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第5章
11.天に還る(13)
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ちりん。
風鈴が鳴って、美並は顔を上げる。
さっきまで見えなかったのに、風鈴の背後には晴れ渡った青空があった。
風が吹き抜ける。
『よく晴れたね』
背後からやってきて、隣に立った人が微笑んで見下ろす。
『課長…』
風に前髪を嬲らせて、そう言えば最近長めだった、とやさしく見上げる。
『いい風ですね』
『気持ちいいよ』
皺一つないシャツに包まれた腕を差し上げて、ゆっくり伸びをする。閉じた目、頬に睫毛が影を落としている。
『長い間、曇っていた』
『はい』
『いつ止むのかわからない雨の中で』
『はい』
『どこにも行けず、どこにも還れず』
『…はい』
それは美並の気持ちそのものだ。
足元を見下ろすと、なんと裸足だった。ストッキングさえ履いていない。濃い緑の草原、所々に小さな白い花が咲いている。
『…ここは天国ですか』
俯いたまま尋ねた。
『あなたは課長の姿をした、天使か何かで』
裸足に草が触れる。くすぐったくて、それでも穏やかな日差しが気持ちいい。
『私はひょっとして、あれこれ踏み越えてしまったから、あの世界に戻れなくなったんですか』
さっき見た赤来の棲まう闇の光景が、幻だとは思えなかった。孝の死の真相も真実ではなくとも近いのかもしれない。
境界を踏み越えて、美並はとうとう世界から外されてしまったのか。
『もしそうだとしたら』
隣のスラックス姿の真崎は静かに問い返す。
『君はここに来るのに躊躇した?』
『いいえ』
即答した。
『決めていましたから』
自分の能力をどう使えばいいのか、ずっと悩んでいた。どう使えば誰かの役に立てるのか。誰かの痛みを減らせるのか。意味があったと思えるのか。
結論は酷くてシンプルだった。
誰も傷つけずに、力を使うことはできない。
ならば、問題は、いつ、誰に、どう使うか、それだけだ。
『課長を…尊敬しています』
もう戻れないかもしれないが、それなら今この相手に、気持ちを素直に伝えておこう。ひょっとすると気まぐれで、真崎に届けてもらえるかもしれない。
『僕を?』
訝しそうな口調も真崎そのままでくすりと笑う。
『はい』
『僕は情けなくてみっともなくて、迷ったり悩んだりいじけたりばかりしてる、つまんない男だよ』
ああ確かに真崎ならそう言うだろう。
『美並の方がずっと凄い』
柔らかく呟かれる声に涙が出そうになる。
『いいえ……いいえ、あなたは全然わかっていない』
思わず反論する。裸足の爪に落ちた雫はないことにする。
『課長は、いつもちゃんと、わかってました』
赤来と話した後だからこそ、よくわかるのかも知れないが。
『自分のしていることが、良いことなのか、悪いことなのか、いつもちゃんと考えてた。わからないとか、知らないとか、課長の身に起こったことで、そんな風にとぼけて良いことなんて山ほどあったのに、課長はいつもちゃんと決めていた』
大輔に襲われたのは悪いこと。
孝を探さなかったのは悪いこと。
美並と出会ったのは良いこと。
美並を守るのは良いこと。
『自分の不利になることも一杯あったのに、一つもないことなんかにしないで、全部抱えて、壊れかけてるのにちゃんと抱えて』
恵子に巻き込まれたのは悪いこと。
美並に愛されるのは良いこと。
『迷っても悩んでも、一つ一つ選んで決めて』
『正しくないこともあったよ』
『正しさなんて意味がないです』
雫が数を増していく。足が濡れて風に冷える。
『もし、正しさがあるとしたら、自分が悪いことだと決めたことを絶対しないってことです』
真崎は変わろうとし続けた。
『わからないとか、いつかとか、そう言うことばで逸らさないで』
約束するから、美並。
お願いだから、もう一度チャンスを。
幸せになるから。
『あなたは何にもわかっていない』
この能力を与えたのが誰かは知りませんし、知りたくもありませんが。
『私の願いを叶えてくれたのは京介だけです』
だからこの後二度とあの世界へ戻れなくても後悔などしない。
『私は、私の能力を、かけがえのない相手に、二度とない時に、絶対必要な形で使いました』
顔を上げる。
びしょびしょになった顔を見下ろす、優しい真崎の笑顔に涙が溢れる。
『そのどこに後悔する要素がありますか』
『…美並』
近寄ってきた真崎が顔を包んでキスしてくれる。
額に、両頬に、そしてそっと抱き締めて、髪に。
『僕は、あなたを尊敬する』
真崎の声は体を通して響くより、何か周囲の空気を震わせるように届いた。
『あなたが行なった全ての選択と、それに伴う全ての責務に、敬意を表する』
愛しい人。
大切な人。
『あなたの望むように』
もう一度髪にキスが落とされる。
『それから…』
くす、と小さく笑い声が漏れた。
『唇は彼に残しておこう』
帰れる。
閃いた確信に拳を握る。
『うっ……あああああ!!!』
美並は、泣いた。
第5章終了
風鈴が鳴って、美並は顔を上げる。
さっきまで見えなかったのに、風鈴の背後には晴れ渡った青空があった。
風が吹き抜ける。
『よく晴れたね』
背後からやってきて、隣に立った人が微笑んで見下ろす。
『課長…』
風に前髪を嬲らせて、そう言えば最近長めだった、とやさしく見上げる。
『いい風ですね』
『気持ちいいよ』
皺一つないシャツに包まれた腕を差し上げて、ゆっくり伸びをする。閉じた目、頬に睫毛が影を落としている。
『長い間、曇っていた』
『はい』
『いつ止むのかわからない雨の中で』
『はい』
『どこにも行けず、どこにも還れず』
『…はい』
それは美並の気持ちそのものだ。
足元を見下ろすと、なんと裸足だった。ストッキングさえ履いていない。濃い緑の草原、所々に小さな白い花が咲いている。
『…ここは天国ですか』
俯いたまま尋ねた。
『あなたは課長の姿をした、天使か何かで』
裸足に草が触れる。くすぐったくて、それでも穏やかな日差しが気持ちいい。
『私はひょっとして、あれこれ踏み越えてしまったから、あの世界に戻れなくなったんですか』
さっき見た赤来の棲まう闇の光景が、幻だとは思えなかった。孝の死の真相も真実ではなくとも近いのかもしれない。
境界を踏み越えて、美並はとうとう世界から外されてしまったのか。
『もしそうだとしたら』
隣のスラックス姿の真崎は静かに問い返す。
『君はここに来るのに躊躇した?』
『いいえ』
即答した。
『決めていましたから』
自分の能力をどう使えばいいのか、ずっと悩んでいた。どう使えば誰かの役に立てるのか。誰かの痛みを減らせるのか。意味があったと思えるのか。
結論は酷くてシンプルだった。
誰も傷つけずに、力を使うことはできない。
ならば、問題は、いつ、誰に、どう使うか、それだけだ。
『課長を…尊敬しています』
もう戻れないかもしれないが、それなら今この相手に、気持ちを素直に伝えておこう。ひょっとすると気まぐれで、真崎に届けてもらえるかもしれない。
『僕を?』
訝しそうな口調も真崎そのままでくすりと笑う。
『はい』
『僕は情けなくてみっともなくて、迷ったり悩んだりいじけたりばかりしてる、つまんない男だよ』
ああ確かに真崎ならそう言うだろう。
『美並の方がずっと凄い』
柔らかく呟かれる声に涙が出そうになる。
『いいえ……いいえ、あなたは全然わかっていない』
思わず反論する。裸足の爪に落ちた雫はないことにする。
『課長は、いつもちゃんと、わかってました』
赤来と話した後だからこそ、よくわかるのかも知れないが。
『自分のしていることが、良いことなのか、悪いことなのか、いつもちゃんと考えてた。わからないとか、知らないとか、課長の身に起こったことで、そんな風にとぼけて良いことなんて山ほどあったのに、課長はいつもちゃんと決めていた』
大輔に襲われたのは悪いこと。
孝を探さなかったのは悪いこと。
美並と出会ったのは良いこと。
美並を守るのは良いこと。
『自分の不利になることも一杯あったのに、一つもないことなんかにしないで、全部抱えて、壊れかけてるのにちゃんと抱えて』
恵子に巻き込まれたのは悪いこと。
美並に愛されるのは良いこと。
『迷っても悩んでも、一つ一つ選んで決めて』
『正しくないこともあったよ』
『正しさなんて意味がないです』
雫が数を増していく。足が濡れて風に冷える。
『もし、正しさがあるとしたら、自分が悪いことだと決めたことを絶対しないってことです』
真崎は変わろうとし続けた。
『わからないとか、いつかとか、そう言うことばで逸らさないで』
約束するから、美並。
お願いだから、もう一度チャンスを。
幸せになるから。
『あなたは何にもわかっていない』
この能力を与えたのが誰かは知りませんし、知りたくもありませんが。
『私の願いを叶えてくれたのは京介だけです』
だからこの後二度とあの世界へ戻れなくても後悔などしない。
『私は、私の能力を、かけがえのない相手に、二度とない時に、絶対必要な形で使いました』
顔を上げる。
びしょびしょになった顔を見下ろす、優しい真崎の笑顔に涙が溢れる。
『そのどこに後悔する要素がありますか』
『…美並』
近寄ってきた真崎が顔を包んでキスしてくれる。
額に、両頬に、そしてそっと抱き締めて、髪に。
『僕は、あなたを尊敬する』
真崎の声は体を通して響くより、何か周囲の空気を震わせるように届いた。
『あなたが行なった全ての選択と、それに伴う全ての責務に、敬意を表する』
愛しい人。
大切な人。
『あなたの望むように』
もう一度髪にキスが落とされる。
『それから…』
くす、と小さく笑い声が漏れた。
『唇は彼に残しておこう』
帰れる。
閃いた確信に拳を握る。
『うっ……あああああ!!!』
美並は、泣いた。
第5章終了
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