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第5章
1.翻す手(2)
しおりを挟む 緩めたネクタイをうっとうしそうに跳ね上げつつ近づいてきたのは高崎、その相手を見上げた志賀が一言、
「遅い」
ぼそりと呟いた声に微かな柔らかさが漂って、京介は改めて相手を見直した。
「すいません、課長!」
思いっきり寝坊しましたっ。
ひきつり笑いをした高崎が流れ落ちる汗を手の甲で横殴りにしつつ、がばっと頭を下げる。
「朝、起きてたじゃないか」
確か朝の連絡ではしっかり起きていたけれど、そう思って返すと、側の志賀がぎくりとした顔でこちらを見やる。
「?」
「それが、夕べ一晩中だったじゃないですか」
きょとんとした京介に高崎が苦笑しつつ、体を寄せ、片目をつぶって囁いた。
「ひさしぶりだったから、つい夢中になって…すみません」
けど、課長タフですよね。
「俺なんか一晩でダウンですし」
「高崎っ」
いきなり志賀が固い声で割り込んできた。
「いい加減にしろ、仕事中だろ」
「仕事の話だよ? 何お前カリカリしてんの?」
「そんなのが仕事か」
さっきまでのクールな印象はどこへ吹っ飛んだのか、志賀はきりきりしながら高崎をねめつけている。
「仕事だよ?」
高崎は突然怒り出した志賀に困惑したように繰り返す。
「付き合いっていうのは大事だろ?」
考えてみれば志賀が高崎が夕べ何をしていたか知っているはずはなく、なのになぜそこまで激怒したかということも不思議なはずなのに、二人の言い合いは見る見るエスカレートしていく。
「そういうのを付き合いとは言わない」
「じゃあどういうのを付き合いって言うんだ」
男同士、じっくり一晩、どこが悪い。
「誰に迷惑かけてるって言うんだ」
ぐ、と志賀が詰まった顔になって体を引いたが、すぐに身を乗り出して高崎をなじる。
「っ、支障を来たしてるだろう、今現に」
「ちゃんと謝ったぞ、俺は」
それにこれはどっちかっていうと俺と課長の問題で、お前に関係ないだろ?
「う」
ぐいぐい詰め寄っていた志賀が、ふいに棒を呑み込んだように立ち竦み、続いてぎろりと京介を睨む。
「はい?」
なんで僕睨まれてるの? っていうか、この妙な展開は。
「ったく、詰まってきてんのはお互いさまだろ、大体」
そんなちゃらちゃらしたカッコして仕事してるような奴に言われたくないね。
志賀の表情に気づかないまま、高崎はがしがしと頭をかきむしりつつ溜め息をつく。
「何だよ、その髪、染めたのか? 似合わねえって」
「……」
「彼女の趣味か? 何色気出してんだよ」
高崎がうっとうしそうに言い捨てたとたん、あからさまに志賀の顔色が白くなった。
その二人のやりとりを眺めていて、ようやく京介の頭に様々な事情が噛み合う。
「あー…なるほど」
この気配、どうも覚えがあると思ったはずだ。
彼女を京介に盗られたと勘違いした男が怒鳴り込んで来たときとそっくりなんだよね、と思い出した。
志賀は今日高崎が打ち合わせに来ると思っていた。だからこそ、それなりに服装にも気合いを入れていたはずで、そこへ京介がやってきたばかりか、高崎と交わした会話も聞き方一つできわどいものにしか聞こえなかった、とすれば。
「高崎くん」
「って、大体お前がどんなカッコしてもしれてんだよ、そういうカッコはな」
「あの、高崎くん、僕コーヒーが欲しいから買ってきてくれると…」
京介のことばを遮って、びっと高崎がこちらを指差す。
「課長みたいな人がやってこそかっこいいの!」
志賀がぱくっ、と口を閉じた。
「……あー…」
やっちゃったよ、高崎くん。
京介はゆっくり深く溜め息をつく。
「高崎くん」
「なんですか、さっきから」
「はい」
「はい?」
札を握らせ、外の自販機でコーヒーを買ってこいと命じてその場を離脱させる。
「何で俺が?」
もしかして課長、この前の復讐?
「何、復讐って」
「伊吹さんと仲良くしてたやつ」
「違うよ、遅れた罰」
「あ、なるほど!」
「志賀さんにも」
「お、れは」
「わかりました! いいか志賀、課長が言うから買ってくるんだぞ、俺が買いたかったからじゃないからな、そこんとこ間違えるなよ、いいな!」
反論しようとする志賀を封じて、高崎は再び客席の間を走り上がっていく。残された志賀が茫然とした顔でぼんやりとその後ろ姿を追っている、その顔にふいに重なったのは、ずっと昔、京介を見上げた孝の顔。
「あ」
バスケを教えてもらっていた時だった。ステップを間違って絡まって、転がって押し倒してしまった次の一瞬、孝が大げさに身を竦めて転がって逃げ、何だよもう、と引き起こそうと手を伸ばしたとき、同じような顔で京介を見た。
指の間からすり抜ける宝物を見送るような。
それを無理矢理に握りしめようかと迷っていたところを見つかったような。
まさか。
唐突に沸き起こった理解。
孝は、僕を。
でも、まさか。
それが本当でも、言い出せるわけがない、じゃないか。
京介の中で忘れていた見落としていたことが次々と絡み合って浮かび上がってくる。
一緒にたくさんの小さな命を見送った。深夜の山、泣きながら体を寄せあった。大輔の蹂躙をいつからお互い気づいていただろう。それとなく芽生えた警戒心、本音を見せないことで成り立っていた関係の心細さ、恵子を表の理由にして、その実二人とも逃げられない鎖の両端に繋がれていると知ってから出会ったのはたった一度。
『お前、なんか!』
京介は背中を打った冷たい壁の感触を思い出した。
あれもまた、冬だった。
「遅い」
ぼそりと呟いた声に微かな柔らかさが漂って、京介は改めて相手を見直した。
「すいません、課長!」
思いっきり寝坊しましたっ。
ひきつり笑いをした高崎が流れ落ちる汗を手の甲で横殴りにしつつ、がばっと頭を下げる。
「朝、起きてたじゃないか」
確か朝の連絡ではしっかり起きていたけれど、そう思って返すと、側の志賀がぎくりとした顔でこちらを見やる。
「?」
「それが、夕べ一晩中だったじゃないですか」
きょとんとした京介に高崎が苦笑しつつ、体を寄せ、片目をつぶって囁いた。
「ひさしぶりだったから、つい夢中になって…すみません」
けど、課長タフですよね。
「俺なんか一晩でダウンですし」
「高崎っ」
いきなり志賀が固い声で割り込んできた。
「いい加減にしろ、仕事中だろ」
「仕事の話だよ? 何お前カリカリしてんの?」
「そんなのが仕事か」
さっきまでのクールな印象はどこへ吹っ飛んだのか、志賀はきりきりしながら高崎をねめつけている。
「仕事だよ?」
高崎は突然怒り出した志賀に困惑したように繰り返す。
「付き合いっていうのは大事だろ?」
考えてみれば志賀が高崎が夕べ何をしていたか知っているはずはなく、なのになぜそこまで激怒したかということも不思議なはずなのに、二人の言い合いは見る見るエスカレートしていく。
「そういうのを付き合いとは言わない」
「じゃあどういうのを付き合いって言うんだ」
男同士、じっくり一晩、どこが悪い。
「誰に迷惑かけてるって言うんだ」
ぐ、と志賀が詰まった顔になって体を引いたが、すぐに身を乗り出して高崎をなじる。
「っ、支障を来たしてるだろう、今現に」
「ちゃんと謝ったぞ、俺は」
それにこれはどっちかっていうと俺と課長の問題で、お前に関係ないだろ?
「う」
ぐいぐい詰め寄っていた志賀が、ふいに棒を呑み込んだように立ち竦み、続いてぎろりと京介を睨む。
「はい?」
なんで僕睨まれてるの? っていうか、この妙な展開は。
「ったく、詰まってきてんのはお互いさまだろ、大体」
そんなちゃらちゃらしたカッコして仕事してるような奴に言われたくないね。
志賀の表情に気づかないまま、高崎はがしがしと頭をかきむしりつつ溜め息をつく。
「何だよ、その髪、染めたのか? 似合わねえって」
「……」
「彼女の趣味か? 何色気出してんだよ」
高崎がうっとうしそうに言い捨てたとたん、あからさまに志賀の顔色が白くなった。
その二人のやりとりを眺めていて、ようやく京介の頭に様々な事情が噛み合う。
「あー…なるほど」
この気配、どうも覚えがあると思ったはずだ。
彼女を京介に盗られたと勘違いした男が怒鳴り込んで来たときとそっくりなんだよね、と思い出した。
志賀は今日高崎が打ち合わせに来ると思っていた。だからこそ、それなりに服装にも気合いを入れていたはずで、そこへ京介がやってきたばかりか、高崎と交わした会話も聞き方一つできわどいものにしか聞こえなかった、とすれば。
「高崎くん」
「って、大体お前がどんなカッコしてもしれてんだよ、そういうカッコはな」
「あの、高崎くん、僕コーヒーが欲しいから買ってきてくれると…」
京介のことばを遮って、びっと高崎がこちらを指差す。
「課長みたいな人がやってこそかっこいいの!」
志賀がぱくっ、と口を閉じた。
「……あー…」
やっちゃったよ、高崎くん。
京介はゆっくり深く溜め息をつく。
「高崎くん」
「なんですか、さっきから」
「はい」
「はい?」
札を握らせ、外の自販機でコーヒーを買ってこいと命じてその場を離脱させる。
「何で俺が?」
もしかして課長、この前の復讐?
「何、復讐って」
「伊吹さんと仲良くしてたやつ」
「違うよ、遅れた罰」
「あ、なるほど!」
「志賀さんにも」
「お、れは」
「わかりました! いいか志賀、課長が言うから買ってくるんだぞ、俺が買いたかったからじゃないからな、そこんとこ間違えるなよ、いいな!」
反論しようとする志賀を封じて、高崎は再び客席の間を走り上がっていく。残された志賀が茫然とした顔でぼんやりとその後ろ姿を追っている、その顔にふいに重なったのは、ずっと昔、京介を見上げた孝の顔。
「あ」
バスケを教えてもらっていた時だった。ステップを間違って絡まって、転がって押し倒してしまった次の一瞬、孝が大げさに身を竦めて転がって逃げ、何だよもう、と引き起こそうと手を伸ばしたとき、同じような顔で京介を見た。
指の間からすり抜ける宝物を見送るような。
それを無理矢理に握りしめようかと迷っていたところを見つかったような。
まさか。
唐突に沸き起こった理解。
孝は、僕を。
でも、まさか。
それが本当でも、言い出せるわけがない、じゃないか。
京介の中で忘れていた見落としていたことが次々と絡み合って浮かび上がってくる。
一緒にたくさんの小さな命を見送った。深夜の山、泣きながら体を寄せあった。大輔の蹂躙をいつからお互い気づいていただろう。それとなく芽生えた警戒心、本音を見せないことで成り立っていた関係の心細さ、恵子を表の理由にして、その実二人とも逃げられない鎖の両端に繋がれていると知ってから出会ったのはたった一度。
『お前、なんか!』
京介は背中を打った冷たい壁の感触を思い出した。
あれもまた、冬だった。
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