『闇を闇から』

segakiyui

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第1章

2.闇から見る眼(3)

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 伊吹美並は順調に仕事を覚えていった。
 いろいろなアルバイトをしていたというせいもあるのか、人慣れも早いし、応対も丁寧だ。他課での反応も客からの評判も悪くない、むしろ相子一人で応対していたときよりは迅速に用件が繋がる、と京介は何度か取り引き先から喜ばれた。
 注意して見ていると、事務の主な仕事はほとんど石塚がやっていて、相子はその補佐や雑務メインだったと改めてわかる。細々とした処理を伊吹がし始めて、石塚の机は見る見る片付いていった。
 勢い、相子のしていた仕事が減り、相子が普通に出勤している時には手持ち無沙汰になることが増えたようだったし、暇を持てまして絡まれるのも嫌なので、他の課の仕事をこれ幸いと請け負って伊吹に頼むようになった。
 相子に直接頼まなかったのは、各種の指示や説明などで一緒に居る時間が増えることを避けたせいだ。
 他の課に配慮がいるものなどは伊吹がうまくこなせるかと少し気になったが、一度したミスはすぐにポイントを突いて確認してくるし、次はしない。石塚の早さはないが、行き届いて十分なものだ。
 ありゃ、拾いもんだったなあ。
 高山が羨ましげに呟いて、それには無難に微笑で応じておいた。仕事を年齢で判断するのは職種によるということを、この年代はいつまでたっても理解しないな、と思ったのはちらとも見せず、何かあったら御相談に乗りますよ、と笑った。
 石塚と違い、相子との折り合いもそれほど悪くない。
 そう思っていたのが間違いだったとはすぐわかった。
 頼んでおいた仕事が間に合わないことがでてきた。今までの仕事の覚え方やペース配分から考えると、どう考えても奇妙だ。
 しかも、京介が課にいないとき、会議などで不在にするときに仕事が遅れがちになる。
 伊吹自身はほとんど言い訳しない。申し訳ありません、まだ終わってないんですが、後二十分ぐらいで終わります、間に合いますか、と穏やかに尋ねてくるだけだ。そして、その時間には次は確実に上がってくる。だから、単にずるずるとできないというのではない。
「………じゃあ、簡単なことだよね」
 自販機の前でコーヒーを呑みながら、京介は一人ごちる。
 行動は人を語る。
 どれほど立派なことを言い、どれほど誠意あふれることばを重ねようと、その通りに体を動かすかどうかというのは別モノだ。
 一所懸命頑張っているのにできないならば、自分の能力を過信しているということだ。何度もそれを繰り返すのに、次もまた引き受けるというのは自分が有能であると思い込みたいという願いが大きい。できるはずだ、できてほしい、そう思うのは誰もだが、現実に為遂げてこそだろう。あいつは口先だけだと、曖昧にあるいは時にははっきりと信用を失っていく、本人の誠意や善意とか無関係なレベルで。
 そうではなくて、確信犯として夢を語り幻を約束するのなら、それはそれで実は被害が少ない。なぜならできないことを本人は自覚している。それに必要な能力を自分が備えてないことを知っている。だんだんとことばが大仰になり、派手になり、大胆な未来を語り出す。だから、周囲は身構えて付き合うか、あるいは最初から相手にしなくなる。可愛い妄想野郎だな、勢いづけに呼んでおくか。影で嗤われていても、本人は気付かない。
 もう少しやっかいな状態で、仕事を頼まれて切羽詰まると、各種トラブルに巻き込まれてできなくなる、というのがある。本人は気付いていない。自分ではできると思い、周囲もできると信じ、ところがいざ始めてみると、さまざまな問題が当人を襲う。当人の責任ではない、と本人は感じ、周囲もそう考える。だが、理由はどうあれ、とにかく頼んだものはできないし、あてにしていた助けにはならないのだから、トラブルに紛れるように関係が途切れていく。本人はよくわからない。わからないままに、いろんなものを失っていく。
 では、伊吹はどれか?
「能力の過信は……ない、な」
 頼んだ仕事が経験がなかった場合には仕上がりを読み違えることもあるが、次はその分を見込んだ時間を申し出てくるし、理解できていないことははっきり伝えてくる。
 それは、自分の能力をきちんと把握しているということだ。
「確信犯でもない」
 たとえば相子みたいに、と考えてくすくす笑った。
 フルコース作れるの、と言ったのはいいが、でてきたのはスープとステーキとサラダと果物だったことがある。確かにコースメニューだが、フルコースとは言いがたいなと思っていると、頑張ったのよ、と本を広げてみせた。善意と誠意を見てほしい、というところなのだろう。
 けれど、そこに書かれているのをよく見れば、このあたりでは揃えるのが難しい材料もあり、始めから適当なところで手を打っておこうとしたのは見え見えで、それぐらいなら肉じゃがを丁寧に作ってくれればいいのに、と思ったことがある。
 『フルコースを作って恋人に食べてもらって喜んでもらう』というのが相子の願望、つまりは『そういう自分』が好きなのであって、『京介に何かおいしいものを食べさせてやろうとした』のではないということだ。
「この間のおにぎり……おいしそうだったな……」
 伊吹が寄るところがあったので昼を食べてない、と申し出たから、休憩室を教えて、後でわかったかなと見に行ったら、アルミホイルに包んだ手作りらしいおにぎりをぱくりと銜えたところだった。
 おにぎりだけなの、と笑ったら、朝、御飯しかなかったんです、と真面目な顔で返されて、けれどふりかけは三種類使ってますよ、と見せてもらったのがちょうど食べかけのやつで、噛み取られて崩れかけた御飯粒がつやつや光ってうまそうだった。
 思わず凝視してしまったら、大丈夫、夕飯で栄養取摂りますから、と見当違いの反論をされて、それもまた楽しかったけれど。
「トラブル……もない」
 むしろ、見ている限りは逆だ。
 一度、京介が課に居るときに激怒した客からの電話があったけれど、それで少なくとも三十分は対応していたはずなのに、その後見る見る手際よく動いて、結果としてはいつもより十分遅れ程度におさめた。アクシデントには強いし、それを遅延の理由にすることもない。
「ならば」
 不愉快なケースだなあ、と京介は呟きながら立ち上がる。
 まだコーヒーの入った紙コップを手にしたまま、のんびりと廊下を歩いていって、戻るはずのなかった時間に唐突に課に戻ってみると、中には伊吹しかいない。
「……」
「あ、おかえりなさい」
 顔を上げた伊吹はうっすらと汗をかいていた。片手に受話器、しきりにメモを取って、次々と電話をかけている。机の上には未処理らしい書類と封筒が積み重なったままで、京介が昼に出たときから量が減っていない。
「トラブル?」
「大丈夫です……納得して頂けました」
 にこりと笑った相手がメモを牟田の机に置いた。すぐに机に戻って作業を始める伊吹にさりげなく近寄りながら、京介はメモの内容を確かめ、重なった書類を見つめる。
「石塚さんは?」
「お昼です」
「牟田さんは?」
「……経理に行かれました、急ぎだとかで」
 一瞬微妙な間が空いたので目を上げたが、伊吹は既に目の前の仕事に没頭しているようだ。
「そう………じゃ、僕ここに居ようかな」
「え」
「……え、って何」
 だってさ、伊吹さん一人じゃ電話受付と書類と全部やんなきゃいけないでしょ? だから、今僕電話番しようかなあと、と続けると考え込んだ顔で尋ねられる。
「課長……お昼は」
「もう終わった」
「でも、まだ休憩時間ですよね?」
「ここで休憩するよ」
 伊吹さんの顔も見られるしね?
 そう笑うと、相手は微かに眉を寄せた。
「邪魔?」
「いえ」
「ああ、そうだ」
 コーヒーを飲み干して、一番上の書類を取り上げる。
「これ、僕が石塚さんに頼んだやつだから、僕がするね」
「あ、はい」
「ついでにこれもやっちゃおうかな、ほら、僕って有能だし」
「……」
 もう一枚取り上げて、伊吹が小さく引きつるのにくすくす笑って席に戻り、小さく呟いた。
「不愉快なケース、だったか」
 メモは相子が半端な対応をしたせいで放置されていたトラブルの件、積んだ書類の上に載っていたのは石塚が自分が処理すると京介に請け負って引き受けたものだ。ついでに、昼休みには他部署も人手がないのでこちらに電話が回ってくることが多い、それを石塚も牟田も知っているし、内規としても二人は課に残ることになっているはずだが、申し合わせたように二人ともいなくなっているあたり。
「すみません」
「いいの、管理不行届きってやつだから」
「は?」
「こっちの話」
 きょとんとする伊吹に微笑み返しながら、手にした紙コップをぐしゃりと握り潰してゴミ箱に放り込む。
 で、それに気付かないんだね、この人は。
 見やった伊吹の額に落ちた髪に目を奪われて、今まで動かなかったものが動いた気がした。
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