『闇を闇から』

segakiyui

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第4章

4.プシュカ(3)

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 昨日の夜のことが蘇る。

「は…ふ…」
 どれほどそうやって美並は泣いていただろう。
 こんなに泣いたのはひさしぶりだ、そう思いながら顔を上げた。
 駅前にはもうタクシーの影もない。時計は24時を回っている。
 泣き続けていたせいで気づかなかったが、足下からぞわりと冷えが広がってきて、かなり寒い。
「京介……?」
 気がつけば、電話の向こうは柔らかな溜め息を思わせる呼吸音だけが響いている。
「寝ちゃったの…?」
 さっきも寝息っぽいなとは思っていたが、まさか携帯を切らずに眠ってしまうとは思わなかった。
「…ばか」
 小さく詰って、自分の声の可愛らしさに苦笑した。
「……傷ついてたんだなぁ…」
 一人ごちる。
 自覚していなかったけれど、有沢に協力を求められ、勇んで応じたものの、意味のある手がかりがほとんど掴めなかったばかりか、むしろ傷つける結果にしかならなかったことが、思った以上に辛かったのだ。
「さむ…」
 小さく震えて、とりあえず温かいコーヒーでも飲んでタクシーを探そう、そう思って携帯を切りかけた矢先、
『みなみ…』
 濡れた声が呼びかけてきてどきりとする。
「京介?」
 起きてるの?
 静まり返った街に響く自分の声に驚いて声を潜めて尋ねたけれど、返ってくるのは穏やかで規則正しい寝息だけ。
「……寝言かよ」
 29にもなった男がそんな甘え声で呼ぶか、普通?
 一人突っ込みつつ、それでも嬉しくて携帯を切れなくなり、耳にあてたまま駅前の自販機まで戻る。
「……う」
 が、そこに入っていたのはホット系のジュースと紅茶、きわめつけはコーンポタージュとポタージュの缶、コーヒーは見事に売り切れてしまっている。ないとなると欲しいもので、周囲を見渡し、少し離れたところにある自販機を見つける。そこまでとことこと歩きながら、耳元で響く優しい吐息に慰められている自分を感じた。
「……いいもの、なんだね」
 愛しい人の存在。
 ただそこに居るだけでこれほど気持ちが安らぐのか。
 コインを放り込んで派手な音をたてて落ちてきた『まろやかカフェラテ』を取り出すと、ぴろぴろぴろと調子外れに賑やかな音が響き渡り、次の瞬間ぴこんっ、と緑のランプが瞬いて全商品が光った。
「は? ……当たり?」
 そんなもの、今まで当たったことなんてないのに。
 拾い上げたカフェラテをコートのポケットに押し込み、商品をじっくり眺める。
『まったり紅茶』『ふっくらいちご』『はっきり抹茶』『どっきりレモン』、そして。
「………『奇跡のコーヒー』……」
 きっとこの商品を考えた人はいい加減ネタが尽きたんだろう。
「奇跡ね」
 京介は美並にとって奇跡のような相手だ。
 ふいにそう思った。
 ぐい、と力を込めてボタンを押し、転がり落ちてきた缶が華やかなピンクをあしらってあるのに、似合いすぎる、と笑ってポケットに突っ込む。
「これは京介の分」
 不思議だ、彼のことを考えているだけで、これほど力が戻ってくる。
 くう、くう、と耳元で響く寝息が静かに続く。
「……気持ちよさそう」
 きっと携帯を抱きかかえて眠ってるのだ、そう思って、微笑みながらカフェラテをポケットから取り出し、苦労しながら缶を開けた。
「……怖くないの?」
 口にしたことのない不安が零れた。
 全てを見抜かれてしまうとか、隠したいところまで暴かれるとか。
「不安じゃないの?」
 独り言、こんな往来で。
「ほんとに私でいいの……?」
 何もかも感じ取ってしまうかもしれない相手を側に置くなんて。
 カフェラテをこくりと飲んで、温まった呼気が白くゆっくり広がるのを眺め、そのまま歩き出した。
 真夜中なのに怖くなかった、京介の寝息一つ聞こえるだけで。
 瞬きするような街灯の明かり、それが時々落とす、べったりした闇に踏み込むのも怯まない、携帯の仄かな光が手元を胸を明るく照らすから。
 まるで京介の笑顔のように。
 ぽくぽくと夜道を歩く自分の足音。
 すうすうと耳に届く京介の寝息。
「あったかいな…」
 ポケットに押し込んだコーヒーも手に握っているカフェラテも。
『…みなみ……』
 また優しく京介が呼ぶ。
 寝言なのだろう、ことばは続かない。
「……はい」
 応えて美並は微笑みながら夜を進む。
「ここにいます」
 返事はないだろう、それでも応える自分の声がまた温かだと初めて感じる。
 空気は冷たかった。
 足は冷えた。
 風も鋭く耳を刺した、けれどそのまま歩き続け、美並は家まで歩いて戻った。
 誰かと繋がっていることが、これほど強い気持ちにしてくれるとは思わなかった。
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