「さっきの玄関のところに猫があって」
「説明しなくていいから」
言いかけると伊吹がうんざりしたように唸って腕を離してしまった。部屋に入ったからもういいとでも思ったのか、身を翻して出ていってしまいそうになったのに不安になって、離されてしまった腕の寒さに体を竦めながらキッチンへ向かう。
「じゃあ、約束したからコーヒー淹れるね、適当に座ってて」
「それより」
「ん?」
「酔ってたんじゃなかったんですか」
振り向くと、伊吹が京介の足下を見ていた。
「酔ってないって言ったよ?」
「……酔ってるように見えましたよ」
「主観の相違ってやつだね」
さらりと流して棚からカップを物色する。ここのところあんまり戻ってなかったけど、キッチンもほとんど使ってなかったからそんなに汚れてはいないはずだ。
慣れた手順でコーヒーを淹れ出しながら、頭の奥に閃いた不愉快な感触を払おうと少し頭を振った。
『ちゃんと淹れないとどうなるか……わかってるよな?』
含み笑いが耳に蘇る。
ちゃんと淹れないとどうなるか。京介の一番嫌なやり方になる。
ちゃんと淹れるとどうなるか。大輔の一番好きなやり方になる。
実は二つの間にほとんど差はない。京介の一番嫌なやり方が、大輔の一番好きなやり方だというだけだ。
けれど、『ちゃんと淹れると』何かがどうにかなるんじゃないかと馬鹿な頭が一瞬期待し望みを持つ。丁寧に淹れて運んでいき、そしていつも望まない結果だけを受け取って、心はどんどん擦り切れる。
「………だましたんですか」
一瞬自分の声が零れたのかと思って、息が詰まった。
「人聞き悪いなあ」
かろうじて、軽く肩を竦めてみせて微笑む。
「僕は嘘なんてついてない。そう判断したのは伊吹さんだしね」
そうだ、大輔は嘘なんてついていない。判断したのは京介だ。
自分が何とかうまくやれば、酷い結果を招かずに済むんじゃないかと何度も虚しい願いを抱いた。
「……くそぉ」
伊吹が悔しそうに唸って、少し笑みを深める。
そうやって唸ってみたかったな、一度ぐらいは。
けれど、抵抗する気配を見せればもっと酷い状態になることの方を、京介は先に学習してしまっていた。
「それに酒に弱いのは事実だよ」
一番初めの時、面白いものを飲ませてやるよ、そう言われてコーラに混ぜて飲まされた酒が、京介の抵抗も動きも封じた。動けないままに、身体も頭も沸騰しそうに熱くて、泣き叫んだはずの声は掠れていた。
もっとも、両親とも近くに居なかったし、山の中だったから、どのみち何をしても無駄だったろうけれど。
「はい、どうぞ」
カップを仕方なさそうに座った伊吹の前に置く。
「飲んだらすぐ帰りますから」
うん、と頷いたものの、思い出した記憶にどうしても身体が寒くなって、伊吹の隣に腰を降ろす。と、すぐに体一つ分開けられて思わず相手を見た。
「冷たい」
「温かくしなくちゃいけない義理はないですし」
温かくしてほしいなんて言ってない、ただちょっと、凄く寒くて辛いから熱を少し分けて欲しかっただけだ、と京介は喉の奥で小さく呟く。
寒い……本当に寒い、今にも凍えて死にそうだ。
「一緒に食事したのに」
唇を尖らせて言いながら、また大輔のことが掠める。
「あそこに居た人はみんな『一緒に』食事してましたよ」
終わった後は放り出されるけれど、腹減っただろうと飯は作って食わせてくれた。
『一緒に』食事するってことは、僕を嫌ってないってことだよね? 嫌いだからこんなことするんじゃなくて、好きだからするんだよね?
そう言うと大輔は俺は食事を作ってやるから、お前はコーヒーを淹れるんだ、と命じた。
それでフィフティだろ?
楽しそうな大輔の笑い声が耳についてうるさい。
「コーヒー淹れたのに」
頭の中のフラッシュバックに圧倒されそうになりながら、京介は会話を続ける。
フィフティってどういうこと?
幼い声が尋ねている。
アイコってことだ、俺が食事を作る、お前がコーヒー淹れる、な、そういうことだ。それで全部アイコだろ、お前も気持ちよかっただろ?
大輔が笑う。
「……代金幾らですか?」
伊吹がそっけなく尋ねる。
「…………そんなことまでする?」
そっか、お金払って逃げるってのも手だったのかなあ。けれど、そんな小遣いも残ってなかったな。
「お金要らないから、とにかく僕を見てよ」
そうだよ、もうちょっと側に居てほしい。
京介は揺れる視界を必死に堪える。
今日は思っていたよりフラッシュバックがきつい。終わったはずの場面まで呼び出されてしまうのは、伊吹マジックの一つなんだろうか。
はぁ、とため息をついた伊吹が、コーヒーはおいしそうです、と頷いてほっとした。
「でしょ? ……僕、コーヒー淹れるのはうまいんだよ」
だって死活問題だったし。
それはさすがに言えなくて小さく笑うと、伊吹は何かを決めたような静かな瞳になった。
「………質問に答えて下さいね?」
「うん」
「まず、なんであそこにケージが置いたままになってるんです?」
いきなりリビングの隅のケージを指差されてどきりとした。しまった、と思ったのが半分、残りの半分はもうそんなものをちゃんと見ていたんだ、と言う驚き。
「ああ、片付けるのが面倒で」
「猫が死んだのはいつです?」
「……一年ほど前、かな」
京介は当たりさわりのない答えを心掛ける。
本当は片付けようとしたけれど、処分するゴミ収集車を思うと血の気が引きそうになって手を出せなくなったにせよ。
伊吹がわずかに首を傾げながら、玄関の方を振り返った。
「すみません、さっきは説明いらないって言ったけど、猫が置かれてたの、玄関の外側ですか?」
「……………ああ」
何だろう、今さらそんなことを?
「……最後に一つ、ケイって言うのは猫の名前?」
「………………そうだ」
必ず確認してくるこの内容、それほど『ケイ』って名前は不自然だっただろうか。
そう思いながらケージを見直して、あ、と気付いた。ケージにはまだ『イブキ』と札が残っている。
気付いただろうか? 気付いた、よね、伊吹なら。
きっとすぐにそれを聞かれるだろう。
京介が緊張した次の瞬間、柔らかな重い声がそっと呟いた。
「………つらかったですね」
体が、竦んだ。
「まさかそんなことをするとは思っていなかった、んですね」
そうだ、まさか、そんなことをされるなんて、思ってもみなかった。
全くそういうことを知らなかったわけじゃない、それなりに性的な興味もあった。けれど、まさか、自分が、まさか大輔に、まさかまさかまさか。
「……何か見えたの」
気がつくと尋ねていた。全身から音を立てて血液がどこかの暗い穴になだれ落ちていく。足首から力が抜けて、今にも倒れそうになっているのがわかった、ちょうど初めての時のように。世界が崩れ落ちていくみたいで、耳鳴りが激しくて伊吹が何か問いかけた、その声が聞こえない。
「見えるの……?」
まさか、大輔の姿が? 京介が傷ついたその場面が?
伊吹が首を振る。京介は瞬きして凝視し、必死に耳を澄ませる。ふいに声が戻ってきた。
「私は霊能力者じゃない、と言ったはずです。私は『見える』し『聞こえる』けれど、それは『見たり』『聞いたり』してるんじゃない。自分の推理や直感を視覚化したり聴覚化したりしている、そういうことです」
「………どういうこと」
自分の声が遠くから響いてきた。
「課長は一年前に死んだ猫のケージをずっと置いてて、しかもパニックになって飛び出すほどショックを受けてる。ケイ、という猫を大事にしてたのがよくわかる。なのに、その猫の悲惨な死に方には凄くクールです」
パニックになって飛び出したのは、ゴミ袋に入っていたイブキが自分に見えたからだ。血に塗れた体が小さく縮こまっていて、あの時の自分を思わせたからだ。捨てたはずのものが、血の臭いと一緒に蘇って。
しかも相子はたまたまだ、と言った。
『たまたまだ』
大輔は笑う。
『女じゃまずいだろ、で、お前がたまたま居たからな』
好きとか嫌いとかじゃなくて。ただ、そこに居たから。
そうして大輔は京介を心身ともに殺してしまった。
「死んじゃったものは……仕方ないよ」
京介はちゃんと返事できているのだろうか。
終わったことだ、済んだことだ、嘆いてももがいても、起こったことは取り返せない。なら忘れるしかない、忘れるに限る。記憶の底に封じて見ないに限る。
「ケイは家で飼われていた猫です。なのに、死んでいたのは玄関の外。しかも、そんな殺し方をマンションの廊下でなんてできるわけがない。どこかで殺したのを持ってきて置く、というのも不自然すぎる。一番スムーズにできるのは、家の中で殺して、外に放り出しておくってこと、つまり、誰かこの家に出入りしていた人の仕業だってことです」
京介はその夜高熱を出して体調を崩した。吐き戻してうなされた。医者が診察したけれど、ひどく下痢して出血してるし、食中毒かもしれません、と診断されて点滴されて寝かされた。おかしなものを食べたんじゃないか、と両親が尋ね、大輔が山の中で綺麗なきのこを見つけた、俺は食べなかったけれど、京介は食べたかもしれない、そう説明するのをうっすら聞いた。
両親はそんな説明を、信じた。
「僕かも知れないよね」
伊吹の視線を挑戦するように見返す。
そんな酷い目に合うことになってしまったのは京介に問題があったのかもしれない。そんなおかしな説明を両親が納得してしまえるようなことを、京介がしていたのかもしれない。
けれど、その説明はおかしいと、どうして『誰も』気付いてくれなかったのだ。
「課長はケイの話をしながらミニステーキ食べてました。酷いやり方だけど、もし自分で殺してたなら、とても食べられないですね。大事にしていたのに、殺されて、なのにそんな話を淡々とできるのは、課長の中でまだそれが『終わって』ないってこと、現実から遠いんです。だからケージは残しておく必要がある。けれど、あのケージには『イブキ』って書いてあります。『ケイ』じゃない」
そうだ、まだ『それ』は京介の中で終わっていない。むしろどんどん深く暗く大きくなっていくこの穴は、きっと誰にもわからない、はずだったのだ。いつか、京介がそれに呑み込まれて沈んでいってしまうまで。
でも、誰かに気付いて欲しかった。
空っぽになったケージの中に誰が居たのか。
ここに居る、空っぽになっている『真崎京介』という形の中に、一体誰が生きていたのか。
「猫の名前は『イブキ』です。だから課長は私にこだわった。御飯を食べるときに凄く嬉しそうだったり、初めて一緒に食事する女にデザート半分分けたりするの、私にしたんじゃない、『イブキ』にいつもしていたことじゃないですか」
伊吹は静かに京介を暴く。
だって、きっとお腹、減ってるんだよ、あそこに血塗れで転がったままだから。
京介はことばにならないことばで答える。
起き上がって大輔の後をついてったのはもう幽霊でさ、あそこに僕はずっと転がっている。あの山の中で。
けれど、同じように孝も転がってたんだ、最後まで同じ、ホテルで剥かれて殺されて。
「牟田さんが課長に好意を持っていること、執着してることは他から見てもよくわかる。課長が気付いていないはずがない。苦情やトラブルに親身になってうまく応対できる課長なのに、ささいな偶然かもしれないことで、牟田さんを人殺しだと決めてかかる、その理由は『イブキ』を殺したことがあるからじゃないですか」
丁寧に、底の底まで、深くまで。
伊吹は京介の中に降りてくる。
京介を殺した大輔。『イブキ』を殺した相子。ホテルで殺された孝に二人は見えない糸で繋がっている。
京介は凍りついたように見つめていた伊吹から視線を外してゆっくり目を閉じた。
「………課長は牟田さんとつき合っていたんですね?」
伊吹の声がこう聞こえる。
課長は大輔さんと付き合っていたんですね。
…………いや、違うな。
京介の中できりきり張っていたものが唐突に切れた。
僕はずっと、大輔のおもちゃだったんだ。
「ありがとうー」
「じゃあいいですね」
「んー」
伊吹が手を離しかけたとたんにぱん、とドアの隣の壁を叩いてみせると、ぎょっとしたように見上げてきた。
「何」
「ふらついちゃった」
「あー……はいはい」
京介が鍵を出してドアを開ける間、ため息まじりに伊吹が腕を掴んで支えてくれる。
どこまでもどこまでもお人好しだね、こんなところまで、のこのこと。
胸の中で薄笑いしながら、京介はドアを開けて中に入る。よいしょ、と重そうに爪先を引きずれば、ちょっとお邪魔しますね、と伊吹も靴を脱いだ。
そのまま短い廊下を奥へ進む。突き当たりのドアを開けて、あ、そうそう、と思い出したように伊吹を振り向いた。
「さっきの玄関のところに猫があって」
「説明しなくていいから」
言いかけると伊吹がうんざりしたように唸って腕を離してしまった。部屋に入ったからもういいとでも思ったのか、身を翻して出ていってしまいそうになったのに不安になって、離されてしまった腕の寒さに体を竦めながらキッチンへ向かう。
「じゃあ、約束したからコーヒー淹れるね、適当に座ってて」
「それより」
「ん?」
「酔ってたんじゃなかったんですか」
振り向くと、伊吹が京介の足下を見ていた。
「酔ってないって言ったよ?」
「……酔ってるように見えましたよ」
「主観の相違ってやつだね」
さらりと流して棚からカップを物色する。ここのところあんまり戻ってなかったけど、キッチンもほとんど使ってなかったからそんなに汚れてはいないはずだ。
慣れた手順でコーヒーを淹れ出しながら、頭の奥に閃いた不愉快な感触を払おうと少し頭を振った。
『ちゃんと淹れないとどうなるか……わかってるよな?』
含み笑いが耳に蘇る。
ちゃんと淹れないとどうなるか。京介の一番嫌なやり方になる。
ちゃんと淹れるとどうなるか。大輔の一番好きなやり方になる。
実は二つの間にほとんど差はない。京介の一番嫌なやり方が、大輔の一番好きなやり方だというだけだ。
けれど、『ちゃんと淹れると』何かがどうにかなるんじゃないかと馬鹿な頭が一瞬期待し望みを持つ。丁寧に淹れて運んでいき、そしていつも望まない結果だけを受け取って、心はどんどん擦り切れる。
「………だましたんですか」
一瞬自分の声が零れたのかと思って、息が詰まった。
「人聞き悪いなあ」
かろうじて、軽く肩を竦めてみせて微笑む。
「僕は嘘なんてついてない。そう判断したのは伊吹さんだしね」
そうだ、大輔は嘘なんてついていない。判断したのは京介だ。
自分が何とかうまくやれば、酷い結果を招かずに済むんじゃないかと何度も虚しい願いを抱いた。
「……くそぉ」
伊吹が悔しそうに唸って、少し笑みを深める。
そうやって唸ってみたかったな、一度ぐらいは。
けれど、抵抗する気配を見せればもっと酷い状態になることの方を、京介は先に学習してしまっていた。
「それに酒に弱いのは事実だよ」
一番初めの時、面白いものを飲ませてやるよ、そう言われてコーラに混ぜて飲まされた酒が、京介の抵抗も動きも封じた。動けないままに、身体も頭も沸騰しそうに熱くて、泣き叫んだはずの声は掠れていた。
もっとも、両親とも近くに居なかったし、山の中だったから、どのみち何をしても無駄だったろうけれど。
「はい、どうぞ」
カップを仕方なさそうに座った伊吹の前に置く。
「飲んだらすぐ帰りますから」
うん、と頷いたものの、思い出した記憶にどうしても身体が寒くなって、伊吹の隣に腰を降ろす。と、すぐに体一つ分開けられて思わず相手を見た。
「冷たい」
「温かくしなくちゃいけない義理はないですし」
温かくしてほしいなんて言ってない、ただちょっと、凄く寒くて辛いから熱を少し分けて欲しかっただけだ、と京介は喉の奥で小さく呟く。
寒い……本当に寒い、今にも凍えて死にそうだ。
「一緒に食事したのに」
唇を尖らせて言いながら、また大輔のことが掠める。
「あそこに居た人はみんな『一緒に』食事してましたよ」
終わった後は放り出されるけれど、腹減っただろうと飯は作って食わせてくれた。
『一緒に』食事するってことは、僕を嫌ってないってことだよね? 嫌いだからこんなことするんじゃなくて、好きだからするんだよね?
そう言うと大輔は俺は食事を作ってやるから、お前はコーヒーを淹れるんだ、と命じた。
それでフィフティだろ?
楽しそうな大輔の笑い声が耳についてうるさい。
「コーヒー淹れたのに」
頭の中のフラッシュバックに圧倒されそうになりながら、京介は会話を続ける。
フィフティってどういうこと?
幼い声が尋ねている。
アイコってことだ、俺が食事を作る、お前がコーヒー淹れる、な、そういうことだ。それで全部アイコだろ、お前も気持ちよかっただろ?
大輔が笑う。
「……代金幾らですか?」
伊吹がそっけなく尋ねる。
「…………そんなことまでする?」
そっか、お金払って逃げるってのも手だったのかなあ。けれど、そんな小遣いも残ってなかったな。
「お金要らないから、とにかく僕を見てよ」
そうだよ、もうちょっと側に居てほしい。
京介は揺れる視界を必死に堪える。
今日は思っていたよりフラッシュバックがきつい。終わったはずの場面まで呼び出されてしまうのは、伊吹マジックの一つなんだろうか。
はぁ、とため息をついた伊吹が、コーヒーはおいしそうです、と頷いてほっとした。
「でしょ? ……僕、コーヒー淹れるのはうまいんだよ」
だって死活問題だったし。
それはさすがに言えなくて小さく笑うと、伊吹は何かを決めたような静かな瞳になった。
「………質問に答えて下さいね?」
「うん」
「まず、なんであそこにケージが置いたままになってるんです?」
いきなりリビングの隅のケージを指差されてどきりとした。しまった、と思ったのが半分、残りの半分はもうそんなものをちゃんと見ていたんだ、と言う驚き。
「ああ、片付けるのが面倒で」
「猫が死んだのはいつです?」
「……一年ほど前、かな」
京介は当たりさわりのない答えを心掛ける。
本当は片付けようとしたけれど、処分するゴミ収集車を思うと血の気が引きそうになって手を出せなくなったにせよ。
伊吹がわずかに首を傾げながら、玄関の方を振り返った。
「すみません、さっきは説明いらないって言ったけど、猫が置かれてたの、玄関の外側ですか?」
「……………ああ」
何だろう、今さらそんなことを?
「……最後に一つ、ケイって言うのは猫の名前?」
「………………そうだ」
必ず確認してくるこの内容、それほど『ケイ』って名前は不自然だっただろうか。
そう思いながらケージを見直して、あ、と気付いた。ケージにはまだ『イブキ』と札が残っている。
気付いただろうか? 気付いた、よね、伊吹なら。
きっとすぐにそれを聞かれるだろう。
京介が緊張した次の瞬間、柔らかな重い声がそっと呟いた。
「………つらかったですね」
体が、竦んだ。
「まさかそんなことをするとは思っていなかった、んですね」
そうだ、まさか、そんなことをされるなんて、思ってもみなかった。
全くそういうことを知らなかったわけじゃない、それなりに性的な興味もあった。けれど、まさか、自分が、まさか大輔に、まさかまさかまさか。
「……何か見えたの」
気がつくと尋ねていた。全身から音を立てて血液がどこかの暗い穴になだれ落ちていく。足首から力が抜けて、今にも倒れそうになっているのがわかった、ちょうど初めての時のように。世界が崩れ落ちていくみたいで、耳鳴りが激しくて伊吹が何か問いかけた、その声が聞こえない。
「見えるの……?」
まさか、大輔の姿が? 京介が傷ついたその場面が?
伊吹が首を振る。京介は瞬きして凝視し、必死に耳を澄ませる。ふいに声が戻ってきた。
「私は霊能力者じゃない、と言ったはずです。私は『見える』し『聞こえる』けれど、それは『見たり』『聞いたり』してるんじゃない。自分の推理や直感を視覚化したり聴覚化したりしている、そういうことです」
「………どういうこと」
自分の声が遠くから響いてきた。
「課長は一年前に死んだ猫のケージをずっと置いてて、しかもパニックになって飛び出すほどショックを受けてる。ケイ、という猫を大事にしてたのがよくわかる。なのに、その猫の悲惨な死に方には凄くクールです」
パニックになって飛び出したのは、ゴミ袋に入っていたイブキが自分に見えたからだ。血に塗れた体が小さく縮こまっていて、あの時の自分を思わせたからだ。捨てたはずのものが、血の臭いと一緒に蘇って。
しかも相子はたまたまだ、と言った。
『たまたまだ』
大輔は笑う。
『女じゃまずいだろ、で、お前がたまたま居たからな』
好きとか嫌いとかじゃなくて。ただ、そこに居たから。
そうして大輔は京介を心身ともに殺してしまった。
「死んじゃったものは……仕方ないよ」
京介はちゃんと返事できているのだろうか。
終わったことだ、済んだことだ、嘆いてももがいても、起こったことは取り返せない。なら忘れるしかない、忘れるに限る。記憶の底に封じて見ないに限る。
「ケイは家で飼われていた猫です。なのに、死んでいたのは玄関の外。しかも、そんな殺し方をマンションの廊下でなんてできるわけがない。どこかで殺したのを持ってきて置く、というのも不自然すぎる。一番スムーズにできるのは、家の中で殺して、外に放り出しておくってこと、つまり、誰かこの家に出入りしていた人の仕業だってことです」
京介はその夜高熱を出して体調を崩した。吐き戻してうなされた。医者が診察したけれど、ひどく下痢して出血してるし、食中毒かもしれません、と診断されて点滴されて寝かされた。おかしなものを食べたんじゃないか、と両親が尋ね、大輔が山の中で綺麗なきのこを見つけた、俺は食べなかったけれど、京介は食べたかもしれない、そう説明するのをうっすら聞いた。
両親はそんな説明を、信じた。
「僕かも知れないよね」
伊吹の視線を挑戦するように見返す。
そんな酷い目に合うことになってしまったのは京介に問題があったのかもしれない。そんなおかしな説明を両親が納得してしまえるようなことを、京介がしていたのかもしれない。
けれど、その説明はおかしいと、どうして『誰も』気付いてくれなかったのだ。
「課長はケイの話をしながらミニステーキ食べてました。酷いやり方だけど、もし自分で殺してたなら、とても食べられないですね。大事にしていたのに、殺されて、なのにそんな話を淡々とできるのは、課長の中でまだそれが『終わって』ないってこと、現実から遠いんです。だからケージは残しておく必要がある。けれど、あのケージには『イブキ』って書いてあります。『ケイ』じゃない」
そうだ、まだ『それ』は京介の中で終わっていない。むしろどんどん深く暗く大きくなっていくこの穴は、きっと誰にもわからない、はずだったのだ。いつか、京介がそれに呑み込まれて沈んでいってしまうまで。
でも、誰かに気付いて欲しかった。
空っぽになったケージの中に誰が居たのか。
ここに居る、空っぽになっている『真崎京介』という形の中に、一体誰が生きていたのか。
「猫の名前は『イブキ』です。だから課長は私にこだわった。御飯を食べるときに凄く嬉しそうだったり、初めて一緒に食事する女にデザート半分分けたりするの、私にしたんじゃない、『イブキ』にいつもしていたことじゃないですか」
伊吹は静かに京介を暴く。
だって、きっとお腹、減ってるんだよ、あそこに血塗れで転がったままだから。
京介はことばにならないことばで答える。
起き上がって大輔の後をついてったのはもう幽霊でさ、あそこに僕はずっと転がっている。あの山の中で。
けれど、同じように孝も転がってたんだ、最後まで同じ、ホテルで剥かれて殺されて。
「牟田さんが課長に好意を持っていること、執着してることは他から見てもよくわかる。課長が気付いていないはずがない。苦情やトラブルに親身になってうまく応対できる課長なのに、ささいな偶然かもしれないことで、牟田さんを人殺しだと決めてかかる、その理由は『イブキ』を殺したことがあるからじゃないですか」
丁寧に、底の底まで、深くまで。
伊吹は京介の中に降りてくる。
京介を殺した大輔。『イブキ』を殺した相子。ホテルで殺された孝に二人は見えない糸で繋がっている。
京介は凍りついたように見つめていた伊吹から視線を外してゆっくり目を閉じた。
「………課長は牟田さんとつき合っていたんですね?」
伊吹の声がこう聞こえる。
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…………いや、違うな。
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