311 / 503
第4章
4.プシュカ(3)
しおりを挟む
昨日の夜のことが蘇る。
「は…ふ…」
どれほどそうやって美並は泣いていただろう。
こんなに泣いたのはひさしぶりだ、そう思いながら顔を上げた。
駅前にはもうタクシーの影もない。時計は24時を回っている。
泣き続けていたせいで気づかなかったが、足下からぞわりと冷えが広がってきて、かなり寒い。
「京介……?」
気がつけば、電話の向こうは柔らかな溜め息を思わせる呼吸音だけが響いている。
「寝ちゃったの…?」
さっきも寝息っぽいなとは思っていたが、まさか携帯を切らずに眠ってしまうとは思わなかった。
「…ばか」
小さく詰って、自分の声の可愛らしさに苦笑した。
「……傷ついてたんだなぁ…」
一人ごちる。
自覚していなかったけれど、有沢に協力を求められ、勇んで応じたものの、意味のある手がかりがほとんど掴めなかったばかりか、むしろ傷つける結果にしかならなかったことが、思った以上に辛かったのだ。
「さむ…」
小さく震えて、とりあえず温かいコーヒーでも飲んでタクシーを探そう、そう思って携帯を切りかけた矢先、
『みなみ…』
濡れた声が呼びかけてきてどきりとする。
「京介?」
起きてるの?
静まり返った街に響く自分の声に驚いて声を潜めて尋ねたけれど、返ってくるのは穏やかで規則正しい寝息だけ。
「……寝言かよ」
29にもなった男がそんな甘え声で呼ぶか、普通?
一人突っ込みつつ、それでも嬉しくて携帯を切れなくなり、耳にあてたまま駅前の自販機まで戻る。
「……う」
が、そこに入っていたのはホット系のジュースと紅茶、きわめつけはコーンポタージュとポタージュの缶、コーヒーは見事に売り切れてしまっている。ないとなると欲しいもので、周囲を見渡し、少し離れたところにある自販機を見つける。そこまでとことこと歩きながら、耳元で響く優しい吐息に慰められている自分を感じた。
「……いいもの、なんだね」
愛しい人の存在。
ただそこに居るだけでこれほど気持ちが安らぐのか。
コインを放り込んで派手な音をたてて落ちてきた『まろやかカフェラテ』を取り出すと、ぴろぴろぴろと調子外れに賑やかな音が響き渡り、次の瞬間ぴこんっ、と緑のランプが瞬いて全商品が光った。
「は? ……当たり?」
そんなもの、今まで当たったことなんてないのに。
拾い上げたカフェラテをコートのポケットに押し込み、商品をじっくり眺める。
『まったり紅茶』『ふっくらいちご』『はっきり抹茶』『どっきりレモン』、そして。
「………『奇跡のコーヒー』……」
きっとこの商品を考えた人はいい加減ネタが尽きたんだろう。
「奇跡ね」
京介は美並にとって奇跡のような相手だ。
ふいにそう思った。
ぐい、と力を込めてボタンを押し、転がり落ちてきた缶が華やかなピンクをあしらってあるのに、似合いすぎる、と笑ってポケットに突っ込む。
「これは京介の分」
不思議だ、彼のことを考えているだけで、これほど力が戻ってくる。
くう、くう、と耳元で響く寝息が静かに続く。
「……気持ちよさそう」
きっと携帯を抱きかかえて眠ってるのだ、そう思って、微笑みながらカフェラテをポケットから取り出し、苦労しながら缶を開けた。
「……怖くないの?」
口にしたことのない不安が零れた。
全てを見抜かれてしまうとか、隠したいところまで暴かれるとか。
「不安じゃないの?」
独り言、こんな往来で。
「ほんとに私でいいの……?」
何もかも感じ取ってしまうかもしれない相手を側に置くなんて。
カフェラテをこくりと飲んで、温まった呼気が白くゆっくり広がるのを眺め、そのまま歩き出した。
真夜中なのに怖くなかった、京介の寝息一つ聞こえるだけで。
瞬きするような街灯の明かり、それが時々落とす、べったりした闇に踏み込むのも怯まない、携帯の仄かな光が手元を胸を明るく照らすから。
まるで京介の笑顔のように。
ぽくぽくと夜道を歩く自分の足音。
すうすうと耳に届く京介の寝息。
「あったかいな…」
ポケットに押し込んだコーヒーも手に握っているカフェラテも。
『…みなみ……』
また優しく京介が呼ぶ。
寝言なのだろう、ことばは続かない。
「……はい」
応えて美並は微笑みながら夜を進む。
「ここにいます」
返事はないだろう、それでも応える自分の声がまた温かだと初めて感じる。
空気は冷たかった。
足は冷えた。
風も鋭く耳を刺した、けれどそのまま歩き続け、美並は家まで歩いて戻った。
誰かと繋がっていることが、これほど強い気持ちにしてくれるとは思わなかった。
「は…ふ…」
どれほどそうやって美並は泣いていただろう。
こんなに泣いたのはひさしぶりだ、そう思いながら顔を上げた。
駅前にはもうタクシーの影もない。時計は24時を回っている。
泣き続けていたせいで気づかなかったが、足下からぞわりと冷えが広がってきて、かなり寒い。
「京介……?」
気がつけば、電話の向こうは柔らかな溜め息を思わせる呼吸音だけが響いている。
「寝ちゃったの…?」
さっきも寝息っぽいなとは思っていたが、まさか携帯を切らずに眠ってしまうとは思わなかった。
「…ばか」
小さく詰って、自分の声の可愛らしさに苦笑した。
「……傷ついてたんだなぁ…」
一人ごちる。
自覚していなかったけれど、有沢に協力を求められ、勇んで応じたものの、意味のある手がかりがほとんど掴めなかったばかりか、むしろ傷つける結果にしかならなかったことが、思った以上に辛かったのだ。
「さむ…」
小さく震えて、とりあえず温かいコーヒーでも飲んでタクシーを探そう、そう思って携帯を切りかけた矢先、
『みなみ…』
濡れた声が呼びかけてきてどきりとする。
「京介?」
起きてるの?
静まり返った街に響く自分の声に驚いて声を潜めて尋ねたけれど、返ってくるのは穏やかで規則正しい寝息だけ。
「……寝言かよ」
29にもなった男がそんな甘え声で呼ぶか、普通?
一人突っ込みつつ、それでも嬉しくて携帯を切れなくなり、耳にあてたまま駅前の自販機まで戻る。
「……う」
が、そこに入っていたのはホット系のジュースと紅茶、きわめつけはコーンポタージュとポタージュの缶、コーヒーは見事に売り切れてしまっている。ないとなると欲しいもので、周囲を見渡し、少し離れたところにある自販機を見つける。そこまでとことこと歩きながら、耳元で響く優しい吐息に慰められている自分を感じた。
「……いいもの、なんだね」
愛しい人の存在。
ただそこに居るだけでこれほど気持ちが安らぐのか。
コインを放り込んで派手な音をたてて落ちてきた『まろやかカフェラテ』を取り出すと、ぴろぴろぴろと調子外れに賑やかな音が響き渡り、次の瞬間ぴこんっ、と緑のランプが瞬いて全商品が光った。
「は? ……当たり?」
そんなもの、今まで当たったことなんてないのに。
拾い上げたカフェラテをコートのポケットに押し込み、商品をじっくり眺める。
『まったり紅茶』『ふっくらいちご』『はっきり抹茶』『どっきりレモン』、そして。
「………『奇跡のコーヒー』……」
きっとこの商品を考えた人はいい加減ネタが尽きたんだろう。
「奇跡ね」
京介は美並にとって奇跡のような相手だ。
ふいにそう思った。
ぐい、と力を込めてボタンを押し、転がり落ちてきた缶が華やかなピンクをあしらってあるのに、似合いすぎる、と笑ってポケットに突っ込む。
「これは京介の分」
不思議だ、彼のことを考えているだけで、これほど力が戻ってくる。
くう、くう、と耳元で響く寝息が静かに続く。
「……気持ちよさそう」
きっと携帯を抱きかかえて眠ってるのだ、そう思って、微笑みながらカフェラテをポケットから取り出し、苦労しながら缶を開けた。
「……怖くないの?」
口にしたことのない不安が零れた。
全てを見抜かれてしまうとか、隠したいところまで暴かれるとか。
「不安じゃないの?」
独り言、こんな往来で。
「ほんとに私でいいの……?」
何もかも感じ取ってしまうかもしれない相手を側に置くなんて。
カフェラテをこくりと飲んで、温まった呼気が白くゆっくり広がるのを眺め、そのまま歩き出した。
真夜中なのに怖くなかった、京介の寝息一つ聞こえるだけで。
瞬きするような街灯の明かり、それが時々落とす、べったりした闇に踏み込むのも怯まない、携帯の仄かな光が手元を胸を明るく照らすから。
まるで京介の笑顔のように。
ぽくぽくと夜道を歩く自分の足音。
すうすうと耳に届く京介の寝息。
「あったかいな…」
ポケットに押し込んだコーヒーも手に握っているカフェラテも。
『…みなみ……』
また優しく京介が呼ぶ。
寝言なのだろう、ことばは続かない。
「……はい」
応えて美並は微笑みながら夜を進む。
「ここにいます」
返事はないだろう、それでも応える自分の声がまた温かだと初めて感じる。
空気は冷たかった。
足は冷えた。
風も鋭く耳を刺した、けれどそのまま歩き続け、美並は家まで歩いて戻った。
誰かと繋がっていることが、これほど強い気持ちにしてくれるとは思わなかった。
0
お気に入りに追加
79
あなたにおすすめの小説
性欲の強すぎるヤクザに捕まった話
古亜
恋愛
中堅企業の普通のOL、沢木梢(さわきこずえ)はある日突然現れたチンピラ3人に、兄貴と呼ばれる人物のもとへ拉致されてしまう。
どうやら商売女と間違えられたらしく、人違いだと主張するも、兄貴とか呼ばれた男は聞く耳を持たない。
「美味しいピザをすぐデリバリーできるのに、わざわざコンビニのピザ風の惣菜パンを食べる人います?」
「たまには惣菜パンも悪くねぇ」
……嘘でしょ。
2019/11/4 33話+2話で本編完結
2021/1/15 書籍出版されました
2021/1/22 続き頑張ります
半分くらいR18な話なので予告はしません。
強引な描写含むので苦手な方はブラウザバックしてください。だいたいタイトル通りな感じなので、少しでも思ってたのと違う、地雷と思ったら即回れ右でお願いします。
誤字脱字、文章わかりにくい等の指摘は有り難く受け取り修正しますが、思った通りじゃない生理的に無理といった内容については自衛に留め批判否定はご遠慮ください。泣きます。
当然の事ながら、この話はフィクションです。
【R18】こんな産婦人科のお医者さんがいたら♡妄想エロシチュエーション短編作品♡
雪村 里帆
恋愛
ある日、産婦人科に訪れるとそこには顔を見たら赤面してしまう程のイケメン先生がいて…!?何故か看護師もいないし2人きり…エコー検査なのに触診されてしまい…?雪村里帆の妄想エロシチュエーション短編。完全フィクションでお送り致します!
彼女の母は蜜の味
緋山悠希
恋愛
ある日、彼女の深雪からお母さんを買い物に連れて行ってあげて欲しいと頼まれる。密かに綺麗なお母さんとの2人の時間に期待を抱きながら「別にいいよ」と優しい彼氏を演じる健二。そんな健二に待っていたのは大人の女性の洗礼だった…
【R18】隣のデスクの歳下後輩君にオカズに使われているらしいので、望み通りにシてあげました。
雪村 里帆
恋愛
お陰様でHOT女性向け33位、人気ランキング146位達成※隣のデスクに座る陰キャの歳下後輩君から、ある日私の卑猥なアイコラ画像を誤送信されてしまい!?彼にオカズに使われていると知り満更でもない私は彼を部屋に招き入れてお望み通りの行為をする事に…。強気な先輩ちゃん×弱気な後輩くん。でもエッチな下着を身に付けて恥ずかしくなった私は、彼に攻められてすっかり形成逆転されてしまう。
——全話ほぼ濡れ場で小難しいストーリーの設定などが無いのでストレス無く集中できます(はしがき・あとがきは含まない)
※完結直後のものです。
【R18】ドS上司とヤンデレイケメンに毎晩種付けされた結果、泥沼三角関係に堕ちました。
雪村 里帆
恋愛
お陰様でHOT女性向けランキング31位、人気ランキング132位の記録達成※雪村里帆、性欲旺盛なアラサーOL。ブラック企業から転職した先の会社でドS歳下上司の宮野孝司と出会い、彼の事を考えながら毎晩自慰に耽る。ある日、中学時代に里帆に告白してきた同級生のイケメン・桜庭亮が里帆の部署に異動してきて…⁉︎ドキドキハラハラ淫猥不埒な雪村里帆のめまぐるしい二重恋愛生活が始まる…!優柔不断でドMな里帆は、ドS上司とヤンデレイケメンのどちらを選ぶのか…⁉︎
——もしも恋愛ドラマの濡れ場シーンがカット無しで放映されたら?という妄想も込めて執筆しました。長編です。
※連載当時のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる