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12.懐かしき微笑
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眩しい。
部屋に入った瞬間に視界が真っ白に焼けて,思わず目を閉じる。
「……太田」
微かによろめいた瞬間、鞭のようにぴしりと鋭い声が響き、俺を支えていた白衣の男がびくりとした。
太田、そっか太田というのか、覚えとくぞ太田、俺の体を好き放題しやがって太田、そのうちちゃんとお返してやるぞ太田。
胸で繰り返しながらゆっくり目を開ける。
「滝君の憔悴が激しいようだが」
「そ、それはその」
「傷めつけたのかね?」
「いえそんなことはこれっぽっちも」
内側を傷めつけた場合は『傷めつけた』うちに入らないのか?
思わず反論しそうになったが、その前に目の前に立っている男の視線にぐさりとやられた気がして動けなくなった。
なんだろう、こいつの目。普通の日本人の茶色がかった黒い虹彩のはずなのに、なんだか爬虫類か何かの、縦に瞳孔が切れた金色の眼に見えて、無性に気持ち悪い。
しっしっ、あっち行け、そう言いたくなる。
「ご指示の通りほらどこにも怪我をさせてませんし傷もほら」
「わ」
いきなり上に着ていたシャツを腹から胸まで捲り上げられてぎょっとした。
「綺麗なもんです、ええ、それにこういう弱い筋肉層ではたいしたこともできませんし」
おいたいしたことって、何する気だったんだ。
「しかし、この男の特筆すべきは肉体ではなく、極めて鈍くて回復力の早い精神ではないかと」
「離せっ」
捲り上げられたシャツを掴んで引き下ろし、今鈍いと言ったろ、それも極めて鈍いとか言ったろ、そう突っ込もうとして、そのシャツがパジャマに近いものだと気づく。
「あれ? なんで俺こんなもの着てんだ?」
「……なるほど」
くすり、と目の前の男が笑って顔を上げた。
「確かに鈍いな」「でしょう!」
こら何を二人で確かめあってる。
「そうすると、滝君は今なぜ自分がここに居るのか、何をされたのかもわかっていないのだな?」
「ええおそらく」
太田は嬉しそうに笑った。
「ほんと鈍くてどんどん薬を試したくなって困りました」
「おい…」
さっき薬を使いすぎたとかどうとか言ってたのは、ひょっとしてそういう理由だったのか。
「じゃあ、私が誰かも知らないし、ここがどこかもわかってないと言うことだな?」
「え」
太田は笑みを強張らせた。
「捕まえてから眠らせて情報を得ていただけだろう?」
「あ、いや」
「その大半は何をしゃべったかも覚えていないはずだな?」
「覚えてる」
俺はぶすっと唸った。
いくら俺が馬鹿でもそれぐらいはわかる。
「ここは『SENS』とかの秘密研究所で、あんたは綾野啓一っていう周一郎を恨んでせこいまねばかりしてるおっさんだ」
「………太田」
「あ、あの」
側に居てもわかるほど、太田は冷や汗をかいて震えている。
「一体誰が、そんな情報を与えていいと?」
あてずっぽうだったが見事にヒットしたらしい。思わず嬉しくなってにやっと笑った瞬間に、その笑みを見た綾野が眼を細める。
「…全く馬鹿でもないようだし」
ほっとけ。
「それに人の気持ちに入り込むのは天性の才能があるようだな」
下がっていい、と言われて太田が慌てて側から引いていく。
取り残されて俺はゆらいだ体を支えるために踏ん張った。
「……こちらへ来たまえ」
綾野が静かに斜めの前のソファを指す。
そこでようやく、この部屋が、今までの部屋とは違って、企業の応接室のような造りになっているのに気づいた。灰色と黒で統一されたモノトーンの上品な調度、綾野が立っていたのは窓を背中にした大きな机の後で、机の上にはデスクトップのパソコンと積み重ねられた書類の束、それから広げられた新聞がある。
「立っているのは大変だろう」
「……なんで、俺は」
こんな所へ連れてこられたんですか。
尋ねた俺に綾野はまるで芋虫が突然しゃべり出したとでも言いたげな表情を向けた。
「………『直樹』が君を捜している」
「……え?」
うっとうしそうに新聞を取り上げ、ソファの前のローテーブルに置いて、それとなく見るように促す。思わず引き寄せられて覗き込んだのは全国紙、続いて上に載せられたのは京都の地元紙だ。
その両方に結構大きな囲み記事で『尋ね人』があった。
「周一郎の名前を手がかりに、松尾橋での事件を調べ、君の名前を知り、収容された病院を知り、松尾駅での事件を知り、それが自分と『扇』で繋がっていることになお興味を持ち、両親が自分の問いにちゃんとした答えを与えないといら立ち、京都府警を当たり、廻元に会い」
「清にも、会ったのか」
どきりとして確認した。
「……あの子供は誰なのだ、なぜ周一郎そっくりなのだと聞かれたよ」
綾野は眼を細めた。
清はさすがに『直樹』と詳しく話をしたいと思わなかったようだが、それでも俺の行方を知っているかもしれないからと朝倉家を紹介したらしい。
「そうして、朝倉家から私に連絡が入ってきた」
「『直樹』が…」
もう会わない、そう言ったときに納得していたとばかり思っていたのに。
「……まったく」
計算外だ。
綾野は冷たい口調で吐き捨てた。
「十分幸せな暮らしをさせてやってるじゃないか、なぜ君のような者を探しまわる」
へえへえ悪うございましたね、庶民派で。
「……それでも、嘘じゃないか」
心の中で突っ込みながら、俺は顔を上げた。訝しそうに見下ろしてくる相手に繰り返す。
「それはあいつが得た暮らしじゃない、あんたが勝手に与えたもんだろ」
「……朝倉家の方がよかったのだと?」
綾野は冷ややかに笑った。
「あんな牢獄のような場所が?」
「それでも」
あいつが選んでようやく得た場所なんだ。
つるりと反論してしまい、そうか、と気づいた。
そうか。
どんなに酷い場所や環境であっても、自分で選んで進んできた道ならば、そこには自分の全てがある。
けれど、どんなに傍目から見て満たされた幸福な環境であっても、そこに自分の生きてきた痕跡が一つもなければ、それは自分の居場所なんかじゃない。
『他の誰も、してくれなかった、僕がまぶしいって言うまで』
耳元に『直樹』のことばが蘇った。
『どうしてわかったんですか? 僕がまぶしいのが、つらいんだって』
どうしてわからないことがある、それほど満たされ愛されているはずの居場所で。
どうして何に苦しんでいるのかわかってもらえなくて、その苦しみを取り除く方法を周囲の誰も知らないなんてことがある。
ましてや、こうやって助けてほしいと繰り返し訴えるまで、その方法を誰も試してみてくれない、大事にしているならばそんなところまで放置しないはずだ。
周囲にどれほど見事で美しく揃えられたものがあっても、使い方一つわからない場所の何に人が愛着を感じるだろう。自分が慣れ親しんだ記憶のないものばかりに囲まれて、どうやって人が寛げるのだろう。
「ああ…」
なんてこった。
「間違っちまった…」
脳裏に掠めたのは朝倉家の庭、俺から一メートルは離れた周一郎の座る場所、俺にはあいつの考えてることも思ってることもわからない、けれどそこは確かにあいつの選んだ場所だったのに。
あいつが選んであいつが求めた場所、だったのに。
朝倉家ならあいつは俺に文句が言える、へたった時に高野にカバーしてもらえる、ルトを抱きかかえて眠ることもできる。
けれど里岡のあの別荘で、豪華な調度に囲まれて、『直樹』はまぶしいのが辛いのだと訴えることさえできずに一人布団で横になるしかない、光溢れるあの場所で。
「…おんなじじゃねえか…」
勝手に周一郎の幸せなんて考えて、そんなもの、俺が安心するための手段だったに過ぎないんだ。
里岡夫妻を嗤えたもんじゃない、俺だって五十歩百歩だ。
けれど、『周一郎の中身』には俺が一番近くて。取り繕って整えた大人じゃない、頑なに心を押し殺しているあいつを一番よく知っていたのは俺だけで。
「そう、か」
きっと無意識に、周一郎は俺にすがった、『直樹』を『周一郎』に戻してくれると思って。
だから熱を出して、寝込んで、ここは嫌だと訴えていたんじゃないのか。俺を引き止め、連れ帰ってくれと、訴えていたんじゃないのか。
なのに、俺は。
「置いてきちまった…」
あいつが拒んだ罪のまっただ中に。
誰も助けてくれない光の牢獄に、幸せになれ、なんて酷いことを言って、置き去った。
『用事はもう、済んだんですね?』
偽りの安心を押し付けて。
何もかも見抜いた、懐かしくて鋭い笑み、その奥に底なしの闇をじっと抱えて。
あなたも、僕を、見捨てるんですね。
嘲笑が聞こえる。
「く、そっ……俺は…馬鹿だっ…」
お由宇はわかっていただろうか、いや、きっとわかっていただろうな。
「アホで間抜けで冷凍庫のなすびだっっっ」
だけど俺は何もわかってなくて。
付き合い長いんだから、わかっていたなら教えてくれよ、と俺は居ないお由宇をののしった。俺にもちゃんとわかるようにもっとちゃんと教えておいてくれなくちゃ、
「俺にまともなことができるわけねえだろがあっ!」
「……盛り上がってるところをすまないが」
「う」
ふいに間近から覗き込まれて、両手を上に向けて叫んだ姿勢のままで固まった。
「聞こえたか?」
「はい?」
「聞こえてないのか?」
「何が」
あまりの自分の馬鹿馬鹿しさに目の前の男の不気味さが吹っ飛んでしまった。爬虫類がどうした、蛇だろうがトカゲだろうがプロキオサウルスだろうがティラノだろうが、
「結局氷河期には勝てなかったくせに」
「……何の話だ」
「冷血動物は大変だと」
「………『直樹』が来る」
綾野は俺との会話を諦めたらしい。ざまあみろ、爬虫類ごときがホモサピエンスと会話しようなんて百年早い…。
あれ?
瞬きして問い直す。
「なんだって?」
「『直樹』が来る」
「………なんで?」
「君に会いに」
「……………なんで?」
「私が知らせた」
「………………なんで」
何となく、答えがわかるような気がしたが、それを考えたくなくて俺は質問を繰り返した。
「あそこに部屋が見えるな?」
窓に近寄った綾野が庭の一角を指し示す。
「ああ」
そこにあったのは小さな離れと言った感じの小部屋、広くて大きな窓、ベランダがあってそこから外にも出られるようだ。
「あそこで『直樹』と会いたまえ」
「……なんで」
「会って、君はここで医学研究に協力することになったから、安心してほしい、と彼を説得するのだ」
「医学研究…」
それってやっぱりさっきの太田とかいうやつの実験体とかになるって意味だろうな。
「『直樹』は君の所在が不明なことに不安がっている。君が姿を見せなくなって一週間、どんどん手を広げて探し回っている」
「ああ」
そういうの得意だもんな、というか、元々とんでもなく能力のあるタイプなんだし。
「『直樹』は里岡の病弱な跡取りとして大事にされ世間から隔離されて生きるはずだったんだよ?」
知るかよ、そんなこと。
「このままではよけいな知識と経験を積むばかりか」
「あー」
そうだ、遅かれ早かれ『直樹』は朝倉周一郎に辿り着くだろう。表に向けた顔ではなくて、その裏の顔を掴むだろう。
「俺を封じても意味ねえじゃねえか」
「その通りだ」
だから困った人なんだよ、君は。
綾野はうっそりと笑った。
「だから君自身に『直樹』を封じてもらう」
「断る」
そんな役目を誰が負える、今自分がとんでもない間違いをしてたとわかったところなのに。
「断れないよ、もう『直樹』は来てるからね」
「え」
「カメラがいつでも君を追ってる。部屋にも庭にも高性能のマイクがある」
「……スターだな」
「囚われの、ね」
綾野が言い放ったとたん、ばん、と激しく扉が開いて驚いた。
「滝さんっ!」
振り返ると同時に飛び込んできたのはまぎれもなく里岡直樹、一気にソファまで駆け寄ってきたかと思うとぎゅっとしがみつかれて息が詰まった。
「どこに、行ってたんです!」
悲鳴のような声。
「どうして、どこにも、居なかったんです!」
周一郎。
涙声で詰られて、しがみつく腕に力を込められて、その瞬間胸に宿った顔に切なくて視界が曇る。
きっとお前はこんなことは言わない。
きっとお前はこんなことはしない。
けれど今響くこの叫びの向こうに、確かにお前の微笑が見える、全てを見抜く、その笑みが。
「…わる…かった」
俺はそっと『直樹』を抱えた。
「放っていって……悪かった」
『直樹』がぎゅううっと強く抱きついてきた。
部屋に入った瞬間に視界が真っ白に焼けて,思わず目を閉じる。
「……太田」
微かによろめいた瞬間、鞭のようにぴしりと鋭い声が響き、俺を支えていた白衣の男がびくりとした。
太田、そっか太田というのか、覚えとくぞ太田、俺の体を好き放題しやがって太田、そのうちちゃんとお返してやるぞ太田。
胸で繰り返しながらゆっくり目を開ける。
「滝君の憔悴が激しいようだが」
「そ、それはその」
「傷めつけたのかね?」
「いえそんなことはこれっぽっちも」
内側を傷めつけた場合は『傷めつけた』うちに入らないのか?
思わず反論しそうになったが、その前に目の前に立っている男の視線にぐさりとやられた気がして動けなくなった。
なんだろう、こいつの目。普通の日本人の茶色がかった黒い虹彩のはずなのに、なんだか爬虫類か何かの、縦に瞳孔が切れた金色の眼に見えて、無性に気持ち悪い。
しっしっ、あっち行け、そう言いたくなる。
「ご指示の通りほらどこにも怪我をさせてませんし傷もほら」
「わ」
いきなり上に着ていたシャツを腹から胸まで捲り上げられてぎょっとした。
「綺麗なもんです、ええ、それにこういう弱い筋肉層ではたいしたこともできませんし」
おいたいしたことって、何する気だったんだ。
「しかし、この男の特筆すべきは肉体ではなく、極めて鈍くて回復力の早い精神ではないかと」
「離せっ」
捲り上げられたシャツを掴んで引き下ろし、今鈍いと言ったろ、それも極めて鈍いとか言ったろ、そう突っ込もうとして、そのシャツがパジャマに近いものだと気づく。
「あれ? なんで俺こんなもの着てんだ?」
「……なるほど」
くすり、と目の前の男が笑って顔を上げた。
「確かに鈍いな」「でしょう!」
こら何を二人で確かめあってる。
「そうすると、滝君は今なぜ自分がここに居るのか、何をされたのかもわかっていないのだな?」
「ええおそらく」
太田は嬉しそうに笑った。
「ほんと鈍くてどんどん薬を試したくなって困りました」
「おい…」
さっき薬を使いすぎたとかどうとか言ってたのは、ひょっとしてそういう理由だったのか。
「じゃあ、私が誰かも知らないし、ここがどこかもわかってないと言うことだな?」
「え」
太田は笑みを強張らせた。
「捕まえてから眠らせて情報を得ていただけだろう?」
「あ、いや」
「その大半は何をしゃべったかも覚えていないはずだな?」
「覚えてる」
俺はぶすっと唸った。
いくら俺が馬鹿でもそれぐらいはわかる。
「ここは『SENS』とかの秘密研究所で、あんたは綾野啓一っていう周一郎を恨んでせこいまねばかりしてるおっさんだ」
「………太田」
「あ、あの」
側に居てもわかるほど、太田は冷や汗をかいて震えている。
「一体誰が、そんな情報を与えていいと?」
あてずっぽうだったが見事にヒットしたらしい。思わず嬉しくなってにやっと笑った瞬間に、その笑みを見た綾野が眼を細める。
「…全く馬鹿でもないようだし」
ほっとけ。
「それに人の気持ちに入り込むのは天性の才能があるようだな」
下がっていい、と言われて太田が慌てて側から引いていく。
取り残されて俺はゆらいだ体を支えるために踏ん張った。
「……こちらへ来たまえ」
綾野が静かに斜めの前のソファを指す。
そこでようやく、この部屋が、今までの部屋とは違って、企業の応接室のような造りになっているのに気づいた。灰色と黒で統一されたモノトーンの上品な調度、綾野が立っていたのは窓を背中にした大きな机の後で、机の上にはデスクトップのパソコンと積み重ねられた書類の束、それから広げられた新聞がある。
「立っているのは大変だろう」
「……なんで、俺は」
こんな所へ連れてこられたんですか。
尋ねた俺に綾野はまるで芋虫が突然しゃべり出したとでも言いたげな表情を向けた。
「………『直樹』が君を捜している」
「……え?」
うっとうしそうに新聞を取り上げ、ソファの前のローテーブルに置いて、それとなく見るように促す。思わず引き寄せられて覗き込んだのは全国紙、続いて上に載せられたのは京都の地元紙だ。
その両方に結構大きな囲み記事で『尋ね人』があった。
「周一郎の名前を手がかりに、松尾橋での事件を調べ、君の名前を知り、収容された病院を知り、松尾駅での事件を知り、それが自分と『扇』で繋がっていることになお興味を持ち、両親が自分の問いにちゃんとした答えを与えないといら立ち、京都府警を当たり、廻元に会い」
「清にも、会ったのか」
どきりとして確認した。
「……あの子供は誰なのだ、なぜ周一郎そっくりなのだと聞かれたよ」
綾野は眼を細めた。
清はさすがに『直樹』と詳しく話をしたいと思わなかったようだが、それでも俺の行方を知っているかもしれないからと朝倉家を紹介したらしい。
「そうして、朝倉家から私に連絡が入ってきた」
「『直樹』が…」
もう会わない、そう言ったときに納得していたとばかり思っていたのに。
「……まったく」
計算外だ。
綾野は冷たい口調で吐き捨てた。
「十分幸せな暮らしをさせてやってるじゃないか、なぜ君のような者を探しまわる」
へえへえ悪うございましたね、庶民派で。
「……それでも、嘘じゃないか」
心の中で突っ込みながら、俺は顔を上げた。訝しそうに見下ろしてくる相手に繰り返す。
「それはあいつが得た暮らしじゃない、あんたが勝手に与えたもんだろ」
「……朝倉家の方がよかったのだと?」
綾野は冷ややかに笑った。
「あんな牢獄のような場所が?」
「それでも」
あいつが選んでようやく得た場所なんだ。
つるりと反論してしまい、そうか、と気づいた。
そうか。
どんなに酷い場所や環境であっても、自分で選んで進んできた道ならば、そこには自分の全てがある。
けれど、どんなに傍目から見て満たされた幸福な環境であっても、そこに自分の生きてきた痕跡が一つもなければ、それは自分の居場所なんかじゃない。
『他の誰も、してくれなかった、僕がまぶしいって言うまで』
耳元に『直樹』のことばが蘇った。
『どうしてわかったんですか? 僕がまぶしいのが、つらいんだって』
どうしてわからないことがある、それほど満たされ愛されているはずの居場所で。
どうして何に苦しんでいるのかわかってもらえなくて、その苦しみを取り除く方法を周囲の誰も知らないなんてことがある。
ましてや、こうやって助けてほしいと繰り返し訴えるまで、その方法を誰も試してみてくれない、大事にしているならばそんなところまで放置しないはずだ。
周囲にどれほど見事で美しく揃えられたものがあっても、使い方一つわからない場所の何に人が愛着を感じるだろう。自分が慣れ親しんだ記憶のないものばかりに囲まれて、どうやって人が寛げるのだろう。
「ああ…」
なんてこった。
「間違っちまった…」
脳裏に掠めたのは朝倉家の庭、俺から一メートルは離れた周一郎の座る場所、俺にはあいつの考えてることも思ってることもわからない、けれどそこは確かにあいつの選んだ場所だったのに。
あいつが選んであいつが求めた場所、だったのに。
朝倉家ならあいつは俺に文句が言える、へたった時に高野にカバーしてもらえる、ルトを抱きかかえて眠ることもできる。
けれど里岡のあの別荘で、豪華な調度に囲まれて、『直樹』はまぶしいのが辛いのだと訴えることさえできずに一人布団で横になるしかない、光溢れるあの場所で。
「…おんなじじゃねえか…」
勝手に周一郎の幸せなんて考えて、そんなもの、俺が安心するための手段だったに過ぎないんだ。
里岡夫妻を嗤えたもんじゃない、俺だって五十歩百歩だ。
けれど、『周一郎の中身』には俺が一番近くて。取り繕って整えた大人じゃない、頑なに心を押し殺しているあいつを一番よく知っていたのは俺だけで。
「そう、か」
きっと無意識に、周一郎は俺にすがった、『直樹』を『周一郎』に戻してくれると思って。
だから熱を出して、寝込んで、ここは嫌だと訴えていたんじゃないのか。俺を引き止め、連れ帰ってくれと、訴えていたんじゃないのか。
なのに、俺は。
「置いてきちまった…」
あいつが拒んだ罪のまっただ中に。
誰も助けてくれない光の牢獄に、幸せになれ、なんて酷いことを言って、置き去った。
『用事はもう、済んだんですね?』
偽りの安心を押し付けて。
何もかも見抜いた、懐かしくて鋭い笑み、その奥に底なしの闇をじっと抱えて。
あなたも、僕を、見捨てるんですね。
嘲笑が聞こえる。
「く、そっ……俺は…馬鹿だっ…」
お由宇はわかっていただろうか、いや、きっとわかっていただろうな。
「アホで間抜けで冷凍庫のなすびだっっっ」
だけど俺は何もわかってなくて。
付き合い長いんだから、わかっていたなら教えてくれよ、と俺は居ないお由宇をののしった。俺にもちゃんとわかるようにもっとちゃんと教えておいてくれなくちゃ、
「俺にまともなことができるわけねえだろがあっ!」
「……盛り上がってるところをすまないが」
「う」
ふいに間近から覗き込まれて、両手を上に向けて叫んだ姿勢のままで固まった。
「聞こえたか?」
「はい?」
「聞こえてないのか?」
「何が」
あまりの自分の馬鹿馬鹿しさに目の前の男の不気味さが吹っ飛んでしまった。爬虫類がどうした、蛇だろうがトカゲだろうがプロキオサウルスだろうがティラノだろうが、
「結局氷河期には勝てなかったくせに」
「……何の話だ」
「冷血動物は大変だと」
「………『直樹』が来る」
綾野は俺との会話を諦めたらしい。ざまあみろ、爬虫類ごときがホモサピエンスと会話しようなんて百年早い…。
あれ?
瞬きして問い直す。
「なんだって?」
「『直樹』が来る」
「………なんで?」
「君に会いに」
「……………なんで?」
「私が知らせた」
「………………なんで」
何となく、答えがわかるような気がしたが、それを考えたくなくて俺は質問を繰り返した。
「あそこに部屋が見えるな?」
窓に近寄った綾野が庭の一角を指し示す。
「ああ」
そこにあったのは小さな離れと言った感じの小部屋、広くて大きな窓、ベランダがあってそこから外にも出られるようだ。
「あそこで『直樹』と会いたまえ」
「……なんで」
「会って、君はここで医学研究に協力することになったから、安心してほしい、と彼を説得するのだ」
「医学研究…」
それってやっぱりさっきの太田とかいうやつの実験体とかになるって意味だろうな。
「『直樹』は君の所在が不明なことに不安がっている。君が姿を見せなくなって一週間、どんどん手を広げて探し回っている」
「ああ」
そういうの得意だもんな、というか、元々とんでもなく能力のあるタイプなんだし。
「『直樹』は里岡の病弱な跡取りとして大事にされ世間から隔離されて生きるはずだったんだよ?」
知るかよ、そんなこと。
「このままではよけいな知識と経験を積むばかりか」
「あー」
そうだ、遅かれ早かれ『直樹』は朝倉周一郎に辿り着くだろう。表に向けた顔ではなくて、その裏の顔を掴むだろう。
「俺を封じても意味ねえじゃねえか」
「その通りだ」
だから困った人なんだよ、君は。
綾野はうっそりと笑った。
「だから君自身に『直樹』を封じてもらう」
「断る」
そんな役目を誰が負える、今自分がとんでもない間違いをしてたとわかったところなのに。
「断れないよ、もう『直樹』は来てるからね」
「え」
「カメラがいつでも君を追ってる。部屋にも庭にも高性能のマイクがある」
「……スターだな」
「囚われの、ね」
綾野が言い放ったとたん、ばん、と激しく扉が開いて驚いた。
「滝さんっ!」
振り返ると同時に飛び込んできたのはまぎれもなく里岡直樹、一気にソファまで駆け寄ってきたかと思うとぎゅっとしがみつかれて息が詰まった。
「どこに、行ってたんです!」
悲鳴のような声。
「どうして、どこにも、居なかったんです!」
周一郎。
涙声で詰られて、しがみつく腕に力を込められて、その瞬間胸に宿った顔に切なくて視界が曇る。
きっとお前はこんなことは言わない。
きっとお前はこんなことはしない。
けれど今響くこの叫びの向こうに、確かにお前の微笑が見える、全てを見抜く、その笑みが。
「…わる…かった」
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妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
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